徳川家康は織田信長、豊臣秀吉とともに戦国三英傑の一人に挙げられています。「織田がつき/羽柴がこねし天下餅/座して食らうは徳の川(座りしままに食うは徳川)」という江戸時代後期の落首に見られるように、三英傑の中で最も若く、最も長生きした家康が最終的に天下人となり、265年間に及ぶ江戸幕府の基礎を築きました。
この記事では、家康の生涯を概観したのち、業績や名言、エピソードなどを紹介し、家康の人物像を考察します。
徳川家康とは?
徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した大名です。信長と結んで勢力を広げ、本能寺の変後は秀吉に仕えました。秀吉の死去後に関ヶ原の戦いで勝利を収め、征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。群雄割拠の戦国時代に終止符を打ち、平和で安定した社会を築いた業績が近年高く評価されています。
生まれ
家康は1542年に、松平家八代目の松平広忠と、刈谷城主水野忠政の娘である於大(おだい)の間に生まれました。
室町時代のはじめに時宗の遊行僧となった徳阿弥が三河国で地元の豪族、松平信重の婿となり、還俗(僧になった者が僧籍を離れ、俗人に戻ること)して松平親氏と名乗るようになりました。この親氏が松平家の祖とされています。
松平家は三代目信光の時代に大きく勢力を広げ、七代目清康の時代に三河国を支配する大名となりました。
徳川家のルーツは、清和源氏の末裔である新田氏の支族、得川氏とされていますが、信ぴょう性には疑いがあります。家康が征夷大将軍に就く前、将軍の位にふさわしい源氏の子孫であることを証明するために、吉良家から家系図を買ったとも言われています。
性格
家康は幼くして母と別れ、父も家臣によって殺されてしまい、少年時代のほとんどを人質として過ごしました。そのためか、長じてのちも自分の内心を他人に明かすことがなかったと言われています。
家康は「海道一の弓取り」と称えられるほど武勇に優れ、芸事よりも実学を好みました。生薬にもくわしく、薬作りを趣味としていました。家康が所有した南蛮胴(西洋の鎧を日本式に改造したもの)や南蛮時計が残されており、家康の新しもの好きな一面がうかがえます。
家康は信長の命令によって正室の築山殿と嫡男の信康を死なせることになったり、信長亡き後は秀吉に仕えたりなど長い忍従の時を過ごし、ようやく征夷大将軍の地位に就いたときにはすでに62歳になっていました。どんな状況でも感情に流されず、自分の時代が来るのを忍耐強く待ち続けた家康が結果的に天下を取ったというのが歴史の真実です。自分を抑える自制心こそ、家康の最大の強みといえるのではないでしょうか。
死因
1616年1月、鷹狩りに行った家康は体調を崩し、4月に死去しました。家康の死因としては、鷹狩りの際に食した鯛の天ぷらにあたったという説や胃がんを患っていたという説があります。享年75歳で、当時としては長寿でした。
徳川家康の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1542年12月26日 | 岡崎城にて誕生。幼名は竹千代。 |
1544年 | 母の於大が離別される。 |
1547年 | 尾張の織田信秀のもとへ人質として送られる。 |
1549年 | 父広忠が家臣によって殺害される。今川義元の人質として駿府へ送られる。 |
1555年 | 元服し、松平次郎三郎元信と名乗る。 |
1558年頃 | 名を元康と改める。 |
1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたため、岡崎城に帰還する。 |
1562年 | 尾張の清須城にて織田信長と同盟を結ぶ。 |
1563年 | 名を家康と改める。 |
1566年 | 姓を松平から徳川に改める。 |
1572年 | 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗する。 |
1579年 | 正室の築山殿を謀反の疑いで殺害させ、嫡男の信康を自害させる。 |
1585年 | 豊臣秀吉の妹、朝日姫を正室に迎える。 |
1590年 | 関東への移封を命じられ、江戸城に入る。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破る。 |
1603年 | 征夷大将軍に任ぜられる。 |
1605年 | 三男秀忠が征夷大将軍に就く。 |
1607年 | 駿府城に移る。 |
1614年 | 大坂冬の陣。 |
1615年 | 大坂夏の陣で豊臣家滅亡。 |
1616年 | 駿府城で死去。 |
徳川家康の人物エピソード
諸将の居並ぶ前でオシッコ
家康は少年時代、人質として駿府の今川義元のもとで過ごしました。公家や今川氏の一族、諸将らが新年の挨拶に義元を訪れたときのことです。当時7歳の家康は居並ぶ諸将の面前で、庭に向かってオシッコをしました。
皆が眉をひそめる中、武田信虎(信玄の父)だけは、「肝の太い子供だ」と笑ったと言われています。
石合戦を見て、勝敗を言い当てる
駿府に流れる安倍川では、毎年5月5日に子供たちが川を挟んで石を投げ合う石合戦が行われていました。家康が9歳頃のとき、家臣に連れられて石合戦を見に行きました。一方の側が300人ほどいるのに対し、もう一方はわずか150人ほどしかいませんでした。それを見た家康は、家臣に「人数が少ない側が勝つ」と言いました。
結果は、家康の予想通りになりました。なぜ少ないほうが勝つとわかったのかと家臣が聞いたところ、家康は「人数が多いと数に頼る気持ちが出てくる。少ないほうは団結して必死に戦う」と答えました。人の心の有り様を、家康が幼い頃から見抜いていたことを表すエピソードです。
敵に城門を開く
1572年の三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍勢に大敗した家康は、命からがら浜松城に逃げ帰りました。武田の追撃を受けたら全滅必至という状況の中、家康は家臣にある命令を下します。「城門を開いて庭にかがり火をたけ」。家康を追ってきた武田の武将たちは不可解な状況を警戒し、城を攻撃せずに引き上げていきました。
絶体絶命のとき、一歩間違えれば死は免れないという大胆な手を打って事態を打開するところに、家康の天下人にふさわしい胆力がうかがえます。
方広寺鍾銘事件
豊臣秀頼が方広寺を再建した際、家康は梵鐘に刻まれた銘文の中の「国家安康/君臣豊楽」という言葉が、家康の名を分断し豊臣氏の繁栄を祈願していると非難しました。家康は豊臣氏側の釈明に一切耳を傾けず、大坂城攻撃を開始しました。
家康は豊臣に天下を奪われるのではないかという不安を抱えており、豊臣氏攻撃のきっかけをうかがっていました。最終的に大坂の陣で豊臣氏を完膚なきまでに滅亡させたことからも、家康の用心深く、時に冷徹な性格が垣間見えます。
徳川家康が行った偉業
江戸の町づくり
関東はもともと北条氏の支配下にありましたが、秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡。家康は秀吉の命令により、旧北条領である関東8国を治めることになりました。
1590年、家康は太田道灌が築城した江戸城に入り、江戸の町づくりに取りかかりました。
家康入城前の江戸は、広大な低湿地の寒村にすぎませんでした。家康は神田山を掘り崩して豊島州崎を埋め立て、日本橋から新橋に至る市街地を造成。また、大名たちを動員して江戸城の大改築を行いました。
江戸の町を水害から守るため、家康は江戸湊に注いでいた利根川を渡良瀬川へ合流させる大工事を行い、江戸の人々の飲用に神田上水道を整備しました。
幕藩体制の確立
徳川家の支配を盤石にするため、家康は有力大名たちの力を削ぐことに注力しました。御手伝普請として大名たちに江戸城の改築や市街地の拡張を行わせたほか、一国一城令を出して一つの国につき一つの城以外は破却するよう命じました。家康は大御所となってからも、大名の統制を目的に武家諸法度を発布させるなど、幕府の力の強大化に努めました。
諸大名による戦乱がなくなったことにより、人々は「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」と呼ばれる平和を享受し、町人による文化が大きく発展しました。
金山の開発と貨幣流通の促進
家康は冶金術に優れた大久保長安に命じて、伊豆鉱山や佐渡金山、大森銀山などを開発させ、大量の金銀を手中に収めました。早い段階から貨幣経済の重要性に気づいていた家康は1596年に秀吉から貨幣鋳造の許可を得ると、1601(慶長5)年に慶長小判を発行。金座や銀座を設置し、両を基軸に金、銀、銭の基本通貨が併行流通する三貨制度を定めました。
朝鮮との国交回復
豊臣秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮に侵攻して以来、朝鮮との国交は断絶していました。家康は幕府政権の安定のために朝鮮との和平交渉を望み、対馬藩の宗氏に交渉を命じました。宗氏の尽力により、朝鮮人捕虜の返還などを経て1607年に朝鮮からの使節団が派遣され、国交が回復しました。
街道の整備
家康は関ヶ原の戦いで勝利したのち全国の街道の整備に着手し、まず東海道に宿駅伝馬制度を敷きました。街道沿いに宿駅を設けて乗り継ぎ用の馬「伝馬」を用意したことにより、宿場ごとに人や馬が交代して書状や荷物を届けることができるようになり、人や物の往来が活発になりました。
徳川家康の名言
重荷が人をつくる。身軽足軽では人はできぬ。
ここでいう重荷とは、責任とも言い換えられるでしょう。楽なほうに逃げず、つらい重荷を引き受けてこそ人は成長していくという家康の実感がこもっているのではないでしょうか。
人生に大切なことは、五文字で言えば「上を見るな」、七文字で言えば「身の程を知れ」
驕り高ぶることを戒め、常に謙虚であることを重視した家康らしい言葉です。
器物は何程の名物にても肝要の時用に立たず、宝の中の宝と云うは人にて留めたり
ある日秀吉が諸侯に、それぞれが大切にしている宝は何かと尋ねました。大名たちが自分の宝を自慢する中で、家康は「どれほどの宝物であっても肝心なときには役に立たない。私にとって宝は家臣たちです」と言ったと伝えられています。
家臣を大事にする家康のもとには、酒井忠次・本田忠勝・榊原康政・井伊直政の徳川四天王をはじめ優れた武将たちが集まり、家康の天下取りを支えました。
徳川家康の遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり
家康が遺訓として残した言葉です。長い不遇の末に天下をつかんだ家康は、忍耐こそ最も大切な資質だと身に染みて感じていたのでしょう。
徳川家康にゆかりのある寺院・神社・墓
増上寺
家康は1616年に75歳で死去する際に、「駿河久能山に埋葬すること、葬礼は江戸増上寺において行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること、一周忌が過ぎたら下野日光山に小堂を建てて勧請すること。これによって関八州(関東)の鎮守となろう」と遺言しました。
芝大門にある増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、1393年に建立されました。家康が増上寺を菩提寺に指定したのは、当時の住職に深く帰依していたためと言われています。増上寺には歴代の将軍15人のうち、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍が埋葬されています。
久能山東照宮
久能山にはもともと武田信玄が城を構えていました。武田氏が滅亡したのちは徳川家の所有となり、家康の遺言に従って東照宮が創建されました。
日光東照宮
家康が祭神として祀られている神社です。家康は遺言通り、久能山に葬られたのち日光の東照社に移されました。東照社は1645年に宮号宣下を受け、東照宮と呼ばれるようになりました。
東叡山寛永寺
家康の信任厚い天海大僧正によって、天台宗の関東の本寺として1625年に建立されました。江戸城の鬼門の守りとして上野忍ヶ岡に建てられ、創建時の年号をとって寛永寺と命名されました。東叡山とは比叡山延暦寺に対し、東の比叡山という意味です。
寛永寺は将軍家の菩提寺であり、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十一代家斉、十三代家定の6人の将軍がここに埋葬されています。
徳川家康の子孫や子供について
長男「信康」(1559~1579)
正室築山殿との間に生まれた嫡男で、妻は織田信長の娘である徳姫です。しかし徳姫が「信康が築山殿と共に謀反を企んでいる」という手紙を父信長に送ったことがきっかけで、切腹を命じられました。
次男「結城秀康」(1574~1607)
小牧・長久手の戦いのあと11歳のときに羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀康と名乗りました。次いで17歳のときに結城家の養子となり、結城秀康と名乗るようになりました。
秀康は関ヶ原の戦いでの武勲を認められ、越前一国を与えられる大大名となりました。家康の重臣である本多正信に「武勇絶倫、知謀淵深」と称賛され、領国でも善政を敷いた秀康でしたが、34歳で病没しました。
三男「秀忠」(1579~1632)
秀忠は12歳のときに秀吉に謁見し、秀吉の手によって元服しました。このとき秀吉は自分の名前から秀の一字をとって秀忠という名を与えました。
本来であれば次男の秀康が跡継ぎとなるところでしたが、家康は秀康を秀吉のもとへ養子に出し、三男の秀忠を二代将軍に選びました。家康がわずか二年で将軍職を秀忠に譲ったのは、今後将軍職は徳川家が世襲するということを内外にアピールするためだったと言われています。
四男「松平忠吉」(1580~1607)
徳川四天王の一人、井伊直政の娘婿にあたります。関ヶ原の戦いで初陣を飾り、武勲をあげて清洲を与えられましたが、ほどなく病を得て28歳で亡くなりました。忠吉は嫡子を残さなかったため、弟の義直が清洲藩を継ぎました。
五男「武田(松平)信吉」(1583~1603)
母は武田氏の家臣の娘で、松平家一族で同名の松平信吉と区別するため武田信吉と呼ばれます。穴山武田氏の断絶後に名跡を継ぎましたが、信吉は若くして嫡子を残さず亡くなったため武田家は再び断絶しました。
六男「松平忠輝」(1592~1683)
浜松城で生まれ、伊達政宗の娘と結婚して越後・信濃両国を支配する大大名となりました。しかし忠輝は大坂夏の陣に遅参するという失態を犯したうえ、忠輝の家臣が秀忠の家臣三名を切り捨てるという事件を起こしたことで家康に勘当され、領地を没収され25歳で伊勢朝熊へ流されます。忠輝は92歳まで生きましたが、生涯復帰を許されることはありませんでした。
七男「松平松千代」(1594~1599)
生後間もなく長沢松平家を継ぎましたが、わずか6歳で死去しました。
八男「松平仙千代」(1595~1600)
徳川十六神将の一人、平岩親吉の養嗣子となりましたが幼くして亡くなりました。
九男「徳川義直」(1600~1650)
関ヶ原の戦いの直後に誕生した義直は4歳で甲府を、8歳で尾張清洲城を与えられ、尾張徳川家の祖となりました。
十男「徳川頼宣」(1602~1671)
わずか2歳で常陸国を与えられたのち、駿河・遠江・東三河に転封されました。秀忠の時代に紀伊に転封され、紀州徳川家の祖となりました。
頼宣が大坂夏の陣で先陣に間に合わずくやしがる姿を見て、松平正綱が「まだ若いのだからこれから機会がある」と慰めたところ、「頼宣十四歳の時がまたあると思うか」と言葉を返し、その言葉に家康が喜んだというエピソードが伝えられています。
十一男「徳川頼房」(1603~1661)
7歳のとき水戸に領国を与えられ、水戸徳川家の祖となりました。文武両道を誇り、優れた手腕で水戸藩の基礎を築きました。