アインシュタイン博士の生涯と人物像まとめ!発明・名言・死因・IQは?

『特殊相対性理論』で知られるアインシュタインは世界で最も有名な学者と言っても過言ではありません。舌を出したアインシュタインの有名な写真を見たことのない方はいないでしょう。ボサボサ髪の印象的な風貌は世界中の人々に強い印象を与え、その後エンターテインメント作品などでの「博士」キャラクターのモデルになったともいわれます。
本記事では、アインシュタインの生涯や名言、功績、人物エピソードなどを紹介し、世界の歴史を変えた天才の人物像に迫ります。

アインシュタインとは?


出典:Wikipedia

アインシュタインはドイツ出身の理論物理学者で、1921年度のノーベル物理学賞を受賞しました。『特殊相対性理論』や『一般相対性理論』など、ニュートン以来の物理学を根本から覆す論文を発表し、現代物理学の父とも称されます。
第二次大戦中にアメリカのルーズベルト大統領に原子力の軍事利用を促し、その後の原子爆弾開発の先鞭をつけました。ユダヤ系のアインシュタインはユダヤ人の国であるイスラエルの建国にも協力しており、第二代イスラエル大統領就任の要請もありました。
戦後、アインシュタインは核兵器廃絶や世界連邦の樹立に尽力するなど、平和活動に力を注ぎました。

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アインシュタインの生涯


出典:Wikipedia

アルベルト・アインシュタインは1879年3月14日、ヘルマン・アインシュタインと妻パウリーネの長男として、ドイツ南部の都市ウルムに生まれました。1880年に一家はミュンヘンへ移住し、アインシュタインは同地のルイトポルト・ギムナジウムに入学しました。その後父ヘルマンの事業が傾いたため、1894年に家族は新天地を求めてイタリアのミラノへ移住しました。一人ミュンヘンに残されたアインシュタインも結局ギムナジウムを休学し、家族を追ってミラノへ移りました。

1895年、アインシュタインはスイスのチューリヒ工科大学の入学試験を受けますが、教養科目の出来がふるわず不合格に。大学入学の条件として、アーラウにあるギムナジウムに編入しました。
1896年に晴れてチューリヒ工科大学に入学。1900年に大学をクラス5人中4番目の成績で卒業し、翌年にスイス国籍を取得。最初の論文を発表します。
卒業後、アインシュタインは大学に職を探しますがうまくいかず、友人の紹介でベルンの特許局に就職しました。1903年に大学の同級生だったミレヴァ・マリッチと結婚し、二人の息子に恵まれました。

1905年はアインシュタインの学問的インスピレーションが最も冴えわたった驚異の年とも呼ばれ、重要な『光量子の理論』『ブラウン運動の理論』『特殊相対性理論』、質量とエネルギーの関係式E=mc^2に関する論文を発表しました。
アインシュタインはチューリヒ工科大学の助教授を経て、1911年にチェコのプラハ大学の教授になります。この年に『一般相対性理論』の最初の論文を発表。世界の一流研究者が集うソルベイ会議にも招かれています。
1912年に母校チューリヒ工科大学の教授となり、翌年にはプロイセン科学アカデミー会員に選ばれ、ドイツ国籍を授与されました。1915年に『一般相対性理論』を完成させます。

1919年にミレヴァと離婚し、従妹のエルザ・レーベンタールと再婚しました。この年に、皆既日食の観測結果から『一般相対性理論』が実証されています。
1922年にノーベル物理学賞を受賞し、来日して各地で講演を行いました。

1933年にナチスの迫害を避けてアメリカへ渡ったアインシュタインはプリンストン高等研究所の教授となりました。第二次世界大戦が始まると、アインシュタインはアメリカのルーズベルト大統領に新型爆弾の開発を勧める手紙を送りました。1940年にはアメリカ国籍を取得。1955年4月18日、アメリカのプリンストンで76年の生涯を閉じました。。

アインシュタインの人物エピソード


出典:Wikipedia

「ぼんやりした子」と言われていた幼少期

アインシュタインは言葉を話し始めるのが遅く、2歳を過ぎるまで言葉を発することがありませんでした。そのため家政婦から「ぼんやりした子」と呼ばれていました。大きくなってからも、学校の友達と遊ぶより妹と遊んだり、ヴァイオリンでモーツァルトの曲を弾くなどして一人遊びすることを好みました。近年の研究では、アインシュタインはアスペルガー症候群だったと考えられています。
4、5歳の頃、アインシュタインは父親にもらった方位磁針が同じ方向を向くことに強い興味を示しました。終生消えることのなかったアインシュタインの物理学への情熱は、この時から始まったと言えます。

天才も就職に苦労

学生時代のアインシュタインは勤勉な学生とは言えず、その生意気ともとれる態度によって教授陣からも嫌われていました。大学卒業後、アインシュタインは助手として大学に残ることを望んでいましたが、採用されなかったため他に就職口を探さなければなりませんでした。アインシュタインは代理教員や家庭教師などで糊口をしのぎましたが、長続きはしませんでした。
いよいよ行き詰ったとき、大学時代の親友がベルンの特許局に仕事を見つけてくれました。特許局に就職できたことは、アインシュタインにとって結果的にプラスとなりました。彼は2~3時間で仕事を片づけた後、物理学の論文を執筆していました。特殊相対性理論やE=mc^2など主要な5つの論文を発表したのも、特許局に勤めている時期でした

子供たちにも大人気

大天才なのに気取らず、親しみやすい人柄のアインシュタインは子供たちからも大人気でした。アインシュタインは、世界中の子供たちから寄せられる手紙に返事を書くこともありました。数学に苦労しているという女の子からの手紙に対し、「心配いりません、私の数学の悩みのほうが深刻ですから」とユーモアを交えて返しています。

アインシュタインがアメリカで暮らし始めてからも、近所の子供たちは隣の天才に興味津々でした。近所に住む8歳の少女アデレードは一皿のお菓子を持ってアインシュタイン家を訪れ、算数の宿題を手伝ってほしいと頼みました。アインシュタインは快く応じ、何度か宿題を手伝ってあげました。やがてアデレードの母は、娘が世界的に高名な学者に宿題を教えてもらっていることに気づき、謝りに訪れました。アインシュタインは「まったく構いません。お嬢さんが私から学んでいるのと同じくらい、私もお嬢さんから学んでいますから。ところでお嬢さんが私をお菓子で買収しようとしたことをご存知ですか?」と茶目っ気たっぷりに応じたとのことです。

平和運動に尽力

アインシュタインは生来、戦争や軍隊を嫌っていました。第一次大戦が勃発したとき、多くの科学者たちが戦争支持にまわる中で、アインシュタインは戦争反対の声明に署名し、平和主義団体に加わりました
ただ、アインシュタインは絶対的な平和主義者だったとはいえません。1920年代に入りナチスが台頭するようになると、ユダヤ人だったアインシュタインの名がナチスの暗殺対象者リストに挙げられ、ゲシュタポ(秘密警察)に家財を押収されるなどの迫害を受けるようになります。
政権を握ったヒトラーが他国を侵略したりユダヤ人を迫害し始めたりすると、アインシュタインはそれまでの平和主義を一変させてドイツとの戦争を支持しました。ドイツがウランを使った新型爆弾の開発に着手したという情報を得たアインシュタインは、ドイツより早く新型爆弾を開発する必要性を説く手紙をアメリカのルーズベルト大統領に送りました。アインシュタインは原爆開発のマンハッタン計画には直接関わっていませんでしたが、様々な形でアメリカ軍に協力しています。
戦後、原子爆弾が人類を滅ぼす危険性を悟ったアインシュタインは、原子力科学者危機管理員会の初代会長となりますが、その後の核開発競争から冷戦に至る流れを止めることはできませんでした。

アインシュタインの脳の秘密


出典:Wikipedia

アインシュタインが亡くなった後、解剖医のトーマス・ハーヴェイによりアインシュタインの脳が取り出されました。ハーベイはアインシュタインの遺族に許可をとっておらず、取り出したことさえ知らせていませんでした。事実が発覚したのは、ハーベイの息子が学校で「パパがアインシュタインの脳を持っている」と口を滑らせたためです。

ハーヴェイ自身はおよそ40年間もアインシュタインの脳を手元に置き、脳の切片を複数の人々に配布していました。1990年代後半にアインシュタインの脳についての研究が行われ、数的思考力などを司る頭頂葉が通常より15%大きかったことがわかりました。アインシュタインはIQ測定テストを受けていないため正確な数値はわかりませんが、およそIQ160以上だったと推定されています。

アインシュタインと相対性理論


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特殊相対性理論

アインシュタインは特殊相対性理論一般相対性理論の2つの概念を提唱しました。相対性とは、運動はある物体と別の物体と相対的に比較することでしか説明できないということを表しています。1905年、26歳のときに発表した論文でアインシュタインは「光の速度は一定である」「すべての運動は相対的で、運動はふたつの物体を互いに比較することによってのみ説明することができる」と述べました。それらを突き詰めていくと、「早く動く物体の質量(重さ)は増加する」「早く動く物体は時間の流れが遅くなる」「エネルギーと質量(重さ)は等価である」といったことが導かれます。これらはいずれもニュートン以来の物理学では考えられなかったことですが、数々の実験や理論によって、正しいことが証明されています。

一般相対性理論

アインシュタインは、特殊相対性理論の考え方をさらに拡張させました。特殊相対性理論は、物体が同じ速度で、一定の方向に直線で動く場合のみを考えたものです。これに対し一般相対性理論は、物体の速度が変化する、即ち加速したり減速したりする場合を考えたものです。
アインシュタインは、物体の速度の変化を表す「加速度」と重力が等価だと考えました。そして、「光は重力によって曲がる」という考えに行きつくのです。これは、太陽の周りに見える星を日食の時に観測することによって確かめられました。太陽の周りに見える星から発する光は、私たちの目に届く前に太陽の近くを通過するため、太陽の重力を受けてわずかに曲がります。その結果、私たちが見る星の位置と、実際の星の位置はわずかなずれがあります。このずれは、アインシュタインが計算したとおりのずれとなっており、一般相対性理論の正しさが証明されました。なお、光が重力によって曲がる現象は「重力レンズ効果」とも呼ばれます。
なお、ノーベル賞は相対性理論に対してではなく、光電効果についての革新的研究に対して授与されています。

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アインシュタインの研究と功績


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質量とエネルギーの等価性 E=mc^2

アインシュタインの特殊相対性理論の論文の中で導き出されたE=mc^2は、物体の質量(重さ)とエネルギーが等価であることを示したものです。
これは原子爆弾や原子力発電などに代表される核反応エネルギーの基本原理を表す式として知られています。

統一場理論

1920年代中ごろから、アインシュタインは統一場理論の構築に夢中になっていました。統一場理論は、現在では、自然界に存在する4つの力(電磁気力、素粒子に働く2つの力(「弱い力」「強い力」)および重力)を統一的に説明しようとする理論であり、重力を除く3つの力は統一的に説明する理論が構築されています。
アインシュタインは重力と電磁気力を関連付けることができると考え、1929年には論文も発表していますが、後に誤りがあったことを認めています。

アインシュタインにゆかりのある地


出典:Wikipedia

生誕の地、ドイツ

アインシュタインはヴュルテンベルク王国のウルムという町で、ユダヤ人の両親のもとに生まれました。当時ドイツはまだ統一されておらず、ヴュルテンベルクは独立した王国でしたが、現在はドイツ南部に位置するバーデン=ヴュルテンベルク州となっています。
その後アインシュタインは、親の都合や学業、仕事のためにイタリア、スイス、チェコ、ベルギーなどヨーロッパ各地を転々とし、アメリカで最期を迎えました。

才能が開花したスイス

アインシュタインはドイツのギムナジウムの堅苦しく権威主義的な校風を嫌い、先生ともうまくいかず友達もできませんでした。移住先のスイス・アーラウの学校は個人を重んじる自由な校風で、アインシュタインは物理や数学の才能を開花させました。
アインシュタインは兵役を逃れるためにドイツ国籍を捨て、無国籍期間を経て1901年にスイス国籍を取得。チューリヒでの大学生活を経て、ベルンで最初の結婚、就職、論文発表という人生の重大なイベントを経験しました。

家族と眠るアメリカ

1930年代に入り、ユダヤ人を迫害するナチスが権力を握ると、アインシュタイン一家は迫害を逃れてアメリカへ移住しました。アインシュタインはニュージャージー州プリンストンの高等研究所の所長となり、プリンストンのマーサー通りに居を構えました。
アインシュタインはアメリカの自由な雰囲気を好み、1940年にはアメリカ国籍を取得しました。

講演に訪れた日本

高名なアインシュタインにぜひ日本で講演をしてもらいたいと、大手出版社「改造社」の山本実彦社長が中心となり、アインシュタインの来日が実現しました。1922年、アインシュタイン夫妻が日本郵船の船で日本へ向け出航。渡航中にアインシュタインはノーベル物理学賞受賞を知らせを受けました
日本でアインシュタイン夫妻は熱烈な歓迎を受け、日本各地で講演を行いました。

アインシュタインの子供や孫


出典:Wikipedia

アインシュタインは最初の妻ミレヴァ・マリッチと正式に結婚する前に、女の子を一人もうけています。セルヴィア出身のミレヴァは1902年に里帰りして出産し、生まれた女の子はリーゼルと名付けられました。
ミレヴァが里帰りから戻ってきたとき、リーゼルは一緒ではありませんでした。アインシュタイン夫妻は非嫡出子であるリーゼルの存在を公表しておらず、リーゼルのその後の消息はわかっていません。

ミレヴァとの結婚後、アインシュタインは二人の息子をもうけました。1904年に長男のハンス・アルベルトが生まれました。ハンスは長じて水理学者となり、1927年にフリーダ・クネヒトと結婚しました。1939年、ハンスはフリーダと二人の息子を伴い、戦火を逃れてアメリカへ移住しました。ハンスはカリフォルニア大学バークレー校で教職に就き、1973年に亡くなりました。ハンスの次男クラウスはアメリカ移住直後に病死し、長男のベルンハルトは祖父アルベルトと同じく物理学者になり、2008年に亡くなりました。

1910年に生まれた次男のエドゥアルトは、精神科医を目指して医学部に入学しましたが、20歳頃に統合失調症とみられる精神の病を発症します。発症後は終生精神病院で過ごし、1965年に死去しました。

その他、アインシュタインは2番目の妻エルザの連れ子、マーゴットとイルゼを養女にしています。

アインシュタインの名言


出典:Wikipedia

・「私の勉強を邪魔する唯一のものは教育である」

・「私に特別な才能はない。ただ非常に強い好奇心があるだけだ」

・「知的成長は出生と同時に始まり、死によってのみ終わる」

・「何かを達成することの価値は、それを達成する過程にある」

アインシュタインの関連書籍


出典:Wikipedia

『評伝 アインシュタイン』(フィリップ・フランク著・矢野健太郎訳/岩波書店)
『ゼロからわかる アインシュタインの発見』(山田克哉著/講談社現代新書)
『E=mc^2のからくり』(山田克哉著/講談社ブルーバックス)
『ひとはなぜ戦争をするのか』(A.アインシュタイン・S.フロイト/講談社学術文庫)
『アインシュタインの旅行日記 日本・パレスチナ・スペイン』(A.アインシュタイン ゼエブ・ローゼンクランツ編 畔上司訳/草思社)
『アインシュタイン論文選 「奇跡の年」の5論文』(A.アインシュタイン ジョン・スタチェル編 青木薫訳/筑摩書房)
『科学者と世界平和』(A.アインシュタイン 井上健講/談社学術文庫)

参考文献

『アインシュタインと相対性理論』(大森充香訳/丸善出版)
『アインシュタイン』(岡田好恵/講談社火の鳥伝記文庫)
『3分でわかるアインシュタイン』(ポール・パーソンズ著・鹿田真梨子訳/X-Knowledge)

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