戊辰戦争が起こったきっかけとは?場所や原因、中心人物についてわかりやすくまとめてみました

 


(箱館大戦争之図、出典ウィキペディア
戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争(1868年1月27日 - 1869年6月27日、慶応4年1月3日 - 明治2年5月18日)まで、関ケ原の戦い以来約270年経ってから起こった、日本を二つに分けた内戦です。
天皇を担いだ薩摩、長州、土佐などの雄藩連合と徳川幕府を守ろうとした旧体制派の戦闘は多くの血を流し、多数の悲劇を生みました。
戊辰戦争は今まで起こった内戦とは違う理由、対立によって勃発し、日本の政治体制の転換と国家自体の近代化をもたらしました。
今回は時代の大きな転換点となった戊辰戦争を取り上げてみました。

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戊辰戦争の概要


(戊辰戦争戦線の変遷、出典ウィキペディア

明治維新とは1853年の黒船来航から始まった欧米列強の経済的、軍事的侵略に対する抵抗思想である攘夷運動と、朝廷の意に反して開国路線を取った徳川幕府を見放し、天皇を奉じようとする考えである尊王論が結び付いた尊王攘夷運動が徳川幕府打倒、明治新政府へと繋がった一連の動きのことです。
この明治維新を成功させるために薩摩藩及び長州藩が中心となって起こした徳川幕府打倒の軍事行動が戊辰戦争です。
戊辰戦争は錦旗を掲げ官軍となった薩長土肥の4大雄藩が中心となった新政府軍と、徳川幕府陸軍・海軍及び幕府に加担した諸藩同盟である旧幕府軍が京都を発端にして、近畿から東海、関東甲信越、東北そして北海道と日本の半分を戦場にして約一年半もの間続いた戦争を、1868年の干支である戊辰(つちのえたつ、ぼしん)にちなんで命名されました。

戊辰戦争の経過年表


(スナイドル銃、出典ウィキペディア
 

1867年11月9日(慶応3年10月13日)
薩摩藩、長州藩に討幕の密勅が下る。

1867年11月10日(慶応3年10月14日)
徳川幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)によって大政奉還が行われる。

1867年11月17日(慶応3年10月21日)
討幕の密勅が取り消される。

1867年11月20日(慶応3年10月24日)
徳川慶喜が征夷大将軍職の辞任を朝廷に申し出る。

1867年12月10日(慶応3年11月15日)
土佐藩士・坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃され坂本龍馬は即死、中岡慎太郎は後日死亡。

1868年1月3日(慶応3年12月9日)
岩倉具視(いわくらともみ)により王政復古の大号令が発せられ、長州藩が朝敵ではなくなり復権する。

1867年1月10日(慶応3年12月16日)
大阪城に移った徳川慶喜が王政復古を非難、旧幕府と雄藩連合との対立が激化。

1867年1月17日(慶応3年12月23日)
江戸薩摩藩邸の焼討事件、江戸城西ノ丸の焼失事件が発生、薩摩藩の仕業と考えた老中・稲葉正邦(いなばまさくに)が薩摩藩邸を襲撃させる。

1868年1月26日(慶応4年1月2日)
兵庫沖に停泊中の薩摩藩軍艦を旧幕府の軍艦が砲撃。

1868年1月27日(慶応4年1月3日)
鳥羽・伏見の戦い
京都の南に位置する鳥羽・伏見において薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍5千名と旧幕府軍1万5千名が戦闘状態に入る。


(豊後橋・現在の観月橋での戦闘、出典ウィキペディア

1868年1月28日(慶応4年1月4日)
小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう、当時は仁和寺宮嘉彰親王)に錦旗・節刀が与えられ征討大将軍とする勅命が下る。
これによって薩摩、長州、土佐の軍隊が官軍となり、旧幕府軍は賊軍となる。

1868年1月30日(慶応4年1月6日)
徳川慶喜が側近のみを連れて大阪城を脱出、江戸へ退去する。

1868年1月31日(慶応4年1月7日)
徳川慶喜追討令が発令され、旧幕府は朝敵となる。

1868年2月2日(慶応4年1月9日)
大阪城が長州藩によって接収され、大阪は新政府軍の管理下に入る。

1868年2月3日(慶応4年1月10日)
会津藩、桑名藩、高松藩などが旧幕府側と認定され藩主の官位剥奪と京屋敷の没収が決定。

1868年2月13日(慶応4年1月20日)
土佐藩士・板垣退助(いたがきたいすけ)率いる迅衝隊(じんしょうたい)によって讃岐国高松藩が降伏。

1868年2月15日(慶応4年1月22日)
東海道鎮撫総督・橋本実梁(はしもとさねやな)率いる新政府軍が四日市到着、桑名藩は戦わずに降伏し桑名城は開城、ただし藩主の松平定敬(まつだいらさだあき)は箱館まで抗戦を続ける。

1868年3月5日(慶応4年2月12日)
徳川慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、天皇への恭順の意を示す。

1868年3月29日(慶応4年3月6日)
甲州勝沼の戦い
近藤勇(こんどういさみ)率いる旧新撰組の甲陽鎮撫隊と新政府軍が甲府城の支配を巡って激突、新政府軍が勝利。

1868年5月3日(慶応4年4月11日)
勝海舟(かつかいしゅう)西郷隆盛(さいごうたかもり)の会談によって江戸城が無血開城。

1868年5月24日(慶応4年閏4月3日)
市川・船橋戦争
船橋大神宮に陣を張った江戸城無血開城に従わない旧幕臣2000名と新政府軍800名が衝突、装備に勝る新政府軍が勝利する。

1868年5月11日~15日(慶応4年4月19日~23日)
宇都宮城の戦い
水戸藩出身の香川敬三(かがわけいぞう)が率いる下野鎮撫の新政府軍と大鳥圭介(おおとりけいすけ)の伝習隊や幕府歩兵隊が宇都宮城の占拠で争い、初戦は旧幕府軍が勝利するも、薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)らが東山道鎮撫軍を率いて合流し宇都宮城を奪還。

1868年6月10日 - 8月31日(慶応4年閏4月20日 - 7月14日)
白河口の戦い
江戸城無血開城時点で新政府軍の管理下になった白河城を会津藩、仙台藩連合軍が奪取、その後薩摩藩士・伊地知正治(いじちまさはる)率いる新政府軍が奪還し、ここから約3ヶ月・7回にも及ぶ会津軍の猛攻をしのいだ戦い。
両軍合わせて1000人の戦死者を出したこの戦は戊辰戦争の天王山と言われている。

1868年6月25日(慶応4年5月6日)
仙台藩、米沢藩、長岡藩、新発田藩など31藩による奥羽越列藩同盟が成立。

1868年7月4日(慶応4年5月15日)
上野戦争
上野寛永寺に駐屯する旧幕府勢力・彰義隊4000名を長州藩士・大村益次郎(おおむらますじろう)指揮下の新政府軍10000名が攻撃、わずか1日で排除壊滅に成功した。


(上野戦争の図、出典ウィキペディア
1868年8月10日及び同年9月11~15日(慶応4年6月22日及び同年7月25~29日)
八丁沖の戦い
新政府軍の攻撃で一旦は落城した越後長岡城を、長岡藩家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)が指揮した越後長岡軍が反撃し奪還、しかし河井は負傷し後に死亡、城も新政府軍に奪い返され越後長岡軍は撤退。

1868年8月12日(慶応4年6月24日)
板垣退助が率いる迅衝隊が棚倉城を占領。
その後も前進を続け磐城平城、三春城、二本松城を開城させて相馬中村藩を降伏させる。

1868年10月6日(慶応4年8月21日)
母成峠の戦い
新政府軍2000名余りが旧幕府軍800名が守る母成峠を攻撃、旧幕府軍を破った新政府軍は会津若松城攻撃の足掛かりをつかむ。

1868年10月19日(慶応4年9月4日)
米沢藩が新政府に降伏、10日には仙台藩、22日には会津藩が降伏し奥羽越列藩同盟は壊滅状態となる。

1868年11月25日(明治元年10月12日)
榎本武揚(えのもとたけあき)ひきいる旧幕府海軍が松島湾で旧幕府軍の残党を収容し蝦夷地へ向かう。

1868年12月9日(明治元年10月26日)
榎本武揚を中心とした旧幕府軍が箱館五稜郭を拠点として蝦夷共和国成立

1869年5月6日(明治2年3月25日)
宮古湾海戦。
艦艇数、その能力で劣る旧幕府海軍が、新政府海軍にアボルダージュ(接舷して敵艦に乗り込み艦艇を奪い取る作戦)を決行するも失敗に終わる。

1869年6月27日(明治2年5月18日)
蝦夷共和国が新政府軍に降伏し戊辰戦争が終結。

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戊辰戦争の原因


(徳川慶喜、出典ウィキペディア

尊皇攘夷の総本山的な存在であった長州藩は、1864年8月20日(元治元年7月19日)に起こった禁門の変(蛤御門の変)によって朝敵とされ、徳川幕府が行った長州征伐によって、大きな屈辱と打撃を受けた長州藩の人々は、徳川幕府を武力によって打倒することを最終目的と考えるようになりました。
しかしもう1つの雄藩である薩摩藩は当初は公武合体の考え方を持っており、朝廷と幕府の融合に腐心していました。
このために公武合体政策の邪魔になる長州藩を八月十八日の政変によって追い落としたり、佐幕派である会津藩とも手を握っています。
犬猿の仲となった長州藩と薩摩藩を和解させて薩長同盟を締結させ、討幕の両輪へと導いた土佐藩の坂本龍馬も大政奉還という平和的政権交代を考えていました。
薩摩藩は四侯会議によって日本の政治を動かそうと考えていましたが、徳川慶喜の政治的手腕によって会議が骨抜きにされると、薩摩藩は討幕へと傾倒していきます。
当初は薩摩藩の公武合体政策を支持してきた公家の岩倉具視も、失脚して復帰したのちは完全に討幕を支持しており、薩長連合と岩倉具視は密かに討幕の密勅を用意していました。
しかし、徳川慶喜が朝廷に大政を奉還し、征夷大将軍職の辞任を申し出ると平和的政権交代が現実的となり、討幕の密勅は闇に葬られる運命となるところでした。
しかし平和的政権交代を推し進める最大の功労者である坂本龍馬が暗殺されると、一気に討幕派が巻き返し薩長連合と徳川幕府の対立が激化し、薩長連合の挑発に幕府の一部勢力が乗っかってしまい、戊辰戦争への引き金を引いてしまいました。

戊辰戦争で戦場となった場所とエピソード

上野寛永寺


(寛永寺根本中堂、出典ウィキペディア

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)を開祖とし、創立したのは徳川三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)です。
家光以降の6人の徳川将軍がこの寛永寺に眠っています。
朝廷に恭順の意を示して寛永寺に謹慎していた徳川慶喜を守護する目的で、渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)や天野八郎(あまのはちろう)を中心に抗戦派の幕臣によって結成された彰義隊(しょうぎたい)は江戸城無血開城後、徳川慶喜が水戸へ退去となったあとも寛永寺に居座り続け、新撰組の残党なども加わって1000名を越える勢力となります。
恭順派の幕臣らの暴発封じ込めも功を奏さず、彰義隊の仕業と思われる殺傷事件が続発し、新政府軍は遂に彰義隊排除に乗り出します。
長州藩士・大村益次郎(おおむらますじろう)を指揮官に1868年7月4日(慶応4年5月15日)午前7時に攻撃を開始、当初は1000名と言われた彰義隊は4000名にまで膨らんだ一大勢力となりましたが、佐賀藩所有のアームストロング砲や四斤山砲(よんきんさんぽう)などで絶え間なく砲撃を加え、火力にものを言わせた攻撃によって彰義隊を追い詰め、午後5時には彰義隊はほぼ全滅、残存兵力も逃走しました。
彰義隊士は戦闘意欲の低い寄せ集め軍であったため、突撃の号令によって隊長が駆け出したのちに後ろを振り返ると誰もついて来なかった逸話が残るほど、戦闘力は脆弱で、これがわずか半日で決着した要因だとも言われています。
この上野戦争の勝利によって新政府は江戸から西を完全に掌握することとなり、旧幕府勢力の封じ込めに弾みをつけた戦いとなりました。

会津若松城(鶴ヶ城)


(若松城復元天守、出典ウィキペディア
この一帯を統治していた蘆名(あしな)氏が居城とした黒川城が、蒲生氏郷によって整備され若松と改称されたのが会津若松の始まりです。
その後、上杉氏➡蒲生氏➡加藤氏と領主が変わりましたが、徳川家光の弟・保科正之(ほしなまさゆき)が入封し、この子孫が幕末の会津松平氏となります。
幕末期の会津藩藩主が京都守護職であった松平容保(まつだいらかたもり)で、京都で攘夷浪士を数多く取り締まり、攘夷派、倒幕派からは最も憎悪される存在となっていきました。
15代将軍・徳川慶喜からの信頼は厚く、戊辰戦争では旧幕府軍の中心的存在となったため、会津戦争は新政府軍の憎悪と旧幕府軍の意地がぶつかる戊辰戦争最大の戦闘となり最大の悲劇を生むこととなりました。
会津戦争の最大の激戦地となった白河城の攻防戦に、旧幕府軍の主力が投入されていた間隙を縫って新政府軍は二本松城を攻撃、城の防衛に動員されていた二本松少年隊20名が戦死すると言う悲劇が起こりました。
また若松城下に新政府軍が突入すると、会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の一族20名以上が自邸で自害をはかり、市中の混乱から上がった火の手を、若松城落城と勘違いした飯盛山の白虎隊隊士が集団自刃する悲話が今も伝えられています。
1868年11月6日(明治元年9月22日)会津藩が降伏し、戦争には終止符が打たれましたが、鹿児島で西郷隆盛が西南戦争を起こしたとき、会津戦争の敵討ちとばかりに会津藩士の生き残りが、数多く政府軍に従軍したり、戦後150年が経った今でも会津では薩摩(鹿児島)、長州(山口)の人と結婚してはならない風潮があるなど会津戦争の影響は日本に大きな傷跡を残すことになりました。

函館五稜郭


(現在の五稜郭、出典ウィキペディア

戊辰戦争最後の戦場となったのが現在の函館市にある五稜郭です。
旧幕府海軍の主力艦・開陽を旗艦とした8隻からなる艦隊を榎本武揚が率いて江戸を脱出、東北各地で敗れた旧幕府軍の生き残り部隊を収容しながら蝦夷地を目指しました。
1868年12月4日(明治元年10月21日)函館の北にある鷲ノ木という場所に上陸した旧幕府陸軍は、蝦夷地を防衛する新政府軍の兵と松前藩の藩兵を次々と撃破し函館に進攻します。
旧幕府陸軍の攻勢の前に新政府軍のほとんどは、青森へ退却してしまい旧幕府軍は5日後には五稜郭へ無血入城を果たしました。
1869年1月4日(明治元年11月22日)には松前藩の最後の砦・熊石を占領し、旧幕府軍は蝦夷地を平定しました。
1869年1月27日(明治元年12月15日)に榎本武揚を総裁とした蝦夷共和国(えぞきょうわこく)を樹立し、新政府に対して蝦夷地の開拓を要望しますが岩倉具視はこれを拒否します。
新政府軍は函館攻略のために青森に陸軍8000名を待機、海軍は最新鋭軍艦・回天を旗艦とする8隻の艦隊を編成し宮古湾へ送りました。
この新政府艦隊は宮古湾海戦で旧幕府艦隊と戦闘になり、艦一隻を自損させ勝利を得ました。
1869年5月20日(明治2年4月9日)に長州藩士・山田顕義(やまだあきよし)率いる1500名が乙部に上陸、江差を守る旧幕府軍を撃退し乙部を占拠すると、ここを拠点に続々と新政府軍が上陸を開始しました。
旧幕府軍も旧新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)、旧幕府陸軍奉行・大鳥圭介(おおとりけいすけ)の活躍で何度か新政府軍の攻撃を撃退、一進一退の攻防を繰り広げますが、兵力・装備に勝る新政府軍によって旧幕府軍は徐々に函館へと押し込まれて行きます。
函館への新政府軍の攻撃は陸海軍総力をあげての戦いとなり、旧幕府軍の各部隊は敗戦を重ね五稜郭へと撤退し函館は新政府軍によって制圧されます。
またこの函館市街戦の最中に旧幕府軍の優秀な指揮官の一人であった土方歳三が狙撃され戦死、これを境に旧幕府軍の敗北が濃厚となり脱走者が相次ぎ士気も下がっていきました。
結果、1869年6月27日(明治2年5月18日)榎本武揚以下五稜郭内にいた1000名が新政府軍に投降し函館戦争は終結し、ここに戊辰戦争も終わりを迎えました。

参加兵力、戦死者数など戊辰戦争の総括


(鴨川の南に架かる小枝橋での戦闘、出典ウィキペディア

鳥羽・伏見の戦いが勃発したときに、当初から官軍として新政府軍に参加したのは薩摩、長州、土佐をはじめとした西国を中心とした雄藩連合で、兵力的には旧幕府軍の方が圧倒的に多かったのです。
それなのに新政府軍が戊辰戦争を勝利できたのは、最新鋭の装備と西洋軍制で鍛えられた歩兵、そして強力な火力を持つ圧倒的多数の大砲だったのです。
それでは戊辰戦争の主要な戦闘の参加兵数や被害、戦死者がどれくらいだったのか詳細をみていきます。

鳥羽・伏見の戦い


(新政府軍の陣所となった御香宮神社拝殿、出典ウィキペディア

期間
1868年1月27日 - 30日(慶応4年1月3日 - 6日)

参加兵力
新政府軍
薩摩、長州、土佐など約5000名

旧幕府軍
旧幕府陸軍、京都見廻組、新撰組など15000名

戦死者
新政府軍約110名、旧幕府軍約280名

戊辰戦争の発端となった戦闘ですが、旧幕府軍は戦闘意欲に欠けており、ジリジリと後退を重ねる戦いとなりました。
その上に新政府軍は最新の重火器を多数揃え、兵力差を火力によって補っていました。
また錦旗を掲げて進軍したため、これを見て旧幕府軍の兵士の多くは戦意を喪失して逃亡を図るものまで出ました。
また朝廷の斡旋や戦局の動きをみて佐土原藩、岡山藩、徳島藩、彦根藩なとが新政府軍に合流したために旧幕府軍は、大阪へ撤退するしか方法がなくなりました。

甲州勝沼の戦い(甲州戦争)


(甲府城稲荷櫓・復元、出典ウィキペディア

期間
1868年3月29日(慶応4年3月6日)

参加兵力
新政府軍
土佐藩迅衝隊(じんしょうたい)、鳥取藩山国隊(やまぐにたい)など約1400名

旧幕府軍
甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい、旧新撰組)など約300名

戦死者
新政府軍皆無、旧幕府軍壊滅。

土佐藩の大隊司令兼総督であった板垣退助(いたがきたいすけ)が東山道先鋒総督府参謀に任じられ迅衝隊を率いて中仙道を東進、甲府を目指しました。
甲陽鎮撫隊は勝海舟(かつかいしゅう)の司令によって、幕府直轄地である甲斐の防衛のために旧新撰組を中心に結成され近藤勇、土方歳三が指揮を取りました。
板垣退助の迅衝隊が甲斐の甲府城を占拠するため昼夜を問わず駆け足で進軍したのに対し、甲陽鎮撫隊は距離的優位にありながら毎夜毎夜の宴会騒ぎ、士気も低く行軍の速度も上がらない上に天候不順も加わって、先に到着したのは遠くからやって来た迅衝隊だったのです。
甲府城を占拠した迅衝隊に対して勝沼から前進してきた甲陽鎮撫隊の兵は、甲府城にはためく錦旗をみて戦意を喪失、脱走する者が相次ぎ、兵力は半分以下になります。
甲府城から砲撃が始まると、反撃らしい反撃もできず甲陽鎮撫隊は霧散するかのように八王子へ退却、そのまま解散となります。
戊辰戦争開戦当時、乾退助と名乗っていた板垣退助は、東山道先鋒総督府参謀に任命された時に岩倉具視の進言で、甲斐武田家と縁の深い板垣姓へ戻します。
甲斐の地には武田家と縁の深い人や武田信玄を慕う民衆が多く、板垣退助は凱旋将軍のような雰囲気の中、甲府城へ入城したと伝えられています。

その他の戦場の詳細

上野戦争

期間
1868年7月4日(慶応4年5月15日)

参加兵力
新政府軍
薩摩、長州、佐賀藩など約10000名

旧幕府軍
彰義隊約4000名

戦死者
新政府軍の死傷者は100名、旧幕府軍は埋葬された戦死者が266名。

詳細は前述。

北越戦争


(河井継之助、出典ウィキペディア

期間
1868年6月21日(慶応4年5月2日)~1868年9月22日(慶応4年8月7日)

参加兵力
新政府軍
長州、薩摩藩の北陸道先鋒総督府軍は約1500名、これに東山道先鋒総督府軍約2500名が加わっていたと考えられています。

旧幕府軍
長岡、会津、米沢藩などの奥羽越列藩同盟。
正確な兵力は不明、長岡藩は約1500名程度で会津、米沢からの援軍は500~1000名程度と推察されています。

戦死者
新政府軍は死傷者が1000名をはるかに越えるほどの被害を受け、旧幕府軍は400名程度だったと言われています。

北越戦争は土佐藩士の岩村精一郎(いわむらせいいちろう)と長岡藩家老の河井継之助の交渉が決裂したのを受けて、長岡藩兵が新政府軍が占拠していた榎峠を奪還します。
その後はしばらく膠着状態が続きましたが、新政府軍が長岡城下に奇襲攻撃を仕掛けて城を落とし、寺泊沖海戦では長岡藩の海岸線の制海権を確保しました。
しかし旧幕府軍の中ではもっとも進んだ最新火器を装備していた長岡藩は、八丁沖の戦いで長岡城を一時的に奪い返し、新政府軍を大混乱に陥れました。
しかしこの戦いで長岡軍の精神的支柱にして最高司令官の河井継之助が負傷(のちに死亡)し、新政府軍の海軍を使用した上陸作戦により長岡城は再び陥落し、近隣の新発田、黒川諸藩が次々と新政府軍に降伏し長岡藩や会津藩は追い詰められます。
しかし中条での反抗作戦では新政府軍を破り奥羽越列藩同盟の力量は見せましたが、長岡、新潟と重要拠点が占領され、主力軍は会津へと撤退しました。
北越戦争で新政府軍は相当な打撃を受け、一時的にせよ占領地を奪い返される失態をおかしました。
戊辰戦争の中でも新政府軍がもっとも苦戦した戦闘であったのがこの北越戦争だったのです。

会津戦争

期間
1868年6月10日(慶応4年閏4月20日)~
1868年11月6日(明治元年9月22日)

参加兵力
新政府軍
薩摩、長州、土佐、佐賀藩など奥羽先鋒総督府軍約75000名。

旧幕府軍
会津藩兵約3500名、他の奥羽越列藩同盟軍約6000名など総数10000名足らず。

戦死者
新政府軍はほとんど被害なし、会津藩及び旧幕府軍で約3000名の死傷者が出ました。

戦闘の詳細は前述。

函館戦争(当時は箱館と書きました)
期間
1868年12月4日(明治元年10月21日)~1869年6月27日(明治2年5月18日)

参加兵力
新政府陸海軍約9500名、艦艇6隻

旧幕府軍
蝦夷共和国陸海軍約3500名、艦艇5隻

戦死者
新政府軍は戦死者約300名、艦艇喪失1隻。
旧幕府軍は戦死者約1000名、艦艇喪失5隻。

戦闘の詳細は前述。

戊辰戦争のゆかりの品や場所

現代からわずか150年前に起こった戊辰戦争だけに戦場になった場所も、使用された物品なども数多く残されています。
ここではその中でも、戦争を強く印象づける場所や物を解説します。

妙教寺


(妙教寺砲弾貫通跡、出典ウィキペディア

妙教寺は江戸時代の寛永年間に淀城城主・松平定綱(まつだいらさだつな)が寺地を寄進して整備されました。
薩摩、長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍が武力で衝突することとなった戊辰戦争の初戦、慶応4年1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、京都伏見にある妙教寺の上空は両軍が放つ砲弾が飛び交いました。
その中の一発が本堂の壁を突き破り、柱をも貫通しました。
貫通した砲弾は四斤山砲(よんきんさんぽう)から発射されたもので、弾も貫通した穴も当時のままの状態で寺に保存されています。
当時の戦闘の凄まじさを後世に伝えるため、当時の妙教寺住職が残したそうです。

アームストロング砲


(上野戦争で使われたと言われるアームストロング砲、出典ウィキペディア

ウィリアム・アームストロングが1855年にイギリスで開発した後装式ライフル砲を改良した大砲です。
1858年にはイギリス陸軍に正式採用、新兵器として期待されたため輸出も禁止していましたが、薩英戦争で使用した際に21門中1門が爆発、他の砲でも不発事故が相次いだため信頼を失い生産中止となり、既存の大砲はすべて輸出されました。
輸出されたアームストロング砲の多くはアメリカ南北戦争(1861年~1865年)で使用され、南北戦争終了後に日本へ大量に導入、第二次長州征伐や戊辰戦争で使用され北越戦争、上野戦争でその威力を存分に発揮しました。
当時、佐賀藩が国内生産に成功したと文献には残されていますが、実物は存在せず文献と資料のみが残るだけで、佐賀藩自体の鋳造技術にも疑問が持たれており、その真偽は未だに解明されていません。

開陽丸(かいようまる)


(1867年頃の開陽丸、出典ウィキペディア

開陽丸は老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)によって幕府海軍の主力艦となるべく購入されました。
オランダで建造され1866年(慶応3年)3月25日に横浜に入港、大小あわせて34の砲を搭載、排水量2560t、定員約400名の最新鋭軍艦でした。
1868年(慶応4年)4月、江戸城無血開城後も時の海軍副総裁・榎本武揚は幕府海軍の艦艇の新政府軍への引き渡しに応じず、奥羽越列藩同盟の要請に応じて開陽丸を旗艦とした8隻からなる艦隊で品川沖から脱走、北上します。
仙台、石巻等へ寄航して桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)や土方歳三ら各戦場での旧幕府軍生き残り部隊を収容し蝦夷へ向かいました。
鷲ノ木へ上陸した旧幕府軍は蝦夷地を短期間で攻略し、五稜郭を拠点に蝦夷共和国を建国します。
開陽丸はこの蝦夷地制圧作戦に上陸作戦や新政府軍の軍艦拿捕などで活躍しましたが、江差攻略戦に成功したあとの1868年(明治元年11月15日)、江差沖で暴風雨に遭遇し座礁、救出作戦が展開されますが総員退艦ののち数日後に沈没しました。
蝦夷共和国軍は蝦夷地平定は成し遂げましたが、開陽丸を失ったことで函館の制海権を失い、こののちに行われた新政府軍の上陸作戦を阻止できず、半年後には五稜郭が陥落し蝦夷共和国は全面降伏しました。
日本へ来てからわずか1年8ヶ月、徳川慶喜の大阪脱出、蝦夷へ脱出、各地の海戦などをこなした旧幕府軍最高の軍艦・開陽丸は不運な遭難によって艦の命運が尽きてしまいます。
蝦夷共和国軍にとって開陽丸の沈没は戦力的損失だけでなく、精神的支柱を失なったに等しい事件だったのでした。

戊辰戦争終結後の日本


(ル・モンド・イリュストレの1869年2月20日刊行号内の明治天皇東京行幸の挿絵、出典ウィキペディア

戊辰戦争は函館戦争終結によって武力による統一政府が誕生し、戦勝側による敗戦側の処分が当然のように行われました。
また戦勝側も主導的な藩と追従した藩とでは受けた恩恵が大きく異なったようです。

勝利した新政府軍側の戦後


(島津久光像・原田直次郎筆、出典ウィキペディア

戊辰戦争の勃発時点で新政府軍へ参加し、各方面鎮撫軍の主力として戦った藩の藩主には戦功賞典(永世禄)として禄が与えられました。
主なものは薩摩藩の島津久光、忠義父子と長州藩の毛利敬親・元徳父子の10万石が最高で、次が土佐藩の山内豊信・豊範父子で4万石となっていて鳥取藩の池田、彦根藩の井伊、金沢の前田など新政府軍への参加が早く功績のあった大名家には禄が与えられました。
しかし彼らは明治政府の新しい政治に関与することは出来ず、完全に蚊帳の外におかれた存在となります。
藩主以外では公家の岩倉具視と三条実美(さんじょうさねとみ)の5000石を筆頭に、薩摩藩の西郷隆盛は2000石、大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)が1800石など低いながらも戦功賞典を付与されました。
ただし、彼らは藩主とは異なり明治新政府の重職を担ったり、高級官僚として行政を担当したり、高級軍人として日本軍の近代化に取り組むこととなります。
明治という新時代は古き統治者である大名を必要とせず、新しい感覚や知識を持った人々を必要としたのでした。

敗北した旧幕府軍の戦後


(德川家達・とくがわいえさと、出典ウィキペディア

戊辰戦争の最大の敗北者である徳川家は、徳川慶喜が早い時期に恭順、謹慎の態度を見せていましたが、最後まで新政府軍の敵としての扱いを受けます。
結局、徳川慶喜は死罪を免れますが、徳川宗家は田安亀之助(たやすかめのすけ・德川家達)が相続し、改めて駿河(現在の静岡県)で70万石が下賜されました。
奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩は藩主・伊達慶邦(だてよしくに)は助命されましたが、かわりに家老四人が死罪となり、所領も 62万石から28万石へ34万石も減封されました。
激しい抵抗を行った会津藩も藩主・松平容保は助命されましたが、家老一名が切腹、23万石から陸奥斗南藩3万石へ移されました。
他にも盛岡、庄内、山形、米沢など東北北陸を中心に多くの藩が減封されました。
ほとんどの藩主は責任が回避され助命されましたが、戦争責任を取らされる形で各藩の生き残った家老級の人物が切腹させられました。
函館戦争の首謀者であった榎本武揚や幕府の陸軍奉行まで勤め、函館の地でも新政府軍に逆らった大鳥圭介が投獄されたものの、出獄後は新政府の要人として登用されたのに比べるとその処分が不公平であったことは否定できないようです。

戊辰戦争を題材とした作品

幕末を題材にした映画もテレビドラマも多数製作されていますが、戊辰戦争単体を扱った作品はほとんどありません。
これは戊辰戦争が長期間に渡って戦われた新政府軍と旧幕府軍の局地戦をまとめて名付けられた戦争で、戊辰戦争という戦闘が行われたわけではないからです。
このため戊辰戦争を題材にした作品は一人の人物に焦点を当てた作品か、1つの局地戦を描いた作品になっています。

花神


(靖国神社にある大村益次郎銅像、出典ウィキペディア

長州藩士・大村益次郎を主人公に幕末動乱期から戊辰戦争、新政府誕生までを丁寧に描いた1977年のNHK大河ドラマで、原作は司馬遼太郎(しばりょうたろう)「花神」他、主演は中村梅之助でした。
長州藩の田舎の村医者であった村田蔵六(むらたぞうろく、後の大村益次郎)が人との出会いの中で頭角を表し、長州征伐では幕府軍を翻弄し、戊辰戦争では寛永寺に立て籠る彰義隊をわずか半日で撃退、新政府では初代兵部大輔として軍制改革を行い、日本陸軍の父と呼ばれるまでのストーリーです。
戊辰戦争を長州藩という官軍の中心部隊を構成した側から描いた作品となっています。

八重の桜


(新島八重、出典ウィキペディア

2013年のNHK大河ドラマとして放送された八重の桜は、会津藩の砲術師範であった山本権八(やまもとごんぱち)の娘・山本八重(やまもとやえ)を主人公にして、会津藩主・松平容保の京都守護職就任から、戊辰戦争の会津戦争から会津藩の転封、そして明治維新後の日本を描いたオリジナル脚本による作品です。
会津戦争ではスペンサー銃で官軍兵士を狙撃して倒し、戦後は夫・新島襄(にいじまじょう)を助けて同志社大学の設立に尽力、また日清戦争では看護婦として従軍、医療だけではなく看護婦の地位向上にも尽力した主人公の山本八重(新島八重)には綾瀬はるかを起用、戦争にも怯まずたくましく戦時を生き抜いた女性を描いています。

西郷どん


(西郷隆盛像・エドアルド・キヨッソーネ作版画、出典ウィキペディア

2018年のNHK大河ドラマで西郷隆盛の成長を追いながら、薩摩藩出身で明治維新誕生に功労のあった人物にもスポットを当てた作品で、原作・林真理子、主演は鈴木亮平でした。
夫婦愛や師弟愛、兄弟愛など西郷隆盛を中心とした人々の繋がりは丁寧に描かれていましたが、歴史的エピソードや全体のストーリーに厚みがなく上滑りしている印象がありました。
戊辰戦争には主力として参戦した薩摩藩側から描かれているため、西郷隆盛の功績とされる江戸城無血開城など薩摩藩の活躍と敗者に対する寛大な処分などあくまでも勝利者の目線での作品となっています。
ただ西郷隆盛作品のクライマックスは西南戦争であるため、戊辰戦争自体の扱いは物語の流れのなかでの扱いのみとなっています。

白虎隊・田原坂・五稜郭


(戊辰戦争直後の会津若松城、出典ウィキペディア

1986年~1988年の12月30、31日に日本テレビ系列で放送された年末時代劇スペシャルの幕末三部作です。
原作・脚本はすべて杉山義法で主演も里見浩太朗がすべての作品でつとめました。
白虎隊では会津藩家老・西郷頼母を主人公にして、会津藩主・松平容保の京都守護職就任から大政奉還、鳥羽・伏見の戦いそして会津戦争へと時代の流れに翻弄される会津藩の人々を描いています。
田原坂ではメインが西南戦争のため戊辰戦争は物語の流れのなかでの語られるだけですが、五稜郭では再び戊辰戦争がメインとなり、主人公・榎本武揚の幕臣時代から江戸脱出、北越、会津戦争の敗残兵との合流から蝦夷制圧、そして函館戦争へと戊辰戦争の流れを中心に描かれています。
戊辰戦争を分かりやすく描いている点では白虎隊と五稜郭は一押しの作品と言えます。

戊辰戦争まとめ

徳川慶喜の大政奉還によって平和的に政権委譲が可能な状況が作り出されました
が、坂本龍馬の暗殺によって平和的政権委譲が頓挫すると、新政府軍の倒幕派は旧幕府を挑発し開戦へと持ち込み、鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争が勃発しました。
新政府軍は錦旗を掲げ、天皇の威光を背景に圧倒的な火力と近代的な装備で次々と旧幕府の諸藩を降伏させ勝利を納めました。
しかし、各方面鎮撫軍の対応によって降伏諸藩への処分の度合いが大きく異なり、敗戦と処分の過酷さ、不公平さを恨みに持つ者が多数出て各地にしこりを残す結果となりました。
この結果は過酷な処分を受けることになった会津藩出身者が、西郷隆盛が起こした西南戦争の討伐軍募集に、会津戦争復讐戦の掛け声のもと、旧会津藩ゆかりの者が多数これに応じ、会津戦争の恨みを晴らしたと伝えられています。
戊辰戦争のしこりは会津藩士だけが抱えていたわけではなく、旧士族による新政府への反乱は各地で起こり、このエネルギーが最終的に西南戦争を引き起こしました。
明治新政府誕生の功労者である大久保利通や大村益次郎らも不平士族らによって暗殺され、戊辰戦争後にも多くの血が流れました。
戊辰戦争による政権交代は表面上こそうまくいったように見えますが、内実は日本国全体、日本人の心の中に大きな傷を残してしまったのです。

参考文献

佐々木克「戊辰戦争・敗者の明治維新」中公新書

早乙女貢「会津士魂」 集英社文庫

司馬遼太郎「最後の将軍・徳川慶喜 」文春文庫

市立函館博物館ホームページ
http://hakohaku.com/

※執筆にあたり参考にさせていただいた文献及びホームページです。

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