ヤマトタケルとはどんな人物?スサノオやヤマタノオロチとは同一人物?その関係性や伝説・神話について徹底分析!

ヤマトタケルは、日本書紀や古事記に登場する日本の皇族です。熊襲征討や東国征討を行った日本古代の英雄的存在として、現在も語り継がれています。

その一方でヤマトタケルは様々な伝説に彩られており、その実像や伝説の意図については研究者の中でも意見が割れています。またヤマトタケルを、ヤマタノオロチやスサノオと混同している人も数多くいます。ヤマトタケルを学ぶ事で、日本神話が何を意味しているのかが見えてくるのではないでしょうか。

今回はヤマトタケルの実像や伝説、スサノオやヤマタノオロチとの関係性について解説します。

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ヤマトタケルのプロフィール

ヤマトタケルのプロフィール

ヤマトタケル像
出典:Wikipedia

ヤマトタケルは『日本書紀』では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記されます。

彼は10代の頃に熊襲征伐のため、九州に出征します。この地で武功を残すと、日本武尊の称号を得るに至り、各地の反乱の征伐や東国遠征に奔走。後に伊吹山の悪神退治に出かけますが、この時に重傷を負い、能褒野(三重県亀山市)の地で生涯を終えました。

氏名ヲウス(小碓)
通称・あだ名日本武尊(やまとたけるのみこと)
出生日西暦72年(景行2年)
出生地大和国(現地は不明)
死没日113年(景行43年)
死没地(亡くなった場所)伊勢能褒野(現 ・三重県鈴鹿郡)
血液型不明
職業皇族
身長推測で約2cm
体重不明
配偶者者両道入姫皇女・吉備穴戸武媛・弟橘媛・山代之玖々麻毛理比売・布多遅比売・宮簀媛
座右の銘不明

 

ヤマトタケルの人生年表・生涯

※ヤマトタケルは古事記や日本書紀以外にも、肥前国風土記などのさまざまな文献にその足跡が記されています。今回は、古事記の記述に沿って解説します。

ヤマトタケルの人生年表

出来事
西暦72年(景行2年)ヤマトタケル誕生
西暦110年(影行40年)影行天皇より東国征討を命じられる
西暦113年(景行43年)伊勢能褒野で死去する

※征伐の日程は諸説あり

兄殺しの男

兄殺しの男

菊池容斎によるヤマトタケル
出典:Wikipedia

ヤマトタケルは、12代景行天皇と播磨稲日大郎姫の次男として誕生します。兄は双子である大碓命(大碓皇子)。ヤマトタケルは元々は「ヲウス(小碓)」という名前でした。名前の由来は、景行天皇が2人が生まれた事を怪しみ、臼(うす)に向かって叫んだ事が要因とされます。

ある日、大碓皇子が景行天皇の寵姫を奪った事がありました。景行天皇はヤマトタケルに、『兄を諭しなさい』と諭しますが、指示の行き違いからヤマトタケルは大碓皇子を殺害。その事に驚いた景行天皇は、ヤマトタケルにクマソタケル(熊襲建)兄弟の討伐を命じます。

矢沢弦月「皇大神宮奉祀」に描かれる倭姫命。
出典:Wikipedia

この時にヤマトタケルは一切の従者も与えられていません。そのため伊勢にいる叔母の倭比売命の元へ赴き、女性の衣装を与えてもらいます。当時のヤマトタケルは、少年の髪形を結う年頃でした。

なおこの記述は古事記によるもの。日本書紀では兄殺しの話はありません。景行天皇が熊襲建九州征伐に、16歳のヤマトタケルを派遣した事になっています。

熊襲征伐の成功

ヤマトタケルと熊襲
出典:Wikipedia

ヤマトタケルが九州に着くと、熊襲建の家は新築祝いで多くの軍勢に囲まれていました。ヤマトタケルは叔母から貰った女性用の衣類で女装して侵入し、熊襲建兄弟を殺害。弟は死の間際に、ヤマトタケルに倭建(ヤマトタケル)の号を献じます。

この時から小碓は、ヤマトタケルの名前を名乗るようになりました。

なお、日本書紀では熊襲建は兄弟ではなく1人という事になっていますが、内容は古事記と概ね変わりありません。

東征に出発

東征に出発

ヤマトタケルの妻である弟橘媛
出典:Wikipedia

ヤマトタケルが九州から戻ると、景行天皇は従者を伴い東方の蛮族の討伐を命じます。征伐に次ぐ征伐でヤマトタケルは精神が参ってしまい、再び叔母の倭比売命を訪れ『天皇の、すでに吾を死ねと思ふゆゑや…』と自らの心境を吐露しました。倭比売命はヤマトタケルを憐れみ、神剣である草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋を与えています。

なお日本書紀では兄の大碓皇子は存命で、臆病な兄に代わり、ヤマトタケルが志願して東国征伐に出発。古事記のような悲観的な様子はなく、栄光に満ちた様子となっており、イメージが異なっています。

ヤマトタケルは相模の国で、相武国造に欺かれて野中で火攻めに遭います。しかし倭比売命からもらった袋に入っていた火打石と、草那藝剣を使い事なきを得ました。その際に国造らを全て斬り殺す暴挙にも出ています。相模から上総に渡る海路を渡る際には、妻である弟橘比売が入水するなどの犠牲も伴いました。

やがてヤマトタケルは東国に入り、荒ぶる蝦夷たちを次々と征伐。その後、火焚きの老人を東の国造に任じて尾張国へ向かいました。

なお日本書紀では、東国征伐から尾張国に向かうルートが大きく異なり、信濃国を経て陸奥国の蛮族を平定しています。

伊吹の山で神の洗礼をうける

伊吹の山で神の洗礼をうける

青木繁による「日本武尊」
出典:Wikipedia

尾張国に入ったヤマトタケルは、以前から婚約していた美夜受比売と夫婦水入らずの生活を始めます。しかし程なく、伊吹山の悪神退治に出かけました。この時にヤマトタケルは草那藝剣を美夜受比売に預けており、あくまで神を素手で討ち取る予定でした。

やがてヤマトタケルは伊吹の山で、牛ほどの大きさの白い大猪と対面します。ヤマトタケルは大猪を神の使者と考え、今は殺さずに「言挙げ」しました。しかし大猪は実は神様で、大氷雨を降らすなどして、ヤマトタケルを失神させます。

ヤマトタケルはからくも山を降りますが、病の身となります。その後は、当芸の杖衝坂や尾津の三重村などを経由しながら大和国を目指すものの、能煩野(三重県亀山市)に着いた頃には満身創痍となっていました。

なお日本書紀では、伊吹の山でヤマトタケルが出くわしたのは大猪ではなく大蛇です。同じく大蛇は神様であり、ヤマトタケルは神の洗礼を受けて病の身となります。その後は尾津から能褒野へ向かっており、ルートに大きな違いはありません。

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ヤマトタケルの死因と死んだ場所について

能煩野で力尽きる

能煩野で力尽きる

伊吹山頂の日本武尊像
出典:Wikipedia

満身創痍となったヤマトタケルですが、能煩野(三重県亀山市)で遂に力尽きます。この地で彼は4首の国偲び歌を歌い、亡くなりました。

日本書紀も同じようにして亡くなりますが、享年30歳という事が伝えられています。また景行天皇はヤマトタケルを能褒野陵に葬りますが、ヤマトタケルは白鳥となり大和に向かい飛び立っています。棺には衣だけが空しく残されており、屍骨は残りませんでした。

国偲び歌を残す

なお、古事記でヤマトタケルが残したとされる国偲び歌の中で、特に有名なのが以下のもの。

・「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」
現代語訳は「大和は国の中でも、最も良い所だ。重なりあった青い垣根の山、その中に籠っている大和は美しい」となります。この歌からは、ヤマトタケルが大和国を深く愛していた事が推測されます。

ヤマトタケルはどんな人?

実在しない英雄的存在

実在しない英雄的存在

古事記の写本
出典:Wikipedia

結論から言えば、ヤマトタケルは実在しなかったというのが定説です。その根拠として、

・日本書紀や古事記の話が荒唐無稽すぎる
・神話の内容により妻が変わる
・年代に矛盾が多い
・ヤマトタケルの子孫を名乗る一族が多すぎる
などが挙げられます。

各時代の各場所の英雄の集合体

各時代の各場所の英雄の集合体

魏志倭人伝
出典:Wikipedia

ただヤマトタケルが全くの架空の人物という事はなく、「日本を統一する上で功績を残した複数の人物」をモデルにした可能性はあります。ヤマトタケルが活躍した時期を単純に西暦に当てはめると、西暦72年から113年の間です。

この時代の日本には文字がないため、日本の動向を知るためには中国の書物が必要です。『後漢書』東夷伝によると、「107年に日本の倭国の帥升という人物が、後漢に生口を献じ謁見を請うた」という記録が残されています。日本書紀や古事記の作者は、帥升をヤマトタケルと考えていた可能性があります。

ただ当時の帥升が、どの程度の規模の国を治めていたのかは不明です。その後も魏志倭人伝で邪馬台国の卑弥呼などの情報は断片的に確認できます。ただ266年の遣使から150年近くにわたり、中国は日本の動向を書き記していないため、日本がどのように統一を果たしたのかは、考古学などから推測する他はありません。

ヤマトタケルは各地の統一に明け暮れる日々を過ごしています。仮に日本書紀や古事記の作者が、複数の時代の豪族の功績や征伐の様子を、ヤマトタケルに投影させたと考えればどうでしょうか。この仮説が事実ならば、ヤマトタケルが戦いに明け暮れた理由、妻が各場面ごとに変わる理由なども納得がいきます。

ヤマトタケルは実在こそしていませんが、日本書紀や古事記で描かれた一連の戦いは事実であり、それを指揮した豪族のような存在は実在していたのではないでしょうか。

ヤマトタケルにまつわる逸話や神話について

全国に存在するヤマトタケル信仰

全国に存在するヤマトタケル信仰

兼六園の日本武尊銅像
出典:Wikipedia

ヤマトタケルを祀る神社や場所は全国各地に存在します。ヤマトタケルを祀る日本最北端の神社は、岩手県一関市にある配志和神社。最南端にある神社は宮崎県西都市にある岩爪神社です。ヤマトタケルにゆかりのある神社は、Wikipediaに掲載されているだけで50以上。

これらの神社に祀られる人物が、全て同一人物とは思えないため、各地の英雄がヤマトタケルに結びついた可能性は高そうです。各神社にはヤマトタケルを祀る理由が伝えられており、その理由の中には日本書紀や古事記に掲載されていないものも多々あります。

例えば埼玉県秩父市にある三峯神社は、ヤマトタケルが東征をする際に神使の狼が道案内をした事が縁となり創建されました。東京都青梅市にある武蔵御嶽神社は、ヤマトタケルが東征で追われた時に、白狼に助けられた事が縁で創建されています。日本書紀や古事記だけでなく、各地域にあるヤマトタケルの神話や伝承を学ぶ事で、新たなヤマトタケル像が見えてくるのではないでしょうか。

ヤマトタケルは大男

ヤマトタケルは大男

景行天皇
出典:Wikipedia

ちなみにヤマトタケルの体格は、日本書紀によると1丈(10尺)と記されています。古代の1尺は20cmなので、身長は2m。またヤマトタケルの父親である景行天皇も身長が1丈と記されており、ヤマトタケル同様の大男です。

ただヤマトタケルが生きた時代とされる、弥生時代の男性の平均身長は163cm。ヤマトタケルや景行天皇の身長は現在以上に規格外です。この身長は事実ではなく、彼らを英雄にみせるための誇張の可能性が高そうです。

ヤマトタケルは天皇だったのか?

ヤマトタケルは天皇ではない

ヤマトタケルは天皇ではない

天皇旗
出典:Wikipedia

結論から言えば、ヤマトタケルは天皇ではありません。彼は第12代天皇・景行天皇の第二皇子ですが、天皇に即位はしていません。第13代天皇は、景行天皇の第4皇子である成務天皇。そして第14代天皇は、ヤマトタケルの第2皇子です。

ヤマトタケルは30歳と若くに亡くなり、皇位を継ぐ事はありませんでした。仲哀天皇にとって成務天皇は叔父にあたます。成務天皇に嗣子がいなかったため、仲哀天皇に皇位が回ってきました。

ヤマトタケルだけでなく、皆実在しなかった?

ヤマトタケルだけでなく、皆実在しなかった?

仲哀天皇
出典:Wikipedia

ヤマトタケルが、架空の人物の可能性が高い事はお伝えしましたが、仲哀天皇や成務天皇も実在が怪しい天皇と言われています。

日本書紀には成務天皇の即位48年目の時にに31歳の仲哀天皇を皇太子に任命したと記載があります。ただ年表に照らし合わせれば、ヤマトタケルの死は成務天皇即位より20年前の事。この場合、仲哀天皇がヤマトタケルの死後36年後に産まれた事になるため、矛盾が生じます。

初代天皇である神武天皇から21代目の雄略天皇に至るまで、多くの天皇は実在性が怪しまれています。一応、崇神天皇や雄略天皇など、実在した可能性が高い天皇もいる事は事実です。この時代は、天皇が神話から人間へと変化を遂げていた頃です。ヤマトタケルが実在したのかも怪しい中、天皇だったのかを推測する事自体が野暮な話と言えるでしょう。

 

ヤマトタケルの性格

古事記に見えるヤマトタケル

古事記に見えるヤマトタケル

女装するヤマトタケル
出典:Wikipedia

ヤマトタケルの性格や心情が掘り下げられているのは、日本書紀よりも古事記です。古事記に登場するヤマトタケルは、勇敢だが人間的な弱さを見せています。

景行天皇から、東方の蛮族の討伐を命じられると「父は自分に死ねと思っておられるのか」と嘆き、相良の海で后の弟橘比売が入水した時には、この他に留まり妻である弟橘姫を偲ぶ歌を詠みました。ヤマトタケルは30歳で亡くなっており、これは当時の年齢としては決して若くありません。ヤマトタケルの弱い部分はヤマトタケルの性格ではなく、人間誰しもが持ち合わせているネガティブな感情を代弁したものなのかもしれません。

一方で残虐な一面も?

一方で残虐な一面も?

大碓皇子を祀る猿投神社
出典:Wikipedia

人間的な弱さを見せる古事記のヤマトタケルですが、各地の征伐では残忍な姿勢も見せます。その最たるものが、兄殺しの場面です。景行天皇は、大碓皇子に寵愛していた姫を奪われたたて、ヤマトタケルに諭すよう伝えます。

古事記でヤマトタケルが兄を殺害した事は述べましたが、その手口はかなり残忍。それは兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨てるというもの。ヤマトタケルが熊襲の征伐を命じられたのは、景行天皇が「その残忍さに恐れをなした」という側面もありました。

また相模国を訪れた際には、国造達を斬り殺して死体に火をつけ焼いています。静岡県には焼津という地名がありますが、それはこの時の行動が由来です。当時は日本という国が統一されておらず、様々な勢力が群雄割拠していた時代。ヤマトタケル程の暴虐さがないと、征伐を成功させる事ができなかったのかもしれません。

ヤマトタケルとスサノオは同一人物?その関係性について

日本神話の中で、ヤマトタケルと同じくらいの知名度を誇るのがスサノオです。そのため、ヤマトタケルとスサノオを同一人物と考える人も沢山います。この項目では、ヤマトタケルとスサノオが同一人物か否か。その関係性について解説します。

ヤマトタケルとスサノオは別人

ヤマトタケルとスサノオは別人

スサノオ
出典:Wikipedia

結論から言えば、ヤマトタケルとスサノオは別人です。スサノオはアマテラス、ツクヨミと共に、イザナギとイザナミの間に生まれた子。つまり神様です。一方でヤマトタケルは景行天皇の子どもであり、神の血は引いていますが、一応は人間という扱いになります。

ただ両者の境遇が割と似ている点は事実。スサノオは、姉であるアマテラスやツクヨミとトラブルを起こして高天原から下界に追放されています。ヤマトタケルは兄を殺害して熊襲建の征伐に出征しており、似通っている点と言えるでしょう。

またスサノオは、妻である櫛名田比売を櫛に変えて自らの髪に差すエピソードがあります。そしてヤマトタケルも弟橘姫が入水した後で彼女の櫛を見つけて悲しむ場面があります。

またヤマトタケルが使った草薙剣は、スサノオがヤマタノオロチの胎内から取り出したもの。草薙剣がスサノオからヤマトタケルに受け継がれている点をみると、ヤマトタケルはスサノオの精神的な後継者として描かれている事がわかります。ヤマトタケルも神の血を引く者なので、完全な人間ではありません。神も人間もどこか弱い部分がある事を、日本書紀や古事記は示しているのです。

草薙剣のその後

草薙剣のその後

三種の神器のイメージ
出典:Wikipedia

ちなみにヤマトタケルの死後、草薙剣は妻である宮簀媛と、尾張国が祀り続けました。この地は熱田神宮の起源となり、熱田の御神体として本体の草薙剣が今も祀られています。

後に草薙剣は、八咫鏡八尺瓊勾玉と共に三種の神器と呼ばれ、正式な天皇の後継者に引き継がれる宝物となります。ただ草薙剣は壇ノ浦の戦いで海に沈み、伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」としたため、ヤマトタケルが使っていた剣は現在は行方不明です。それでも草薙剣が現在に至るまで日本人のルーツに大きな影響を与えている事は間違いありません。

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ヤマトタケルとヤマタノオロチは同一人物?その関係性について

スサノオとヤマトタケルと違いについて解説しましたが、ヤマタノオロチとの関係性について気になる人も多いのではないでしょうか。この項目では、ヤマトタケルとヤマタノオロチの関係性を解説します。

ヤマトタケルとヤマタノオロチの関係性

ヤマトタケルとヤマタノオロチの関係性

ヤマタノオロチとスサノオ
出典:Wikipedia

ヤマタノオロチは、日本神話に登場する伝説の生物です。漢字表記は八岐大蛇であり、8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物おして描かれています。ヤマトタケルとは名前は似ているものの、全くの別物。日本神話ではスサノオが櫛名田比売との結婚を条件に退治を請け合い、知恵を絞って退治に成功しました。

オロチは水を支配する竜神を表しているとされます。この他には、ヤマタノオロチが「野だたら」製鉄で炉から流れ出した銑鉄を意味するという説もあり、未だに議論が割れています。いずれにせよ、ヤマタノオロチが日本神話における重要な存在である事は間違いありません。

ヤマトタケルの名言

ヤマトタケルの名言

鈴鹿市にあるヤマトタケル像
出典:Wikipedia

・「命のまたけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」
ヤマトタケルが死の間際に詠んだ「国忍び歌」の一首です。現代語訳は「命を全うできる人は、幾重に連なった平群山の大きな樫の葉を、魔よけのカンザシとして挿すが良い」となります。肉体が滅びようとも、日本という国を思うヤマトタケルの心情が伝わってきますね。

・「吾妻はや」
ヤマトタケルが東国を平定し、四阿嶺に立った時に残した言葉です。相模から上総に渡る際、ヤマトタケルの妻である弟橘比売は、入水して海の怒りを沈めています。「吾妻はや」は現代語訳では「わが妻よ…」であり、この言葉が元で東国を「アヅマ(東・吾妻)」と呼ぶようになりました。

ヤマトタケルの呟いた言葉が地名を作る。なんとも興味深い話です。

ヤマトタケルの子孫

ヤマトタケルの子孫

ヤマトタケルの家系図
出典:Wikipedia

わずか30歳で亡くなったヤマトタケルですが、子孫はいるのでしょうか。この項目では、ヤマトタケルの子供や子孫のその後について解説します。

ヤマトタケルの妻や子ども

ヤマトタケルの妻や子ども

熱田神宮
出典:Wikipedia

ヤマトタケルは複数の妻がいて、それぞれに子どもを儲けています。日本書紀や古事記においてヤマトタケルは章が変わるごとに妻が変わっており、ヤマトタケルが複数の豪族の逸話を掛け合わせた存在である根拠の一つになっています。

両道入姫命は垂仁天皇の皇女で、後にヤマトタケルと婚姻し、仲哀天皇を産みました。ただ仲哀天皇は実在が怪しまれている天皇の1人であり、事実か否かは不明。仲哀天皇の即位に伴い、両道入姫命は皇太后になったとされますが、そもそもヤマトタケルは天皇になっていないので、矛盾が生じます。

弟橘媛は穂積氏忍山宿禰の娘で、後にヤマトタケルと結婚して稚武彦王を儲けます。彼女は荒れ狂う海の怒りを鎮めるため、自ら進んで入水。ヤマトタケルが深く悲しんだ事が古事記に記されています。

宮簀媛はヤマトタケルの最後の妻であり、元々は尾張国の号属の娘です。両者の間に子はいません。ヤマトタケルが夫婦の営みをしようとした時、あいにく宮簀媛は生理中でした。ヤマトタケルは「ながけせる おすひの裾に 月たちにけり(あなたの着物の裾には月(=月経)が見えている」と歌っています。

結局、ヤマトタケルは草薙剣を持たぬまま、伊吹の山の神を討ち取りにいき死去。宮簀媛はヤマトタケルと草薙剣を祀り続け、後に熱田神宮が建てられました。

この他にもヤマトタケルは、山代之玖々麻毛理比売や布多遅比売などの女性を妻にしたとされます。

ヤマトタケルの子孫

ヤマトタケルの子孫

神功皇后
出典:Wikipedia

ヤマトタケルの子孫として、最も有名なのが仲哀天皇です。彼はヤマトタケルの第二皇子であり、日本の第14代天皇にあたります。彼は容姿端正、身長一丈(3メートル)の大男であり、各地を遠征した末に即位9年に親征先の筑紫で崩御したとされます。

彼の皇后は神功皇后で、70年にわたり国のために奔走した事で、戦前は国母的存在でした。ただ、仲哀天皇は実在が怪しいとされており、一連のエピソードの真偽も不明確です。

日本書紀では、犬上君・武部君、讚岐綾君、伊予別君などの氏民族がヤマトタケルの末裔を名乗っています。古事記では彼らの他に、登袁之別・麻佐首・宮首之別宮道之別、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別などが該当します。

いずれにせよ系譜は膨大であり、ヤマトタケルの末裔を探す事は不可能と言えるでしょう。

ヤマトタケルのゆかりの地

ヤマトタケルを祀る神社や墓所、そしてゆかりの地は全国各地に存在します。この項目では特に有名な場所を紹介します。

能褒野墓

能褒野墓

能褒野墓
出典:Wikipedia

宮内庁により、ヤマトタケルの墓に指定されている前方後円墳です。ただ実際の被葬者は明らかではなく、「日本書紀」や「古事記」の伝承を元に治定されました。伊勢北部地方では最大規模の古墳であり、作られた時期は4世紀末です。

この古墳の隣には、ヤマトタケルを祀る能褒野神社が建立されており、大正14年6月に県社に昇格しています。

住所:三重県亀山市田村町字女ヶ坂

ちなみに奈良県御所市にある白鳥陵と、大阪府羽曳野市にある白鳥陵もヤマトタケルの墓として治定されています。1人の人間に対し、古墳が3ヶ所もあるのは不思議な話ですが、ヤマトタケルが様々な豪族や大王の集合体のような存在と考えれば納得できますね。

奈良県御所市の白鳥陵
出典:Wikipedia

走水神社

走水神社

走水神社の社殿
出典:Wikipedia

走水神社は、ヤマトタケルを祭神とする神社です。伝承によるとヤマトタケルが東征に向かう途中でこの場所を訪れ、自分の冠を村人に与え、村人がその冠を埋めて神社にした事が始まりとされます。

この地は、ヤマトタケルの妻である弟橘媛命が入水したと伝わる場所です。1910年には日露戦争の英雄である乃木希典と東郷平八郎の尽力で、弟橘媛命記念碑も建てられました。

住所:神奈川県横須賀市走水2-12-5

ヤマトタケルの関連人物

雄略天皇

雄略天皇

雄略天皇
出典:Wikipedia

雄略天皇は日本の第21代天皇です。中国の宋書に登場する「倭の五王」のひとり「武」と推定され、実在が確実視される最初の天皇とされています。日本書紀や古事記に登場する「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は、雄略天皇で間違いないとされ、神話と史実の架け橋的な存在です。家系図としては、雄略天皇はヤマトタケルの5代目の子孫にあたり、両者は血縁的には隔たりがあります。

ただ両者には「タケル」という共通の言葉が含まれています。タケルには「勇ましい」という意味があり、武勇で日本を統治した雄略天皇、日本全土の征伐に奔走した2人に相応しい名前です。

本居宣長

本居宣長

本居宣長
出典:Wikipedia

本居宣長は江戸時代中期の国学者であり、約35年を費やして古事記の注釈書である「古事記伝」を著した人物です。当時の古事記は日本書紀の副読本的な存在でしたが、彼のおかげで古事記は正史としての価値を復活させました。

古事記におけるヤマトタケルは、武功は目覚ましいものの、人間的な弱さを持つ人間として登場します。本居宣長のおかげで、ヤマトタケルの新たな人物像が確立されたと言えるでしょう。

ちなみに本居宣長は伊勢国鈴鹿にあった白鳥塚古墳(現・鈴鹿市)をヤマトタケルの御陵と主張しました。この他には、ヤマトタケルの白鳥伝説があり、近くの加佐登神社にはヤマトタケルが最期まで愛用した杖と傘が御神体として祀られています。

ヤマトタケルの関連作品

その神秘性と勇敢さから、過去から現在に至るまでヤマトタケルを主人公にした作品は数多く存在します。この項目では近年の書籍や、ヤマトタケルが登場する映画などを簡単に紹介します。

おすすめ書籍・本・漫画

ヤマトタケル

少女漫画家・山岸凉子による、ヤマトタケルを主人公にした歴史マンガ。熊襲討伐や蝦夷との戦いに加え、弟橘姫との恋など。勇敢さと、女性漫画家特有の観点から、ヤマトタケルの魅力を存分に引き出した内容になっています。

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火の鳥

日本漫画界の巨匠・手塚治虫のライフラーク。ヤマト編は、古事記や日本書紀などの日本神話が題材になっており、ヤマト王国の大王の息子であるヤマト・オグナ(後のヤマト・タケル)を視点としています。シリアスな展開も多い火の鳥ですが、ヤマト編は笑いの要素が多く、楽しめる内容になっています。

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日本人なら知っておきたい英雄 ヤマトタケル

ヤマトタケルの伝承は、南は鹿児島、北は岩手まで広がっています。本書は各地に残るヤマトタケルの伝承について詳しくまとめた一冊です。ヤマトタケルについて、より詳しく知りたい方におすすめの一冊です。

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【古事記③】英雄ヤマトタケルの能力と悲劇

オリエンタルラジオの中田敦彦になる歴史教養系のYouTubeチャンネル。ヤマトタケルの足跡や、最期などをわかりやすく解説しています。

おすすめの映画

ヤマトタケル

1994年に放映された特撮映画です。ヤマトタケルを演じるのは、若き頃の高嶋政宏。コロコロコミックで連載されたヤマトタケルや、過去に放送されたテレビアニメなどを連動させた作品。特撮は今となってはチープに見えるかもしれませんが、日本神話を基にしつつ、独自のファンタジー要素を加えた内容になっています。

DVD ヤマトタケル 東宝DVD名作セレクション 高嶋政宏 沢口靖子 大河原孝夫 4988104097675
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ヤマトタケルについてのまとめ

今回はヤマトタケルの生涯について解説しました。日本書紀や古事記では英雄的な存在として描かれているヤマトタケル。架空の人物の可能性は高いものの、その伝承は各地に残されています。彼はいわばヤマト国家の形成における英雄たちの集合体。日本書紀や古事記だけでなく各地の伝承を知る事で、日本神話が私たちに伝えたい意図が見えてくるかもしれません。

今回の記事を通じて、ヤマトタケルについて興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケル

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