明治末期、日本の文学界に『自由主義文学』が台頭しました。社会の矛盾、欲望等、人間の本質を深く掘り下げていく作風であり、後の文学作品にも大きく影響を与えています。
島崎藤村の描いた『破戒』『夜明け前』は自由主義文学の金字塔として高い評価を受けています。今回は島崎藤村の生涯、名言、代表作について紹介していきます。
目次
島崎藤村とは?
島崎藤村は明治から昭和にかけて活躍した詩人、小説家です。破戒や夜明け前等の名作を発表し、自由文学主義小説として高く評価されました。
藤村の小説は自身の壮絶な体験を元に執筆されており、登場人物の多くは藤村自身や身内の体験が投影されています。
様々な苦労や批判はあったものの、晩年は数々の栄誉を贈られ、経済的にも私生活でも成功を収める等、ようやく彼に救いが訪れます。1943年に71歳で安らかに眠りについたのでした。
生まれ
1872年3月25日筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれます。島崎家は馬籠の郷士であり、代々宿場や庄屋、問屋を務めていました。
性格
私生活では姪と恋仲になり、妊娠した姪をおいてフランスに行く等、スキャンダルも多い人物です。当時から藤村の事を批判する作家も大勢いました。
しかし実体験を小説にするのは、自分を客観的に判断する必要があり、何よりも勇気が必要です。小説に対しては真摯に向き合っており、職人気質な性格だと言えるでしょう。
身長
藤村の身長は154cmです。明治生まれの男性の平均身長は155〜160cmであり、平均よりは低いです。
島崎藤村の人生年表・生涯
ここでは藤村の生涯を年表と合わせてみていきましょう。
人生年表
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1872年 | 0歳 | 誕生 |
1878年 | 6歳 | 神坂小学校入学 |
1886年 | 14歳 | 父の正樹が獄中死する |
1888年 | 16歳 | キリスト教の洗礼を受ける |
1892年 | 18歳 | 英語教師となる |
1897年 | 25歳 | 処女詩作 若菜集を発表 |
1899年 | 27歳 | 秦冬子と結婚 |
1906年 | 36歳 | 破戒を自主出版 |
1910年 | 40歳 | 秦冬子死去 |
1911年 | 41歳 | 姪のこま子を妊娠させ、フランスへ渡る |
1928年 | 56歳 | 静子と再婚する |
1929年 | 57歳 | 夜明け前を発表 |
1935年 | 63歳 | 日本ペンクラブの初代会長となる |
1942年 | 70歳 | 日本文学報国会名誉会員に任命 |
1943年 | 71歳 | 死去 |
父正樹の獄中死
(『孝経』諌争章(新刊全相成齋孝經直解) 出典:Wikipedia)
藤村は1872年筑摩県馬籠にて7人兄弟の末っ子として誕生。島崎家は馬籠で大名が利用する宿場を運営する家系です。父親の正樹は島崎家の17代当主であり、国学者でもありました。
藤村は父正樹から多大な影響を受けており、神坂小学校に入学する頃には中国の論語や孝経等の古典を教わっています。
1881年に東京の泰明小学校に通う為、兄と上京。中国最古の古典詩経、松尾芭蕉等の日本の古典、更には西洋文学に触れる等、勉強熱心な学生生活を送っていました。
14歳の頃、父親正樹が発狂の末、獄中死しています。正樹は明治維新によって変わりゆく日本に気がおかしくなり、寺院への放火未遂で捕まっていました。その後も父の事を思いつつも、恩師の影響でキリスト教に入信する等、学業に励んでいます。
若菜集の発表
卒業後は明治女学校の英語教師となります。更に翌年は北谷透谷と星野天知が出版する雑誌『文学界』に参加し劇詩や随筆を発表しました。充実した日々を送る藤村ですが、徐々に歯車が狂い出します。
就職後、教え子で婚約者のいる佐藤輔子を愛してしまい、罪の意識からキリスト教を棄破し退職。後に教師に復帰するものの、透谷が自殺し、兄が収賄容疑で収監されます。更に1895年に輔子は病死した事で、再び教師を辞めました。
1896年9月に東北学院に復帰しますが、10月に母が病死。藤村も臨終の場に立ち会っています。これらの壮絶な経験から藤村は詩作を開始。1997年に『若菜集』を発表しました。尚この頃の壮絶な経験は『春』に収録されています。
破戒の自主出版
1899年には長野県小諸町で教師となり、同年に冬子と結婚。翌年には長女みどりが産まれます。この頃から現実問題へと関心が高まり、詩作への決別を図っています。
1905年には『破戒』を自主出版。文壇からは自然主義小説として絶賛され、すぐに売り切れとなりました。順風満帆に見えた執筆生活ですが、この頃には3人の子を栄養失調で亡くしています。
こま子との関係と夜明け前
1910年に家の執筆を終了した後、妻冬子が出産の末死去。藤村は家事手伝いに来ていた姪っ子のこま子と1912年頃に恋仲となり、妊娠させてしまいます。
藤村は1913年にパリに留学し、一時は関係を断つものの1916年に帰国後に関係が再熱。1919年にこま子との関係を描いた『新生』を執筆し、関係性を清算します。
1928年には加藤静子と結婚。翌年には『夜明け前』を連載開始。1935年まで続いたこの作品は藤村の集大成となりました。
晩年の藤村
晩年には藤村は文豪として数々の栄誉を贈られました。1935年には日本の文筆家で構成される日本ペンクラブを立ち上げます。
時代は徐々に戦時体制となり、藤村もその流れに組み込まれていきました。1941年には軍人としてとるべき行動規範を示した文書『戦時訓』の校閲に参加。
1942年には日本文学報国会の名誉会員となります。これは戦時体制に合わせ国策の周知徹底や宣伝普及をする組織ですが、藤村に限らず多くの文豪が参加しています。ファシズムが台頭し始めた時代の流れを、藤村はどんな目で見ていたのでしょうか?
藤村の最後と死因
晩年の藤村は大磯(神奈川県大磯町)に移り住みました。そこで遺作になる『東方の門』を執筆しています。
藤村は1943年8月21日、静子に原稿を読んでいる際、脳卒中にて倒れました。床に伏してからも「まだ書きたい」と執筆の気持ちは衰えていませんでしたが、翌日の8月22日に死去します。
最期の言葉は「涼しい風が吹いてくる」でした。
島崎藤村のエピソード・逸話
島崎藤村が愛した女性達
藤村は恋多き人で、生涯に何度か身を滅ぼす程の恋愛をしています。
佐藤輔子(1871〜1895年)
明治女学校で教壇に立っていた時に恋仲になりました。輔子は許嫁がおり、藤村の恋は実りませんでした。輔子は卒業後結婚しますが、まもなく病死。藤村は授業に全く集中できませんでした。
秦冬子(1878〜1910年)
函館の網問屋の娘で、多くの奉公人がいた裕福な家で育ちます。1899年に結婚したものの、小諸での質素倹約な暮らしは合わなかったようです。7人の子をもうけるものの、夫婦としての愛情は冷めていたと言われます。家ではその頃の生活が描かれています。藤村の中には輔子の思いがくすぶっていたのかもしれません。1910年に柳子を出産して死去しました。
島崎こま子(1893〜1979年)
藤村の次兄広助の次女です。柳子の育児の為に藤村家に住み込みました。1912年半ばに藤村の子を産むものの、藤村はフランスに旅立ちます。子どもは養子に出されました。
第一次世界大戦の影響で藤村は日本に戻り、こま子との愛情が再熱します。藤村は新生を執筆し、こま子との関係を清算しますが、スキャンダルとなった為、こま子は台湾に住む事となりました。
こま子は河上肇の門弟の長谷川博と結婚し、娘を設けますが離婚。赤貧の生活の中、1937年に養育院に収容されます。この事は新聞で話題になり、藤村は償いをするべきとの意見が挙がり、藤村は当時の妻にお金を渡して養育院を訪問させています。
こま子は1979年に85歳で死去しました。
加藤静子(1896-1973)
藤村が56歳の時に結婚した女性です。女性啓蒙雑誌『処女地』での関わりを通じ、藤村は結婚の意思を固めます。静子は秘書として藤村を支えており、後の夜明け前の執筆にも繋がりました。
静子へのプロポーズ
藤村は静子へのプロポーズとしてこんな手紙を残しています。
〈わたしたちのLifeを一つにするといふことに心から御賛成下さるでせうか。それともこのまゝの友情を―唯このまゝ続けたいと御考へでせうか〉
結婚をLifeを1つにすると表現したのは、“共同生活者”としても静子を求めたからだと言われています。
静子は自分の健康や、24歳という年齢差から躊躇するものの4年後に結婚しました。藤村と静子は今は同じ敷地で眠りについています。
島崎藤村の名言
人の世に
三智がある。
学んで得る智
人と交わって得る智
みずからの体験によって得る智
がそれである。
藤村は学生時代に様々な文学を学び、多くの人と交わってきました。彼の作品は体験談を元に作られたものが殆どであり、それらを智と評したのですね。まさに藤村の人生を象徴する名言です。
今日まで自分を導いてきた力は、明日も自分を導いてくれるだろう。
藤村は様々な体験を経て、最終的には人生の伴侶と、名声を得る事が出来ました。それは彼自身が今日を諦めず、明日を生きようとしたからです。諦めなければ必ず道は開けると教えてくれています。
木曽路はすべて山の中である
夜明け前の冒頭のフレーズです。あまりにも有名なので、読まなくても知っている人も多いのではないでしょうか?
芸術的でありつつ簡潔なフレーズは、読み手に木曽路の情景を浮かばせてくれます。
この作品の他にも、様々な名言や格言がありますので、藤村の作品を手にとってみましょう。
島崎藤村の有名な代表作品
詩集
若菜集(1897年)
古今和歌集で使われた五七調を基調としています。初恋や、秋風の歌等51編が収録。
若菜集は浪漫主義の発端となり、土井晩翠と共に「藤晩時代」と呼ばれます。
落梅集(1901年)
有名な椰子の実が収録されています。柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の事を藤村に話し、それを元に作られました。この詩集からは後に曲をつけられたものが多く、海辺の曲、朝、千曲川旅情の歌等が挙げられます。
小説
破戒(1906年)
部落出身の教師瀬川丑松が自分の出生に悩み、告白するまでの作品です。自由主義文学の先陣を切った作品であり、夏目漱石も後世に伝えるべき名篇也と評しています。
家(1911年)
栄養失調で亡くなった3人の娘と、妻との結婚生活が根底にある作品です。小泉家と橋本家という2つの旧家の没落を描き、小泉家は島崎藤村の実家、橋本家は姉が嫁いだ高瀬家をモデルにしています。
新生(1919年)
こま子との関係をモデルにした作品です。主人公は作家の岸本、恋仲になるのは岸本の兄の子節子と、実体験そのままの内容でした。当時はセンセーショナルな内容が話題となったものの、芥川龍之介は新生の主人公を非難しており、万人に肯定された作品ではありません。こま子との関係がこの作品を通じて世に知られる事になり、日本に居場所かなくなる事態になりました。
夜明け前(1929〜1935年)
黒船が来航した1853年から1886年の激動の時代を描いた作品。主人公は馬籠宿で庄屋を営む青山半蔵です。国学を学び、王政復古に陶酔する半蔵ですが、やがて始まる明治維新には適応出来ず神経を病んでいきます。やがて寺への放火事件を起こし、入牢。最終的に発狂して獄中死しました。
半蔵のモデルは言うまでもなく父親の正樹です。時代の転換期に関与したのは坂本龍馬等の偉人だけではなく、この時代に生きた皆がそうである事を伝えてくれます。日本の近代文学を代表する作品と言われています。
写生文
千曲川のスケッチ(1912年)
藤村が小諸義塾に赴任した際に、千曲川一帯の自然、人々の暮らしを描写しています。詩から散文へシフトしていく過程にあり、藤村を語る上で重要な作品です。
紀行文
海へ(1918年)
こま子を妊娠させ、逃避的にフランスに旅立った時の紀行文です。帰国後藤村は『海へ』『地 中海の旅』『燕のごとく歸る』『故國を見るまで』『故國に歸りて』の5作を2年かけて執筆。これらをまとめたものを発表しています。
童話
1913年に『眼鏡』という童話を執筆。20年代には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』等、立て続けに作品を発表します。妻が死去し、こま子との関係を清算した後に残っていたのは4人の子ども達でした。藤村は子ども達との関係性の再建の為、童話を執筆したと言われます。
島崎藤村にゆかりのある地
藤村記念館
藤村の生家の跡に建てられたものです。元々の生家は1885年の大火で焼失しますが、戦後間もない1947年に再建されます。戦後貧しい時期にもかかわらず再建された事から、地元の人々の藤村への思いが伝わるでしょう。
1952年長男楠雄より五千点を超える資料を寄贈され、地域の教員等からの寄付もあり、記念館として開館します。
作品原稿、遺愛品等の貴重品が所蔵されています。処女詩集である『若菜集』から絶筆の『東方の門』が展示されています。更に終焉の地である神奈川県大磯町の書斎も復元されており、藤村の生涯を感じる事が出来るでしょう。
住所 岐阜県中津川市馬籠4256-1
小諸市立藤村記念館
藤村が小諸義塾にで教師をしていた事を記念して建てられました。主に1899〜1905年の資料や遺品が展示されています。
長野県小諸市丁311
地福寺
境内は藤村も愛でた梅の木で囲まれており、大磯町有数の梅の名所です。こちらに藤村のお墓があります。お墓は梅の木を眺めるように建てられています。
命日の8月22日には藤村忌が開催され、多くの文学愛好者が集まるそうですよ。
住所 中郡大磯町 大磯1135
島崎藤村の子孫や家系図について
藤村には生涯を通じ沢山の子どもがいましたが、長女みどり、次女孝子、三女縫子を栄養失調で亡くしました。成長した子は5人です。彼らの家系と子孫についてみていきましょう。
藤村の子供たち
楠雄(1905-1981)
藤村の長男です。明治学院の中等部を中退してから農業に従事しています。後に財団法人藤村記念郷初代理事長、藤村記念館顧問等を歴任しています。結婚して5人の子をもうけています。
鶏二(1907〜1944)
画家を志し、川端画学校に進学。後にピカソについて研究しています。詩的で哀愁を帯びた作風が特徴で、藤村の作品に通じるものがあると評されました。
後に太平洋戦争に召集され、飛行機事故で戦死しています。彼は藤村の秘書としての働きも大きく、藤村を精神的にサポートしました。
翁助(1908〜1992)
鶏二と共に画家となりますが、翁助は徐々に労働階級の解放を目指したプロレタリア美術運動に参加。戦争に召集されますが、無事に生き延びています。
戦後は鶏二の代わりに藤村の膨大な資料の整理を行い、1970年に『藤村全集』を刊行。1971年に最初で最後の画展を開きます。その後は歴程という詩の同人雑誌刊行のスポンサーとなりました。
柳子(1910〜?)
秦冬子は柳子を産み、亡くなります。こま子は柳子の世話をする為、島崎家に行く事が増えました。柳子は長野県臼田町の井出五郎の元に嫁ぎます。
こま子の子(1913〜?)
藤村とこま子の間に出来た子で名前は不明です。こま子は養子に出し、後の関東大震災で消息不明となりました。
子孫
藤村の子孫は今も健在です。楠雄の子どもである五美雄さんは藤村記念館の館長をしながら更にFOLK GEEというバンドを組んでいます。祖父藤村作詞の曲をCDにまとめ、藤村記念館で販売しているので、気になる人はチェックしましょう。
更に鶏二の長男龍夫さんがおり、2008年に鶏二の作品を県に寄贈しています。
またひ孫の1人は馬籠にある「四方木屋」でカフェを経営している事が2019年7月26日の朝の!さんぽ道で放送されました。
藤村の子孫は今でも活躍しています。
島崎藤村を題材とした作品(映画・小説・ドラマ)
島崎藤村を題材にした小説や映画は今のところありません。しかし島崎藤村の作品は彼自身の実体験を元にしたものなので、島崎藤村を題材にした作品と言えなくもありません。
島崎藤村の半生を克明に調べた書籍として
島崎藤村 新潮日本文学アルバム〈4〉
作家の自伝 (42) (シリーズ・人間図書館)等があります。
また映画化された作品として
2013年 家
1969年 破戒
1956年 嵐
1953年 夜明け前
があります。
藤村の作品は現在でも高い評価を得ていますので、また映画化やドラマ化されるかもしれません。
参考文献
http://toson.jp/smarts/index/
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/tenki.jp/amp/suppl/saijiki_shuuka/2017/08/22/25111.html%3Fusqp%3Dmq331AQRKAGYAY60tPDmwNz09QGwASA%253D
島崎藤村 海へ論
https://kanimaster.hatenadiary.org/entry/20090827/1251381585
http://hccart.blogspot.com/2008/02/blog-post.html?m=1
https://folkgee.jimdofree.com/members/
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hijiyama-u/file/6360/20140122090618/nenp0601.pdf