独眼竜、伊達政宗とはどんな人?名言・偉業・死因も解説

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仙台藩62万石初代藩主、伊達政宗。伊達家の17代当主として安土桃山から江戸時代初期に活躍した戦国武将で、幼少時に病気で右目を失い、「独眼竜」の異名を取りました。政宗の誕生が10年早ければ天下を目指せたとも語られるほど、名だたる戦国武将の中でも一目置かれた存在であったようです。

生い立ちや、個性的で大胆な数々のエピソードを辿りながら、戦国末期の世を生き抜いた政宗の人生と人物像を探ります。

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伊達政宗とは?

伊達政宗の騎馬像出典:Wikipedia

1987年に放送された大河ドラマ「独眼竜政宗」は、天下取りの夢を諦めきれない政宗の野心、家臣たちとの友情、波乱に満ちた生涯を生き生きと描き、大好評を博しました。現代まで語り継がれる伊達政宗の魅力とはなにか、人生を追っていきます。

生まれ

永禄10年(1567)、伊達政宗は、米沢城主伊達輝宗と、最上義盛の娘・義姫の間に生まれました。政宗の誕生には、伝説のような不思議なエピソードがあります。

優れた男子の誕生を願う義姫の夢に白髪の僧侶が現れ、胎内に宿を借りたいと願い出ました。義姫からその話を聞いた輝宗は、瑞無(縁起の良い夢)だと喜び、翌晩再び夢枕に立った僧侶に対して、義姫はその願いを受け容れます。僧侶は義姫に、神が宿ると言われ祈祷の際に使われる幣束(裂いた麻やたたんで切った紙を細長い木に挟んだもの)を与え消えてしまいます。

この瑞夢の後、義姫は懐妊し政宗が誕生しました。

性格

幼い頃の政宗は「梵天丸」と呼ばれ、好奇心旺盛で聡明だったとされています。大人しく目立つタイプではなかったようですが、病気で右目を失明してしまったことも、引っ込み思案な性格となった理由の一つと考えられます。

家督を相続してからの政宗は、豊臣秀吉からの呼び出しに白の死装束で謁見したという、大胆なパフォーマンスが有名ですが、筆まめで、文芸、能、茶道をたしなむという、教養を身に付けた文化人でした。また、料理も趣味で、自ら厨房に立つなど食にもこだわりがあったようです。

死因

寛永13年(1636)2〜3月の頃から体調が優れなかった政宗は、4月になると母義姫の菩提寺保春院を参拝し、ホトトギスの声を聴こうと城下をめぐる山々を散策します。経ヶ峰にしばらくたたずみ、死後はこの辺に葬られたいと杖を立てました。そこが後の瑞鳳殿となります。

その2日後の4月20日、帰国はかなわぬものと覚悟し、政宗は参勤交代に出発します。病状が悪化しながらも日光に参拝し、28日に江戸桜田の屋敷に入りました。5月1日、徳川家光に拝謁するため登城しますが、政宗の容体を見た家光は、医師を使わし、江戸中の社寺に病気の治癒を祈念させ、自らも政宗を見舞いました。

家光の願いもむなしく、24日早朝、政宗は息を引き取ります。享年70。死因は食道噴門癌による癌性腹膜炎と言われています。

伊達政宗の像

                   出典:Wikipedia

仙台市街を一望できる青葉山公園。政宗が仙台城を築いたこの場所に伊達政宗騎馬像があります。軍馬にまたがり威風堂々とした政宗像が立つ天守台は、多くの観光客が訪れる人気スポットとなっています。現在の騎馬像は2代目にあたり、初代の騎馬像は仙台市博物館で胸像のみ公開されています。

伊達政宗の人生年表

永禄10年(1567)8月3日、伊達家16代当主・輝宗の嫡男として米沢城(山形県)に誕生
天正5年(1577)元服。藤次郎政宗と名乗る
天正7年(1579)三春城主・田村清顕の息女愛姫と結婚
天正9年(1581)父に従い初陣を果たす
天正12年(1584)父、輝宗より家督を譲られ17代当主となる
天正13年(1585)輝宗、畠山義継に拉致され死亡。人取橋の戦いで、蘆名・佐竹連合軍と激突
天正18年(1590)弟小次郎を殺害。豊臣秀吉より命ぜられた小田原征伐への参陣に大幅に遅刻し
尋問を受ける
天正19年(1591)岩出山(宮城県)に移る
文禄2年(1593)朝鮮出陣を命ぜられ釜山に上陸(文禄の役)
慶長3年(1598)豊臣秀吉死去
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こる
慶長6年(1601)仙台城普請。仙台に移る
慶長16年(1611)スペインの宣教師ソテロと対日使節ビスカイノが前後して仙台に来る
慶長18年(1613)支倉常長らを慶長遣欧使節としてスペイン国王、ローマ教皇のもとへ派遣
元和元年(1615)大坂夏の陣に参戦
元和2年(1616)徳川家康死去
元和6年(1620)支倉常長が帰国
元和9年(1623)母義姫死去
寛永5年(1628)若林に屋敷を建て移る
寛永13年(1636)5月24日、江戸屋敷で死去

伊達政宗の人物エピソード

伊達政宗の馬印(左)
出典:Wikipedia

実母に愛されず育つ

幼少時に天然痘を患い右目を失明したことにより、母義姫の政宗に対する愛情は薄れ、弟の小次郎ばかり可愛がるようになります。家督の相続も政宗ではなく小次郎がふさわしいと訴えますが、政宗の優秀さを見抜いていた父輝宗は、家督を政宗に譲ります。

義姫は実家の兄、最上義光とぶつかり合う政宗を疎ましく思っていたのか、食事に毒を盛り、政宗の殺害を企てます。一命を取り留めた政宗は、義姫の代わりに弟の小次郎を自らの手で殺害しました。実の母に殺されかけるなど、政宗のショックはいかほどであったかと想像し難いものがありますが、義姫を罰することができなかったということは、母に対する愛情は消せないものがあったと思われます。

大胆不敵な大芝居

豊臣秀吉からの小田原征伐の出陣命令に、政宗は大幅に遅刻をしてしまいます。秀吉の部下である前田利家や浅野長政から尋問を受けたにもかかわらず、政宗は、千利休から茶の湯の指導を受けたいと申し出、結果秀吉との面会が実現します。秀吉は、自決用の小刀を携え死に装束で現れた政宗の度胸を買ったのか、笑いながら冗談も飛ばしたと言われます。

更に、葛西・大崎一揆で政宗は謀反を疑われ、秀吉から呼び出されます。政宗は本当に死を覚悟したのか、白い死に装束をまとい、行列の先頭には金箔を施した十字架をおしたて入京します。面会した秀吉は、またも政宗の度胸を鑑み、謀反の疑いはないと判断しました。

いずれのエピソードも、政宗の大胆さだけでなく、秀吉自身の出世街道に照らし合わせ、時にハッタリも必要だと認めているからかもしれません。

伊達者の振る舞い

粋でおしゃれな男性のことを伊達者と呼びますが、由来は伊達政宗からだとする説もあります。文禄の役に従軍するため、政宗は伊達家の部隊に派手派手しい武具や旗を持たせ京へ上ります。足軽たちには金箔で星が描かれた具足を身につけさせ、馬にまで虎や熊の毛皮で作られた馬鎧を装着させました。

他の名だたる武将を差し置いて、京の人々の注目は政宗一行に集まったということです。

伊達政宗の家紋

戦国武将にとっての家紋とは、トレードマークであり、決戦ののぼり旗に描き敵味方の区別をつけるなど、重要な役割を果たしていました。政宗はたくさんの家紋を持っていたとされますが、その中からいくつか紹介していきます。

竹に雀(仙台笹)


出典:Wikipedia

伊達政宗の家紋といえば、まずこの仙台笹が有名です。上杉定実より養子縁組の引き出物として、政宗の大叔父にあたる伊達実元へ贈られた上杉笹をアレンジし、仙台笹と呼ばれる形になりました。

三つ引き両

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伊達家の最も古い家紋です。鎌倉時代までさかのぼり、伊達家初代当主伊達朝宗が源頼朝より賜りました。仙台市の紋章は、この三つ引き両から考案されました。

九曜

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中心の大きな星を8つの星が囲むこの家紋は、政宗が細川忠興より貰い受けました。「曜」は星を意味し、その星は当時丸の形で描かれていました。

伊達政宗の城

米沢城

伊達氏の本拠地が置かれていた山形県の米沢城で、伊達政宗は誕生しました。25歳で宮城県岩出山に移るまで米沢で生活していました。

黒川城

会津若松城、鶴ヶ城とも呼ばれています。天正17年、政宗は摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし南奥州を制覇して会津黒川城に入城しますが、翌年秀吉に旧蘆名領を取り上げられ米沢へ戻ることになります。

岩出山城

天正19年、米沢から葛西・大崎旧領に移封されることになり、宮城県岩出山に移ります。仙台城築城までの居城となりました。

仙台城

伊達政宗の城といえば、やはり宮城県仙台市の青葉山に築城された仙台城。「青葉城」の雅称でも有名です。明治に入ると、新政府により本丸が取り壊され、その後も火災や空襲により建物全てが消失し、石垣だけが残りました。現在では、城そのものはなくても仙台の観光名所となっており、仙台市を一望できる公園として整備され、伊達政宗騎馬像が仙台の街を見守るように立っています。

若林城

寛永5年、60歳を過ぎた政宗は、仙台城のそばに若林城を建てました。表向きは隠居のための屋敷としましたが、実際のところは掘と高い土塁をめぐらせた城でした。政宗の死とともに廃止され、現在は宮城刑務所となっています。

伊達政宗の刀

政宗は多数の日本刀を所持しており、中でも「燭台切光忠」と呼ばれる刀を愛用していました。鎌倉時代中期の刀工、光忠の作とされ、政宗がこの刀で人のみならず、銅の燭台まで同時に切り落としたことが、この刀の名前の由来とも伝えられています。

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伊達政宗が行った偉業

出典:Wikipedia

戦国武将らしく戦いに明け暮れた政宗ですが、領地の繁栄を考え、海外に目を向ける広い視野を持っていました。

仙台を奥羽の都へ

仙台に城を構えた政宗は、城下町を発展させるだけでなく、農村に独自のルールを儲け、領地で獲れた米を江戸で売るシステムを作りました。これが仙台藩の財政を潤すことになります。荒地を整備し、そこに人が集まり、仙台藩は大きくなっていきました。

視線の先はヨーロッパ

慶長18年、政宗は家臣・支倉常長らを慶長遣欧使節としてスペイン国王、ローマ教皇のもとへ派遣します。使節の目的は、貿易やスペインの軍事力に注目し、同盟を結ぶことでした。常長は、スペインで国王フェリペ3世に謁見して政宗の書状と協定案を進呈し、洗礼を受けました。ローマでは教皇パウロ5世に謁見し、常長らにローマ市公民権が贈られ歓迎されました。

しかし、同じ時期に日本ではキリスト教が禁止され、帰国から2年後、常長は失意の中死去しました。悲劇的な結果を迎えましたが、初めて太平洋・大西洋の横断に成功し、ヨーロッパで外交交渉をした日本人として、現在まで語り継がれています。

伊達政宗の名言

伊達政宗五常訓

儒教における五つの徳目「仁・義・礼・智・信」をもとに、政宗の人生経験が投影されているような教えです。

仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂へつらいとなる
智に過ぎれば嘘をつく
信に過ぎれば損をする

〜解釈〜
仁愛が過ぎると情に弱くなる。
義理に堅過ぎると動けなくなる。
礼儀も度を越せば媚びへつらいになる。
知恵がつき過ぎると嘘をつくようになる。
他人を信じ過ぎると損をすることもある。

伊達政宗にゆかりのある神社・墓

瑞鳳殿

出典:Wikipedia

仙台城の本丸跡と向かい合う経ヶ峯の丘に、政宗の霊廟瑞鳳殿があります。空襲により焼失しましたが、その後再建されました。桃山文化の豪壮華麗な装飾が施され、派手好きな政宗にふさわしい御霊屋です。

大崎八幡宮


出典:Wikipedia

仙台市青葉区八幡にある神社。政宗の命により造営された社殿は、桃山文化を伝える貴重な建築物として国宝に指定されています。

青葉神社


出典:Wikipedia

明治時代、伊達政宗を祀るために建設された神社。毎年5月に行われる「仙台・青葉まつり」は、政宗の命日である5月24日に青葉神社が執り行っている春の例大祭に由来しています。

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伊達政宗の子孫について

政宗は正室、側室の間に10男4女を儲けたとされており、伊達家の血筋は現在まで受け継がれています。

五郎八姫

正室・愛姫との間に生まれた長女。徳川家康の六男・松平忠輝と結婚するも、忠輝が改易すると離縁され、父政宗の元へ戻りました。キリシタンとも伝えられています。

伊達忠宗

正室・愛姫との間に生まれた次男で江戸時代初期の仙台藩第2代藩主。政宗の死去にともない、家督を相続しました。仙台藩の組織などを整備し、体制の確立につとめました。

伊達秀宗

側室・新造の方との間に生まれた長男で宇和島藩初代藩主。幼少時に豊臣家の人質として京都で養育されました。長男でありながら側室の子であったため、伊達家の家督は次男の忠宗が相続することになり、別家として伊予宇和島10万石を嗣ぎました。

参考文献

小林清治『人物叢書 伊達政宗』 吉川弘文館
榎本秋『秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗』 マガジンハウス
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗

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