1867年2月13日(慶応3年1月9日)、幕末の動乱期に弱冠14歳で即位、激動の時代に天皇として徳川幕府と薩長倒幕派の両方からありとあらゆる工作を受け、数多くの難題に直面しながらも、時代を乗りきらねばならなかった明治天皇とはどんな人物だったのでしょうか?
明治天皇の生涯を追いかけながら、その功績や残された言葉など近世の歴史に残されたエピソードを紹介していきたいと思います。
目次
明治天皇の人物像
誕生
1852年11月3日(嘉永5年9月22日)13時頃、京都石薬師(現在の京都市上京区)にある母・中山慶子(なかやまよしこ)の実家・権大納言中山忠能(なかやまただやす)邸で誕生、生後8日目に祐宮(さちのみや)と命名されました。
崩御
1912年(明治45年)7月29日22時43分、持病の糖尿病を悪化させ尿毒症を併発し満59歳で崩御しました。
死亡時間について宮内庁の公式発表は7月30日午前0時43分となっていますが、これは新天皇が行う崩御当日の儀式のスケジュールを行うのに、時間が足りないことを考慮したため日付を越えて時間が公表されました。
明治天皇の人となり
明治天皇の趣味、嗜好
明治天皇の趣味は多岐にわたっていましたが、和歌や乗馬、蹴鞠や刀剣の収集などがよく知られています。
「よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな」
和歌に関しては自らが詠んだ御製(ぎょせい)が九万三千首以上あると言われており、蹴鞠は自身で蹴るだけでなく保存にも尽力し、飛鳥井家の蹴鞠を後世に伝えるために蹴鞠保存会を勅命と下賜金によって発足させています。
刀剣の収集については最早マニアの域に達しており、明治14年(1881年)の東北巡幸で上杉家を訪問した際には、上杉謙信公以来の刀剣の数々を夢中で閲覧しているうちに、スケジュールの時間を大幅に越えてしまい、翌日の公務スケジュールをキャンセルするという前代未聞の失態を犯してしまいました。
また聖武天皇(しょうむてんのう)の佩剣と伝えられる水龍剣(すいりゅうけん)や楠木正成(くすのきまさしげ)の佩刀と伝えられる小竜景光(こりゅうかげみつ)を常に帯刀しており、数多くの名刀を収集してそれを見るだけに留まらず、試し切りを行い歯こぼれさせるなど刀剣への執着は相当なレベルだったと言われています。
公務の合間には当時の最先端技術であったレコードで、唱歌や詩吟をよく聴いており、特に琵琶歌は上手くはなかったと伝えられていますが自身で唄うほどお気に入りだったようです。
皇居の女官や皇后を自身で付けたあだ名で呼んだり、夜に女官たちと大好きな日本酒を飲みながら談笑するなど、お茶目な一面も持ち合わせていました。
皇室のタブーであった牛肉を口にし、牛乳やワインを飲み西洋化していくことを国民に見せながらも、西洋文学や教育は否定的にとらえており、教育は儒学を基本とすべきと考えていました。
明治天皇の生涯年表
1852年11月3日(嘉永5年9月22日) | 中山忠能邸で誕生。 |
---|---|
1852年11月10日(嘉永5年9月29日) | 祐宮(さちのみや)と命名される。 |
1860年7月10日(万延元年8月26日) | 儲君(皇太子)に定められる。 |
1860年11月10日(万延元年9月28日) | 親王宣下により睦仁(むつひと)の諱名(いみな)を賜る。 |
1864年8月20日(元治元年7月19日) | 禁門の変が発生、翌日には宮中に不審者が多数侵入する騒動があり、卒倒する事故を起こす。 |
1867年1月30日(慶応2年12月25日) | 孝明天皇(こうめいてんのう)が崩御。 |
1867年11月9日(慶応3年10月14日) | 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)により大政奉還が上奏される。翌日これを勅許する。 |
1868年1月3日(慶応3年12月9日) | 王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言する。 |
1868年1月5日(慶応4年12月11日) | 戊辰戦争始まる。 |
1868年4月6日(慶応4年3月14日) | 五箇条の御誓文を発布。 |
1868年10月12日(慶応4年8月27日) | 内裏(京都御所)にて即位の礼を執り行う。 |
1868年10月23日(慶応4年9月8日) | 改元の詔書を発し、明治と改元する。 |
1868年11月26日(明治元年10月13日) | 江戸に行幸し江戸を東京へ、江戸城を東京城へ改称(東京奠都・とうきょうてんと)。 |
1869年7月25日(明治2年6月17日) | 版籍奉還の上奏を勅許。 |
1871年8月29日(明治4年7月14日) | 廃藩置県を執行し中央集権体制確立。 |
1873年(明治6年) | 征韓論を巡って起こった政府内の対立、明治六年政変では、勅旨によって西郷隆盛(さいごうたかもり)の朝鮮派遣を中止させる。 |
1875年(明治8年)4月14日 | 立憲政体の詔書を発して政治体制の改革を行う。 |
1881年(明治14年)10月12日 | 国会開設の詔を発して議会の創設時期を明文化し、自由民権運動の沈静化をはかる。 |
1882年(明治15年)1月4日 | 軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を発する。 |
1889年(明治22年)2月11日 | 大日本帝国憲法を公布。 |
1890年(明治23年)10月30日 | 教育ニ関スル勅語(教育勅語・きょういくちょくご)が発布される。 |
1894年(明治27年)7月16日 | 日英通商航海条約締結。 |
1894年(明治27年)7月25日 | 日清戦争勃発。 |
1895年(明治28年)4月17日 | 日清戦争終結。 |
1902年(明治35年)1月30日 | 日清戦争終結。 |
1902年(明治35年)1月30日 | 日英同盟が締結される。 |
1904年(明治37年)2月8日 | 日露戦争勃発。 |
1905年(明治38年)9月5日 | 日露戦争終結。 |
1912年(明治45年)7月30日 | 崩御。 |
明治天皇の功績と偉業
即位直後の明治天皇の決断
天皇に即位して最初の決断となったのは、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に徳川慶喜が上奏した大政奉還でした。
明治天皇の側近を始め、朝廷全体としては拒否の方向で動いていましたが、土佐藩や薩摩藩の重役及び慶喜本人による説得によって、明治天皇はこれを受け入れ上奏を勅許しました。
その次の王政復古の大号令を発令しての新政府樹立宣言や、戊辰戦争勃発時の薩摩、長州を中心とする討幕軍へ錦旗と節刀を与えて官軍としたことについては、後ろで糸を引く岩倉具視(いわくらともみ)の姿が見え隠れしますが、表向きは明治天皇が行ったことになっています。
このあとの五箇条の御誓文の発布、東京奠都、版籍奉還、廃藩置県など矢継ぎ早に出された新政府の施策に勅許を与えたことに関しては、発言力が大きくなった参議である西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)らの影響が強く出た結果だと思われます。
政争を調停する明治天皇の英断
1870年2月3日(明治3年1月3日)、大教宣布詔(たいきょうせんぷのみことのり)が発せられ、神道が国教化(国家神道)されると、明治天皇は絶対不可侵、神格化され宮廷改革とともに岩倉具視、大久保利通らによって天皇新政体制へと変革され、天皇が出す勅旨(ちょくし)の効力は絶大となりました。
最初にこの勅旨が効力を発揮したのが、1873年(明治6年)の明治六年政変(征韓論を巡る政争)で、西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させ岩倉具視、大久保利通らと西郷隆盛、江藤新平らの対立に終止符をうちました。
翌年の1874年(明治7年)~1875年(明治8年)に起こった自由民権運動に対しては立憲政体の詔を発して政治改革を断行し、1881年(明治14年)に国会開設の勅諭によってこれを沈静化させました。
この後も政治的対立が起こったときには明治天皇の勅旨によって調停される案件が多くあり、特に1890年(明治23年)帝国議会が開設された当初は、藩閥政府と政党勢力の対立を調停する役割を明治天皇が果たす場面が多く見られるようになりました。
明治天皇の考え方と功績
明治天皇は政治的な面では調停者として、日本の舵取りに大きな役割を果たしましたが、それ以外の面でも多くの功績を残しました。
1882年(明治15年)1月4日、帝国陸海軍すべてを「天皇の軍隊」と規定し、軍人の基本姿勢や政治不関与を明文化した軍人勅諭が発せられました。
これ以降、明治天皇は前線兵士と同じ境遇で過ごすことを旨とし、真冬でも暖房は火鉢一つ、真夏でも軍服を脱ぐことなく執務を行うなど自己を律し、国民の模範となるべく過ごしました。
また日清、日露戦争では大本営において作戦などに積極的に関与し戦争指揮を自ら取りました。
日英同盟の締結や日露戦争の勝利によって明治天皇は、1906年(明治39年)にイングランド最高勲章のガーター勲章をイギリスより授与されています。
社会貢献でも明治天皇は大きな功績を残しており、1911年(明治44年)2月11日に済生勅語にもとづいて、皇室から150万円を支出して済生会を創設しました。
済生会は現在では皇嗣となられた秋篠宮文仁親王(あきしののみやふみひとしんのう)を総裁に迎え、全国40都道府県で医療機関と福祉施設を運営する日本最大の福祉法人となり、金銭的に恵まれていない国民に医療を施すなど、日々日本国民の生命と健康を守るために活動しています。
明治天皇が残した言葉
「旅順はいつか陥落するに違ひないが、あの通り兵を殺しては困つた。乃木も宜いけれども、あゝ兵を殺すやうでは実に困るな」
日露戦争最大の攻防戦となった旅順攻略戦の戦況報告と戦死者の名簿に目を通しているときに発した言葉です。
明治天皇は旅順攻略で戦死した5万9千名に及ぶ兵士すべての名前を閲覧しており、相当に心を痛めていました。
その時に旅順攻略戦の司令官であった乃木希典(のぎまれすけ)に対する懸案を言葉に表したものです。
ただ、旅順攻略に多くの被害を出し、時間も浪費していた乃木大将の解任に関しては否定的で、
「よい、よい、其儘(そのまま)でよい。乃木にさせろ」
と乃木を擁護する発言をしていました。
この乃木希典に対する明治天皇のお心遣いが、崩御の際の乃木希典殉死に繋がって行くのです。
明治天皇が後世に形にして遺した最大のものは9万3千首以上と言われる御製(天皇が自作した和歌のこと)です。
その中から代表的なものを2首あげておきます。
世の中の 人の司となる人の 身のおこなひよ 正しからなむ
(組織などで人の上に立つ事のある人は、自分自身の行いが常に正しいかを自身で考え、問続けながら行動しなければならない。)
ならび行く 人にはよしや 後るとも 正しき道を ふみな違へそ
(仕事や勉強をしていて、たとえ他人よりも遅れをとることがあっても、正しい行いをして、人としての道を踏み外してはならない。)
明治天皇崩御
公式発表1912年(明治45年)7月30日午前0時43分(実際は7月29日22時43分)、明治天皇は59年の生涯を閉じました。
死因は糖尿病の悪化による尿毒症でした。
明治天皇の晩年はこの糖尿病に相当悩まされており、好きな日本酒の量も減らしていたと言われています。
7月に入った頃には歩行も困難になっており、日中でも強い睡魔に教われることもしばしばあり、枢密院会議の最中に居眠りすることもあったと伝えられています。
このため自身の健康に相当な不安を抱えていたようです。
1912年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山にある大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑に当たる)において大喪の礼が執り行われ、イギリスやドイツ、スペインからは親王が、アメリカやフランス、ロシアなどからは高位の外交官に当たる特派大使が参列しました。
このあと明治天皇の棺は新調された御霊柩列車(ごれいきゅうれっしゃ)に乗せられて、東海道線を経由して京都の伏見桃山陵へと運ばれ9月14日に埋葬されました。
明治天皇崩御は各国でも報道され、明治天皇に対する論評とされました。
おおむねその功績を称える評価が多い中で、アジアや中東、アフリカ等の有色人種国家では「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と特に高い評価を受けています。
明治天皇ゆかりの場所
伏見桃山陵(ふしみももやまりょう)
京都府京都市伏見区にある明治天皇が埋葬された上円下方墳の陵墓で桃山御陵(ももやまごりょう)とも呼ばれています。
もともとは豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築いた伏見城本丸の跡地で、京都に墓所を望まれた明治天皇の遺言によってこの地が陵墓となりました。
桓武天皇(かんむてんのう)の柏原陵が近くにあり、明治天皇の皇后であった昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は
伏見桃山陵の東隣の伏見桃山東陵に埋葬されています。
なお、明治天皇までの歴代天皇はすべて近畿地方よりも西に陵墓が作られましたが、大正天皇(多摩陵)、昭和天皇(武蔵野陵)は史上初めて近畿地方以東となる東京都八王子市に埋葬されました。
聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)
明治天皇崩御後に大喪の礼が行われた大日本帝国陸軍練兵場(青山練兵場・現在の東京都新宿区)跡地に、1919年(大正8年)3月5日着工、 1926年(大正15年)10月22日竣工した明治神宮外苑の中核施設です。
建物には明治天皇と皇后(昭憲皇太后)を描いた絵画を史実に基づいた年代順に、日本画40点、洋画40点の合計80点が展示されていて、画家は当代一流の人物ばかりで、中学、高校の教科書に掲載されている大政奉還の絵も本館に所蔵されています。
建物は国の重要文化財に指定されていて、運営管理は宗教法人明治神宮が行っています。
開館時間は9:00~17:00で年中無休(年末年始を除く)で大人500円、中学生以下200円必要です。
広島大本営
1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日まで日本と清国との間で起こった日清戦争時、広島城(現在の広島市中区基町)に設置された大日本帝国軍の最高統帥機関が広島大本営です。
広島城の本丸跡地に1873年(明治6年)1月9日 、広島鎮台司令部として設置され1888年(明治21年)5月14日に編成された大日本帝国陸軍第5師団の司令部として引き継がれた建物を大本営として使用しました。
明治天皇は1894年(明治27年)9月5日に広島大本営に入ると1895年(明治28年)4月27日に京都へ大本営を移すまでの間、ここで日清戦争の指揮を取り、公務もここで行いました。
このため第7回帝国議会は急遽建設された広島臨時仮議事堂にて行われ、明治天皇以下内閣、国会、軍部が広島へ集積することとなり、東京から首都機能が臨時に移転した状態となりました。
日清戦争の大本営が広島に設置された理由は、東京を起点とする鉄道網(東海道線経由、山陽道線)の西端が広島であった事と、大型船舶が出入り出来る港(宇品港)が存在したことで広島が兵站(へいたん)基地となったため、ここへ大本営を設置することが決定したのです。
明治天皇の子孫
明治天皇の父・孝明天皇には後継男子たる親王は明治天皇しかおらず、若年の頃から後継天皇として育てられました。
第122代天皇になったあと公務と共に、後継天皇の誕生に期待が掛かりましたが、死産や早世する子が多く、結局成人まで成長したのは第123代天皇となった大正天皇(たいしょうてんのう)のみでした。
このため大正天皇が即位した時には、直系の皇位継承者不足の危機にありましたが、大正天皇にはのちの昭和天皇(しょうわてんのう)、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)、高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)、三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)となる4人の男子に恵まれ、皇位継承不足の危機を脱したかに見えました。
しかし、秩父宮雍仁親王と親王妃勢津子(しんのうひせつこ)、高松宮宣仁親王と親王妃喜久子(しんのうひきくこ)の間に子女が産まれることはなく、秩父宮家と高松宮家は断絶することとなりました。
三笠宮崇仁親王と親王妃百合子(たかひとしんのうひゆりこ)の間には、寛仁親王(ともひとしんのう)、桂宮宜仁親王(かつらのみやよしひとしんのう)、高円宮憲仁親王(たかまどのみやのりひとしんのう)と3人の男子に恵まれましたが、残念ながらそれぞれの宮家は後継者男子に恵まれることなく、親王妃及び内親王の死去または皇籍離脱によって断絶が決まっています。
昭和天皇には第125代天皇(現・上皇)と常陸宮正仁親王(ひたちのみやまさひとしんのう)の2名の男子に恵まれました。
第125代天皇には徳仁親王(なるひとしんのう、第126代天皇)、と秋篠宮文仁親王(現・皇嗣)の2人の男子に恵まれたしたが、常陸宮正仁親王には残念ながら後継男子には恵まれず、このままでは断絶になる可能性が高そうです。
第126代天皇には2020年時点で後継男子に恵まれていませんが、秋篠宮家には悠仁親王(ひさひとしんのう)が2006年に誕生しており、現在のところ皇位継承問題は沈静化しています。
明治天皇を題材にした作品
明治天皇を正面から描いた作品はほとんどなく、映像化された映画やテレビドラマはほとんど存在しません。
1950年代に嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)主演で新東宝にて明治天皇を主役にした映画が製作公開されていますが、残念ながら筆者は見たことがありません。
主役ではありませんが、明治天皇が印象的に描かれている映画と言えば1980年公開の東映映画「二百三高地」と2003年にワーナー・ブラザース配給で公開された「ラストサムライ」になると思います。
二百三高地では重厚な演技で神聖不可侵な統治者たる天皇を見事に三船敏郎が表現しました。
ラストサムライでは苦渋の決断に悩む若き君主を二代目中村七之助が演じています。
テレビドラマではTBSが製作した二百三高地のテレビ版「二百三高地 愛は死にますか」で6代目市川染五郎(現・二代目松本白鸚)が端正な顔立ちの男前な明治天皇を演じています。
また2009年のNHK製作のスペシャルドラマ「坂の上の雲」でもやはり男前な歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助が明治天皇を演じており、ビジュアル的な明治天皇は映画「二百三高地」の三船敏郎を除けば、見た目は線の細い優男的な男前ながら、実際は芯のしっかりした青年君主というイメージのようです。
明治天皇まとめ
江戸から明治へと時代の大転換の時に、若くして天皇の座についた明治天皇は、大政奉還が上奏されたときでもまだ14歳で、一人で政治的な判断をするのは難しかったと思われます。
側近には摂政・二条斉敬(にじょうなりゆき)らが控えていましたがその政治力は甚だ頼りなく、朝廷が大政奉還に関して否定的であったにも関わらず、薩摩の小松帯刀(こまつたてわき)、土佐の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らに押しきられてしまって、大政奉還は成立しました。
新政府誕生後は三条実美(さんじょうさねとみ)、岩倉具視(いわくらともみ)らが側近になりますが、今度は担がれた神輿と変わりなく、日本国の統治者たる飾りのような立場でした。
しかし明治10年代、明治天皇が20歳半ばの頃には、西洋的な教育論や文学などを懐疑的に見ていた時期があり、これら教育による日本の荒廃を恐れ、天皇自身が政局の主導権を積極的に握り、天皇親政を行おうと考えていた時期がありました。
初代内閣総理大臣・伊藤博文は、立憲国家建設のためこの明治天皇の考えや行動を恐れ、天皇との間に1886年(明治19年)9月7日、機務六条(きむろくじょう)の契約を交わして、明治天皇に立憲君主としての立場を受け入れさせ事実上、天皇親政を放棄させました。
これらの事からわかるように、明治天皇がただ単に担がれただけの暗愚な君主ではなく、日本の行く末を真剣に愁い、より良き方向を見いだそうと日々苦心していた事がわかります。
戦場で戦う兵士と共にあり、貧困層の人々のために腐心する明治天皇は、
「日本人の手本であること」
を目指し、この一言に君主としてのあり方を示した人物だったのです。
参考文献
大佛次郎「天皇の世紀」 文春文庫
山岡荘八「明治天皇」講談社
ドナルド・キーン、角地幸男訳「明治天皇」新潮文庫