野口英世は明治後期から昭和初期にかけて活躍した医師です。幼い頃の左手の火傷にめげずに努力を重ねて医師となり、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補にもなりました。お札の肖像にも選ばれているので、私達には馴染み深いかもしれません。
昔から努力の人として、数々の伝記でも紹介される野口ですが、その実像については詳しく知らない人も多いでしょう。今回は野口英世の生涯や人物像について解説していきます。
目次
野口英世のプロフィール
氏名 | 野口英世(元々は清作だが、22歳で改名) |
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誕生日 | 1876年11月9日 |
出身地 | 福島県耶麻郡三ッ和村 |
誕生日 | 1928年5月21日 |
没日 | 英領ゴールド・コースト |
没地 | O型 |
血液型 | 医師 細菌学者 |
身長 | 153cm |
体重 | 44kg〜60kg |
配偶者 | メリー・ロレッタ・ダージス |
野口英世の人生年表・生涯
野口英世が医師になるまで
年 | 出来事 |
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1876年(0歳) | 野口英世誕生 |
1878年(1歳) | 左手に大火傷を負う |
1892年(15歳) | 左手の手術をきっかけに医師を志す |
1893年(16歳) | 会陽医院に書生として住み込みで働き、医学の勉強をする |
1896年(20歳) | 医学界業試験に合格 |
小さい頃の大火傷
野口英世は1876年に福島県の三ッ和村(現・猪苗代町)で誕生します。1歳の頃に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、左手が動かなくなりました。農作業が困難な事から学問で身を立てる事を母に諭され、熱心に勉強に取り組みました。
学校で虐められる事はあったものの、ある日野口が作った「左手の不自由を訴えた」作文が大きな影響を与えました。左手の手術をする為の寄付金が集まり、渡部鼎というアメリカ帰りの医師に手術を受ける事ができたのです。僅かながら左手が動くようになり、野口は医師を志しました。
様々な功績を残す
年 | 出来事 |
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1898年(22歳) | 伝染病研究所助手として勤務する |
1904年(28歳) | ロックフェラー研究所に招かれる |
1913年(37歳) | 進行性麻痺・脊髄癆と梅毒スピロヘータの関連性を証明する |
1914年〜1918年(38歳〜42歳) | 3回にわたりノーベル賞候補となる |
伝染病研究所で頭角を現す
医師免許取得した野口でしたが、開業資金がない事や左手を患者に見られなくないと思い、基礎医学研究者の道を歩みます。1898年には北里柴三郎が所属する伝染病研究所助手として勤務します。ここでは研究ではなく語学を活かした論文の翻訳や、外国人の通訳等を任されます。
1899年には横浜港検疫所検疫官補で任務するようになり、清国でのペスト対策班として抜擢されたり、アメリカのペンシルベニア大学で蛇毒の研究をする等、多忙な日々を送りました。
ロックフェラー研究所に招かれる
1904年にはアメリカのロックフェラー研究所に招かれます。1913年には進行性麻痺・脊髄癆と梅毒スピロヘータの関連性について証明する事が出来、翌年にはロックフェラー医学研究所正員に昇進しています。
黄熱病の研究
年 | 出来事 |
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1918年(42歳) | 黄熱病の病原体発見のためエクアドルに渡る |
1920年(44歳) | ペルーに訪問し、オロヤ熱およびペルー疣という風土病を入手 |
1927年(51歳) | アフリカに黄熱病研究の為に出張。 |
1928年(52歳) | 黄熱病に感染し死去。 |
黄熱病ワクチンの研究に携わる
慈善企業団体ロックフェラー団体の要請にて、未だにワクチンのなかった黄熱病の病原体発見の為に、流行真っ只中のエクアドルに渡ります。野口は黄熱病とワイル病が似ている事に着目し、ワイル病に適応する培養法を適用し、黄熱病の病原体を突き止める事に成功。エクアドルでの流行終息に貢献します。
その他には、ペルーで流行していたオロヤ熱およびペルー疣の病原体が同じである事を突き止めています。
ガーナへ渡る
黄熱病の権威となった野口でしたが、各地で発生した黄熱病に対して野口が開発したワクチンが効かないという報告が相次ぎました。野口は1928年に英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)に渡り、再度黄熱病について研究を続けました。
野口英世の死因と最期
野口の死因は黄熱病でした。野口は1928年11月16日に領ゴールド・コーストに到着後、12月26日にはウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの話を聞き、現地へ向かいます。
翌年の1月2日に軽い黄熱病と思われる症状を発症しますが、7日には退院しています。一度感染すると生涯感染しないとされる黄熱病ですが、実は野口が感染していたのはアメーバ赤痢という全く違う病気だったのです。
その後、研究を再開しますが5月11日に体調が悪化し、13日には黄熱病と診断を受けました。見舞いに来た知人の博士に、「(なぜ1度感染した黄熱病に感染したのか)どうも私には分からない」と発言。これが最後の言葉になったとされます。
5月18日に症状が悪化し、21日に病室で死去しました。
野口英世の性格
努力を忘れぬ人
野口は昔から努力を続ける人でした。左手に大火傷を負ってからは勉強を続けて結果を残し、医師になる為に住み込みで働いて勉強をしています。黄熱病に必要なワクチンを作る為に、黄熱病が蔓延する危険な流行地に赴いています。
そこから見えるのは、障害を負っても国籍が違えど、自分が掲げた目標の為に努力を続ける姿勢です。障害を乗り越えて世界的権威になった野口の姿は、大正時代においては日本の象徴的存在でした。
お金にはだらしなかった
努力の人であった野口ですが、お金にはだらしなかったようです。具体的なエピソードは以下の通り
20歳の時に医学試験を受ける為に上京し、恩師や知人から40円(現在の80万円)もの餞別をもらうが、ギャンブルやお酒に使い果たし2ヶ月で底をつきる
野口英世のお金にだらしなかったエピソード1
アメリカ留学の際に500円(現在の1000万円)もの援助を受ける。その中には当時婚約していた斉藤ます子の婚約持参金も含まれていたものの、芸者遊びに殆ど使ってしまう
野口英世のお金にだらしなかったエピソード2
野口は努力家ではあったものの、同時に破天荒な性格でもありました。
野口英世の研究成果・功績は?何をした人だった?
黄熱病の研究
野口は1918年に黄熱病研究の為にエクアドルに訪問。黄熱病と思われる病原菌を発見し、それをもとにワクチンを作り流行を終息させています。これは野口の最大の功績とも言われ、当時はノーベル賞候補にもなった程です。
しかしこの時に野口が発見したのは、実際には黄熱病ではありませんでした。野口は黄熱病は細菌だと考えていたものの、実際にはウイルスであり、当時の顕微鏡では確認出来ないものでした。結果的に野口は細菌説を提唱したまま、志半ばで亡くなっています。
梅毒菌の研究
野口は1913年に、進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳内に梅毒スピロヘータが存在している事を突き止めます。つまり進行性麻痺ら梅毒が進行する事で起こりうる病気である事を発見したのでした。
ちなみに1911年8月に野口は病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した事を報告し、世界的に名が知られるようになりました。ただそれ以降、野口の方法で追試に成功した者はおらず、野口の方法は現在では否定されています。
オロヤ熱とペルー疣の研究
野口は1920年にペルーに訪問した際に、現地でオロヤ熱とペルー疣という風土病がある事を聞きます。この2つの風土病は同一病原であるのか長年にわたり議論されていました。
野口は猿による実験等を経て、これらが同一病原である事を突き止める事に成功。長年の議論に終止符を打ちました。
現在では否定されている功績も多い
医療とは日進月歩なので、当時は事実と思われた事柄が現在では否定されている事も珍しくありません。野口の成果についても、トラコーマ病原体の発見が後年に否定される、黄熱病がウイルスである等の誤りも知られています。
ただ様々な反証を経て医療は進歩していきます。野口が行った研究は、現在の医療にも大きく貢献している事は間違いありません。
野口英世のエピソード・逸話
本当の名前は清作だった?
実は野口英世という名前は改名によって生まれた名前です。野口は坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだ時、小説の中に野々口精作という人物が出てくる事に気づきます。
精作は借金を重ねつつ自堕落な生活を送る人間であり、野口も同じく借金をしがちだった為、「野々口精作は野口清作がモデルではないか?」と邪推される事を恐れたのです。
当時でも改名はなかなか認められない時代です。野口は別の集落に住んでいた清作という人物に頼み込み、自分の家の近くの野口家に養子になってもらいました。そして、「近所に野口清作が2人いるのはややこしい」という理由を作り上げて、改名に成功したのです。
口のうまさは天下一品
野口が世界的な権威なった背景には弁舌の上手さもありました。ある時は友人に借金を重ねる為、ある時は改名をする為、巧みな交渉術を発揮しています。もしかしたら医者でなくても、弁護士等や政治家としても成功したかもしれませんね。
野口英世の名言
志を得ざれば、再び此処を踏まず
野口が医師免許を取得する為に上京した時に、家の床柱に刻んだ名言です。目的を果たすまで帰ってこないという野口の強い覚悟が伝わってきますね。
家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである。
手に火傷を負い、農業が出来ないと分かった時、野口は勉強を何よりも頑張りました。いわば体の不自由さをバネにして野口は一流の医師になったのです。自分の頑張りで、周りの人間も環境も変える事が出来る。野口らしい名言ですね。
誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者。それが天才だ。
野口は外国で研究を続けた際、「日本人は寝ないのか?」と言われる程に研究を頑張りました。まさに野口は努力の天才だったと言えるでしょう。
野口英世の家族構成・子孫
野口英世の両親
野口英世は佐代助(1851〜1923年)とシカ(1853〜1918年)の長男として生まれました。2人は1872年に結婚。佐之助は郵便配達員として働き、シカは農業を営んでいます。
シカは、自分のせいで野口が火傷になったと感じており、生涯その事を悔やんでいました。その為野口が世界的に有名になる事にとても喜びを感じていました。しかし「息子が向こうで元気でやっているのなら、それで良い」と自慢する事はなかったそうです。
野口英世の兄弟
野口には姉のイヌ(1874〜1963年)と弟の清三(1887〜1943年)がいます。清三という名前から分かる通り、早逝した弟もいたようですね。
野口は医者になる事を望んだ為、野口家はイヌが養子を迎えて存続させました。イヌは5人の子供に恵まれた他、野口英世記念館の仕事にも携わったそうです。
清三は野口の11歳下。子どもの頃の野口は母や姉の代わりに清三の面倒を見ていたそうです。清三は北海道にわたり結婚した為、野口と会う機会はほとんどありませんでした。
メリー・ロレッタ・ダージス
野口の妻です。野口はニューヨークで生活していた頃に意気投合し1911年に結婚しました。メリーは優しく大らかな人柄だったそうです。2人の間に子どもはいませんでした。
メリーは野口の死去後、遺産や遺族年金を工面して義理の姉のイヌに仕送りを続けたそうです。
野口英世のゆかり地
野口英世記念館
野口の生家を改良したもので、1939年に開館。野口が手の火傷を負った囲炉裏はそのまま残され、貴重な遺品・資料が展示されています。2019年には登録有形文化財にも登録されており、興味がある人は足を運んでみましょう。
住所 福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字前田81
ウッドローン墓地
マンハッタンから車で40分。こちらに野口英世のお墓があります。160haの土地に30万人が埋葬されており、野口英世の他にも高峰譲吉のお墓もあるそうです。
住所 ニューヨーク市地下鉄4系統ウッドローン駅下車
また国内にも一応野口のお墓があり、こちらは野口英世記念館と同じ町内にあります。もし記念館を訪れた人は是非、手を合わせに行きましょう。
住所 猪苗代町三ツ和字三城潟982
野口英世の関連人物
北里柴三郎
野口には国内外問わず多くの関連人物がいます。その中の1人が北里柴三郎です。野口は1898年に北里が所長を務める伝染病研究所で働いていました。
野口は研究所の本を売却するというとんでもない事をして、研究所勤務から外されています。しかし北里は新たな就職先として、再就職先として横浜港検疫所検疫官補への斡旋を図るなど、野口の才能を高く評価していました。
北里柴三郎は2024年に新たな紙幣の顔になる事が決まっています。2人の功績は紙幣の顔という形で受け継がれているのです。
野口英世の関連作品
野口英世の関連作品は数多くあり、今回はその中の一部を紹介しますね。
遠き落日
野口英世といえば、子どもに紹介したい人物として必ず上位に浮上する人物ですが、果たして実像はどうなのでしょうか?この本は野口英世のプラスの面、マイナスの面も暴き出す伝記小説です。お金や女性関係にだらしなかった一面等、少し見方が変わるかもしれませんね。
ちなみにこちら、上下巻となっています。
野口英世 (やさしく読める ビジュアル伝記)
子どもに野口英世の生涯を知ってもらう際にオススメの1冊です。子ども向けの野口英世の書籍は多々あるものの、こちらは豊富なカラーイラストに加え、人物ガイド等の分かりやすい工夫がたくさんあります。
おすすめの動画
遠き落日[DVD]
野口の生涯を映画にしたものです。成長した野口を三上博史が、母のシカを三田佳子が演じています。1992年の作品ですが、未だに色褪せない名作です。
野口英世伝 光は東方より
こちらは1976年に放送されたドキュメンタリードラマです。DVD化もされていない為、視聴する事は困難なものの、内容としては偉人としての野口ではなく、人間臭さを全面的に押し出した作品です。
いつかDVD化されると良いですね。
野口英世についてのまとめ
今回は野口英世の生涯や人物像について解説しました。野口は確かに努力家であったものの、借金を重ねる等、自堕落な一面もある人物です。ただ火傷のハンデに負けず、世界的に有名になった事実は間違いありません。
努力をする事、不幸な境遇に負ける事なく、自分の進むべき道へまっすぐ進む。なかなか出来る事ではありませんね。今回の記事を通じて野口英世の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
遠き落日(上下) 渡辺淳一
明治の人物史 星新一
http://noguchihideyo.net/kazoku.html