北条政子とはどんな人?生涯・功績・名言・死因・子孫を解説

北条政子は鎌倉末期から平安時代に活躍した女性です。彼女の夫は日本で初めて武家政権を築いた源頼朝でした。やがて源頼朝の直系子孫が絶えた時、北条政子の生家である北条家が幕府内で大きな力を持ち始めますが、その時に大きな影響を与えたのが北条政子でした。

北条政子は学校の教科書でも必ず習う女性ですが、その生涯や人物像については詳しく知らない人も多いでしょう。彼女は2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のキーパーソンでもあり、現在大きな注目を集める人物です。今回は北条政子の生涯や功績、人物像について解説していきます。

北条政子のプロフィール

北条政子のプロフィール

菊池容斎による北条政子 出典:Wikipedia

 

北条政子は、伊豆国の豪族である北条時政の長女として生まれます。彼女の出生日は不明なものの、1177年頃に源頼朝と結婚。当時は平清盛に対する不満が全国で燻っており、1180年に源頼朝も挙兵します。

1185年の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、時を前後して源頼朝は鎌倉に武家政権(鎌倉幕府)を樹立。北条政子の生家である北条家も幕府で大きな影響力を持ちました。源頼朝が1199年に死去すると、北条政子は出家して尼御台と名乗りました。

やがて1219年に3代将軍の源実朝が暗殺されると、北条家は名実共に幕府の実権を握り、北条政子は尼将軍と呼ばれます。後鳥羽上皇による承久の乱が没発した時、幕府は大きな衝撃を受けるものの、北条政子の演説が皆の心を繋ぎ止め、鎌倉幕府はこれに勝利しました。

北条政子は鎌倉幕府の創設と、北条氏による幕府体制の構築に多大なる影響を与えたのでした。

氏名 不明
通称・あだ名 北条政子・尼将軍・尼御台
出生日 保元2年(1157年) 頃
出生地 伊豆国
死没日 嘉禄元年(1225年)7月11日
死没地(亡くなった場所) 不明
血液型 不明
職業 政治家
身長 不明
体重 不明
配偶者 源頼朝
座右の銘 不明

北条政子の人生年表・生涯

北条政子の人生年表

保元2年(1157年)頃 北条政子誕生
平治元年(1160年) 源頼朝が伊豆に配流される
治承元年(1177年) 源頼朝と婚姻
治承4年(1180年) 源頼朝の挙兵
元暦2年(1185年) 壇ノ浦の戦い 鎌倉幕府が創設される
建久8年(1197年) 大姫の死去
建久10年(1199年) 源頼朝死去
元久2年(1205年) 牧氏事件
建保7年(1219年) 源頼朝の暗殺
承久3年(1221年) 承久の乱
嘉禄元年(1225年) 北条政子死去

 

北条政子の生涯①

北条政子の生涯①

赤色の部分が伊豆国 出典:Wikipedia

 

北条政子は保元2年(1157年)頃に伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれます。当時は平清盛が影響力を持ち始めた時代です。平治元年(1160年)に勃発した平治の乱源義朝藤原信頼は平清盛に敗北し、源頼朝の三男である源頼朝は伊豆国に流罪となります。その源頼朝の監視役に選ばれたのが北条時政でした。

北条政子と源頼朝は10歳程歳が離れていたものの、北条政子は源頼朝に強い好意を寄せるようになります。2人が結婚したのは治承元年(1177年)の事でした。当時の馴れ初めは諸説あるものの、『源平盛衰記』によると2人の関係を知った北条時政は結婚に反対し、北条政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしたそうです。北条政子は、山木兼隆の邸へ輿入れされる前に屋敷を抜け出し、源頼朝の元に走りました。

結果的に北条時政は2人の結婚を認められ、治承2年(1178年)には第一子である大姫が生まれています。当時は平清盛が圧倒的な力を持つ時代でしたが、各地で平家に対する不満が燻ってもいました。北条時政は「打倒平家」の大きな対抗勢力として、北条政子と源頼朝の婚姻を認めたのかもしれません。

北条政子の生涯②

北条政子の生涯②

壇ノ浦の戦い 出典:Wikipedia

 

治承4年(1180年)に以仁王が「打倒平家」を掲げて源頼政と挙兵を起こすと、最終的に源頼朝も挙兵のために立ち上がります。源頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃して、戦いに勝利するものの、続く石橋山の戦いで惨敗。この戦いで北条政子の兄である北条宗時も戦死しました。北条政子は源頼朝の無事を祈る不安な日々を過ごしたのです。

源頼朝は無事に戦いを生き延び、源氏ゆかりの地である鎌倉に入ります。北条政子も伊豆国から鎌倉に移り住み、源頼朝を補佐します。源頼朝は関東を手中に収め鎌倉殿と呼ばれるようになり、妻である北条政子は御台所と呼ばれるようになりました。

源義経や源範頼らが平家との戦いを続ける中、源頼朝は武士による政権を作るための地固めを実施。元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する中で、鎌倉幕府は徐々に形作られていきました。

源頼朝は公家や皇室と結びつきを強めようとする中、建久10年(1199年)に急死。その2年前に娘の1人である大姫も20歳で亡くなっています。北条政子の悲しみは大きく「自分も最期だと思った」と思ったものの、年端もいかぬ子供たちの事を考えて、生きる道を選びました。

北条政子の生涯③

北条政子の生涯③

承久の乱の戦地となった場所 出典:Wikipedia

 

源頼朝亡き後は、源頼朝の長男・源頼家が将軍になるものの、源頼家に対する不満は増えていき、老臣による十三人の合議制という制度が幕府に設けられました。当然といえば当然ですが、老臣同士で権力争いが起こり、元久元年(1204年)に源頼家が幽閉の末に暗殺されます。

元久2年(1205年)に父親の北条時政も失脚。やがて北条義時と北条政子は幕府内で強い影響力を持ち、北条義時は執権となりました。源頼家の次の将軍は、源頼朝と北条政子の次男である源実朝が就任します。ただ源実朝は建保7年(1219年)に暗殺されると、源頼朝の直系の男子はいなくなりました。

北条義時は摂関家から藤原頼経(源頼朝の同母妹坊門姫の孫)を連れてきて、新たな将軍に迎え入れます。ただ藤原頼経は当時は僅か2歳の幼児で、政治の実権は北条政子が担う事になり、北条政子は「尼将軍」と呼ばれました。

一方で承久3年(1221年)頃から、皇権の回復を画策する後鳥羽上皇と鎌倉幕府の仲は険悪化となり、同年に承久の乱が勃発します。後鳥羽上皇の挙兵を聞いた鎌倉の御家人は同様するものの、北条政子は御家人達に向けて「とある演説」を行い、彼らの心を1つにしました。

結果的に承久の乱は鎌倉幕府の圧勝に終わり、後鳥羽上皇は島流しになります。鎌倉幕府は皇室も監視下に置く事に成功し、名実共に武家政権としての歩みを進めていったのです。

北条政子の生涯④

北条政子の生涯④

英雄百首に描かれている北条泰時 出典:Wikipedia

 

貞応3年(1224年)に北条義時が急死します。次期執権は長男の北条泰時が有力候補でしたが、北条義時の後室である伊賀の方が実子の北条政村を次期執権になるよう画策もしました。

北条政子は伊豆の方と結束しようとした三浦義村に、北条泰時が次期執権になる事を説得。更に伊豆の方を伊豆国に追放もしています。これは自らの地位を守る為に行われた北条政子による陰謀説も根強いようです。

北条政子は晩年まで北条政子の立場の維持と、幕府の安定の為に行動を続けたのでした。

北条政子の死因と最期

北条政子の死因と最期

北条政子の墓と伝わるやぐら 出典:Wikipedia

 

北条政子は嘉禄元年(1225年)に病となり、69歳で死去したと伝わっています。源氏三代、そして北条義時など、周辺人物たちの多くは不審な死を遂げてはいるものの、北条政子については、暗殺説を主張する人はいません。

当時としてはかなりの高齢なので、北条政子の死は純粋に病死や年齢によるものと考えて良いでしょう。北条政子の戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼であり、北条政子の墓は鎌倉市にある寿福寺に存在しています。

北条政子の性格と人物像エピソード

執念深い性格だった?

執念深い性格だった?

三大悪女の1人である淀君 出典:Wikipedia

 

北条政子は、淀君日野富子と共に「日本三大悪女」と評される事があります。北条政子にそのような評価が下されているのは、北条政子がとても執念深い性格だった事が挙げられるでしょう。

北条政子は治承元年(1177年)に源頼朝の正妻になりました。当時は身分の高い武士や貴族は、一族の繁栄や子孫を残す為に複数の妻を持つ事は極めて自然な事でした。養和2年(1182年)に北条政子が2人目の子供を妊娠すると、源頼朝は亀の前という女性を寵愛するようになります。

これに激怒した北条政子は、北条時政の後妻の兄に亀の前が住んでいた伏見広綱の邸宅を打ちこわすように命じています。家を破壊された亀の前はからくも逃げ出すものの、北条政子の怒りは収まらず、伏見広綱は近江国に流罪となったのです。

源頼朝は同年に兄・源義平の未亡人を妻にする事を考えていたものの、その身内が北条政子の報復を恐れて婚姻を取り止めさせています。北条政子は当時の人達も恐れる程に嫉妬深い性格だったのです。

全ては北条氏の繁栄のため?

全ては北条氏の繁栄のため?

源頼朝の花押 出典:Wikipedia

 

嫉妬深いとされる北条政子ですが、亀の前や晩年の伊豆の方に対する熾烈な対応は、北条氏の繁栄のためだったともされます。北条政子は治承元年(1177年)に婚姻したものの、とうじの北条氏の基盤は弱いものでした。他の有力な一族の娘が源頼朝に寵愛されれば、源頼朝を擁立して立場の向上を図っていた北条一族の作戦が崩れる可能性があったのです。

いずれにせよ北条政子の嫉妬深い性格に、源頼朝も恐れおののく事があったのは間違いないようです。

北条政子は本名ではなかった

北条政子は本名ではなかった

紫式部も本名は分かっていない 出典:Wikipedia

 

実は歴史上、北条政子が自分の事を「北条政子」と呼んだ事実は確認されていません。「政子」という名前は、建保6年(1218年)に北条政子が朝廷から従三位の位を授与された時に、北条時政の名前をとって付けられた名前なのです。

平安時代は名前には特別な意味合いがあり、特に女性においては自分の名前を外部に名乗る事はタブーとされていました。その為、当時の女性達の多くは名前がわかっておらず、それは「北条政子」も同様でした。一応、『真名本曾我物語』「万寿」、更に室町時代の『仮名本曾我物語』「朝日」という幼名は記載されているものの、信憑性は不明です。

私達が当たり前のように周囲に伝える名前も、平安時代には違った意味があったのですね。

北条政子がやったこと・功績

源頼朝の妻となる

源頼朝の妻となる

源頼朝が配流された蛭ヶ小島 出典:Wikipedia

 

北条氏は伊豆国の1豪族に過ぎず、平家が台頭する状況下に歴史に登場するような家柄ではありませんでした。そんな北条氏が歴史の表舞台に登場出来たのは、北条政子が源氏の嫡流たる源頼朝と結婚したからに他なりません。

当時の源頼朝は流人に過ぎない立場であり、武力や兵力というものはほとんど持っていませんでした。源頼朝は平家や朝廷に対する勢力として武力を欲し、北条氏は源氏の嫡流である源頼朝を擁立する事で、強い影響力を持ったのです。

北条時政も最初からこのような計画を立てていたわけではないでしょう。全ては北条政子が源頼朝の事を好きになり、その思いを遂げようとした事が発端だったと言えるのです。

鎌倉幕府の支配権を固める

鎌倉幕府の支配権を固める

北条政子の讒言で幽閉された源範頼 出典:Wikipedia

 

源頼朝は結果的に鎌倉幕府を創設しましたが、その過程には様々な勢力の思惑が存在しており、幕府も決して一枚岩ではありませんでした。北条政子は鎌倉幕府、そして北条氏の支配権を固める為に、様々な行動を続けています。

源頼朝の身内は源義経をはじめ、源平合戦で多くが命を落としました。しかし弟の源範頼は無事に生き残り、幕府内で強い影響力を持っていました。ただ源範頼は、建久4年(1193年)に源頼朝が暗殺されたと誤報が入り、北条政子がそれを嘆いた時に、「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた事が源頼朝の逆鱗に触れて幽閉されています。

一説では源範頼の発言を源頼朝に伝えたのは、北条政子であり、幕府における不穏分子を排除する為に行われたものと言われているのです。

1199年に源頼朝が亡くなった後は、源頼家が将軍になるものの、御家人との対立は激化。建仁3年(1203年)には比企能員の変が起こり、源頼家側の有力な勢力は滅亡させられますが、幕府側として兵を動かしたのは北条時政と北条政子でした。

間もなく源頼家は幽閉させられ、翌年に暗殺。この時点で源氏と北条氏の力加減は完全に逆転しました。北条政子は北条一族が幕府で力を持つ為には、たとえ実子であっても容赦はしなかったのです。

承久の乱での名演説

承久の乱での名演説

後鳥羽上皇 出典:Wikipedia

 

鎌倉幕府初期の最大の山場は、後鳥羽上皇が挙兵した事によって勃発した承久の乱でした。武士が朝廷に逆らうなど、当時はあり得ない事であり、鎌倉幕府の御家人達は大きな同様を受けています。この時に御家人の心を繋ぎ止めたのが北条政子だったのです。

北条政子は「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い」「秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ」と御家人を鼓舞し、御家人達の不安を取り除きました。結果的に承久の乱は幕府の圧勝に終わりますが、それは北条政子が御家人の団結心を一つにした事に他なりません。

北条政子は、源頼朝との婚姻から晩年に至るまで、様々な功績を残している事が分かりますね。

北条政子の名言

北条政子の名言

2代目将軍・源頼家 出典:Wikipedia

 

「景盛を討つと言うならば、まず私を矢で射なさい。」

この名言は、2代目将軍であり実子だった源頼家が、家臣である安達景盛の妾を奪うという事件が発端です。安達景盛が源頼家を恨んでいると知った時に、源頼家は比企氏や和田氏などの家臣に景盛を討つよう命じたのですが、その時に北条政子は上記の発言をしたのです。

北条政子は安達景盛を宥め、謀叛の意思のない起請文を書かせつつ、一方で源頼家を重ねて訓戒する事で騒ぎを収めさせています。北条政子が胆力もあり、機転も利く女性である事がよく分かる名言です。

「武家の跡取が鹿を獲ったぐらいで騒ぐことではない」

建久4年(1193年)に源頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを行います。この時に源頼家が鹿を射っており、源頼朝は歓喜してその様子を北条政子に伝えたものの、北条政子は上記のように言い放ったとされます。当時は鹿は神の使いとされており、鹿を射ったという事は、源頼家が源頼朝の後継者である事を人々に認めさせる効果がありました。

源頼朝はそういった背景を込めて、北条政子に喜びを伝えたのかもしれませんが、北条政子としては遊びの延長程度にしか考えていなかったのかもしれません。ただ源頼朝亡き後の源頼家は人々に認められる事はなかったわけで、源頼朝の喜びもまた儚く見えてきます。

北条政子の家族や子孫

北条政子の家系図

北条政子の家系図

歌川芳虎による北条時政 出典:Wikipedia

 

北条氏は伊豆国の豪族の一族ですが、北条時政以前の系譜は系図により全て異なる為、はっきりしていません。北条氏は、桓武平氏高望流の平直方の子孫を称していますが、それを疑問視する声もあります。

北条時政の時代に北条氏は歴史の表舞台に躍り出るものの、兄弟や従兄弟が北条時定以外は歴史に出てきません。ある意味で北条氏は、日本史最大の成り上がりの一族と言えるのです。

源頼朝

源頼朝

源頼朝像(足利直義説あり) 出典:Wikipedia

 

源頼朝は北条政子の夫になった人物で、河内源氏の七代目に当たります。血統としては武士の棟梁として申し分ない人物であり、武士政権を作る上では「その血筋」は役に立ったと言えるでしょう。

彼らの一族は戦いに明け暮れており、父や兄弟、そして自らの子どもの多くは暗殺や戦死。畳の上で死ぬ事が出来たのは、源頼家と三男貞暁のみとされています。ただ源頼朝についても、その死については疑問な点も多々あり、暗殺されたと主著する人も少なくありません。

北条政子と源頼朝は恋愛結婚で結ばれたのは事実ですが、時代のうねりは彼らの人生を大きく狂わせたのかもしれません。

北条政子の子供

北条政子の子供

3代目将軍・源実朝 出典:Wikipedia

 

北条政子と源頼朝の間には、2人の息子と2人の娘が生まれました。しかし長男の源頼家と次男の源実朝は後に暗殺。実朝に実際はおらず、頼家の子供達も暗殺や自害などで誰1人も子孫を残しませんでした。

娘2人も若くして亡くなっており、源頼朝と北条政子の子供は僅か2代で絶えています。北条氏はその後も精力を拡大しますが、それらは北条義時の子孫にあたります。娘2人も暗殺されたという説もあり、新たな考証が待たれるところですね。

北条政子のゆかりの地

安養院

安養院

安養院 出典:Wikipedia

 

安養院は鎌倉にある浄土宗の寺院です。この寺は長楽寺・善導寺・田代寺という3つの寺院が前身にあり、長楽寺が建立されたのは嘉禄元年(1225年)の事。晩年の北条政子が源頼朝の菩提を弔う為に建立したのが由来でした。ちなみに名前の由来は北条政子の法号です。

長楽寺は鎌倉幕府が崩壊した元弘元年(1333年)に、焼失したものの、大町にあった善導寺と統合されました。最終的に現在の寺院となったのは江戸時代の事です。

住所:神奈川県鎌倉市大町3-1-22

寿福寺

寿福寺

寿福寺 出典:Wikipedia

 

寿福寺は北条政子が正治2年(1200年)に建立した寺院です。寿福寺の付近は源氏家父祖伝来の地とされており、源頼朝の父親である源義朝の旧邸宅もこの地にありました。源頼朝もこの場所に館(幕府)を構えようとしたものの、既に岡崎義実が義朝の菩提を弔う為に堂宇を建立していたので、計画を変更した経緯がありました。

源頼朝が死去した時、北条政子はこの地に寿福寺を建立しますが、それは源頼朝に対する弔いも敬意の念があったのかもしれません。寿福寺は1247年(宝治3年)と1258年(正嘉2年)に火事で消失しており、復興されたのは南北朝時代の事とされます。

また境内裏手には墓地があり、そこには陸奥宗光高浜虚子などの墓があり、更に奥のやぐらには源実朝と北条政子の墓も存在しています。

住所:神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7

北条政子の関連人物

北条義時

北条義時

承久記絵巻に描かれた北条義時 出典:Wikipedia

 

北条義時は鎌倉幕府の2代目の執権で、北条政子の同母弟にあたる人物です。姉の北条政子が源頼朝と結婚した事で、北条義時も源頼朝の挙兵に参加。否応なく時代のうねりに巻き込まれていきます。

北条義時は北条政子と共に父親である北条時政と対立し、北条時政を鎌倉から追放した後に鎌倉幕府を掌握。承久の乱の直前には、幕府を掌握した北条政子の使者として上洛し、後鳥羽上皇と交渉に当たっています。結果的に承久の乱で鎌倉幕府は圧勝し、幕府と朝廷の立場は完全に逆転。北条政子と北条義時は40年近くにわたり、協力し合いながら幕府の体制を作り上げたのでした。

源義経と静御前

源義経と静御前

源義経 出典:Wikipedia

 

源義経は源頼朝の弟にあたる人物で、源平合戦で大きな功績を残した人物です。源義経は後に源頼朝と対立し、文治5年(1189年)に藤原泰衡に攻められて自害しました。源義経は戦地に赴く事が多かった為、両者の接点はそれほどありません。

葛飾北斎による静御前 出典:Wikipedia

葛飾北斎による静御前 出典:Wikipedia

 

源義経には静御前という妾がいたものの、自害前の文治2年(1186年)3月に別れています。静御前は後に鎌倉に送られ、源頼朝に白拍子の舞を命じられるものの、源義経を慕う歌を歌った為に源頼朝の怒りを買う事になりました。しかし北条政子は源頼朝に「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と静御前を庇う発言をしています。

ちなみに静御前は源義経の子供を妊娠しており、女児なら助けるが、男児なら殺すと命じられていました。結果的に生まれたのは男児であり、子供は水に沈められています。それを憐れんだ北条政子は、静御前に多くの褒美を与えて京に帰しています。静御前と北条政子のエピソードは、悪女と呼ばれた北条政子にも優しさがあった事を示しているのです。

北条政子の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

北条政子

この作品の著者はこの時代の理解が深く、なおかつ女性の視点で物事を描くのが得意です。北条政子を主人公にした作品は多々ありますが、この作品は新たな北条政子像を作り上げたのではないでしょうか。北条政子の小説としておすすめの一冊です。

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執権 北条氏と鎌倉幕府

鎌倉幕府の創設や、鎌倉幕府初期の内部抗争には北条氏の暗躍があった事は明白です。北条政子と源頼朝が夫婦になった背景には、北条氏のとてつもない野望とビジョンがあったのかもしれません。

本書は2代目執権・北条義時と、8代目執権・北条時宗を中心に、鎌倉幕府における北条氏について考察しています。北条氏についてより詳しく知りたい方におすすめの一冊です。

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北条時政と北条政子―「鎌倉」の時代を担った父と娘

北条政子と源頼朝についてまとめた本はたくさんありますが、北条政子と父・北条時政に主眼を置いた書籍は珍しいと言えます。伊豆の豪族に過ぎなかった北条時政ですが、彼は何を思い、北条政子を源頼朝の妻にする事を認めたのでしょうか。本書を読めば彼らの覚悟が見えて来るかもしれません。

おすすめの動画

オリエンタルラジオの中田敦彦になるyoutubeチャンネル。こちらでは北条政子の生涯を分かりやすく、そして中田敦彦独自の視点で解説しています。

おすすめの映画

富士に立つ若武者

1961年に放送された作品であり、源頼朝が伊豆に流されてから、挙兵するまでの期間を描いた作品です。源頼朝を演じたのは二代目・大川橋蔵、北条政子を演じたのは三田佳子でした。源平合戦のプロローグとした流罪中の源頼朝が描かれる事は多いものの、この時代の源頼朝の心理状態を中心に描いた作品は少ないと言えます。

現在はビデオしか存在しないものの、Amazon primeなどで放送されると良いですね。

おすすめドラマ

鎌倉殿の13人

2022年放送の大河ドラマです。主人公は天皇に叛いた悪人とされる北条義時ですが、北条政子も準主役と呼ぶにふさわしい立ち位置となっています。北条義時を演じるのは小栗旬北条政子を演じるのは小池栄子です。殺伐としたこの時代の中に、三谷幸喜らしさが詰まっている作品と言えるでしょう。

平清盛

2012年に放送された大河ドラマであり、主人公の平清盛を演じたのは松山ケンイチ、北条政子を演じたのは杏でした。視聴率的には振るわず、賛否両論ある作品でしが、好きな人はとことんハマる内容になっています。

源頼朝と北条政子が結婚を決める場面と、鹿ヶ谷の陰謀に激怒する平清盛という対比はこの作品でも随一の名場面です。時代的には鎌倉殿の13人より前なので、こちらの作品も視聴しておくと、歴史的な背景が理解しやすいかもしれません。

草燃える

1979年に放送された大河ドラマであり、源頼朝と北条政子のダブル主演的な作品です。北条政子を主人公にする動きもあったものの、当時は大河ドラマに女性の主人公を起用した事がなく、源頼朝が前半の主人公になった経緯がありました。源頼朝を演じたのは石坂浩二、北条政子を演じたのは岩下志麻です。

北条政子については幕府内の抗争や、朝廷との対立に翻弄されながらも、尼将軍としての地位と風格を備えていく人物として描かれています。古い作品ではあるものの、この時代を描いた作品としては随一の名作なので、鎌倉殿の13人と対比して観るのも良いでしょう。

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北条政子についてのまとめ

今回は北条政子について解説しました。北条政子は源頼朝の妻として鎌倉幕府の創設に尽力し、源頼朝亡き後は北条家の重鎮として、鎌倉幕府における北条氏の立場の向上に努めました。悪女と称される事のある北条政子ですが、その真意は何だったのかは今では分かりません。

ただ言える事は北条政子は日本の歴史に多大なる影響を与えたという事であり、男性に負けない程の豪傑だったという事でしょうか。今回の記事を通じて北条政子の生涯や人物像に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北条政子

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