真田昌幸の生涯と人物像は?名言・偉業・死因も解説

家康の天敵ともいうべき謀将、真田昌幸。

いったいどんな人物だったのでしょうか。
昌幸の人生年表、名言・死因も詳しく解説します。

真田昌幸とは?

真田昌幸(さなだ まさゆき)は、信濃国上田の戦国武将です。
父の代から武田家に仕えていました。

武田家の滅亡後は織田や徳川などに仕えていましたが、徳川に仕えたおり、不当な処遇をうけ反旗を翻します。
そののち、豊臣に降っています。
人並外れた知謀で、真田を抑えつけようとする徳川家康を幾度も翻弄しました。

生まれ

名前真田昌幸(さなだ まさゆき)
幼名源五郎(げんごろう)
出身地信濃国小県郡真田郷(しなののくに ちいさがたごおり さなだごう)
生誕1547年(日にちは不明)
死没1611年7月13日
武田家の家臣で、信濃の在地領主・真田幸隆(ゆきたか)
小県郡の有力国人であった海野氏の家臣・河原隆正(かわら たかまさ)の妹
信綱(のぶつな)・昌輝(まさてる)

性格

昌幸の性格を簡単にまとめます。

  • 知略・知謀の将であり、冷静な判断力をもつ
  • 相手の性格・気質を冷静に客観的に洞察し、計算する
  • 主君に対しての忠節よりも、真田家の存続を第一に考えていた
  • 「表裏比興者(ひょうりひきょうもの)」と呼ばれるほどの、食わせ者

 

詳しくは後述しますが、昌幸は真田家の存続を第一に考え、その都度有力な大名を見極め主を乗り換えています。
その結果、北条・徳川・上杉のもとを行ったり来たり

そのあげく、領地問題解決のため昌幸が引きずり出したのは、天下をほぼ手中に収めていた豊臣秀吉。
天下統一を目前にした大物・秀吉を大胆にもバックにつけたことからも、昌幸のしたたかさが分かりますね。

死因

関ヶ原の戦いでやぶれた三成についた昌幸・幸村親子。
長男・信幸と本多忠勝のうったえで死罪はのがれ、紀州(和歌山県)の九度山(山ではなく地名)への追放となったのです。

1611年6月4日、真田昌幸は追放先の九度山で病に倒れ亡くなりました。
九度山での暮らしのなかで昌幸父子は、ひたすら赦免の日を待ち続けていました。

徳川打倒を心に秘めながら、昌幸は、日々幸村相手に碁に興じていた、といわれています。
これはただ遊んでいるのではなく、合戦の構えや駆け引きなどの稽古として行っていたようです。

ですが、希代のいくさ上手・昌幸を九度山で朽ちさせるのが家康の目的。
許すはずないですね。

死の直前の昌幸は、
「あと3年寿命がもてば、大阪城に入ってわが謀略をもって武名をあげてみせるのに」
と流人として最期を迎えること悔しがっていた、と伝えられています。

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真田昌幸の人生年表

真田昌幸の人生年表

出来事
1547年武田家の家臣で、信濃の在地領主・真田幸隆(ゆきたか)の三男として生まれる。
1553年8月、武田家への人質として甲斐国甲府(現・山梨県甲府市)におもむき、信玄の奥近習衆となる。
1561年9月、昌幸、第4次川中島の戦いで、初陣をかざる。
1566年昌幸の長男・信幸(のち信之)が生まれる。
1567年昌幸の次男・幸村(正しくは信繁)が生まれる。
信玄の命により、武田家の家臣・武藤家の家督を継いで武藤喜兵衛(きへえ)を名乗る。
1569年10月、相模国三増峠(現・神奈川県愛甲郡愛川町周辺)の戦いで一番槍の軍功をあげる。
1572年12月、信玄、遠江国で徳川・織田連合軍を破る(三方ヶ原の戦い)。
この頃、昌幸、武田家の奉行人となる。
1573年4月、信玄が病死する。武田家は四男・勝頼が跡を継ぐ。
1574年父・幸隆が病死する。
1575年5月21日、長篠・設楽原の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れる。
この戦いで、昌幸の長兄・信綱と次兄・昌輝が戦死する。
この年、昌幸、真田家の家督を継ぐ。
1579年5月、昌幸、叔父の矢沢頼綱(よりつな)に沼田城(現・群馬県沼田市)を攻略させる。
この頃、昌幸、安房守(あわのかみ)を称する。
1581年昌幸、武田勝頼が築きはじめた、新府城(現・山梨県韮崎市)の普請奉行を務める。
1582年3月11日、勝頼が家臣の裏切りにあい自刃、武田家は滅亡する。
同月18日、昌幸、織田信長に臣従する。
4月8日、昌幸、信長に本領を安堵され、織田家関東方面軍司令官・滝川一益(かずます)の旗下となる。
6月2日、信長が家臣・明智光秀の謀反により自刃(本能寺の変)。
7月12日、昌幸、北条氏の信濃国侵攻により、北条氏に従う(天正壬午の乱)。
9月28日、昌幸、徳川家康に従う。
この年、昌幸、長男・信幸を人質として駿府城(現・静岡県静岡市)におくる。
1583年4月、上田城(現・長野県上田市)の築城に着手(同年8月に着手した説あり)。
1584年3月、家康、秀吉と尾張国小牧・長久手(現・愛知県小牧市・長久手市)で戦う(小牧・長久手の戦い)。
4月、昌幸、家康から真田領の沼田を北条氏へ譲渡するように命じられる。
7月15日、昌幸、越後国(現・新潟県)の上杉景勝(かげかつ)の旗下にはいる。
次男・幸村を景勝のもとへ人質にだす。
閏8月2日、昌幸、家康の家臣・鳥居元忠(もとただ)らがひきいる徳川軍をやぶる(第1次上田の戦い)。
11月13日、家康の重臣・石川数正(かずまさ)が羽柴(のち豊臣)秀吉のもとに出奔。
この頃、昌幸、秀吉に臣従し、次男・幸村を大坂へおくる。
1586年11月4日、昌幸、秀吉の命をうけ、家康の与力大名となる。
1587年3月18日、昌幸、駿河国駿府(現・静岡県静岡市)で家康と会見。のち上洛して、秀吉に謁見。
1589年この年、昌幸の長男・信幸、家康に出仕。家康の家臣・本多忠勝の娘・小松殿(こまつどの)を家康の養女としたうえで妻に迎える。
1590年3月上旬、昌幸、小田原城(現・神奈川県小田原市)の攻撃に参陣。
7月5日、小田原城が開城。北条氏がほろびる。
同月末、昌幸、秀吉より沼田領を安堵され、信幸に支配をまかせる。
1592年2月上旬、昌幸、朝鮮出兵に参陣するため、次男・幸村とともに、名古屋城(現・佐賀県唐津市)へおもむく(渡海せず)。
1593年8月、昌幸・幸村親子、名古屋城より大坂、ついで上田に帰陣。
1594年この年、昌幸、伏見城(現・京都府京都市伏見区)の普請に従事する。
1598年8月18日、秀吉、伏見城にて病死。
1600年7月、昌幸、家康ひきいる会津征討軍に参陣。陣中にて、豊臣家の家臣・長束正家(なつか まさいえ)から、石田三成挙兵の書状をうけとる。
同月21日、昌幸、石田三成方にくみすることを決め、徳川家康方(東軍)についた信幸と別れ、幸村とともに上田城に帰る(犬伏の別れ)。
9月、昌幸、上田城で徳川秀忠軍と戦い、信濃国小諸(現・長野県小諸市)へ後退させる(第2次上田の戦い)。
同月15日、関ヶ原の戦いで、徳川家康ひきいる東軍が圧勝し、石田三成ら西軍がやぶれる。
同月末、昌幸・幸村親子、東軍に降伏する。
戦後、信濃国上田の真田領は東軍についた長男・信幸に与えられる。
信幸は、沼田27,000石、上田38,000石に30,000石が加増され、95,000石の大名として存続を許される。
12月、昌幸・幸村親子、信幸と本多忠勝び嘆願で助命され、紀伊国高野山(現・和歌山伊都郡高野町)へ発つ。
昌幸の正室・山之手殿(やまのてどの)は上田にとどまり、幸村とその妻子、および16人の家臣がつき従った。
まもなく、蟄居・幽閉先が変更となり、昌幸・幸村親子は九度山(現・和歌山県伊都郡九度山町)に落ち着く。
1603年2月、家康、征夷大将軍となり江戸幕府をひらく。
1611年6月4日、昌幸、九度山で病死する(享年65)。

真田昌幸の人物エピソード

真田昌幸の人物エピソード

徳川の大軍を2度撃破した上田城(第1次・第2次上田の戦い)

人物像~生き残りの才覚・技術篇~

もともと真田氏は、信濃国(現在の長野県)の小豪族に過ぎませんでした。
ですが、戦国大名として生き残りを果たし、結果的に大きな成功を収めています。

真田家を有力大名にならぶ勢力に飛躍させた立役者こそ、真田幸村の父・昌幸といえます。

なんといっても、武田家滅亡後の昌幸の行動には、だれもが驚きをかくせないでしょう。

まず昌幸は、信長の臣下となって織田軍団に属します。
信長が本能寺の変で殺されると、今度は関東の大大名・北条氏につきました。
しかし、北条氏が真田を守ってくれなかったため、次は北条氏の対抗勢力であった徳川家康に従うことに。
さらに、家康が北条氏と同盟を結ぶと、上杉謙信のあとを継いで越後国の有力大名となった上杉景勝の配下となります。

つまり、武田→織田→北条→徳川→上杉と、この頃の真田家は次々と主人を替えています。

そのため周囲からは、裏表のある卑怯な人物だと思われ、秀吉からも「表裏比興の者」と呼ばれました。
ですが、この「比興」という言葉には従来の「卑怯」のほかに、スケールの大きな、何をしでかすか想像がつかないというような意味もあります。

つまり、昌幸の驚くほどの変わり身のよさは、どの有力大名を主人とすれば真田にとって最も有利かを、昌幸がその慧眼で見抜いていたからに他ならないのです。

人物像~戦いにおける知略・知謀篇~

また、合戦においては、策略で大軍を翻弄するなど、抜群の知略を発揮して徳川と互角以上の戦いを展開しています。

上杉方についた昌幸に対して、家康は同盟相手の北条氏と連携し、7,000の兵で昌幸の居城・上田城に攻め込みます。
しかし、昌幸は1,200の兵力で、数にまさる徳川軍を蹴散らしています(第1次上田の戦い)。

また、秀吉の死後、次の天下人の座を固めつつあった家康に、昌幸はまたしても煮え湯を飲ませることになります。
かれはわずか3,500の兵力で、自軍をはるかに上まわる秀忠軍を見事に撃退するのです(第1次上田の戦い)。

昌幸の戦術に翻弄された秀忠は、あきらめて関ヶ原に向かいますが、その時にはすでにいくさは終結しており、おおいに面目を失います(関ヶ原の戦い)。

その生涯において、合戦で2度にわたって劣勢をはね返してみせた昌幸。
その知謀・知略はもちろん、多くの大名家をたくみに渡り歩いた慧眼にも感服させられますね。

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真田昌幸の甲冑

真田昌幸の甲冑

真田昌幸所用と伝わる甲冑は、皺韋包昇梯子文二枚仏胴具足(しぼかわのつつみ のぼりはしごもん にまいぼとけ ぐそく)と呼ばれるものです。

二枚胴で、前面に真田家の合印である昇梯子(のぼりはしご)を斜めに描いています。

真田昌幸の兜

真田昌幸の兜は、割天衝之兜(わりてんつきのかぶと)と呼ばれるものです。
突盔形兜(とっぱいなりかぶと)に、黒漆塗の大天衝の前立てが添えてあります。

真田昌幸が行った偉業

真田昌幸が行った偉業

和歌山県伊都郡九度山町

真田紐の名付け親

真田紐(さなだひも)とは、たて糸とよこ糸で織りあげた、平たい紐のことです。
その名前は、真田昌幸に由来します。

九度山に追放された昌幸・幸村親子はこの紐をつくり、堺の商人を通じて全国で販売し、情報と資金を集めていたことが伝えられています。
各地で行商人が「真田の作った強い紐」と言って売り歩いたことから真田紐と呼ばれるようになった、とのことです。

この真田紐は、現在でも茶道具を入れる木箱にかける紐などに使用されています。

真田昌幸の名言

真田昌幸の名言

昌幸は刀の柄に、素朴な木綿のひもを巻いていました。
それを見た人が笑うと、かれはこう言いました。

「たとえ錦(にしき)をきても、心が愚かならば役には立たない。刀も同じだ」

昌幸の刀はぴかぴかに磨き上げられており、そのうえ紐には特別な工夫がされていて丈夫で崩れることがありませんでした。
その工夫されたひもこそ、現在も使われている「真田紐」なのです。

真田昌幸にゆかりのある寺院・神社・墓

真田昌幸にゆかりのある寺院

信濃国分寺は、1次・2次上田の戦いの激戦地です。
また、2次上田の戦いのとき、昌幸はここで秀忠と会見。
頭を丸め、恭順の意を表してまんまと秀忠をたばかった、とも伝えられています。

真田昌幸のお墓

真田庵は、真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺で、昌幸が好んだボタンの花が多いことでも知られています。
正式名称は善名称院で、のちの世に真田庵と呼ばれるようになります。

昌幸は、こちらの境内に葬られています。
境内にはほかに、土砂堂や開山堂、真田宝物資料館があります。

真田家の家紋である六文銭が、扉や瓦などにかたどられています。

真田昌幸の子孫について

真田昌幸には、4男6女の子供がいたといわれています。

  • 長男・信之(のぶゆき)
  • 次男・信繁(のぶしげ、通称は幸村)
  • 三男・昌親(まさちか)
  • 四男・信勝(のぶかつ)

 

  • 長女・村松殿 小山田茂誠の室
  • 次女・(名は不明)鎌倉重春の室
  • 三女・(名は不明)保科正光の室
  • 四女・(名は不明)宇多頼次の室、のち滝川一積の室
  • 五女・(名は不明)
  • 六女・於楽 詳細不明

参考文献

  • 『戦国人物伝 真田昌幸』(ポプラ社)
  • 『幸隆・昌幸・幸村 真田三代 その強さの秘密に迫る!』(DIA Collection)
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