聖徳太子の生涯と人物像|伝説・死因・子孫も

聖徳太子は、日本史上最も知性と徳に優れた人物とされており、累計7回も紙幣の肖像画に起用されています。

聖徳太子は単なる偉人ではなく、信仰の対象ともなっているのが大きな特徴です。太子の並外れた知性や人間離れした不思議な力を表す伝説が多く残されていることからも、聖徳太子が往時より特別な存在として崇敬されていたことがうかがえます。

一方で、近年は「聖徳太子は実在しなかった」という説も提起されており、聖徳太子の実像をめぐる興味は尽きません。

この記事では、聖徳太子の生まれや名前の由来、人生年表や人物エピソード、伝説や偉業、ゆかりの寺などを紹介し、史上最高の聖人と称賛される聖徳太子の人物像に迫ります。

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聖徳太子とは?


出典:Wikipedia

生まれ

聖徳太子は547年、第三十一代用明天皇と第29代欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の第二皇子として生まれました。

叔母にあたる推古天皇の即位にともなって20歳の時に摂政皇太子に抜擢され、政治の実権を与えられました。太子は蘇我馬子と協調しながら、十七条憲法や冠位十二階などを定めて天皇を中心とする国家体制を整えるとともに、大陸の進んだ制度や技術を積極的に取り入れ、仏教や神道の振興に努めました

本名と別名

「聖徳太子」とは太子の徳を称えた尊称で、もともとの名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といいます。厩戸皇子という名は、生年の干支が甲午(きのえうま)だったことに由来するという説もあります。

また、聖徳太子は一度に10人の請願者たちの言い分を聞き分けることができたことから、豊総耳(とよとみみ)という名でも呼ばれました。豊とは神や王族の名によく使われる美称で、総耳とは「あらゆる話を聞き分ける聡明な耳」を表しています。

聖徳太子の人生年表


出典:Wikipedia

出来事
574年用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれる
585年第三十代敏達天皇崩御、用明天皇即位
587年用明天皇崩御
太子、蘇我馬子とともに物部守屋らを攻め滅ぼす
第三十二代崇峻天皇即位
592年蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺させる
第三十三代推古天皇即位、厩戸皇子を摂政皇太子とする
601年太子、斑鳩宮の造営を開始
603年冠位十二階を制定
604年憲法十七条を制定
606年太子、天皇に勝鬘経・法華経を講じる。
607年第二回遣隋使として小野妹子を隋に派遣する
国ごとに屯倉を置く
609年日本初の経典注釈書である『勝鬘経義疏』の制作開始
611年『勝鬘経義疏』完成
612年太子、『維摩経義疏』の制作開始
613年『維摩経義疏』完成
614年『法華経義疏』の制作開始
619年畿内諸国の臣、連、国造が建てた寺地を巡検する
620年蘇我馬子とともに天皇記・国記を編纂する
621年2月5日斑鳩宮にて薨去(命日を622年2月22日とする説もある)

聖徳太子の人物エピソード


出典:Wikipedia

兄弟の中で唯一お仕置きを受ける

聖徳太子がまだ幼かったときのことです。皇子たちが集まって騒いでいるところに、「うるさい」と怒った父の用明天皇が鞭を手にやってきました。ほかの皇子たちは皆逃げてしまいましたが、聖徳太子だけはその場に留まりました。

不思議に思った父が「なぜお前は逃げないのだ?」と聞くと、太子は「空に逃げることも地に潜ることもできません。ただお叱りをいただくばかりです」と答えました。この言葉に父の天皇は非常に感心したと伝えられています。

狩りの行事を止める

推古天皇が即位したのち、宇陀へ狩りを見物に行く機会がありました。そのとき太子は、「仏教では殺生を禁じています。どうぞ狩りはおやめください」と進言しました。天皇もその言葉を聞き入れ、狩りはとりやめました。

以降、狩りを禁じた日である5月5日は宇陀へ薬を採りに行く日と定められました。これが菖蒲の節句の起源と言われています。

自分の収入を寺に寄付

聖徳太子が天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講釈した際、天皇は褒賞として太子の所得を倍に増やしました。太子はそれをすべて自らが創建した寺に寄付したと言われています。

聖徳太子の伝説


出典:Wikipedia

救世観世音菩薩の化身

聖徳太子が生まれる前のこと。母の穴穂部間人皇女の夢枕に、金色に輝く菩薩が現れました。菩薩は救世のために人として生まれたいと告げ、一筋の光と化して皇女の口から体内に入りました。その後、皇女は自らの妊娠を知り、1年後に皇子を出産しました。

厩で誕生

「厩戸皇子」という名は、皇子の母が馬司の厩の前で産気づいて出産したことにちなむという半ば伝説なエピソードが有名ですが、真偽のほどは定かではありません。この太子生誕のエピソードは、キリストが厩で生まれたという伝承との類似性が指摘されており、太子の聖性を強調するために後世に脚色されたという説もあります。

慧思の生まれ変わり

奈良時代後期に淡海三船(おうみのみふね)が著した『唐大和上東征伝』には、唐の高僧である鑑真が「天台宗の開祖・智顗の師である慧思は倭国の皇子(=聖徳太子)に生まれ変わり、仏法を興隆した」と語ったという記述があります。鑑真はこのことから日本は仏法にゆかりの深い国とし、日本に仏教の戒律を伝えるために渡日を決めたとされています。

聖徳太子は実在しなかった?

聖徳太子の業績のほとんどは、太子個人によるものではなくもっと後の時代の産物だとし、厩戸皇子という王族は存在したが、聖徳太子という人物は存在しなかったという説があります。

聖徳太子非実在説に対しては、確かに太子の伝説的エピソードなどは潤色されたものと考えられるが、だからといって直ちに聖徳太子が架空の人物だとは断定できないと反論されています。

聖徳太子が実在していたことの傍証となる主な史料としては、次のようなものがあります。
・『日本書紀』の記述
・天寿園繍帳の銘文
・法隆寺の薬師如来像および釈迦三尊像の光背銘文
・三経義疏

ただ、傍証とされる史料の中には、言葉の使い方などから聖徳太子より後の時代に制作されたと考えられるものもあり、論争はいまだ決着していません。

聖徳太子が行った偉業


出典:Wikipedia

十七条憲法とは

聖徳太子が604年に定めたとされる、全17の条文から成る法文を十七条憲法といいます。十七条憲法は役人たちに向けて道徳的な規範を示したもので、仏教や儒教の影響が色濃く見られます。

  • 第一条 和を以て貴しとなすこと
  • 第二条 篤く三宝(仏・法・僧)を敬うこと
  • 第三条 天皇の詔は必ず謹んで聞くこと
  • 第四条 役人は礼を忘れず、民を治めること
  • 第五条 欲を捨て、賄賂をとらず、訴訟は公平に行うこと
  • 第六条 悪を懲らしめ善を勧めること
  • 第七条 各自の職掌をきちんと果たすこと
  • 第八条 役人は朝早く出勤し、遅く退勤すること
  • 第九条 職務を誠実に遂行すること
  • 第十条 怒りを捨て、人が従わなくても怒らないこと
  • 第十一条 功績と失敗を明確に見極め、賞罰を与えること
  • 第十二条 国司・国造は民から私的な収奪をしないこと
  • 第十三条 役人に任命された者は、各々の役割をきちんと知ること
  • 第十四条 役人は他の者に嫉妬しないこと
  • 第十五条 私心を捨てて公に尽くすことこそ臣下の道である
  • 第十六条 民を使役する際は季節を選ぶこと
  • 第十七条 独断せず、必ず皆と相談すること

十七条憲法は後世にも大きな影響を与えました。鎌倉時代に定められた法令集『御成敗式目』は十七の三倍の全五十一条、室町時代の『建武式目』は十七条の憲法と同じく全十七条という形式が踏襲されています。

冠位十二階の制定

冠位十二階は日本で初めての冠位制度です。603年、聖徳太子は臣下を大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12の等級に分け、それぞれの位階を表す色の冠を授けました。

12の冠位の名称は、儒教が説く5つの徳目「仁・義・礼・智・信」から採り、5つを合わせた最上の徳目として「徳」が加えられています。

最上位の大徳・小徳は臣・連・君などの身分の高い姓(かばね)を持った者に与えられるのが通常でしたが、あまり高くない氏の出身者が特別な功績を挙げたことで高い冠位を与えられた例もあります。

冠位十二階制定の目的としては、従来は姓によって把握されていた豪族たちを国家の役人として序列化し、役人間の上下関係を明確にするほか、官僚機構の整った先進国だということを外国の使節にアピールする狙いがあったと考えられます。

遣隋使の派遣

聖徳太子は607年、小野妹子を国の使節として隋に派遣しました。遣隋使を送る目的としては次のようなものがあります。
①大陸の進んだ技術や制度を取り入れること
②大国隋に天皇の地位を認めさせることで豪族たちに天皇の権威を示すこと

聖徳太子は隋の属国としてではなく、意識的に対等な立場をとって交渉しました。小野妹子に託した太子の手による国書には「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す」という文言があります。隋の歴史を記した『隋書』には、隋の煬帝(ようだい)はこれを見て激怒したという記述が残されています。

『三経義疏』の著述

595年、高句麗から渡来した慧慈という名の僧が聖徳太子の仏教の師となりました。太子は法華経・勝鬘経・維摩経の三経を学ぶと、自らその義疏(注釈書)を著したとされています。聖徳太子の手によるといわれる『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』の三つを三経義疏(さんぎょうぎしょ)と総称します。

『法華義疏』のみ聖徳太子肉筆とされる草稿が残っており、「これは倭の上宮王(=聖徳太子)によるもので、海外から渡来したものではない」という但し書きがついています。

四箇院の制

四箇院(しかいん)とは、敬田(きょうでん)院・施薬(せやく)院・療病(りょうびょう)院・悲田(ひでん)院との四つの施設の総称です。敬田院は寺院、施薬院と療病院は薬局や病院、悲田院は病人や身寄りのない老人などのための福祉施設を指します。

太子が四天王寺に設置した四箇院は、現代にも通じる医療・社会福祉事業の先駆けと言えます。

聖徳太子の名言


出典:Wikipedia

和を以て貴しとなす(以和為貴)

十七条憲法の第一条に記されている有名な言葉です。「和は人の世の根本である、争いをせず和を大切なものとするように」という意味です。

世間虚仮 唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)

「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」は太子が亡くなる際に遺した言葉です。この世にあるものはすべてかりそめのものであり、ただ仏の教えだけが真実であるという意味です。

聖徳太子にゆかりのある寺院・神社


出典:Wikipedia

橘寺

太子建立の伝承がある四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺・池後寺・葛木寺の七寺を聖徳太子建立七大寺と総称します。橘寺は太子生誕の地と伝わる寺で、創建年代は不詳ですが680年に書かれた文献にすでに記述のある由緒ある寺です。

創建当初の金堂や五重塔などは火災で焼失し、現在の本堂は江戸時代に再建されたものです。創建時の遺構としては、人の善悪二相を表しているといわれる「二面石」や五重塔の心礎などが残っています。

橘寺は太子の父・用明天皇の別宮である上宮が置かれたところとされています。太子は上宮で生まれ育ったことから、上宮太子(じょうぐうたいし)とも呼ばれます。

四天王寺

用明天皇が亡くなった後、次の天皇を誰にするかをめぐって廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子・聖徳太子の間に戦いが起きました。聖徳太子は戦勝を祈願して自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺を建立し、生涯をかけてこの世の人々を救済します」と誓いを立てました。

戦いに勝ってから6年後の593年、聖徳太子は誓い通り四天王寺の造営を開始しました。四天王寺式伽藍配置と呼ばれる、日本で最も古い建築様式が特長です。

法隆寺

601年、太子は政治の中心地である飛鳥から約16キロ離れたところにある斑鳩の地に宮を造成しました。用明天皇が亡くなると、太子は亡き父の菩提を弔うため、宮の近くに寺を建てました。この寺が法隆寺の前身である斑鳩寺です。

斑鳩寺は670年に焼失しますが、711年に現在の地に再建されたのが世界最古の木造建築群として知られる西院伽藍です。斑鳩宮跡には東院本堂である夢殿が建立され、太子信仰の聖地となっています。

聖徳太子の墓


出典:Wikipedia
聖徳太子は621年(622年という説もあり)、病のため49歳で亡くなりました。同じ時期、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)も死去しています。

聖徳太子の墓は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)とされています。墓には母の穴穂部間人皇女と妃の膳大郎女が太子と共に眠っています。叡福寺聖霊殿には、聖徳太子十六歳像と南無仏二歳像が安置されています。

なお、628年に推古天皇が崩御したのち、皇位継承をめぐって聖徳太子の嫡男である山背大兄王と、田村皇子を推す蘇我蝦夷が争いました。敗れた山背大兄王は妻子とともに自害し、太子の一族は皆滅ぼされたため、聖徳太子の子孫は残っていません

参考文献

『聖徳太子の寺を歩く』(南谷恵敬監修/林豊著/JTB)

『決定版 人物日本史』(渡部昇一著/育鵬社)

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『「聖徳太子」の誕生』(大山誠一著/吉川弘文館)

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