大塩平八郎は江戸時代後期の儒学者であり、大坂町奉行組の与力です。天明の大飢饉で日本中が困窮する中、幕府は新たな将軍の就任式を行い、大阪から江戸にお米が送られていきます。大塩平八郎はこの状況に強い憤りを感じ、大塩平八郎の乱を起こしたのでした。
学校でも必ず習う大塩平八郎の乱ですが、大塩平八郎の人物像や大塩平八郎の乱の概要については知らない人も多いでしょう。今回は大塩平八郎の人物像や、彼の功績について解説していきます。
目次
大塩平八郎とは?
大塩平八郎は寛政5年(1793年)1月22日に大阪に生まれ、与力として活躍した人物です。天保4年(1833年)頃から国内では天保の大飢饉が発生し、困窮者が続出。それに有効な手立てを講じない大阪奉行に立腹したのです。
大塩平八郎は武装蜂起に訴えて奉行らを討ち、豪商を焼き討ちする以外に根本的な解決は望めないと考え、天保8年(1837年3月25日)に門人や民衆と大塩平八郎の乱を起こしたのです。乱は当日に鎮圧され、大塩平八郎は1ヶ月ほど潜伏を続けるものの、後に自決したのでした。
氏名 | 大塩平八郎 |
---|---|
通称・あだ名 | 小陽明 |
出生日 | 寛政5年(1793年)1月22日 |
出生地 | 大阪天満 |
死没日 | 天保8年(1837年)3月27日 |
死没地(亡くなった場所) | 商家美吉屋五郎兵衛宅(現・大阪市西区) |
血液型 | 不明 |
職業 | 与力、陽明学者 |
身長 | 推定160cm後半 |
体重 | 痩せ型という意見あり |
配偶者 | 大塩ゆう |
座右の銘 | 知行合一 |
大塩平八郎の人生年表・生涯
年 | 出来事 |
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寛政5年 1793年 | 大塩平八郎誕生 |
文化3年 1805年 | 見習い与力として出仕 |
文化14年 1817年 | 与力となる |
文政3年 1820年 | 目安役・吟味役となる |
文政9年 1826年 | 格之助を養子とする |
文政10年 1827年 | キリシタンの逮捕に踏み切る |
文政12年 1829年 | 弓削新右衛門を糾弾 |
天保元年 1830年 | 破戒僧処断事件 同年に与力を辞す |
天保4年 1833年 | 天保の大飢饉発生 |
天保8年 1837年 | 大塩平八郎の乱 |
大塩平八郎の前半生
大塩平八郎は寛政5年(1793年)に大坂の天満で誕生します。かつては阿波国(徳島県)で誕生したという説もありましたが、現在では否定されています。文化3年(1805年)に14歳で、与力の見習いとして大坂東町奉行所に出仕します。
※与力とは町奉行を補佐し、江戸市中や大阪の行政・司法・警察の任にあたる役職です。
大塩平八郎は仕事を学ぶだけでなく、佐分利流槍術による槍術、また中島流砲術による砲術などを学んでおり、これらの知見が後の大塩平八郎の乱にも反映されています。その後は、一連の学問の成果などが認められ、文化14年(1817年)25歳で与力となりました。
大塩平八郎の勤務態度は極めて真面目で、同僚の西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職を摘発した他、切支丹の摘発や破戒僧の処断などを次々と断行しています。そんな大塩平八郎を疎ましく思う声もあったものの、上司の東町奉行・高井実徳はそんな大塩平八郎を高く評価していました。
また大塩平八郎は、幼い頃から陽明学という学問を学んでおり、文政7年(1824年)に自宅に洗心洞を開きます。陽明学とは王陽明がおこした儒教の一派であり、形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた学問です。大塩平八郎が開いた洗心洞には、塾生が17~18名、門弟が40~50名ほど在籍していたとされます。
飢饉対策で功績を残す
その後、文政13年(1830年)に高井実徳が高齢を理由に大坂東町奉行を辞任すると、大塩平八郎も与力を辞任。養子の大塩格之助に跡目を譲り、自分は学問に専念します。
天保4年(1833年)秋から天保の大飢饉が発生し、大阪でも飢饉の影がちらつきます。大塩平八郎は本来は政治に関与する立場ではなかったものの、当時の大坂西町奉行の矢部定謙が大塩平八郎を顧問として厚遇します。更に当時の西町奉行の与力は、経済の専門家である内山彦次郎。彼らが一致団結していたおかげで、この時の飢饉はなんとか乗り切る事が出来ました。
ところが天保の大飢饉はその後も続き、天保7年(1836年)秋から同8年(1837年)夏には更に状況は悪化。この頃には、矢部定謙は勘定奉行に栄転しており、後任の跡部良弼(水野忠邦の弟)は飢饉に明確な対策を打ちませんでした。
また当時は第11代将軍の徳川家斉が、息子の徳川家慶に将軍宣下を行っていた時期と重なっていました。跡部良弼は大阪の米を江戸に回す事を強行。更に内山彦次郎に兵庫の米を買い占めさせ、それらの米を江戸に送る暴政を行なっています。これらの暴政に伴い米価は高騰。京都の街は餓死者で溢れ、大阪に流民が溢れる事となり、大阪の治安は悪化したのです。
大塩平八郎の乱の前準備
この頃の大阪では1日に150人から200人の餓死者が出ていたとされます。大塩平八郎は一連の暴政に強い憤りを感じ、蔵米を民に施す事や、豪商に買い占めを行う事を辞めさせるなど、様々な政策を提言します。ただ大塩平八郎は与力を退いた身であり、一連の政策は反映される事はありませんでした。
天保7年(1836年)秋には各地で打ちこわしなどの反乱が各地で発生します。大塩平八郎も一連の暴政に反抗する為には、武装蜂起を行い、奉行らを討ち、豪商を焼き討ちするしかないと考えます。これらの行動は、実行を常とする陽明学に基づいたものでした。
大塩平八郎は、武装蜂起を起こす前に蔵書を売り払い、そのお金を窮民に分け与えます。そして挙兵への参加を促しました。この他にも極秘で、塾生らと砲術を中心とする軍事訓練を開始する等、「大塩平八郎の乱」の準備は水面下で進められていくのです。
大塩平八郎の乱とは?起こった理由
大塩平八郎の乱は、天保8年(1837年)2月19日に発生した武装蜂起の事です。乱が起きた原因は、前述した通り天保の大飢饉で幕府、ひいては大坂町奉行が明確な対策を打たなかった為でした。大塩平八郎は、自身の思想の根幹を為す陽明学に則り、武装蜂起を起こす事を決めました。
大塩平八郎は、新任の西町奉行・堀利堅が東町奉行の跡部良弼に挨拶に訪れる2月19日を決起の日と決め、両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てます。私塾の師弟に軍事訓練を施し、近郷の農民に檄文を回して「乱が起きた時に天満に駆けつける事」を呼びかけました。
更に大坂町奉行所の不正、役人の汚職を暴いた手紙を江戸幕府に送り、武装蜂起を起こした理由を幕府に宣言したのです。
大塩平八郎の乱の決行
ただ決起直前の2月17日に、町目付平山助次郎が密告を行い計画は露呈。19日の早朝にも、数名の決起者が大塩平八郎の計画を通報した為、大塩平八郎は自らの屋敷に火をかけて前倒しで「大塩平八郎の乱」を断行したのです。
大塩邸を発った大塩一党は、北船場で豪商を襲います。門弟と町民、更には農民が集まり、300人ほどの勢力に増大。大塩勢と奉行所の部隊は内平野町という場所で衝突して、その場所で砲術戦が行われます。大塩勢は砲術も銃撃も不慣れであり、奉行所の部隊に蹴散らされました。
結局、大塩平八郎の乱は半日ほどで鎮圧されます。大塩勢の死者は3名、巻き込まれた人が15人。そして奉行所側の負傷者は1人もいませんでした。つまり大塩平八郎の乱は極めて短期間で終結したのです。
ただそれはあくまで大塩平八郎の乱の話。半日間の戦いで大坂市中の5分の1が焼失。更に大阪の人口36万人のうち7万人が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上に上りました。
大塩平八郎の逃亡
さて、大塩平八郎の乱の後、大塩平八郎と養子の格之助は姿を消しました。大塩平八郎は、商人美吉屋五郎兵衛の店に匿われます。乱に加担した者達が次々と捕縛される中、大塩平八郎の行方は幕府も分からないままでした。ただ神棚へのお供えとして出された食事が食べられた状態で下げられている事を村役人が突き止めます。
大塩平八郎の乱から40日以上が経過した3月27日早朝、商人美吉屋五郎兵衛の館は、鷹見泉石ら探索方に潜伏先を包囲されます。大塩平八郎と格之助は、まさに絶体絶命の危機となったのです。
大塩平八郎の死因と最期
死因は爆死
結論から言えば大塩平八郎の死因は自決でした。館を包囲された大塩平八郎と格之助、火薬を使って火を放ち爆死。焼け跡からは、顔の判別も不可能な遺体が2つ発見されます。幕府は遺体を塩漬けにし、来たる処分の時まで遺体を保存したのです。
その後も大塩平八郎の乱に加担した者たちは次々と捕縛。彼らは次々と拷問まがいの取り調べを受け、多くが処分の時までに死亡します。大坂町奉行所による審問、調書作成などはその後も続き、処分が全て終わったのは大塩平八郎の乱から1年後の天保9年8月の事でした。
大塩平八郎の遺体は磔にされる
処分の結果、大塩平八郎ら19名は引き回しの末に磔の刑になります。ただこの時点で存命なのは、竹上万太郎という人物だけ。大塩平八郎と格之助を含めた18人分の遺体、そして竹上万太郎は街中を引き回しの刑に遭い、その後磔にされました。
大阪の市民は爆死した遺体を見ざるを得ず、かなりショッキングだった事は間違いありません。
大塩平八郎の性格と人物像エピソード
ストイックで極めて厳格な性格
大塩平八郎は毎朝午前2時に起床し、天体観測、潔斎と武芸に励みます。その後は午前5時から門弟を集めて講義を行い、そこから与力として出勤する日々を送りました。ちなみに当時の町奉行は2時頃に勤務が終わる為、大塩平八郎の就寝は夕方頃でした。
前述した通り、大塩平八郎は午前5時から洗心洞の塾生に講義をしていますが、その講義もまた厳格そのもの。塾生は緊張のあまり大塩平八郎の顔を見る事が出来なかったそうです。
大塩平八郎生存説
ちなみに大塩平八郎は大塩平八郎の乱で爆死しましたが、その後も生存説が流れました。これは爆死した遺体が、本人と識別出来ない程に損傷していた為です。結果的に「大塩は国内もしくは海外に逃亡した」という風説が各地で流れる事となります。
幕府は大塩平八郎の影に怯え続ける事となり、大坂町奉行が市中巡察を中止する等の行動をとりました。大塩平八郎があえて爆死というやり方で自害を選んだのは、自分の遺体を幕府に見せないようにする作戦だったのかもしれません。
大塩平八郎がやったこと・功績
与力時代の大塩平八郎
前述した通り大塩平八郎は、文化14年(1817年)から文政13年(1830年)まで大阪で与力を務めていました。
大塩平八郎は与力時代の自らの功績として「西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職の摘発」「切支丹の摘発」、「破戒僧の摘発」を上げています。切支丹の摘発は京都町奉行所と連携して行われた他、破戒僧の摘発は奈良奉行所や堺奉行所らと連携して行われました。
この頃の大塩平八郎は、元来の性格通りに厳格に職務にあたっています。また他の町の奉行とも連携して、切支丹や破戒僧の摘発を行なっているあたり、幕府や奉行に対する信頼感などは「この時点では」有していた事が伺えます。大塩平八郎は、与力としては極めて優秀だった事が分かりますね。
大塩平八郎の乱の歴史的意義
「大塩平八郎の乱」は僅か半日で鎮圧され、規模としてはあまりにも小さいものでした。ただその規模とは裏腹に、幕府に与えた影響は極めて大きかったと言えます。
打ちこわしや一揆など、幕府に対する反乱は以前から行われていましたが、それはいわゆる「農民層」によるもの。大塩平八郎は隠居しているとはいえ、元与力で幕府側の人間です。そんな大塩平八郎が、幕府の直轄地である大阪で武装蜂起を起こした事は、幕府のみならず大名から庶民に至るまで大きな衝撃を与えました。
大塩平八郎の乱をきっかけに、6月には国学者の生田万が越後国で「生田万の乱」を起こした他、8月には山田屋大助という人物が摂津国で能勢騒動を起こす等、全国各地で幕府に対する反抗の狼煙があがったのです。
彼らは自らを「大塩門弟」や「大塩残党」を名乗り、「大塩平八郎の意志を継ぐ者」と宣言。前述した大塩平八郎生存説も相まって、幕府の屋台骨を揺るがす事態となりました。大塩平八郎の乱は、打ちこわしのような「お上に対する反抗」ではなく、「幕府の内部の人間による糾弾」であった事に大きな意義があったと言えます。
大塩平八郎の乱は、いわば倒幕運動への導火線。幕府に対する反抗心は、やがて同じく陽明学を学んでいた吉田松陰や、西郷隆盛などの幕末の志士へと引き継がれていくのです。
大塩平八郎の名言
自分自身の本性をあざむいて勝手に自己満足していても、いずれ人様に見抜かれてしまう。正義と私利、誠と偽りの境目をごまかしてすごしてはならない
自分の想いを押し殺していても、いずれは周囲に見抜かれてしまいます。だからこそ大塩平八郎は、公と私の境目を見極めるべきと述べたのです。これは自分の想い(私欲)が周囲に迷惑をかけない事を前提にしないと出てこない発言であり、大塩平八郎が極めて無欲な人である事が分かる発言です。
身の死するを恐れず ただ心の死するを恐るるなり
大塩平八郎は乱を起こした時に、自分が戦死したり刑死する事に対して少しの恐れもありませんでした。それ以上に困窮する町民を見て見ぬふりをして、目の前の事から目を背ける事が「心の死」であるとして、恐れたのです。
大塩平八郎が戦死した後、国学者の生田万は「大塩門弟」と称して、生田万の乱を起こして幕府に強い批判をぶつけました。大塩平八郎の志は絶える事なく、やがて続く倒幕運動のイデオロギーとなります。大塩平八郎の肉体は滅んでも、彼の志は多くの人達の心の中に生き続けたのでした。
大塩平八郎の家族や子孫
大塩平八郎の乱で自刃した大塩平八郎ですが、子孫は今でも存命なのでしょうか。こちらの項目では大塩平八郎の家族や子孫について解説していきます。
大塩平八郎の家系図
大塩家は今川家の末流とされており、代々にわたり大坂東町奉行組与力を務める家柄でした。大塩平八郎の家柄は、本家の大塩家から分化した家柄とされ、初代当主は六兵衛成一という人物です。大塩平八郎は彼から数えて8代目になります。
大塩平八郎の一族については情報も乏しく、父親やそれ以前の当主の情報はあまりありません。かつては大塩平八郎は7代目当主・大塩敬高と血のつながりはなく、阿波国から連れてこられた養子という説もありました。一応、今ではその説は否定されています。
大塩平八郎の家族や子孫
結論から言えば、大塩平八郎の直系の子孫はいません。
大塩平八郎は1818年に「大黒屋ひろ(ゆう)」という女性を妻としましたが、2人の間に子供は授からず、1826年に西田家という家から格之助という人物を養子にしています。ただ格之助は大塩平八郎の乱で、大塩平八郎と共に自刃。妻のゆうも乱の取り調べの末に獄死しました。
ネット上では、大塩平八郎の子孫という人物の情報も散見されます。ただ大塩平八郎には兄弟がいたという情報もない(実際はいる可能性あり)ので、大塩平八郎の父の兄弟などから分家した家系の子孫かもしれません。
大塩平八郎のゆかりの地
大塩平八郎終焉の地
大阪市西区にある靱(うつぼ)公園に建てられている石碑です。大塩平八郎は乱を経て靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅に潜伏しましたが、後に幕府の役人に見つかった為、火薬を使用して爆死という形で自刃しています。
この地には後に、「大塩平八郎終焉の地」という石碑が建てられるものの、周辺の建物の改築に伴い、土地開発などの影響で現在の場所に移転しました。なので厳密にいえばこの地は大塩平八郎の終焉の地ではありません。ただ場所が違えど、大塩平八郎の意志が途絶える事はないのです。
住所:大阪市西区靭本町2-1-4
成正寺
日秀という僧侶が1604年に建立した寺であり、境内には大塩平八郎の格之助の墓があります。江戸時代以降、大塩家の本家は身延山にある直末大光寺を菩提寺としていますが、分家した大塩平八郎の家柄は、この成生寺を菩提寺としたのです。
成生寺や境内の2人の墓は太平洋戦争時の大阪大空襲で焼失したものの、後に再建されています。この他にも大阪市顕彰碑や、大塩平八郎の乱の碑も成生寺に建立されており、興味のある人は訪れてみましょう。
住所:大阪府大阪市北区末広町1-7
大塩平八郎の関連人物
頼山陽
頼山陽は大塩平八郎より12歳上の陽明学者であり、大塩平八郎と親交のあった人物です。頼山陽は陽明学を知り尽くした大塩平八郎を「小陽明」と称しています。これは陽明学の開祖である「王陽明」になぞらえたものです。
大塩平八郎は陽明学に伴い、実践倫理を第一に考える事を常としていました。頼山陽は大塩平八郎に「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ」と述べており、その直情的な性格を心配していました。やがて頼山陽は1832年に死去します。大塩平八郎が乱を起こしたのは、それから5年後の事でした。
内山彦次郎
内山彦次郎は大坂西町奉行組与力を務めた人物で、物価統制において高い見識を持っていました。彼は大塩平八郎と1833年頃に発生した飢饉の対策に携わっており、飢饉を乗り切る事に成功しています。
ただ1836年の飢饉では、彼は大坂東町奉行の跡部良弼の命令で兵庫まで向かい買米をしています。更に跡部良弼はその米を江戸に送る等の暴政を行なっており、それが大塩平八郎が乱を起こすきっかけになったのです。
大塩平八郎は内山彦次郎に強い怒りを持っており、幕政改革の建議書で内山彦次郎が名指しで批判されています。彼は大塩平八郎の乱では、大塩平八郎親子の包囲に関与する等、乱の鎮圧に関与しました。
ちなみに内山彦次郎は1864年に暗殺されていますが、犯人は新選組の沖田総司・永倉新八・原田左之助・井上源三郎だと言われています。
大塩平八郎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート
大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎ですが、彼はこの時代随一の陽明学者でもありました。この書籍は大塩平八郎が記した洗心洞箚記を現代語訳したもの。彼が何を思い乱を起こしたのか、そしてその行動理念はなんだったのか、その実像がこの本を読めば浮かび上がってきます。大塩平八郎の思想を知る上ではおすすめの一冊です。
杖下に死す
大塩平八郎の乱を主題とした歴史小説です。本作品の主人公は大塩平八郎ではなく、江戸からやってきた剣豪・光武利之です。あえて第三者的な視点から物語を描く事で、大塩平八郎の苦悩や行動理念が見えてきます。
おすすめの動画
こちらの動画は大塩平八郎の乱の過程が詳しくまとめられています。イラストに肖像画、そして実際に使われた火器などが掲載されており、乱のイメージがすんなりと入ってくるのではないでしょうか。
おすすめの映画
風雲天満動乱
大塩平八郎を主人公にした映画であり、放映されたのは1957年の事。大塩平八郎を演じたのは、時代劇で明治天皇を演じたこともある嵐寛寿郎です。現状ではVHS版しかなく、DVDなどは生産されていません。大塩平八郎の苦悩、そして嵐寛寿郎の熱演が観られる良作なので、いつかDVD化される事を望みたいですね?
おすすめドラマ
ねこねこ日本史 BOX版 (第1話~第20話+ねこねこ日本史座談会CD)
日本史上の有名人を猫に見立てて再現した歴史アニメ。大塩平八郎は第18話に収録されています。猫とはいえ、大塩平八郎の思想や行動理念はしっかりと反映されているので、本作は教材としても活用できるでしょう。
大塩平八郎についてのまとめ
今回は大塩平八郎の生涯と、大塩平八郎の乱についてまとめました。彼は陽明学を体現し、幕府に強い憤りを感じながら大塩平八郎の乱を起こしました。半日で鎮圧された乱ではあったものの、歴史的な意義は大きかったといえます。
民衆の為なら自らの命も厭わない。大塩平八郎のような政治家が現れる事を願うばかりですね。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大塩平八郎