【幕末の風雲児】高杉晋作の生涯と人物像|名言・偉業・死因も解説

 

(高杉晋作、出典ウィキペディア

 

本州の西の端、長門・周防国に存在した長州藩(現在の山口県)に、幕末維新の時代「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と呼ばれた風雲児がいました。
彼の名前は高杉晋作(たかすぎしんさく)と言い、わずか27年の生涯を新時代の幕開けのためにのみ駆け抜けました。
いまだにその破天荒さと豪快な生き方が愛されている高杉晋作の人生をまとめてみました。

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高杉晋作の簡単プロフィール

高杉晋作の誕生

高杉晋作の誕生

(萩市晋作広場・高杉晋作立志像、出典ウィキペディア

高杉晋作は1839年9月27日(天保10年8月20日)、長門国萩城城下(現在の山口県萩市)の200石取り長州藩士・高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)の長男として誕生、母はみちと言います。
父・小忠太は第11代藩主・毛利斉元(もうりなりもと)の小姓として出仕してから側用人、小納戸役、奥番頭、直目付へと出世を重ね、最後は大監察までのぼりました。
ここから見ても高杉晋作はエリート官僚の跡継ぎという立場で、いわゆるお金には苦労しないお坊ちゃん育ちだったと想像できます。

高杉晋作の評判

高杉晋作の評判

(S&WNo.2・高杉晋作が坂本龍馬に譲った銃、出典ウィキペディア

高杉晋作が歴史の表舞台に登場してからこの世を去るまで、5年ほどの時間しかありませんでした。
しかし、彼に接した人物はその影響を多大に受けたようで、その印象を数多く残しています。
土佐藩出身で陸援隊にも参加した後の陸軍少将、宮内大臣も勤めた田中光顕(たなかみつあき)は「自分は維新三傑(西郷隆盛木戸孝允大久保利通)をことごとく知っている。また坂本(龍馬)、武市(半平太)、中岡(慎太郎)その外、多くの名士先輩に接している。しかしながら、聳然(しょうぜん)として一頭地を抜いているものは高杉である」と語っており、高杉晋作の師に当たる吉田松陰(よしだしょういん)は「有識の士なり。しかし、学問をつとめず。またすこぶる意に任せ自ら用うるの癖あり(才能溢れる人物だが勉強をしない。非常に我が強くなんでも自分でやってしまう傾向がある)」と塾生に語っており、世に出る前からその才能は認められていたようです。

高杉晋作の最期

高杉晋作の最期

(高杉晋作の墓所・下関市吉田、出典ウィキペディア

1866年(慶応2年)7月から始まった第二次長州征伐で海軍総督として戦闘指揮を行った高杉晋作ですが、すでにこの頃には肺結核を患っていました。
以前から微熱が出たり咳き込んだりと明らかに結核の症状があったそうですが、残念ながらこの時代の肺結核は不治の病でした。
このため長州海軍旗艦・丙寅丸(へいいんまる)に乗船している時も九州上陸後も作戦会議は必ず高杉晋作の寝所近くで行われたといわれており、この時点で健康面の不安は相当大きくなっていたようです。
戦争終結後は下関市新地町の林算九郎宅の離れで、妻・まさに看病されながら静養していましたが、1867年(慶応3年)5月17日、27歳8ヶ月という若さで死去しました。

高杉晋作の人生年表

1839年(天保10年)9月27日

高杉晋作、長州藩萩城城下に生まれる。

1852年(嘉永5年)

藩校・明倫館に入学。
この頃、柳生新陰流も学び免許皆伝となる。

1857年(安政4年)

松下村塾に入学。
久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれる。

(史蹟・松下村塾、出典ウィキペディア)

(史蹟・松下村塾、出典ウィキペディア

 

1858年(安政5年)

江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。

1859年(安政6年)

安政の大獄吉田松陰が処刑される。

1860年(万延元年)11月

井上平右衛門次女・まさと結婚。

1861年(文久元年)3月

海軍修練のため丙辰丸(へいしんまる)で江戸へ留学し、神道無念流練兵館道場へ入門。

1862年(文久2年)5月

薩摩藩士・五代友厚(ごだいともあつ)らと藩命で上海へ渡航し。
帰国後、尊攘運動に参加し外国公使襲撃を企てるも事前に露見し、謹慎処分となる。

1862年(文久2年)12月12日

同志と品川の英国公使館焼き討ちを決行、強制的に長州へ戻される。

1863年(文久3年)5月

下関事件、長州海軍は壊滅的打撃を受ける。

1863年(文久3年)6月

廻船問屋の白石正一郎(しらいししょういちろう)邸奇兵隊結成、高杉晋作が初代総督となる。

1863年(文久3年)9月

教法寺事件によって奇兵隊総督を罷免される。

1863年(文久3年8月18日)9月30日

八月十八日の政変(文久の政変)
長州藩は京都を追放される。

1864年(文久4年)1月

高杉晋作、長州藩を脱藩。
桂小五郎の説得で帰藩するも投獄、のちに謹慎処分。

1864年(元治元年7月19日)8月20日

禁門の変(蛤御門の変、元治の変)
長州藩は朝敵となる。

(蛤御門、出典ウィキペディア )

(蛤御門、出典ウィキペディア

1964年(元治元年8月5日)9月

四国艦隊下関砲撃事件
長州藩は惨敗、高杉晋作は和議交渉のために謹慎処分を解かれる。

1864年(元治元年7月23日~12月27日)

8月24日~翌年1月24日
第一次長州征伐
長州藩政を幕府への恭順派(俗論派)が握ったため、高杉晋作は福岡へ逃亡。

1864年(元治元年)12月

福岡から帰国後、俗論派排斥のため功山寺で挙兵し、翌年3月には藩の実権を握る。

1865年(元治2年)1月11日

高杉家を廃嫡され、藩命で谷潜蔵を名乗る。

1865年(元治2年)4月

下関開港政策が反感を買い、命を狙われたため四国へ逃亡し、6月に帰藩。

1866年(慶応2年)1月21日

薩長同盟が締結

1866年(慶応2年)5月

薩摩行きの途中、長崎で蒸気船・丙寅丸(オテントサマ丸)購入。

1866年(慶応2年)6月

第二次長州征伐
海軍総督として丙寅丸(へいいんまる)から戦闘指揮をとる。

1866年(慶応2年)7月20日

14代将軍・徳川家茂死去、7月30日には肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤退し、8月1日には小倉藩も退却し、第二次長州征伐は幕府の敗戦が決定的になる。

1867年(慶応3年4月14日)5月17日

下関市桜山で肺結核のため死去、享年29歳。

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高杉晋作の人柄がわかるエピソード

英国公使館焼き討ち事件

英国公使館焼き討ち事件

(歌川広重・御殿山、出典ウィキペディア

1862年(文久2年)5月、藩命によって幕府使節随行員として上海へ渡航した高杉晋作は、欧米の植民地化が進む清国の実情や太平天国の乱を見聞したことにより大きな影響を受け、帰国後、桂小五郎久坂玄瑞らとともに尊攘運動に身を投じます。
この攘夷活動のなかで高杉晋作は、「薩摩藩はイギリス商人を斬殺して(生麦事件)攘夷を実行しているのに、我が長州藩は未だにその実をあげていない」と論じ、自分達で攘夷を決行しようと最初は
武蔵国金澤で外国公使の刺殺を計画しますが、計画が漏れ謹慎処分を受けます。

しかし、謹慎程度で高杉晋作が反省するわけもなく、1862年(文久2年)12月12日、日米修好通商条約調印が幕府の違勅
であることを口実に久坂玄瑞、井上馨伊藤博文らを引き連れて、品川御殿山に建設中であったイギリス公使館(ほぼ完成していた)を放火、全焼させました。
意気揚々と引き上げた高杉晋作でしたが、藩上層部は高杉のこれ以上の過激行動をおそれて長州へ召喚しました。
薩摩への対抗心を剥き出しにし、幕府を恐れることなく行動に移す、高杉晋作の性格を端的に表した事件と言えます。

下関戦争の講和交渉

下関戦争の講和交渉

(オテル・デ・ザンヴァリッド所有・馬関戦争で押収した大砲、出典ウィキペディア

1864年(文久4年)8月、関門海峡における長州藩による外国艦船に対する砲撃に、業を煮やしたアメリカ、フランス、イギリス、オランダの4か国は、連合艦隊を編成し下関を砲撃、砲台のあった彦島や下関に上陸し各所を占拠しました。
1863年の下関事件、1864年の四国艦隊下関砲撃事件によって艦船にも砲台にも大打撃を受けた長州藩は戦闘不能となり、講和を申し出ます。
この講和の使者となったのが、脱藩の罪で謹慎処分となっていた高杉晋作でした。
毛利家家老・宍戸親基の養子・宍戸刑部と称して四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んだ高杉晋作は、キューパー司令官との談判に望みます。
相手が出してきた条件のほとんどを反対することなく受け入れた高杉晋作でしたが、4か国が出した彦島租借に関しては断固拒否しました。
高杉晋作は清国が列強への土地の租借から侵略を許した事をよく知っており、租借の件に関しては首を縦に振ることはありませんでした。
関門海峡の通航の自由、石炭・食物・水など必要品の売却、悪天候時の船員の避難、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの条件を長州藩が受諾して講和は成立しました。
なお、賠償金300万ドルに関しては外国船への砲撃が幕府の命令であったことを理由に、徳川幕府に請求されることになりました。
近年の研究で彦島租借の件を拒否したと言う説は、信憑性に疑いがあると言われています。
ただ、謹慎処分中であるにも関わらず外国との交渉に高杉晋作が全権を委任されて指名されたことは、その経験と度量、そして物怖じしない度胸が買われたことはもちろん、どれだけ藩内で信頼されている立場であったかの証明でもあります。

高杉晋作の功績

奇兵隊の創設

奇兵隊の創設

(長州奇兵隊隊士・出典ウィキペディア

奇兵隊は1863年(文久3年)、下関戦争後に高杉晋作をはじめとする松下村塾出身者らの発案で創設された長州藩正規常備軍の1つで、力士隊、遊撃隊等と共に長州藩諸隊と呼ばれました。
高杉晋作たちは徳川幕府のもとで堕落してしまった武士階級よりも、農民や町人
を始めとするあらゆる階級の有志の者を集めようと考え、被部落差別の人さえも登用しました。
隊士には藩から給金が支給され、当初はばらばらであった軍服も徐々に統一され、1868年(慶応4年)6月には身分や出身に関係なく羅紗の生地で軍服も統一されます。
奇兵隊は当初、外国艦隊からの国土防備が主目的で、本拠地は結成された廻船問屋の白石正一郎邸に置かれていましたが、後に赤間神宮へ移されました。
また初代奇兵隊総督には高杉晋作が就任しましたが、3ヶ月後に起こった教法寺事件の責任を取らされて罷免されています。
なお、奇兵隊の軍事訓練は後の初代兵部大輔(現代の省庁次官級に当たる役職)で、実質的な日本陸軍創始者である大村益次郎(おおむらますじろう)が担当していました。

功山寺挙兵(回天義挙)

功山寺挙兵(回天義挙)

(功山寺境内にある挙兵銅像、出典ウィキペディア

1864年(元治元年7月)8月、禁門の変(蛤御門の変)により京都を追放され、馬関戦争によって海軍と砲台を失った長州藩に対して、徳川幕府は兵力15万にも及ぶ征長軍の派遣を決定します。
この知らせを受けた長州藩では、ここまで藩政を主導してきた尊皇攘夷派である正義派と、幕府に恭順を示し正義派を排除して藩政を握ろうとした椋梨藤太(むくなしとうた)が率いた俗論派の対立が激化し武力衝突まで発展します。
正義派の中心人物であった周布政之助(すふまさのすけ)が禁門の変の責任を一身に背負って切腹、井上聞多(後の井上馨)が俗論派に襲撃され瀕死の重傷を負ったため、正義派の力が弱まり正義派が占めていた藩の要職を次々と俗論派に奪われ、藩主・毛利敬親 (もうりたかちか)、元徳 (もとのり)親子も俗論派の言いなりとなります。
藩政を握った俗論派は幕府に恭順の意を示すために、正義派三家老の福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させます。
また正義派の影響力が強い長州藩諸隊へも解散命令が出されます。
正義派の運命が風前の灯となり、諸隊も藩政庁に恭順する状況になっても高杉晋作一人は俗論派との交戦を主張し、周囲の説得も受け入れず、12月14日を決起の日と決め準備に入ります。
決起と決めた翌日の1865年(元治元年12月15日)1月12日、功山寺に集まったのは
高杉晋作にしたのは伊藤俊輔(後の伊藤博文)率いる力士隊と石川小五郎(後の河瀬真孝)率いる遊撃隊などわずかに84名だったと伝えられています。
しかしこの後、高杉らには民衆の支持が集まり、軍資金の寄付や志願兵は増え続けました。
翌月には奇兵隊や御楯隊などの長州藩諸隊も続々と決起し、大田・絵堂、赤村の戦いで俗論派が派遣した鎮静軍を撃破し形勢を逆転、山口の民衆も高杉らを積極的に指示し続々と兵に志願する者や荷役を引き受ける者が後を絶たず、俗論派は急速にその支持を失います。
藩主親子が反意して長州藩諸隊を支持する側に回ると、もはや時流は高杉の方へ完全に傾き、5月には椋梨藤太が斬首されるに至り、俗論派は完全に壊滅しました。
もし高杉晋作が功山寺で挙兵しなかったら、薩長同盟を中心とした明治維新は起こらず、日本の近代化は何十年と遅れたことでしょう。

「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」
吉田松陰にこう教えられた高杉晋作は、功山寺挙兵が死ぬほどの価値ある場面だったから、すべての反対を振り切って決起したのかもしれません。

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高杉晋作が後世に残した大きな爪痕

第二次長州征伐・四境戦争

第二次長州征伐・四境戦争

(坂本龍馬作成とされる長州征討図、出典ウィキペディア

第一次長州征伐以降、幕府の老中や若年寄などの高級官僚は、フランスなどの後ろ楯を受けて非常に強気な対長州政策を行おうとし、再度の長州征討を行おうとしました。
これに対して長州藩は薩長同盟を締結し、これを仲介した土佐の坂本龍馬を通して武器を購入、長州藩諸隊の隊士の兵数も熟練度も充実し、戦争に対する準備を着々と進めました。
高杉晋作は征討に備えて長崎で蒸気船「丙寅丸」(へいいんまる、購入時はオテントサマ丸)も購入しています。
1866年(慶応2年)6月7日、幕府艦隊による屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、芸州口・小瀬川口、石州口、小倉口でも順次戦闘が開始されました。
幕府軍が周防大島(屋代島)へ上陸、占拠すると長州も大島へ第二奇兵隊らの派兵を決定し、高杉晋作も丙寅丸へ乗船して大島へ向かい、丙寅丸は大島沖に停泊する幕府海軍の八雲丸や翔鶴丸などの鉄製蒸気船へ夜間接近してこれらに砲撃を仕掛けると、すぐにその場から撤収しました。
幕府の艦船が丙寅丸を追いかけようと蒸気機関を暖めますが、その頃には遠く離れてしまって、捕まえることはできませんでした。
15日には長州兵が大島へ上陸し17日には島の奪還に成功します。
このあと丙寅丸に乗船する海軍総督・高杉晋作率いる長州海軍は、小倉口の戦闘へ参戦し小笠原長行(おがさわらながみち)率いる幕府軍と対峙します。

小倉戦争・赤坂・鳥越の戦い

小倉戦争・赤坂・鳥越の戦い

(赤坂の戦いの後建てられた長州奇兵隊戦死墓、出典ウィキペディア

最新最大の木造蒸気船・富士山丸を筆頭に圧倒的な戦力を誇る幕府海軍を擁しながら、幕軍総督・小笠原長行はなぜか九州側から長州への渡海進行作戦を躊躇していました。
これには戦意の乏しい九州諸藩の戦力が信じられなかったのと、小笠原長行自身の資質に問題があったようです。
この間に長州軍は九州側の田野浦と大里への上陸作戦を成功させ主導権を握ります。
敵に上陸を許しても幕府軍の動きは鈍く、ほとんどの藩が動こうとせず、佐賀藩に至っては出兵自体を拒否します。
このため小笠原長行は自藩である小倉藩単独で戦闘を継続しますが、長州軍に押され防戦一方となっていました。
ところが7月27日に始まった小倉戦争最大の激戦となった赤坂・鳥越の戦い(現在の北九州市小倉北区付近)では、肥後藩・細川氏の軍が参戦して一気に長州軍を押し返し、戦闘を有利に進めます。
しかしこの期に及んでも小笠原長行は優柔不断で消極的な戦法しか取らないため、肥後藩を始めとする九州諸藩の小笠原長行への不満は頂点に達し、戦線から離脱するとそのまま自国へ帰還してしまいます。
味方が全くいなくなった小笠原長行は14代将軍・徳川家茂の死去を口実に戦場から離脱し、小倉藩は自身の手で小倉城に火を放ち撤退します。
しかし、小倉藩家老職の島村貫倫(しまむらつらとも)は小倉藩兵を組織し直して香春(福岡県田川郡)を拠点にして終戦まで徹底交戦しました。
第二次長州征伐は幕府軍の撤退と言う事で終戦を迎え、事実上長州軍の勝利となります。
第二次長州征伐では石州口の戦闘を指揮し、多大や戦果をあげた大村益次郎と小倉への上陸作戦を指揮し、小倉藩を撤退させた高杉晋作の二人が最大の功労者となりました。

高杉晋作の名言

「死後に墓前にて、芸妓御集め、三弦など御鳴らし、御祭りくだされ」

1865年(元治元年12月15日)1月12日、藩政を牛耳る俗論派を妥当するために、下関市長府にある功山寺で挙兵しました。このときともに立ち上がったのはわずかに84名。死を覚悟していた高杉晋作は遺書を白石正一郎の末弟である大庭伝七に託しました。その遺書の中にあったのがこの一説です。
死んだあとに墓の前で芸妓さんを呼んで賑やかに騒いでくれとは、高杉晋作らしい豪気な話です。

「死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。両三年は軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい。その中には英雄の死すべき時が必ず来る」

高杉晋作が奇兵隊を創設し、初代総督に就任していた頃、土佐の中岡慎太郎とともに薩長同盟締結の説得に赴いてきていた田中光顕が、高杉晋作の惚れ込み弟子入りしたときに本人から直接聴いた言葉です。
高杉晋作は英雄として生きようとし、英雄として死のうと考えていたようです。そしてこの言葉通り、短い我が生涯を格好よく思い通りに走り抜けたのでした。

高杉晋作ゆかりの場所と品々

高杉晋作ゆかりの寺院・功山寺

高杉晋作ゆかりの寺院・功山寺

(功山寺仏殿、出典ウィキペディア

山口県下関市長府にある長州藩の支藩だった長門府中藩の菩提寺です。
1327年(嘉暦2年)に臨済宗の寺院として創建されますが室町時代に衰退し、1602年(慶長7年)長府藩主・毛利秀元が曹洞宗の寺院として再興した事が長府藩との縁となります。
八月十八日の政変において京都を追放された七卿のうちの五卿京三条実美(さんじょうさねとみ)ら五卿が滞在したり、高杉晋作が俗論派打倒のために挙兵した場所として、長州藩幕末の歴史を伝えています。
またここには、京都寺田屋で京都奉行所の役人に踏み込まれた坂本龍馬を槍と機転で奇跡的に脱出させ、その命を救った長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)の墓所もあります。

高杉晋作ゆかりの神社・赤間神宮

高杉晋作ゆかりの神社・赤間神宮

(赤間神宮・水天門、出典ウィキペディア

山口県下関市にある壇之浦の合戦で入水した安徳天皇を祀っています。
もともとは859年(貞観元年)に建立された阿弥陀寺だったところに、1191年(建久2年)勅命により御影堂が建てられたことから、安徳天皇の御陵として明治22年認定されました。
1863年(文久3年)に高杉晋作が中心となって創設された奇兵隊は当初、結成場所であった廻船問屋の白石正一郎(しらいししょういちろう)邸を本拠地にしていたが、隊士が増え広い敷地が必要となったことなどを理由に赤間神宮に拠点を移しました。
なお奇兵隊創設に尽力した白石正一郎は明治維新後に赤間神宮の2代目の宮司となっています。

高杉晋作ゆかりの刀・安芸国佐伯荘藤原貞安

高杉晋作ゆかりの刀・安芸国佐伯荘藤原貞安

(高杉晋作に刀を譲った田中光顕、出典ウィキペディア

高杉晋作はその行動や言動のイメージとは異なり大変小柄な人物だったようですが、剣術は柳生新陰流免許皆伝、神道無念流練兵館道場でも修行したほどの腕前で、いつもまわりが驚くほどの長い刀を腰に差していたそうです。
その高杉晋作の刀に関して一つ逸話が残っています。
薩長同盟締結を説得に土佐から中岡慎太郎と田中光顕がやって来たとき、高杉晋作は二人の話にはほとんど耳を貸さず、田中光顕の差料(刀のこと)ばかりを気にしていました。
高杉晋作は我慢できずに田中光顕に差料を見せて欲しいと頼み、しばらく無言で見つめたあと、素晴らしい刀だと告げ田中光顕に差料を譲って欲しい言い出しました。
田中光顕の差料は安芸国佐伯荘藤原貞安という刀で、田中が苦労して薩摩藩士・梶原鉄之助から手にいれた物でした。
高杉晋作は中岡慎太郎にも田中光顕に譲るように口添えを頼み、田中に何度も頼みますが、田中は手に入れたときの苦労を思いだし断りました。
しかし、高杉晋作は諦めず繰り返し譲るように頼むため、根負けした田中光顕は弟子にしてくれる事を条件として、田中光顕を弟子にすることには抵抗のあった高杉晋作もしぶしぶ承諾し、藤原貞安を手に入れました。
高杉晋作はこの刀を非常に気に入ったようでわざわざこの刀を手に取った写真を撮影しています。

高杉晋作ゆかりの拳銃・S&Wモデル2

高杉晋作ゆかりの拳銃・S&Wモデル2

(薩長同盟締結頃の坂本龍馬、出典ウィキペディア

薩長同盟の功労者で高杉晋作とも何度も密談や膝詰め談判をしたと思われる土佐藩の坂本龍馬
功山寺の項でも記述した三吉慎蔵が活躍した寺田屋事件で、坂本龍馬が撃ちまくって自身を守った拳銃・S&W(スミス&ウェッソン)モデル2アーミー32口径という拳銃は、実は高杉晋作が坂本龍馬に譲ったものなのです。
この拳銃は高杉晋作が、1862年(文久2年)5月に藩命で清国上海へ渡航したときに購入した2丁のうちの一つで、1866年(慶応2年)薩長同盟締結のため京都へ向かう途中に下関へ立ち寄った坂本龍馬に高杉晋作が手渡しました。
坂本龍馬は薩長同盟成立後すぐの1月23日に、寺田屋へ伏見奉行所の役人に踏み込まれているため、高杉晋作が渡した拳銃がなければ、役人に捕縛されていた可能性もありました。
このあとの坂本龍馬の活躍を考えれば、この拳銃は日本の歴史に大きな影響を与えたとも言えます。
ちなみにこの拳銃は寺田屋事件で全弾撃ち尽くしたあと、坂本龍馬が指を怪我したために紛失しており、その行方は今もって不明になっています。

高杉晋作の墓・東行庵

高杉晋作の墓・東行庵

(高杉晋作の墓がある東行庵、出典ウィキペディア

山口県下関市にある功山寺の末寺である東行庵に高杉晋作は眠っています。
1867年(慶応3年4月)に死去した高杉晋作の遺言で、奇兵隊の本拠地近くのこの寺に埋葬されました。
1966年には境内に東行記念館が建設され、高杉晋作や奇兵隊関連の展示が行われていましたが、保存環境の問題などで展示が取り止めになるなど、いまだに完全な形での高杉晋作記念館の機能は果たしていません。
なお、高杉晋作は大村益次郎や木戸孝允によって靖国神社にも合祀されています。

高杉晋作の子孫

1865年(元治2年)1月11日付で高杉晋作は高杉家を廃嫡となり、高杉の家は父・高杉小忠太の三女・光の婿である養子の春棋が継ぎました。
高杉晋作と妻・マサとの間には東一(とういち)と言う息子がおり、3歳で父・晋作を病気でなくしますが、父の功績による授爵(爵位を授かること、貴族になること)を断り外交官として活躍、東一の跡を継いだ春太郎は陸軍に従軍後、商社マンとして活躍、春太郎の子息である勝(まさる)は大成建設に就職されており、今も高杉晋作の血は脈々と現代にも息づいています。

高杉晋作まとめ

わずか28年足らずの短い人生の中、まさに太く短くを地で行った長州男児・高杉晋作。
短くとも彼が歴史に残した爪痕は、後世の我々が見ても潔く格好よく、真似をしたくても出来ないような生き方です。
最後に高杉晋作と重要な場面でもっもと行動を共にした初代内閣総理大臣となる伊藤博文が高杉晋作を評した言葉で締めたいと思います。
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」

参考文献

田中光顕「維新風雲回顧録 」河出書房新社

山岡荘八「高杉晋作」講談社

下関市立長府博物館ホームページ
http://www.shimohaku.jp/page0102.html

※執筆にあたり参考にさせていただいた文献及びホームページです。

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