加藤清正とはどんな人物?末裔やトラ退治の伝説、死因について徹底分析!

加藤清正は戦国時代後期から江戸時代初期に活躍した武将です。豊臣秀吉の家臣として知られ、さまざまな戦いで武功を挙げ、後に肥後熊本藩初代藩主となりました。

戦国時代を舞台にした大河ドラマでたびたび登場する加藤清正ですが、その人物像や生涯については知らない人も多いのではないでしょうか。今回は加藤清正の生涯や死因、功績などについて解説します。

加藤清正のプロフィール

加藤清正のプロフィール

加藤清正の肖像画 出典:Wikipedia

加藤清正は永禄5年(1562年)に尾張国で生まれます。幼少期から又従兄弟である豊臣秀吉に仕え、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍。「賤ヶ岳の七本槍」となり、天正14年(1586年)には肥後北半国19万5,000石を与えられました。文禄・慶長の役では朝鮮半島に出兵しています。

やがて豊臣秀吉が死去すると、徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでも功績を残し、熊本藩52万石(実質石高は79万石)の大大名になりました。その後は江戸幕府を支えつつ、慶長16年(1611年)に亡くなっています。

氏名加藤清正
通称・あだ名賤ヶ岳の七本槍
出生日永禄5年(1562年)6月24日
出生地尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)
死没日慶長16年(1611年)6月24日
死没地(亡くなった場所)熊本城
血液型不明
職業戦国武将
身長180cm以上、もしくは161cm
体重不明
配偶者山崎片家娘(正室)、清浄院(側室)
座右の銘「主一無適」

 

加藤清正の人生年表・生涯

加藤清正の人生年表

出来事
永禄5年(1562年)加藤清正誕生
天正元年(1573年)秀吉に小姓として仕える
天正10年(1582年)冠山城の戦いや本能寺の変で功績を残す
天正13年(1585年)従五位下・主計頭に叙任
天正16年(1588年)熊本城を与えられる
文禄元年(1592年)〜文禄・慶長の役
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
慶長16年(1611年)病没

 

羽柴秀吉に仕える

加藤清正の人生年表・生涯

加藤清正生誕地碑
出典:Wikipedia

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、尾張国愛知郡中村で刀鍛冶・加藤清忠の息子として生まれます。幼少期の名前は虎之助でした。加藤清正の母親は、羽柴秀吉の生母である大政所と従姉妹の関係にありました。そんな経緯もあり、加藤清正は天正元年(1573年)の時に近江長浜城主となった羽柴秀吉の小姓として仕えています。

天正4年(1576年)に加藤清正は元服し、豊臣秀吉の中国遠征に従軍。天正10年(1582年)4月に備中で起きた冠山城の戦いで、豊臣秀吉軍と宇喜多秀家軍は冠山城主・林重真と激しい戦いを繰り広げます。加藤清正は城に一番乗りを果たし、敵将の竹井将監を討ち取る功績を残しました。

その後も加藤清正は、本能寺の変の後に起きた山崎の戦いで明智方の武将・近藤半助を討ち取っています。

賤ヶ岳の戦い

加藤清正の人生年表・生涯

『賤ヶ嶽大合戦の図』
出典:Wikipedia

加藤清正の名前が天下に轟いたのは、天正11年(1583年)4月に起きた賤ヶ岳の戦いです。この戦いは羽柴秀吉と柴田勝家によるもので、羽柴秀吉はこれに勝利。織田信長が築き上げた権力や体制を継承し、天下人になる第一歩を踏み出しました。

加藤清正は賤ヶ岳の戦いで敵将・山路正国を討ち取る活躍を見せます。「賤ヶ岳の七本槍」の1人となり、3000石の所領を与えられました。天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任した時、加藤清正は主計頭に叙任する等、豊臣秀吉の側近としての立場を固めます。

豊臣秀吉は天正16年(1586年)に九州平定を行い、九州一帯を支配下に収めます。加藤清正は天正16年(1588年)に肥後北半国19万5000石を与えられ、隈本城入りを果たしました。その後、加藤清正は改修を加えて熊本城とし、城下町の発展に心を砕きました。

朝鮮出兵

加藤清正の人生年表・生涯

加藤清正進路
出典:Wikipedia

文禄元年(1592年)から文禄の役が始まり、日本が朝鮮に出兵すると、加藤清正は二番隊を率いて出陣します。加藤清正は明に豊臣秀吉の考えを伝える役目も担っていましたが、豊臣秀吉の意見は強硬的なものであり、明を納得させるものではありません。更に明との戦いを終わらせたい小西行長や石田三成との対立もあり、加藤清正は彼らの策謀で謹慎となっています。

慶長2年(1598年)に2度目の朝鮮出兵である慶長の役が行われます。加藤清正は蔚山城の戦いで大活躍。朝鮮・明連合軍56000人の軍勢を、約13000の兵で籠城して勝利しました。しかし豊臣秀吉は間も無く死去した為、加藤清正達は朝鮮から撤兵します。今回の戦いでも石田三成との対立は続きました。

関ヶ原の戦い

加藤清正の人生年表・生涯

関ヶ原の戦いの様子
出典:Wikipedia

豊臣秀吉亡き後、加藤清正は五大老の徳川家康に接近。家康の養女を継室として娶っています。慶長4年(1599年)に伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱が起こると、加藤清正はこれを支持。しかしこの支持は徳川家康に対する背信行為であり、加藤清正は上洛を禁止されます。

そのため、加藤清正は翌年に起きた関ヶ原の戦いに直接参加する事ができませんでした。ただ関ヶ原の戦いの戦いは現地だけの話ではありません。8月後半から出陣を開始し、九州の西軍勢である小西行長に侵攻を仕掛けるなど、九州の西軍勢力を次々と破る功績を残しました。

この背景もあり、加藤清正は徳川家康から小西旧領の肥後南半わを与えられます。領土は52万石(実質石高は79万石)に加増されるなど、大大名として不動の地位を確立。熊本藩内では熊本城の改築を行うなど、藩主としての手腕も発揮しました。

慶長16年(1611年)3月には、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼と、徳川家康による会談が二条城で行われます。徳川家康に接近した加藤清正ですが、彼は生涯豊臣秀吉の恩義を忘れる事はありませんでした。

彼は家康の十男・徳川頼宣の護衛役として会見に参加しつつ、秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りにも参加。双方と親密な関係を築きつつ、徳川・豊臣の和解の為に奔走しています。彼は江戸幕府の発展に不可欠な人物として、大きな影響力を持ち続けていました。

加藤清正の死因と死んだ場所について

帰国途中の船内で発病する

加藤清正の死因と死んだ場所について

二条城の二の丸御前
出典:Wikipedia

加藤清正は二条城での会見を終え、船で肥後へ帰国する船の中で病を発症。6月24日に熊本の地で亡くなります。享年50歳でした。加藤清正は船の中で突如病を発症し、口がきけなくなった為、遺言はありませんでした。

加藤清正の亡骸は赤尾口という場所で荼毘に付され、現在加藤清正像のある熊本市中央区に埋葬されます。加藤清正は熊本の発展に寄与した事からも、今もこの他には多くの人たちが訪れています。

加藤清正の死因は?

加藤清正の死因と死んだ場所について

加藤清正は徳川家康に暗殺された?
出典:Wikipedia

あまりに突然の死なので、加藤清正の死については様々な議論がされています。加藤清正は歳をとっても好色だった為、内分泌系の機能低下である腎虚(花柳病)も疑われました。

この他の病気としては、ハンセン病で亡くなったという説もあります。ただ加藤清正がハンセン病に罹患していたという文献はありません。加藤清正は日蓮宗の熱心な信者であり、日蓮宗には「ハンセン病は法華経を謗った報い」という考え方があります。加藤清正と日蓮宗、そして熊本にある日蓮宗の寺院である本妙寺が結びつき、加藤清正の死因がハンセン病になった可能性があります。

また徳川家康と豊臣秀頼の会見直後に発病している為、徳川家康による暗殺説を唱える人も少なくありません。過去に放送された大河ドラマ・真田丸は暗殺説を採用しています。

加藤清正とはどんな人?

豊臣氏配下の有力武将

加藤清正とはどんな人?

豊臣秀吉
出典:Wikipedia

加藤清正は小姓の頃から豊臣秀吉に仕えた経緯もあり、豊臣秀吉の古参の家臣として活躍しました。彼は賤ヶ岳の戦いで功績を残し、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれます。

「賤ヶ岳の七本槍」は後年に豊臣政権で大きな影響力を持ちますが、当時の豊臣秀吉は有力な家臣を持っておらず、自らの影響力を喧伝する為に生まれた言葉とされます。加藤清正は「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる事を快く思っていませんでした。加藤清正は他の六本の槍と同列に扱われるのではなく、1人の武将として豊臣秀吉に仕えたかったのでしょう。

丈六尺三寸(190cm)の大男

加藤清正とはどんな人?

加藤清正の馬印と旗印
出典:Wikipedia

加藤清正は丈六尺三寸(約190cm)の大男と伝わっており、長烏帽子形兜という兜を身につける事で、更に体格を大きく見せていました。また伝説では、金小札色々威片肌脱胴具足という甲冑を愛用しており、これはあばら骨の浮いた肉色の体がイメージされています。屍を思わせる恐ろしげなデザインであり、戦地で敵将に「自らの死」を連想させる狙いがあったのかもしれません。

実は武勇派ではなく、文官派?

加藤清正とはどんな人?

加藤清正朝鮮陣書状
出典:Wikipedia

加藤清正は勇猛果敢な武勇派の武将と思われがちですが、近年の研究でそれらは創作の可能性が高い事が示されています。加藤清正が豊臣秀吉に重用されたのは、財務官僚としての才能でした。

加藤清正は蔵入地の代官、九州平定後の戦後処理などで手腕を発揮し、小牧・長久手の戦い、四国征伐などの戦いでは秀吉の後方支援を担当しています。加藤清正が肥後国の統治を任されたのは、肥後国が当時不安定な状態にあった為であり、代官としての才覚を見込まれてという説が有力です。

私たちが持つ加藤清正のイメージも、いずれは塗り替えられていくのかもしれません。

熊本の繁栄に尽力する

加藤清正とはどんな人?

熊本市街
出典:Wikipedia

加藤清正が肥後国(現在の熊本)の統治を行ったのは15年。この地は豊臣秀吉が「こんなに豊かな国は見たことがない」と話す程に豊かな土地でした。しかし土地が豊かだった為、領民が力を持ち得ており、戦国大名が統治する事が難しいという側面があります。

加藤清正は優れた治水技術を持ち、熊本の地に存在する河川の改修を行いました。一連の工事は農閑期に進められ、領民には賃金も支払われていた為、皆が喜んで協力しました。一連の治水で熊本の地は更に潤い、加藤清正は領民の心を掴みます。熊本県では、加藤清正の事を「清正公(せいしょこ)さん」と呼ぶ人もいますが、これは加藤清正の統治の賜物でした。

ただ一方で朝鮮出兵の費用を賄う為、多くの出費もかさみ、それらの負担は領民にのしかかっていました。加藤清正もその事を問題に考えていたものの、解決する前に没しています。結果的に領民は重い負担を強いられ続ける事になり、後に加藤氏が改易させられる要因になりました。

加藤清正の家紋について

「蛇の目紋」と「桔梗紋」

加藤清正の家紋について

蛇の目紋
出典:Wikipedia

加藤清正の家紋について

桔梗紋
出典:Wikipedia

加藤清正は「蛇の目紋」と「桔梗紋」の家紋を使っていました。

蛇の家紋はドーナツや5円玉のような、円の中央に穴が空いたもの。シンプルで分かりやすく、力強さを感じさせる家紋です。加藤清正が使っていた甲冑「白檀塗蛇の目紋二枚胴具足」には、蛇の目紋が描かれています。

もう一方の家紋である桔梗紋は、多年草の桔梗の花を図案化したものです。彼が桔梗紋を使い始めたのは、肥後国を賜ってからの事。蛇の目紋に比べると優雅で、華やかで優雅なイメージを持ちます。桔梗の花は「吉・更」という2つの字が含まれ、縁起の良い漢字です。加藤清正は家具や慶事で桔梗紋を使用した他、熊本城の瓦にも使われています。

加藤清正と明智光秀

加藤清正の家紋について

明智光秀
出典:Wikipedia

桔梗紋を使っていた武将として有名なのが、明智光秀です。明智光秀は古くから桔梗紋を使っていましたが、彼は本能寺の変で織田信長を裏切った経緯から、桔梗紋は裏切り者の家紋と蔑まれた経緯がありました。実際、本能寺の変を経て桔梗紋の家紋を変更した武将もいたようです。

実は加藤清正と明智光秀の先祖は、土岐氏の流れを汲んでおり、両者は縁戚関係にあります。この土岐氏が使用していたのが桔梗紋でした。加藤清正は明智光秀が謀反を起こした後も、桔梗紋を使用していましたが、これは土岐氏の子孫である事を誇りに思っていたからかもしれません。

加藤清正の虎退治について

加藤清正の武勇伝として有名なのが、朝鮮出兵の時に虎退治をしたというものです。加藤清正の幼名は寅之助なので、まさに加藤清正ならではの武勇伝です。この伝説は果たして本当なのか。真相に迫りたいと思います。

虎退治の全貌

加藤清正のトラ退治について

加藤清正の虎退治
出典:Wikipedia

伝説によると加藤清正が虎退治をしたのは、朝鮮出兵をした時の事。加藤清正軍は山の麓に陣を構えますが、そこは大きな虎の住みかであり、軍馬や兵士が襲われる事態が発生します。加藤清正はこの状況を憂い、「なんと口惜くちおしき(悔しい)ことよ」と怒りました。やがて虎退治の最中に虎が加藤清正に襲い掛かろうとした時、加藤清正は火縄銃で虎を仕留めたのです。

馬を攫うほどの虎にもかかわらず、1発で仕留める加藤清正の正確な銃の腕前と、至近距離に来ても恐れない勇気に家臣達は感嘆しました。

一説では加藤清正は銃ではなく、十文字の槍で虎を倒したともされます。その槍は虎を倒した時に片方の槍が折れてしまい、「片鎌槍」と呼ばれるようになりました。現物の片鎌槍は存在しますが、こちらは元々片方の槍が存在しない為、虎を倒して折れたものではありません。加藤清正の武勇を誇張する為に作られた創作だと思われます。

加藤清正は虎退治をしていない?

加藤清正のトラ退治について

黒田官兵衛
出典:Wikipedia

虎退治の武勇伝ですが、実は加藤清正は虎退治をしていないという説もあります。当時は多くの武将が朝鮮出兵で朝鮮に滞在しており、黒田官兵衛もその1人でした。一説では黒田官兵衛が行った虎狩が、加藤清正の武勇伝に脚色された可能性があります。

当時、虎の肉を食べれば不老不死になるという噂があった為、豊臣秀吉は虎の肉を食べたがったようです。一説では豊臣秀吉の死因は虎の肉を食べすぎた為ともされます。

加藤清正の性格

義に厚い性格

加藤清正の性格

論語
出典:Wikipedia

加藤清正は幼少期から豊臣秀吉に仕えていた経緯から、豊臣氏に対する忠義を忘れる事はありませんでした。それは豊臣秀吉が没した後も変わらず、豊臣秀頼と徳川家康の会談の際にも心を砕いています。

ただ関ヶ原の戦いの以降、豊臣氏と徳川家康の対立は顕在化します。加藤清正は対立に頭を悩ませ、『論語』で書き込みをして読み込んでいました。結局、加藤清正は1611年に死去しますが、彼が存命なら豊臣氏もまた違った最後を遂げたのかもしれません。

生涯武人であり続けた

加藤清正の性格

妙行寺内にある加藤清正像
出典:Wikipedia

加藤清正は生涯武人としての気骨を持ち続けていました。徳川家康が江戸幕府を開くと、戦国時代の気風が薄れていき、大名達の中で髭を剃る事が流行ります。徳川家康が加藤清正に髭を剃るように伝えると「鎧の頬あてに髭があたる感覚が心地よいので」と断りました。

徳川家康に屈服する大名が多い中、加藤清正は気骨のある武人という評判が高まりました。

加藤清正の名言

加藤清正の名言

長烏帽子形兜
出典:Wikipedia

人の命に貴賤はなく、自分が生きるために他人の命を犠牲にしてはならない

加藤清正が渡海した時に、述べた言葉です。波が荒れ狂い、船頭たちが「人身御供をするしかない」と狼狽した時に、加藤清正は上記の言葉を述べました。加藤清正が迷信ではなく、人命を大切にする人物だった事がわかる名言です。

主一無適

主一無適は加藤清正の座右の銘です。意味は「一心で他念を交えない。一を主として他に背かぬこと」。元々は、論語にある言葉を朱子が注釈を加えたものであり、加藤清正が学問にも秀でていた事がわかります。

上一人の気持ちは、下万人に通ずる。

加藤清正が朝鮮出兵の際に残した名言です。仲間が加藤清正の陣地を訪れると、もう敵はいないのに、加藤清正は軍団が完璧な臨戦大勢を崩しませんでした。加藤清正は「大将が油断すると、部下も気が緩む」と考え、体勢を維持し続けたのです。

大将が慢心を持つと、各軍団は頭から腐ります。加藤清正が歴戦の猛者であり続けたのは、自らが手本となる姿勢があったからに他なりません。

加藤清正の子孫や末裔

戦国時代を巧みに生き延びた加藤清正ですが、彼の子孫の動向について気になる人も多いのではないでしょうか。この項目では、加藤清正の子孫な末裔について解説します。

加藤清正の子孫

加藤清正の子孫や末裔

加藤忠広
出典:Wikipedia

加藤清正には正室や継室、側室との間に3人の男児と、2人の次女を儲けています。更に生母不明の子女との間に1人の男児を設けていますが、彼については詳しくわかっていません。

長男と次男は夭折した為、加藤清正の後を継いだのは三男の加藤忠広でした。彼は熊本藩2代目の藩主になりますが、寛永9年(1632年)に改易の憂き目に遭っています。理由は諸説あり、嫡男の光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作った為、彼が家臣をまとめる技量に欠けていたなどが挙げられます。

いずれにせよ加藤氏は豊臣氏恩顧の有力大名。徳川家は加藤氏を厄介に感じ、適当な理由をつけて加藤忠広を改易にしたのかもしれません。加藤忠広には嫡男の光広がいましたが、1633年に病死(他殺説あり)。他の2人の男子も後継を残さす、その後の経過は分かりません。

以上の事から加藤清正の直系の子孫は途絶えています。

加藤清正の末裔は全国にいる

加藤清正の子孫や末裔

加藤セチ
出典:Wikipedia

ただ加藤清正の血を引く者がいなくなったかといえば、そうではありません。加藤忠広はお預けの身になった時に、その地で女子が生まれました。その女子が婿を取り、その血筋は山形の庄屋・加藤与治左衛門として江戸時代を通して繁栄しています。

明治から昭和にかけて活躍した女性科学者・加藤セチは加藤清正の末裔です。彼女は1歳の時に起きた庄内地震で兄を亡くし、婿を取り加藤家を存続させます。一男一女に恵まれるものの、息子は太平洋戦争で戦死し、娘は他所の家に嫁いだ為、加藤本家は途絶えました。

ただ加藤本家が途絶えるまでの間、多くの分家が誕生した為、その分家筋は現在でも日本各地で続いています。

加藤清正にまつわる逸話や伝説について

幼少期に泥棒を追い払う

加藤清正にまつわる逸話や伝説について

重臣による加藤清正像
出典:Wikipedia

加藤清正は幼少期から勇猛果敢だった事が知られています。幼少期に加藤清正が叔父の家にいた時、泥棒が入り叔父夫婦が捕まる事態が起きました。加藤清正は鬼の仮面を被り、つづらに隠れます。泥棒が財産と勘違いしてつづらを開けた時、加藤清正が急に飛び出したため、泥棒達は驚いて逃げ出しました。

叔父の屋敷のあった場所には「清正公社」が建てられており、加藤清正の功績を讃えています。

熊本の銘菓を作る

加藤清正にまつわる逸話や伝説について

朝鮮飴
出典:Wikipedia

加藤清正は朝鮮出兵の時、もち米や水あめ・砂糖を原料とした長生飴というものを非常食として持参します。この長生飴は、後に朝鮮飴とよばれ、熊本県の名物になりました。郷土の人達の加藤清正に対する愛情が伝わってきますね。

加藤清正のゆかりの地

熊本城

加藤清正のゆかりの地

熊本城
出典:Wikipedia

熊本城は、肥後国飽田郡熊本に築城された日本の城です。熊本城は肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が室町時代に築城した千葉城が始まりであり、後に千葉城は隈本城と名を変えています。加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主として隈本城入りをしたのは1588年の事。

前述した通り加藤氏は2代目で改易となり、熊本城は細川氏の手に渡りました。しかし加藤清正を慕う領民は多く、後の西南戦争で熊本城が被害に遭った時、「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだ人も多かった様子。西南戦争で多くの建築群が焼失しましたが、宇土櫓を含めた櫓・城門・塀は焼失を免れ、国の重要文化財に指定されます。

1889年の熊本地震で石垣の一部は破損しますが、その後も城跡は「熊本城跡」として原型を留めました。2016年4月の熊本地震で石垣の一部は破損しましたが、修復も進められています。

住所:熊本市中央区本丸1-1

本妙寺

加藤清正のゆかりの地

本妙寺の浄池廟中門
出典:Wikipedia

本妙寺は、加藤清正が父の菩提寺として建てたお寺です。加藤清正が熊本に入城した際に熊本城内に移転しましたが、加藤清正が亡くなった際に現在の場所に移転しました。この本妙寺にの一番高いところに加藤清正のお墓がありますが、お墓自体を浄池廟と呼び、大きな神社のような建物になっています。

ちなみに一番高い位置にお墓が存在するのは、加藤清正が自分が亡くなった時に、熊本城天守閣の高さと同じ場所に建ててほしいという要望があったか為でした。本妙寺は加藤清正の資料を展示する展示館や、巨大な加藤清正像があるなど、加藤清正のファンにとっては見どころのある場所です。

住所:熊本県熊本市西区花園4-13-1

天澤寺

天澤寺は山形県にある曹洞宗の寺院であり、本妙寺洞爺に加藤清正のお墓があります。熊本から遠く離れたこの場所にお墓がある理由は、加藤清正の嫡男・忠広が改易されて出羽国(現・山形県)にお預けの身となったため。忠広はこの地に22年もの間過ごしますが、この他に来る前に本妙寺から遺骨を持参したのです。

ちなみに加藤清正の遺骨がこの他にある事がわかったのは、戦後である1949年の事。現在では加藤清正公墓碑として、山形県指定史跡に指定されています。

住所:山形県鶴岡市丸岡町の内36

加藤清正の関連人物

石田三成

加藤清正の関連人物

石田三成
出典:Wikipedia

石田三成は古くから豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの戦いで徳川家康に敗北した人物です。石田三成と加藤清正は古くから対立関係にありました。加藤清正は尾張国、石田三成は近江国出身。更に石田三成は生真面目ゆえに、豊臣秀吉に讒言する事も多く、加藤清正を憎く思っていました。

豊臣秀吉亡き後、加藤清正や福島正則、黒田官兵衛などの反石田三成派の武将達は暗殺計画を企てています。この時は徳川家康が仲介に立ち、石田三成が隠居する事で争いは治りましたが、この対立は後の関ヶ原の戦いの遠因となりました。

福島正則

加藤清正の関連人物

福島正則
出典:Wikipedia

福島正則は賤ヶ岳の七本槍であり、信濃高井田藩の初代藩主です。福島正則もまた豊臣秀吉と縁戚関係にあり、幼い頃から加藤清正と親しい仲にありました。福島正則は幼少期の名前を市松と呼びます。加藤清正は福島正則を市松、福島正則は加藤清正を虎之介と呼んでいたとの事。コンビのように語られる2人ですが、両者には微妙な役割の違いがあります。

福島正則は良くも悪くも無骨な戦国武将であり、加藤清正は実務官僚としての側面がありました。また福島正則は関ヶ原の戦いで前線で活躍し、加藤清正はこの時は肥後国で謹慎中でした。ただどちらも豊臣秀吉にとっては非常に頼りになった存在。2人は両輪となり、豊臣政権を支えたのでした。

加藤清正の関連作品

加藤清正が登場する作品や、主人公にした作品は数多く存在します。この項目では加藤清正にまつわる関連作品を紹介します。

おすすめ書籍・本・漫画

加藤清正

加藤清正を主人公にした歴史小説です。豊臣秀吉に重用され、戦国武将として台頭する加藤清正の生涯を描きます。子供や小猿を可愛がるなど、加藤清正の意外な一面も垣間見える作品です。加藤清正だけでなく、豊臣秀吉の一連の戦いなども掘り下げられており、この時代の武将達の動向を知る事も可能です。

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加藤清正―朝鮮侵略の実像

豊臣秀吉の政策の中で、批判される事の多い朝鮮侵略。加藤清正はその先鋒として活躍しましたが、果たして一連の行動は正しかったのでしょうか。本書は朝鮮侵略の歴史的な意義と、加藤清正の動向に迫った一冊。より加藤清正の実像を知りたい人におすすめです。

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加藤清正―築城と治水

加藤清正は一連の戦績だけでなく、築城や治水にも手腕を発揮しました。加藤清正は為政者としても優れていた事がわかる一冊です。

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おすすめの動画

【漫画】加藤清正の生涯を10分で簡単解説!【日本史マンガ動画】

様々な歴史上の人物の生涯をわかりやすく解説するマンガ。加藤清正の生涯を映像で観る事で、その勇猛さと波瀾万丈な生き方が見えてきます。

おすすめの映画

関ヶ原

2017年に放映された映画です。舞台は関ヶ原の戦いであり、主人公は石田三成演じる岡田准一です。加藤清正を演じるのは松角洋平ですが、戦場にはいないため、あまり登場しません。関ヶ原の戦いの動向がわかる良い映画です。

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おすすめドラマ

新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜

2022年に放送されたテレビドラマです。戦国武将のクローン高校生が集う高校で行われる「旗印戦」。織田信長を演じるのは永瀬廉。加藤清正を演じるのは須賀健太でした。作中で須賀健太はクローン秀吉と旗印戦で闘いますが、豊臣秀吉の機転に敗れています。

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真田丸

2016年に放送された大河ドラマです。本作の加藤清正は出世を重ねる豊臣秀吉に複雑な心境を抱きつつ、石田三成ともある程度、親交があるように描かれています。本作では加藤清正の死因は暗殺とされており、二代目・服部半蔵に毒針を刺され、数ヶ月後に死亡しました。

人気のある作品ですが、加藤清正を演じたのが新井浩文の為、今後も再放送される見込みは薄いでしょう。

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加藤清正についてのまとめ

今回は加藤清正の生涯を解説しました。幼い頃から豊臣秀吉に仕え、彼が亡くなった後も豊臣秀吉を想い豊臣秀頼と徳川家康の仲介に尽力する。加藤清正は勇敢なだけでなく、財務官僚としての資質も備えた戦国武将でした。仮に加藤清正がその後も存命なら、徳川幕府のあり方や熊本の統治は大きく様変わりしていたのかもしれません。

今回の記事を通じて加藤清正について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/加藤清正

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