卑弥呼とは どんな人? ~時代・子孫・都市伝説も解説~

卑弥呼は三世紀(西暦242〜248年)頃の日本で、「倭国」の女王だった人物です。学校の授業でも必ず習うので、耳にした人も多いかもしれません。

しかし当時の日本には「文字」がなく、卑弥呼については中国側の断片的な情報でしか判断する事は出来ません。その素性や倭国の概要は未だに様々な議論が交わされています。今回の記事では知られざる卑弥呼や素性について迫っていきますね。

卑弥呼とは?

卑弥呼とは?

(卑弥呼像 出典:Wikipedia)

氏名卑弥呼(日本側の名前は不明)
通称・あだ名卑弥呼(卑弥呼が通称の可能性あり)
出生日不明
出生地不明
死没日242年~248年頃
死没地邪馬台国?
職業倭国の女王
配偶者なし

 

卑弥呼って実在したの?

卑弥呼って実在したの?

(魏志倭人伝の原本 出典:Wikipedia)

 

結論から言えば「ひみこという女王」は実在しています。ただ卑弥呼が生きた3世紀頃、日本には文字がありませんでした。学術的に最も古い文字記録は471年(異説あり)であり、それ以前の記録は「日本側」には残されていないのです。

卑弥呼の存在を書き記しているのは、中国の歴史書「魏志倭人伝」です。正確に言えば「三国志」の「魏書」第30巻の「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に卑弥呼や倭国、ひいては邪馬台国の記述があります。

つまり三国志の中に「倭人伝」という記述があるわけではないのです。ただ当時の日本について記されているのはこの記述のみ。私達はこれらの記述を元に卑弥呼が実在した女王である事、当時の日本に倭国という国があった事を知る事ができるのです。

卑弥呼についての謎は多く、今後も全てが解明される事はないでしょう。だからこそ、私達の心を惹きつけるものがあるのです。

卑弥呼は正式な名前ではない

卑弥呼は正式な名前ではない

(卑弥呼の名前には中華思想の影響がある 出典:Wikipedia)

皆さんは卑弥呼という名前を聞いて違和感はありませんか?卑という漢字には「身分が低い」「下品」などの意味合いがあります。一国の女王が自分から名乗る名前ではありません。魏志倭人伝で「卑弥呼」と称されているのは、中国側が「ひみこ」という音に漢字を当てはめたものです。

当時の中国は圧倒的な文明を誇り、他の国々は野蛮だと考えていました。周辺諸国の国々や国王にわざと見下した名前をつけたのです。

例えば後ほど登場する「倭国」の倭という字には「いやしい」という意味があります。更に卑弥呼が住んでいた「邪馬台国」の邪には「よこしま」という意味がある他、馬という動物の名を使用したのも中国側の意図です。

つまり中国側が「ひみこ」と聞いただけで、発音も違う可能性があるのです。

卑弥呼の時代ってどんな時代?

卑弥呼の時代ってどんな時代?

(仁徳天皇陵とされる大仙古墳 出典:Wikipedia)

 

卑弥呼の生きた時代は3世紀。今から約1800年も前の事です。時代区分としては弥生時代後期から古墳時代前期となります。この時代には日本に文献がない為、中国側の文献や当時の遺跡などから時代背景を推測していくしかありません。

当時の中国

文字が存在しない倭国に比べると、当時の中国は物凄く発達していました。184年には黄巾の乱の蜂起が起こり、220年には帥升が朝貢していた後漢が滅亡。229年には魏・蜀・呉の王朝がそれぞれ皇帝が立つ三国時代が到来しています。

ちなみに倭国は三国時代の中では魏に使いを送っていました。この時代は中国近隣の国々は、中国皇帝に各国の君主が貢物を献上する朝貢を行い、皇帝側がその返礼として恩恵を与えています。

中国と良好な関係を築く事で、その国は中国の軍事的な圧力を回避できます。また中国の後ろ盾を得る事で、その国王の発言力も大きくなります。

中国の文献から読み解く時代背景

中国の文献から読み解く時代背景

(漢委奴国王印 出典:Wikipedia)

 

中国の書物には卑弥呼が女王になる前の日本の状況も記述されています。

漢書地理志によると紀元前2世紀から紀元前後にかけて、倭人(日本に住む人々)が漢王朝へ朝貢をしていると記載あり。更に「奴国」という現在の福岡県辺りにあった国が、57年頃に後漢の光武帝から金印(委奴国王印)の賜与を受けています。
この頃には九州北部の倭人の小さな国が統合され、奴国が代表国として後漢に使者を遣わせたものと推測されているのです。

その後、107年には倭国の帥升という人物が後漢に使者を使わせています。帥升は歴史上、初めて名前が確認される倭人です。帥升は「倭国」の王を称し、生口(奴隷)160人を後漢に献上しています。

帥升の存在から、この頃から倭国を代表する政治勢力が存在した事が判明していますが、どの程度の規模だったかは不明です。日本各国の指導者である豪族が勝手に「倭国の王」を名乗っていた可能性もあります。ただその後も朝貢を行う倭人は「倭国」という名前を使い続けました。

魏志倭人伝によると、その後の倭国は帥升系統の男子が治めたとありますが70〜80年を経て「倭国大乱」が起き、何年も主が不在となります。つまり帥升の血筋は180〜190年頃には既に断絶しています。

※この頃の様子は日本の文献にはありません。ただ日本書紀や古事記と照らし合わせると、成務天皇〜仲哀天皇の統治の時期です。景行天皇やその息子のヤマトタケルが九州地方の熊襲を征伐に行っており、これが「倭国大乱」という説があります。

卑弥呼の人生年表・生涯

卑弥呼の人生年表・生涯

(卑弥呼像 出典:Wikipedia)

続いて卑弥呼の生涯について解説しましょう。

しかし卑弥呼の情報は中国の文献に記述されているものが全てであり、分かっている事のほうが少ないのです。魏志倭人伝に書かれている内容をまとめていきますね。

卑弥呼の年表

189年頃卑弥呼が倭国の王となる
238年卑弥呼が魏に使いを送る
240年魏の使者が倭国を訪れる
243年「倭国の王」が復遣使を魏に派遣
247年「倭国の王」が狗奴国との戦いを魏に報告
242年〜248年の間卑弥呼死去

その後は再び国は荒れ、卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てる

 

倭国の女王なる

卑弥呼が倭国の女王になったのは189年頃。前述した通り、倭国では180年頃から倭国大乱が発生しました。その内乱は5〜6年程続いたとされます。卑弥呼が倭国の女王になったのは189年頃。それ以降は争いは収束しています。

卑弥呼は「鬼道」で民衆を惑わせ、それで倭国を統治しました。鬼道の意味は不明なものの、「骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う」と魏志倭人伝に記載があります。卑弥呼は呪術的な巫女やシャーマンだったのでしょう。

卑弥呼は「年已長大、無夫壻」と記述されています。つまり女王になった時点で年長で、夫はいません。その後も卑弥呼は240年頃までは女王として君臨していたので、年齢的に辻褄が合いません。

当時の平均寿命は30歳程ですが、幼少期の死亡率が桁違いに高い為、成人まで成長すれば現在の高齢者の年齢まで生きる人もいました。189年頃に20〜30代で女王になり、240年頃に70〜80代で死去したたら一応の辻褄は合いますね。

卑弥呼の生活

卑弥呼は女王として君臨後は人と会う事はほとんどありませんでした。卑弥呼には1000人の従者がいたが、宮室に出入りするのは弟1人だったとされます。宮室は柵が設けられ、常に兵士が巡回していました。

また卑弥呼は倭国にある「邪馬台国」に住んでいました。倭国は30の国から成り、邪馬台国は倭国の都の一つです。ちなみに魏志倭人伝では邪馬台国の表記はわずか1回で、女王国の表記は5回。邪馬台国以外には対海国 一大国 末廬国などが倭国に含まれます。

ちなみに邪馬台国が日本のどこにあったのか、未だに様々な議論が交わされています。有力なのは九州説と畿内説ですが、個人的には当時の情勢をみれば九州説に軍配があがると思います。

邪馬台国の人々の生活

ちなみに魏志倭人伝には倭国の人々の生活にも触れています(矛盾もありますが)。大まかな内容は以下の通り。

  • 男子は顔や体に入墨を施している。
  • 男子は髪を結い髷をつくる。女子はざんばら髪である
  • 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べる。
  • 人々は酒が好き。
  • 敬意を示す作法は拍手を打ち、うずくまって拝む。
  • 長寿で80〜100歳の者もいる。
  • 盗みは無く、訴訟もあまりない。 などです。

当時の中国よりも発展はしていないものの、慎ましくそこそこ平和な暮らしを謳歌していたのではないでしょうか。

魏に使いを送る

魏に使いを送る

(黄色が魏の領土 出典:Wikipedia)

 

238年に卑弥呼は大夫の難升米と次使の都市牛利を魏に派遣。その際に彼らは男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じています。斑布とは人物や花鳥などの模様を、種々の色で染めた綿布の事です。

魏の皇帝は朝貢を喜び、卑弥呼の事を親魏倭王と称号を与えます。倭国は更に金印紫綬などを含めた莫大な下賜品を与えられています。240年には魏から倭国に使節が派遣され、正式に詔書印綬を賜りました。

243年に女王(卑弥呼とは限らない)が再びに魏に使者を派遣。奴隷と布を献上するなど、朝貢を続けました。

247年にも倭国は魏に使者を派遣。この時に倭国と狗奴国が対立状態にある事を報告しています。倭国以外にも当時の日本には様々な国があり、争いは絶えなかったようです。狗奴国は邪馬台国より南方に存在したとされます。

なお魏は倭国と狗奴国の仲介に入る為、張政を派遣しました。倭国が魏に使いを送ったのは、魏に助けを求めた為ですね。

卑弥呼の死因と最期

卑弥呼の死因と最期

(日本列島のどこかに邪馬台国があった 出典:Wikipedia)

 

卑弥呼がいつ頃亡くなったのかは不明です。

魏志倭人伝では倭国が「狗奴国と対立している」と報告→張政が倭国に派遣される→卑弥呼が死んだという流れで書かれています。先ほどの記述と卑弥呼の死は全て「1つのまとまり」として書かれているので、時間軸が分かりにくいのです。

更にややこしいのは魏志倭人伝が漢文で書かれている点です。魏志倭人伝では「卑弥呼以死」と表記されています。

これを「(張政が倭国に派遣された時に)スデニ死ス」と訳すなら死因は不明ですし、247年より前に卑弥呼は死去していた事になります。

これを「(張政が倭国に派遣されるが)ヨッテ死ス」と訳すなら、狗奴国との対立の末に卑弥呼が死んだ、魏に派遣した事への失政で卑弥呼は死んだとなります。その為、卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼(ひみここ)に殺されたという説もあるのです。

卑弥呼の死

卑弥呼の死が倭国に与えた影響は大きく、径百余歩の墓に葬られたとされます。全長は推測で約140m。この時に奴隷100人も殉葬されました。

その後の倭国では男王が立つものの、国は混乱して千人が死にました。その為倭国は臺與という13歳の卑弥呼の宗女を女王にする事で、争いを沈めたのです。この時に張政が檄文の書き方を教えたとされており、張政の派遣と臺與の女王就任の期間はそれ程離れていません。

266年には倭国の女王が朝貢をした事が記述されており、この人物は臺與だと推測出来るのです。

卑弥呼と天皇の関係

卑弥呼と天皇の関係

(神功皇后 出典:Wikipedia)

卑弥呼の記述は魏志倭人伝などの中国側の文献に頼る他はありません。ただ日本のルーツを考えると、卑弥呼と天皇には少数ながら何らかの関係があると主張する学者もいます。

一説では卑弥呼は第十四代天皇・仲哀天皇の皇后だった神功皇后という説があります。神功皇后は三韓征伐や天皇後継争いで大きな功績を残した人物であり、第十五代天皇・応神天皇の母親にあたります。江戸時代には卑弥呼=神功皇后という説が一般的でした。

しかし戦後になると神功皇后は架空の人物という説も拮抗し始め、卑弥呼が神功皇后という説は否定されつつあります。また神功皇后には夫も子供もいますが、卑弥呼は生涯未婚でした。この点も矛盾していると言えますね。

卑弥呼の功績、何をした人?

卑弥呼の功績、何をした人?

(卑弥呼の存在は平塚らいてうにも影響を与えた 出典:Wikipedia)

倭国の争いを鎮める

卑弥呼の一番の功績は、倭国の内乱を沈めた事でしょう。男王では倭国の争いは収束できず、多くの犠牲者も出ています。

卑弥呼が争いを鎮める事が出来たのは、鬼道による独自の方法があったからです。逆に言えば今までの男王は武力による国の統治を行った可能性もあるわけで、新たな国の統治のあり方を卑弥呼は見つけ出したと言えますね。

結果的に卑弥呼のおかげで倭国は大きな争いはしばらく起きなかったのです。

女王という存在

日本は現在でも男尊女卑の傾向が強いとされます。実際、歴代の征夷大将軍や総理大臣は男性がその任にあたっていました。しかし卑弥呼は女王として国をまとめてきました。この事は、後の男女平等のあり方に一石を投じたとも言えます。

例えば平塚らいてうは「原始、女性は太陽だった」と述べており、卑弥呼やアマテラスの存在を念頭に置いたものでしょう。卑弥呼の存在は1700年の時を経て、女性の希望になったのです。

卑弥呼の都市伝説・逸話

積極的な対外政策を進めていた?

積極的な対外政策を進めていた?

(新羅 出典:Wikipedia)

倭国は魏と深い関わりを持ちましたが、実は大陸進出も行なっていました。それは新羅という現在の朝鮮半島にある国です。

三国史記の新羅本記によると以下の記録があります。

  • 193年 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅に渡る
  • 208年 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防ぐ
  • 232年 倭軍が新羅を攻め、王都金城を包囲。新羅は追撃し、倭軍の死体と捕虜は千人に上る
  • 287年 倭軍が新羅に攻め入り、新羅兵千人を捕虜にする

日本と新羅は激しく争っていた事が分かるのです。287年の記載は卑弥呼の統治の時代ではないものの、卑弥呼が女王の頃から倭国は度々新羅に渡っています。倭国は魏に朝貢しつつ、新羅を勢力下に置く方針だったのかもしれません。

卑弥呼は鬼道で国をまとめており、対外政策にどの程度関与したかは不明です。政治的な事は弟が担っていた説もあります。ただ卑弥呼がこれらの政策も担っていたなら、卑弥呼は明確なビジョンを持った女性だったという事になりますね。

卑弥呼と日食の関係

卑弥呼と日食の関係

(皆既日食 出典:Wikipedia)

 

卑弥呼の死が疑われる時期、日本では2度の日食が起きています。具体的には247年3月24日夕方と248年9月5日朝。この日は九州北部や畿内で部分日食が見られたそうです。

ちなみに日食の可能性を考えた天文学者は「九州北部で皆既日食」が見られたと主張したものの、現在の正確な計算では双方とも「欠ける部分の大きい部分日食」だったと判明しています。

この皆既(部分?)日食は当時の人々から見れば摩訶不思議な現象であり、「卑弥呼の魔力が衰えたのでは?」と倭国の人々が考えた可能性があるのです。つまり卑弥呼は鬼道で国をまとめていた人物であり、魔力が衰えた時点でその役割を終えます。

つまり卑弥呼は日食の責任を問われて殺されたのかもしれないのです。仮に日食を魔力の衰えと判断されたなら、卑弥呼に非はないわけで、気の毒な話ではありますが。

卑弥呼はアマテラスだった

卑弥呼はアマテラスだった

(アマテラス 出典:Wikipedia)

この日食説が捨てきれないのは、アマテラスとの関連性です。アマテラスは日本神話では太陽の神とされる女王でこの人物のモデルは卑弥呼であるという説は根強く囁かれています。アマテラスは神話の中で、天岩戸に隠れてしまう「岩戸隠れ」という行動を起こしています。この行動を日食と関連付ける説があります。

日本神話もまた荒唐無稽な話ではなく、史実に提供を受けたものが多々あるでしょう。実在が確実視される天皇の在位を10〜11年と仮定して時代を遡ると、ちょうどアマテラスの活動時と重なると言われています。

もちろん、アマテラスが男性であるという説がある等、手放しに全てを肯定できる話ではありません。ただ有力な説である事に変わりはありませんね。

卑弥呼の名言

卑弥呼の名言

(現在の巫女 出典:Wikipedia)

このサイトでは歴史上の人物の名言を解説してきましたが、卑弥呼が発した言葉について判明しているものはありません。そのため、名言は紹介出来ません。

ただ卑弥呼は鬼道を通じて、長年にわたり国を治めた女性です。本当は様々な名言を残してきたのではないでしょうか。

卑弥呼にゆかりのある地

邪馬台国の場所や、卑弥呼の墓については一切が謎に包まれています。そのため、確実な「ゆかりの地」は不明です。今回は卑弥呼に関係すると考えられる場所を紹介していきます。

箸墓古墳

箸墓古墳

(箸墓古墳 出典:Wikipedia)

卑弥呼の墓の候補地の一つです。現存する最古の前方後円墳であり、周濠部分は国の史跡に指定されています。ただ年代的に矛盾が指摘される他、殉葬跡が存在しない点から、やはり卑弥呼の墓ではないともされます。

仮にこの古墳が卑弥呼のものならば、邪馬台国は奈良県に存在した事になりますね。

住所:奈良県桜井市箸中

滋賀県立近代美術館

滋賀県立近代美術館

(滋賀県立近代美術館 出典:Wikipedia)

場所自体は卑弥呼とのゆかりはありません。ただこの美術館には誰もが知っている卑弥呼の肖像画が存在します。2021年6月にリニューアルオープンとなります。

住所:滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1

卑弥呼の家系図・子孫

卑弥呼の家系図は一切が謎に包まれています。もともと倭国を治めていた帥升の血筋と関係があるのかも不明です。ただ魏志倭人伝には何人か卑弥呼と血縁関係がある人物が登場します。

弟

(ツクヨミは弟をモデルにしている? 出典:Wikipedia)

文字通り卑弥呼の弟です。卑弥呼は宮室から出る事はなく、弟が仲介役になり卑弥呼の意思を伝えていました。ある意味で倭国は神輿として君臨する卑弥呼と、実務を担当する弟の二頭政治だったと言えます。

ちなみにアマテラスにはスサノオとツクヨミという弟がいました。スサノオはアマテラスと度々対立し、日本神話でもかなりのページが割かれていますが、ツクヨミの記載はあまりありません。

一説ではスサノオは狗奴国の男王である卑弥弓呼(ひみここ)、ツクヨミは卑弥呼の弟であるともされています。

臺與

卑弥呼没後に混乱した倭国の女王になった人物です。卑弥呼の宗女であり、卑弥呼の一族の一人ですが血縁関係は不明です。13歳で女王になっているので、卑弥呼とはかなり世代が離れています。

卑弥呼をアマテラスと仮定するなら、アマテラスの近い親戚に万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)が存在します。この神を臺與とする説もあるのです。

また臺與は266年に朝貢を行うものの、その後は中国側の記録は途絶えています。倭国、ひいては邪馬台国は衰退し、朝貢を行える立場ではなくなったのかもしれませんね。

卑弥呼の関連人物

卑弥弓呼

卑弥弓呼

(卑弥弓呼はスサノオをモデルにしている? 出典:Wikipedia)

卑弥呼と対立していた狗奴国の男王。邪馬台国の南に位置する国であり、元は奴国の分国だったという説があります。狗奴国という名前から犬狼信仰を持つ部族(縄文人)の国家という説もあり、倭国との対立は単なる小競り合いでなく、民族的な違いもあったのかもしれません。

卑弥弓呼をアマテラスの弟であるスサノオという説もありますが、審議は不明です。卑弥弓呼率いる狗奴国が滅亡したのか、倭国に勝利したのか、更にはヤマト王権とは別の国なのか、全ては謎に包まれています。

難升米

倭国の使いとして魏に度々派遣された人物です。卑弥呼との血縁関係は不明。倭国における外務大臣のような立場だったと思われます。一説では難升米は田道間守という、常世の国に使者として赴いた人物とされます。

本居宣長

本居宣長

(本居宣長 出典:Wikipedia)

本居宣長は江戸時代の国学者です。世間から忘れられていた古事記の研究に取り組みました。倭国や卑弥呼についても考察しています。

本居は卑弥呼は神功皇后であると考えていたものの、魏と国交を持っていた王女は卑弥呼ではなく、神功皇后を語る偽物と考えたのです。本居は邪馬台国が関西方面にあると考えていたものの、魏の張政が来たのは文献的に九州しか考えられず、矛盾が発生した為、この考えに行き着きました。

本居宣長は「邪馬台国=九州説を唱えた」と様々なサイトに掲載されているものの、実際にはそうではありません。卑弥呼と倭国の謎については本居だけでなく、多くの学者が頭を悩ませ続けてきたのです。

卑弥呼の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

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おすすめ映画

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本作の卑弥呼は天ツ神のクニを支配勢力にし、国ツ神の民を被征服民として葛藤と攻防を描いており、現在分かっている卑弥呼と倭国のあり方とは大きく隔たりがあります。卑弥呼を主人公にした別作品と考えた方が良いかもしれません。

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卑弥呼についてのまとめ

今回は謎多き倭国の女王、卑弥呼について解説しました。卑弥呼について言及された文献は中国側のものしかなく、日本神話や古墳等から推測せざるを得ません。ただ断片的に分かるのは、かつて日本では内乱があった事、卑弥呼がその争いを鎮める事になった点です。

日本神話との繋がりや日食の関連性など、卑弥呼の事を調べれば調べるほど、その神秘性に魅せられてしまいます。いつか一連の謎が分かると良いですね。今回の記事を通じて卑弥呼の生涯や倭国に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

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