三島弥彦は明治時代に活躍した陸上選手です。彼は明治45年(1912年)に、金栗四三と共にストックホルムオリンピックに出場しました。2019年に放送された大河ドラマ「いだてん」では、生田斗真が演じており、記憶に残っている人も多いかと思われます。
昨今では世界的なイベントであるオリンピック。日本人選手も数々のメダルを獲得していますが、日本人の初のオリンピック挑戦はこの2人から始まっています。ただ、生涯にわたり陸上選手として活躍した金栗四三と、オリンピック出場後は銀行員として働いた三島弥彦。2人の生涯は実に対照的でもありました。
そんな三島弥彦ですが、子孫にジャニーズがいるという噂もあり、いだてんが終了した後も注目を集め続けています。今回は三島弥彦の生涯や、彼の子孫、金栗四三との関係などを解説します。
目次
三島弥彦のプロフィール
三島弥彦は明治19年(1886年)生まれました。小さい頃からスポーツ万能で知られ、学習院時代には野球部のエース兼主将、ボート部でも一軍入りを果たします。やがて陸上に夢中になった三島弥彦は、明治44年(1911年)にストックホルムオリンピックの予選会に参加。見事代表を勝ち取ります。
明治45年(1912年)に開催されたオリンピックでは、100mと200m、更に400mに参加しました。ただ列強との体格差には抗えず、決勝には進出していません。オリンピック後は選手を引退し、兄の勤める横浜正金銀行に入行。その後は、昭和29年(1954年)に67歳で没しています。
氏名 | 三島弥彦 |
---|---|
通称・あだ名 | 運動会の覇王 |
出生日 | 明治19年(1886年)2月23日 |
出生地 | 東京市麹町区 |
死没日 | 昭和29年(1954年)2月1日 |
死没地(亡くなった場所) | 東京都目黒区 |
血液型 | 不明 |
職業 | オリンピック選手・銀行員 |
身長 | 175cm |
体重 | 71kg(19貫)1910年時 |
配偶者 | 鍋島文子 |
座右の銘 | 不明 |
三島弥彦の人生年表・生涯
三島弥彦の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
明治19年(1886年) | 三島弥彦誕生 |
明治24年(1891年) | 学習院に入学 |
明治40年(1907年) | 東京帝国大学法科大学に進学 |
明治44年(1911年) | 国際オリムピック大会選手予選会に出場 |
明治45年(1912年) | ストックホルムオリンピックに出場する |
大正2年(1913年) | 横浜正金銀行に入行 |
大正9年(1920年) | イギリスで金栗四三と再開する |
大正12年(1923年) | 蓮池藩主家の子爵鍋島直柔の五女・文子と結婚 |
昭和11年(1936年) | ベルリンオリンピックの国内最終選考会で裁判長となる |
昭和18年(1943年) | 横浜正金銀行を退社 |
昭和29年(1954年) | 動脈硬化と解離性動脈瘤で死去(享年67歳) |
名門三島家で生まれる
三島弥彦は明治19年(1886年)2月23日に、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)で名門・三島家の6男6女の5男として産まれます。三島弥彦の父親は、警視総監や県令を務めた三島通庸。反対派を押し切り強力に土木工事をする事から「鬼県令」と呼ばれました。三島通庸の妻は薩摩藩の下級藩士の娘・柴山和歌子ですが、三島弥彦の母親は和歌子ではなく妾の子でした。
2歳の時に三島通庸は亡くなり、その後は和歌子が家を切り盛りします。和歌子は実子も妾の子も同じように育てるものの、やはり扱いの仕方は大きな違いがあったようです。やがて三島弥彦は、明治24年(1891年)に名門の学習院に進学しました。その後は明治40年(1907年)に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学しています。
そんな三島弥彦は、スポーツ愛好青年団である【天狗倶楽部】に所属しています。スポーツ万能な三島弥彦は、このクラブで人気のある存在でした。
オリンピックの代表に選ばれる
明治44年(1911年)11月、翌年にスウェーデンのストックホルムで開催されるオリンピックの「国際オリムピック大会選手予選会」が羽田運動場で開催されます。男子の陸上競技のみ13種目が行われ、大日本体育協会の嘉納治五郎会長が審判長を務めました。
審判員として天狗倶楽部が名乗りをあげ、三島弥彦も審判員を要請されていますが、「観戦に徹する」としてその要請を拒否します。長らく陸上競技から離れていた三島弥彦ですが、「生来の好戦癖」が沸き起こって飛び入り参加。出場した100m走、200m走、800m走で見事優勝し、長距離走の代表・金栗四三と並び、日本初のオリンピック代表に選ばれました。
ただ、同時はオリンピックという概念が日本に浸透はしていません。「かけっこで洋行なんてするべきではない」という世間の目もあり、一度はオリンピックの出場をためらっています。
しかし学友や帝大総長・濱尾新も後押しもあり、三島弥彦はオリンピックに出場する事を決め、1912年(明治45年)5月16日、に日本を旅立ちました。選手は三島弥彦と金栗四三の2人だけ。随行員を含めても4人しかいません。今では考えられない少人数ですが、彼らが日本初のオリンピック代表でした。
ストックホルムオリンピックの開催
7月6日からオリンピックが開催されます。開会式で、三島弥彦は旗手、金栗四三は「NIPPON」と書いたプラカードを持ち出場しました。他の列強と比べると選手はあまりにも少なく、三島弥彦や金栗四三は他国から同情を買っています。
当日午後に短距離予選が開催されますが、日本人と西洋人の体格差は明らかでした。100m走ではトップに1秒以上の差をつけられて敗退。200m予選でも英米独3選手に敗れ最下位になります。400m予選は100m、200mで金メダルを取ったアメリカの選手が「謙譲して棄権」した為、準決勝に出場する資格を得ました。
しかし三島弥彦は「右足の痛み激しきが為」に棄権を決断。この決断は近年では「勝てる見込みがないと判断した」という説が有力です。またマラソンに出場した金栗四三は、レース途中の26.7km地点で熱中症に倒れ、目が覚めた時には既に競技は終わっていました。この熱中症は過酷なスケジュールや、白夜による睡眠時間の少なさなど、多くの悪い要因が重なった事が要因でした。
2人は嘉納治五郎と、4年後のベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国しました。その後、三島弥彦は次回開催国のドイツを訪れ、大正2年(1913年)2月7日に帰国しました。
銀行員としての後半生
やがて三島弥彦は7月に帝国大学を卒業し、兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行しました。銀行員としての仕事と並行し、9月に大日本体育協会の総務理事・評議員に就任。10月に陸上トラック部門の常務委員に就任しました。海外渡航した経験を買われた為か、サンフランシスコ支店やロンドン支店に着任します。
三島弥彦は次のオリンピックで結果を残すつもりでしたが、大正6年(1916年)のベルリンオリンピックは第一次世界大戦の影響で中止となります。次のオリンピックは大正10年(1920年)開催にベルギーで開催されるアントワープオリンピックでしたが、当時の三島弥彦は既に34歳。オリンピックに出場できる肉体ではなかった為、予選会場にも姿を見せませんでした。
大正12年(1923年)1月には、旧肥前蓮池藩主家の子爵鍋島直柔の五女・文子と結婚。昭和10年(1935年)には本店副支配人となり、昭和11年(1936年)にはベルリンオリンピックの国内最終選考会で審判長を務めました。
ちなみにベルリンオリンピックでは、日本人女性として初めて金メダリストとなる前畑秀子が東條するなど、長い年月を経て世界で戦う事のできる日本人も登場しています。三島弥彦も彼らの闘志に胸を打たれたのでは無いでしょうか。
昭和18年(1943年)2月には、横浜正金銀行を退社して帝国蚕糸倉庫監査役に就任します。当時の日本は、太平洋戦争で連合国と戦争をしている最中でした。昭和15年(1940年)には元々、東京でオリンピックが開催される予定でしたが、日中戦争の拡大などもあり、日本は開催国の立場を辞退しています。
やがて日本は昭和20年(1945年)8月15日に敗戦を迎えます。長らくアメリカの統治下に置かれた日本ですが、昭和27年(1952年)に開催されたフィンランドのヘルシンキオリンピックで日本は出場する権利を獲得。この時に三島弥彦はマスコミの取材に答えています。
三島弥彦の死因と死んだ場所について
三島弥彦は、昭和29年(1954年)2月1日に目黒区の自宅で死去します。死因は、動脈硬化と解離性動脈瘤による心臓内の出血でした。彼の死は突然であり、1月30日に胸痛を感じたものの、そのまま来客の対応をしています。
三島弥彦が妻と結婚したのは、オリンピックに出場してから11年後の事。家族に当時の事を話す事はほとんどありませんでした。銀行員としてキャリアを積み、オリンピックの審判長として後任の育成にあたるなど、自らが第一線に立つ事はありませんでした。三島弥彦はある意味で潔い生き方を貫いたのかもしれません。
三島弥彦はどんな人?
大河ドラマ・いだてんで脚光を浴びた三島弥彦ですが、その生涯や人物像については詳しく知らない人も多いかもしれません。この項目では三島弥彦がどんな人かを簡単に解説します。
運動会の覇王
幼少期から三島弥彦は体格に恵まれました。当時の日本人の成人男性の平均身長は155cmですが、三島弥彦は170cmを超える長身。スポーツも万能で、学習院時代に野球部でエース兼主将を務めます。この他にもボート部で1軍入りを果たしました。
東大でもスキーを極め、柔道は2段。乗馬と相撲も行っています。そんな経緯から、三島弥彦は「運動会の覇王」と呼ばれていました。スポーツ万能で頭も良い。まさに三島弥彦は文武両道を体現したような存在でした。
彼にスポーツの才能があった事は事実ですが、様々なスポーツに熱中できたのは三島家がお金持ちだった事も大きいでしょう。馬術やスキーも当時の庶民ができるスポーツではありません。やはりスポーツはお金がかかるもの。全てが揃っていたからこそ、三島弥彦は運動会の覇王と呼ばれたのかもしれません。
ストックホルムオリンピックの代表選手
前述した通り三島弥彦はストックホルムオリンピックに出場しました。当時の日本ではオリンピックに対する理解が不十分であり、参加に必要な費用は自腹でした。金額は当時としては破格の1800円でしたが、三島弥彦は3500円ものお金を持参する事に成功しています。
参加選手は28か国2406名。日本以外にもエジプト、セルビア、アイスランドなどが初出場を果たします。前述した通り、思うような結果は出なかったものの、彼は日本のスポーツ界の先駆的な存在になりました。
銀行員としての後半生
ベルリンオリンピックが開催されなかった事もあり、その後の三島弥彦は短距離選手ではなく、銀行員としての生き方を選びます。サンフランシスコ支店、ロンドン支店に勤務した他、北京支店と漢口支店で支配人代理、スマラン支店副主を務めるなど、世界中を忙しく飛び回りました。
スポーツだけでなく、銀行員としても活躍する辺り、三島弥彦は相当優秀だった事が分かります。
三島弥彦はオリンピック短距離選手だった?
三島弥彦は日本人初の短距離走のオリンピック選手でした。また金栗四三はマラソン選手としてオリンピックに出場しています。2人が陸上競技の選手としてオリンピックに出場したのは偶然ではなく、理由がありました。
加納治五郎の狙い
明治44年(1911年)11月18日に国際オリムピック大会選手予選会が開催された際、男子の陸上競技のみ13種目が選ばれています。選手としての参加資格は「16歳以上」「品行方正の学生で紳士たるもの」などの5項目。参加資格の評定は厳しいものではありません。
この背景には「日本全国に体育思想の普及を図り、オリンピックの参加を国民的な運動にしたい」という加納治五郎の強い思いがありました。加納治五郎が国民に普及させたいと考えていた種目は陸上競技と水泳であり、両者の種目がオリンピックに含まれていた事は、加納治五郎にとっては吉報でした。
予選会が行われた時、三島弥彦は観客に徹するつもりでしたが、途中参加にもかかわらずオリンピックの参加資格を勝ち取ります。記録は100mが11秒5分の4(=11秒8)、200mが25秒5分の1、800mが2分16秒。令和となった現在では、平凡な数値かもしれませんが、競技場・用具・練習方法も不十分な状況を考えれば、かなり良い数値です。
そんな三島弥彦もオリンピックでは残念な結果に終わっている事から、やはり世界の壁は厚かったと言えます。
現在の短距離走
現在の100m走は、ジャマイカやアメリカ合衆国勢を中心としたアフリカ系アメリカ人選手が圧倒的に強く、アジアの選手は世界大会でもオリンピックでも準決勝に進む事は難しくなっています。
アジアの選手で目立った活躍をみせたのは、1932年ロサンゼルスオリンピックで6位入賞を果たした吉岡隆徳くらいです。だが三島弥彦は世界と戦った短距離走の先駆者であり、陸上競技に取り組むならば、ぜひ覚えて欲しい存在と言えますね。
三島弥彦と金栗四三の関係性について
金栗四三は三島弥彦と共にストックホルムオリンピックに出場した人物です。両者は共に日の丸を背負う同志でしたが、2人はどのような関係性を築いたのでしょうか。この項目では三島弥彦と金栗四三の関係性を張り下げます。
オリンピックで友情を深める
両者が初めて顔を合わせたのは「国際オリムピック大会選手予選会」でした。三島弥彦が短距離走の代表に選ばれたのに対し、金栗四三はマラソンで代表に選ばれます。金栗四三は熊本県玉名郡春富村の名家の7男という立場でした。
ただ名家とはいえ、名門中の名門である三島家とは大きな開きがありました。オリンピックの渡航費用は渡航費1800円。三島弥彦が余裕を持って渡航費を持参したのに対し、金栗四三は1500円を寄付金から賄い、なんとか渡航費を集めています。ただ両者の仲は良好で、ストックホルム先で互いに練習指導をしています。2人が試合に参加できたのは、互いを励まし合っていた事も大きいでしょう。
金栗四三はその後もマラソン選手として活躍する
金栗四三はオリンピックから帰国後に、地理の教師として教壇に立ちつつ、大正9年(1920年)のアントワープオリンピック、大正13年(1924年)のパリオリンピックに参加します。アントワープオリンピックは16位、パリオリンピックは途中棄権という結果に終わるものの、金栗四三はマラソンの第一線に立ち続けました。
アントワープオリンピックが開催される前、金栗四三はイギリスを訪れています。当時の三島弥彦はロンドン支店に着任しており、8年ぶりに金栗四三と再開しました。三島弥彦は同志である金栗四三の活躍を喜んでいた事は間違いありません。
ちなみに金栗四三はストックホルムオリンピックのマラソンの際に意識を失い、そのままゴールをする事ができていませんでした。彼は長らく「競技中に失踪し、行方不明」という扱いになっています。その事にオリンピック委員会が気づいたのは、昭和42年(1967年)3月の事。3月21日に金栗四三はストックホルムオリンピック開催55周年に招かれ、そのままゴールを果たしました。
彼の記録は54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3であり、オリンピック史上最も遅いマラソン記録としてギネス記録を保持しています。この記録が破られる事は今後もないと言われています。
三島弥彦の性格
おっとりとした性格だった
天狗倶楽部の中心人物・押川春浪は三島弥彦を、「おっとりとした楽天的な性格」と称しました。度量の大きさと鷹揚な人な性格ゆえに帝国大学でも同性異性問わず人気があった事が伺えます。この性格からたくさんのスポーツに触れ、良い成績を残す事ができたのでしょう。
ただおっとりした性格は、闘争心を持つには不向きです。800mで準決勝に進んだにもかかわらず、勝機無しと判断して棄権した事は、三島弥彦の性格を物語っています。三島弥彦は名門・三島家で何不自由ない暮らしをしていた御曹司。オリンピックの世界に圧倒されたのかもしれません。
三島弥彦の名言
「かく吾々全部失敗に終わりましたが、吾々が此大会に選出されたと云ふことは決して無駄ではなかった。否幾多尊き教訓とよき経験を得て、大に後の為になったと信ずるのであります」
ストックホルムオリンピックの結果を踏まえ、三島弥彦が残した言葉です。三島弥彦は確かにオリンピックで結果を出す事ができなかったかもしれません。しかし三島弥彦の意思は多くのスポーツ選手を奮起させる事に繋がります。多くのスポーツ選手がオリンピックを目指し、実際にメダルを取った事を考えるならば、三島弥彦の挑戦は大きな意味があったといえます。
私たちのやっているのはカケッコで、外国選手のやっているのはレースだった
ストックホルムオリンピックの他の選手を観た時の三島弥彦の感想です。三島弥彦の言葉は、当時の日本と列強のスポーツの環境差を的確に表していました。
三島弥彦の子孫
前述した通り、三島弥彦は大正12年(1923年)に鍋島文子という女性と結婚します。鍋島文子は肥前佐賀藩の10代目藩主・鍋島直正の孫娘にあたり、子爵を叙爵した名家です。同年に長男・通直も誕生しました。
ただ三島弥彦の家族の情報は乏しく、他の子供たちや通直の動向は詳しくわかりませんでした。ただ三島通直も名家の生まれである事に間違いはありません。今もその血筋はどこかで受け継がれているのではないでしょうか。
三島弥彦の子孫はジャニーズって本当?
ネット上では三島弥彦の子孫にジャニーズがいるという噂があります。噂になっているのは、少年忍者の川﨑皇輝・川﨑星輝兄弟です。その噂が事実なのかも調査しました。
川崎兄弟は三島弥彦の子孫ではない
結論から言えば、川崎兄弟は三島弥彦の子孫ではありません。川崎兄弟の先祖は三島通庸の長男・三島彌太郎です。三島彌太郎は三島弥彦と19歳も離れていますが、2人の仲は良かったとの事。三島通庸は三島弥彦が2歳の頃に亡くなっており、三島弥彦は三島彌太郎を父親のように慕っていたのかもしれません。
三島彌太郎は名門・三島家の長男のため、1897年から1919年に亡くなるまで、貴族院議員を務めていました。横浜正金銀行の取締役や日本銀行の総裁、更に貴族院議員としても活動するなど、多忙な日々を送っていました。
ちなみに三島彌太郎の家系図を見れば、川崎兄弟以外にも多くの著名な子孫がいます。長男の三島通陽は日本にボーイスカウト運動を広めた人物として知られ、ひ孫の川崎智幸は競艇選手として1980年〜1990年代に活躍しました。三島弥彦だけでなく、多くの著名人を輩出するあたり、三島家が名門である事がわかりますね。
三島弥彦にまつわる逸話や都市伝説について
三島弥彦が恵まれた体を手に入れた理由
三島弥彦の体格は175cmの71kgと、当時としてはかなりの大柄です。この恵まれた身体を手に入れる事ができたのは、三島弥彦が薩摩人の血を引いていたからという噂があります。
江戸時代の頃から薩摩では、世間一般では禁止されていた豚肉を食べていました。豚肉は栄養価が高く、幼少期から食べ続けていれば、身長を伸ばす効果があるとされます。
三島弥彦の父親・三島通庸は、幕末に大久保利通や西郷隆盛と精忠組というグループを結成していた生粋の薩摩人です。当然豚肉などの高カロリーの食べ物を摂取していた事でしょう。三島弥彦は財力だけでなく、体格の良さも三島家から受け継いだのかもしれません。
痛快男子十傑投票で選ばれる
三島弥彦はスポーツの才能と東大生という立場から、多くの人たちの尊敬を集めていました。1908年から1919年まで刊行された「冒険世界」という雑誌がありました。
冒険世界は「痛快男子十傑投票」という当時人気のあった若者の投票を行いますが、ストックホルムオリンピック開催の頃の投票では、三島弥彦は運動部門で見事1位に輝きます。別の部門ではありますが、過去には乃木希典や大隈重信などがランクインした企画であり、当時の三島弥彦の人気の高さが伺えますね。
三島弥彦のゆかりの地
羽田空港
羽田空港は東京都大田区にある地名です。大部分を東京国際空港が占めています。この地はかつてストックホルムオリンピックの予選大会が行われた羽田運動場が存在しました。海水浴場や遊園地が作られて、大田区を代表する観光地になりますが、昭和13年(1938年)に羽田飛行場の拡張用地として土地が買収され、羽田運動場は空港の一部となりました。
実はオリンピックの予選大会が開催されたのは、三島弥彦と金栗四三が参加した1911年の時のみ。1917年には高潮災害が起きて、運動場は破壊。その後も再建される事はありませんでした。ただ運動場は野球場としての機能は維持していた為、その後も野球の試合には使われていました。
羽田空港のB滑走路西側のT−4誘導路は、過去に運動場のホームベースがあった場所です。羽田空港を訪れた時は三島弥彦や金栗四三達の熱意を感じ取って欲しいものです。
三島神社
那須塩原にある三島神社は、鬼県令で三島弥彦の父親である三島通庸を祀る神社です。2019年に大河ドラマ・いだてんが放送された時、三島神社には三島弥彦をアニメ風に描いた大型看板が設置が設置されました。絵を手掛けたのは、真島クンすっとばす!!などで有名な「にわのまこと」です。
三島弥彦だけでなく、三島家全体にゆかりのある場所なので、三島通庸などに興味のある人にも訪れて欲しい場所です。
住所:栃木県那須塩原市三島5-336-5
三島弥彦の関連人物
押川春浪
押川春浪は、明治から大正にかけて活躍した作家でありスポーツ愛好家です。彼は1908年から『冒険世界』と呼ばれる冒険小説を掲載した雑誌を刊行し、冒険小説ブームの火付け役となりました。冒険世界は「痛快男子十傑投票」などの様々な企画を立ち上げ、三島弥彦は運動部門で見事1位にランクインしました。
また三島弥彦が所属した天狗倶楽部も押川春浪が立ち上げた団体です。当団体は野球や相撲、テニスなどのスポーツの振興に尽力した他、羽田運動場建設にも関与しています。冒険世界や天狗倶楽部、更には羽田運動場の建設。押川春浪は三島弥彦が世界に羽ばたく上で、キーパーソンと言える存在でした。
三島弥彦の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
・日本初のオリンピック代表選手 三島弥彦 -伝記と史料ー
三島弥彦の伝記です。本書が出版されたのは2019年。それまでは三島弥彦は無名な存在でした。一見すると華々しい生涯を送った三島弥彦ですが、手紙や新聞談話、草稿で当時の不安な心情を書き残しています。本書は三島弥彦の知られざる一面が見えるため、彼の実像を知りたい人におすすめです。
・写真で見る 近代オリンピック 栄光の歴史――より速く、より高く、より強く
夏季オリンピックの歴史(2021年まで)をわかりやすく解説した一冊。4ページ一組で各オリンピックを紹介しています。本書は各オリンピックの概要をまとめたものであり、ページを開けば当時の記憶が蘇るのではないでしょうか。
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おすすめドラマ
・いだてん〜東京オリムピック噺〜
いだてん〜東京オリムピック噺〜は2019年に放送された大河ドラマです。本作は、1912年のストックホルムオリンピックから1964年の東京オリンピックに至る歴史を章立てに描いた作品。金栗四三と、東京オリンピック招致に尽力した田畑政治という2人の主人公をリレー方式で描いており、大河ドラマとしては異色の内容となりました。
三島弥彦を演じるたのは生田斗真でした。視聴率としては振るわなかったものの、東京ドラマアウォード2020では連続ドラマ部門でグランプリに選出されています。スポーツと落語、更にオリンピックという、大河ドラマでは表現しづらい内容をうまく昇華させた作品でした。
三島弥彦についてのまとめ
今回は三島弥彦の人物像や生涯を解説しました。三島弥彦は幼少期から恵まれた体格を持ち、様々なスポーツに触れ、日本初の短距離走選手として世界と戦いました。
オリンピックの成績は決して良かったとは言えないものの、彼がオリンピックで健闘した姿は、スポーツに励む多くの日本人の闘志を奮い立たせています。今回の記事を通じて、三島弥彦や近代日本のスポーツ史に興味を持っていただければ幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/三島弥彦