目次
真田幸村とはどんな人物?
真田幸村の誕生
真田幸村こと真田信繁(さなだのぶしげ)の生まれ年は1567年(永禄10年)または1570年(元亀元年)の2説があります。
どちらも幸村の死後に書かれた文献のためどちらが正しいとの確証は見つかっていません。なお日付は3月8日だと言われています。
生まれた場所は信濃国小県郡(現在の長野県小県郡)と考えられていて、真田本城があった小県郡か上田城があった上田市のどちらかだと推察されています。
真田幸村の人物像
真田幸村の幼少期に関しては、実際のところほとんどわかっていません。
祖父・真田幸隆(さなだゆきたか)が武田信玄の重臣であった程度の家柄で、父・昌幸は幸隆の三男、その昌幸の次男ともなると幸村はもはや真田氏本流からは程遠い立場です。
この様な立場ですから表舞台に名前が出たのは、織田信長の家臣・滝川一益に人質として出され、その後、上杉景勝(うえすぎかげかつ)のもとへ送られ、最後は豊臣秀吉のもと大阪城で人質として青年期を過ごすことになってからです。
ただ、安土桃山期の有力武将のもとで人質として過ごしたお陰で、有力者との人脈や武将としての心構えや数多くの知識を手にいれる事が出来たようです。
これらの経験と人脈が大阪夏の陣での伝説的な躍動へと繋がっていきます。
真田幸村の最期
幸村の奮戦に毛利、大野、明石の大阪方諸隊も勢いづき、天王寺口に布陣する松平忠直や本多忠朝らの陣を突破し、家康の本陣へ突撃し、家康の馬印をなぎ倒すところまで追い詰めますが、本陣一大事を見た徳川勢が多方面から攻め掛かり、特に井伊直孝(いいなおたか)軍は幸村軍の横腹に突入し幸村軍を分断、各個撃破され始めた幸村軍はその兵力を極端に失い、遂に天王寺口からの撤退を開始します。
四天王寺の安居神社の境内で休息していた幸村は松平忠直の家臣・西尾宗次(にしおむねつぐ)に発見され、首を討たせて手柄にさせたと伝えられています。
1615年(慶長20年)6月3日、戒名・大光院殿月山傳心大居士、享年49歳、死因は首を討たれての戦死でした。
真田幸村の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1567年(永禄10年) | 父は真田昌幸、母は山手殿の次男として信濃国小県郡に生まれる。幼名は弁丸。(誕生の年月に関しては異説あり) |
1575年(天正3年) | 長篠の合戦で父昌幸の長兄・信綱、次兄・昌輝が討死、昌幸が真田氏家督を継ぐ。 |
1582年(天正10年)3月 | 織田・徳川連合により甲斐武田氏滅亡。真田氏は織田信長に臣従し、幸村は織田信長家臣・滝川一益のもと厩橋城で人質となる。 |
1582年(天正10年)6月 | 本能寺の変により織田信長が死去、真田氏は上杉氏に帰属する。これに伴い幸村は越後国で人質となる。 |
1585年(天正13年) | 第一次上田合戦で真田氏が徳川氏を撃破。(幸村は参戦していない) |
1586年(天正14年) | 豊臣秀吉に臣従し幸村は大阪で人質生活を送る。大阪での人質生活中に大谷吉継の娘・竹林院を正室とする。 |
1589年1(天正17年)12月 | 小田原征伐開始。幸村は石田三成指揮下で忍城攻めに参戦したと言われている。 |
1592年(文禄元年)5月 | 文禄の役始まる。父・昌幸、兄・信之とともに肥前名護屋城に在陣。 |
1594年(文禄3年)11月 | 幸村、従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜る。この頃は大阪で豊臣秀吉の馬廻役を勤め、1万9千石の知行を得ていたと文献にある。 |
1600年(慶長5年)10月 | 関ヶ原の戦い。 幸村は父・昌幸とともに西軍に加勢、上田城に籠城し、関ヶ原に向かう徳川秀忠指揮の約4万の軍勢を足止め。秀忠が撤退したあと、幸村は東軍の葛尾城を攻撃。 |
1600年(慶長5年)12月 | 西軍の敗戦により上田城没収の上、父・昌幸とともに高野山へ蟄居となる。(後に九度山へ移される) |
1611年(慶長16年)7月13日 | 父・真田昌幸死没。 |
1612年(慶長17年) | 幸村、出家し好白と名乗る。 |
1614年(慶長19年)11月 | 大阪冬の陣勃発、幸村は九度山を嫡男・大助(真田幸昌・さなだゆきまさ)とともに脱出し大阪城へ入る。有名な出城・真田丸はこの戦いで造られた。 |
1615年(慶長20年)2月 | 徳川家康が幸村の叔父・真田信尹(さなだのぶただ)を使者として、信濃国内10万石(2度目は信濃一国に吊り上げられた)の条件での寝返りを申し込むも拒絶する。 |
1615年(慶長20年)4月 | 大阪夏の陣開戦。 幸村は道明寺・誉田合戦に遅参する失態を犯すが、体制立て直しのための撤収作戦では殿を勤めて作戦を成功させ、天王寺口の戦いでは徳川家康本陣に肉薄する活躍を見せますが、力尽き撤退します。 |
1615年(慶長20年)6月3日 | 四天王寺の安居神社で松平忠直の家臣・西尾宗次に首を討たれ死去。 |
真田幸村にまつわる逸話
幸村と言う名前
真田信繁と言われると誰?と思う人は数多くいますが、真田幸村だと多くの人が知っていると答えてくれます。
しかし当の本人、真田幸村は一度も自身を幸村と名乗ったことはありません。
真田幸村が書いた文書は数多く残っていますが、すべて信繁の自署と花押が書かれたもので、幸村と書かれたものは一切存在していません。
ではなぜ、真田信繁は真田幸村と呼ばれるようになったのでしょうか?
幸村の名前が世に登場したのは、1672年(寛文12年)に刊行された「難波戦記」と言われており、この中に真田昌幸の次男・左衛門佐幸村との名乗りがあります。
これ以降、講談や草双紙などでは真田信繁は真田幸村と呼ばれたり、書かれたりするようになり真田信繁=真田幸村となり、さらに進んで真田幸村の方が信繁よりも有名となってしまいます。
このため「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ、江戸幕府が編修した大名や旗本の系譜)」や「真田家系譜」などの公式文献でも幸村を採用するに至って幸村の名が定着しました。
幸村の幸は祖父・幸隆、父・昌幸にも使われた真田氏本流が名乗る文字であり、村は真田幸村が討ち取ろうとした徳川家康が嫌った太刀・村正から取られたとの話から、幸村と名乗った事が真実の様に伝えられようです。
真田幸村の名は後世の人々が真田信繁をヒーロー化するために用いた名前で、それが本名よりも定着してしまったと言うのが真実のようです。
真田幸村生存説
江戸元禄時代に成立した「真田三代記」は昌幸、幸村、大助(幸昌・ゆきまさ)または幸隆、昌幸、幸村の三代の活躍を描いた物語です。
大阪城が落城したときの京の子供たちが歌った唄に、幸村は豊臣秀頼(とよとみひでより)とともに大阪城を脱出し、薩摩国(現在の鹿児島県)へ落ち延びたと言うものがあり、これを裏付けるように南九州市には幸村の墓が存在し、鹿児島県で天寿を全うしたと伝えられました。
このため真田三代記が世に出た頃から、影武者が7人いたとか、村正が幸村の愛刀であったなどの伝説的な逸話が数多く残されるようになり、日本一の兵の称号が幸村に与えられていくことになります。
しかし、現実的には1615年6月3日、大阪の地で幸村は討たれており、伝説だけが独り歩きしていったのです。
真田十勇士の現実
赤備えの鎧に身を固めた真田幸村の後ろに控える10人の家臣たち。
彼らが映画やドラマ、小説の中で勇敢で格好良く描かれる真田十勇士です。
人気のある猿飛佐助、霧隠才蔵の忍者二人を筆頭に、三好清海入道、三好伊左入道の兄弟、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の元来からの真田氏家臣で構成された10人が十勇士の名で呼ばれています。
それぞれのキャラクターにモデルとなった人物がいたと伝えられていますが、そのほとんどは架空の設定で後世の想像によって脚色されています。
ただ、筧や根津、望月などは真田三代記にも名前が登場するなど、すべてが完全な作り物というわけでも無いようです。
真田幸村ゆかりの場所
真田幸村ゆかりの城・上田城
真田氏の名が天下に轟いた戦と言えば、徳川勢をものの見事に撃退した上田城の合戦なのですが、織田信長の死後、北条、徳川、上杉の三大勢力の争いに巻き込まれて徳川と戦うこととなった、1585年の上田・神川の合戦に真田幸村は参戦していません。
この時幸村は、昌幸が上杉からの援軍を求めるため、人質として越後国春日山城へ行っていたためです。
ですから幸村の名が知られるようになったのは、関ヶ原の戦いの中で当初は徳川家康に従っていた父・昌幸と幸村がこれに離反し上田城に籠城した戦いです。
徳川秀忠率いる4万の軍勢を僅か3000の兵で上田城攻めに足止めし、関ヶ原の決戦に遅参させたと言われていますが、実際には大規模な戦闘は行われず、偶発的な攻城戦で徳川方が惨敗した記録のみが残っています。
実際は戦上手な真田昌幸を抑える手筈に徳川方が時間を費やしてしまったため旅程に遅れが出てしまったのが真相のようです。
ただ、真田幸村は上田城の抑えに配備された葛尾城の森忠政(もりただまさ)に夜討ち朝駆けの攻撃を仕掛け、小規模な戦闘は継続して行われていたようです。
関ヶ原に勝利した家康は1601年に上田城を破却し、現在の上田城は後に領主となった仙石忠政が再建したものを復元したものです。
真田幸村ゆかりの寺院
和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院・善名称院(ぜんみょうしょういん)は関ヶ原の敗戦後、昌幸、幸村親子が蟄居した草庵跡に1741年(寛保元年)創建された寺院と言われています(異説あり)。
当初は高野山への配流と決まっていたのですが、妻子持ちは高野山への入山が許されず九度山へと移されました。
その時にここへ草庵を建てて住んだと言われており、昌幸は病によって1611年(慶長16年)7月13日にこの地で死去しています。
真田幸村ゆかりの神社
大阪府大阪市天王寺区玉造本町にある宰相山公園内で天照大神(あまてらすおおかみ)、月読尊(ツクヨミ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三神を祀る神社で、反正天皇の時代と言いますから古墳時代の創建となる由緒正しい歴史ある神社です。
この神社のある場所が宰相山または真田山と呼ばれ、大阪冬の陣で真田幸村が真田丸を構築した場所に当たります。
この神社の社殿の下には幸村が大阪城まで掘ったと言われる抜け穴が存在しており、大阪の陣での真田幸村の活躍を現在に伝えています。
真田幸村が眠る墓
長野県長野市松代町にある幸村の兄・真田信之が藩祖となる信州松代藩の菩提寺が長国寺です。
信之以下歴代の藩主の墓がある他に、信之、幸村の祖父に当たる幸隆、叔父の信綱、父・昌幸の供養塔があり、これらに並ぶように真田幸村、幸昌父子の供養塔もあります。
真田幸村の墓と称する場所は全国に10カ所以上ありますが、そのほとんどが供養塔または供養墓で遺体が埋葬された記録がある墓はありません。
幸村の首を討ったと言われる越前松平家の西尾宗次が、自家の菩提寺・孝顕寺(福井県福井市)に幸村の首を埋葬し首塚を建立したとの記録があるのが、唯一の埋葬の記録と言えます。
真田幸村ゆかりの品々
真田幸村の甲冑
真田幸村が身に付けていた鎧兜といえば、真紅の赤備えの鎧に前面に六文銭、側面に鹿の角の兜がイメージされます。
真田幸村が登場する映画やドラマでもほとんどがこのイメージ通りの甲冑で登場し、戦場を駆け巡ります。
ところが真田幸村が着用したと思われる甲冑は残念ながら現存していません。
大阪城天守閣(大阪市)が所蔵する「伝真田幸村所用鉄二枚胴具足」は大阪の陣で幸村が着用した可能性かあるとされていますが、確証は未だにありません。
幸村が赤備えの甲冑を纏っていたと言われる根拠は、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれる真田軍が赤備えだったからです。父・昌幸が存命の時に豊臣秀吉から武者揃えを命ぜられ、幸村の兄・信之が「いつも通りあか武者(赤備え)、指物(旗)もあかね(赤)」と家臣に指示を出して文献が残っています。
このため文禄年間に真田家は、甲冑・旗ともに赤を使用していたと考えられており、真田幸村が最後と定めた大阪の陣に、赤備えの甲冑で出陣した可能性は非常に高いといえます。
真田幸村の家紋
真田家の家紋、旗印といえば三途の川の渡し賃と言われる六文銭です。
銭六文を死者とともに棺に入れて六地蔵に備える習慣から不惜身命(ふしゃくしんみょう、仏道を修めるためにはみずからの身命をもかえりみないこと)を意味していると言われています。
通常、真田氏や真田幸村の事を語るときには六文銭と呼んでいますが、真田家では「六連銭」が正式な呼称で別名が真田銭、六文銭です。
六連銭は真田氏の本流である海野(うんの)氏から別れた支流の氏族の多くが使用しているため、元々は海野氏の代表的な家紋の一つと考えられています。
真田家では幸隆が武田信玄に臣従した頃から六連銭の旗印の使用が始まったとされており、戦に出るときは幸隆の子である信綱、昌輝、昌幸も六連銭の旗印を使用している記録が残っています。
当然、信之、幸村兄弟も六連銭を使用したと考えられていますが、大阪の陣で幸村は六連銭を使用せず、「総赤に金線」の旗を掲げています。
これは徳川方で出陣している兄・信之への配慮であったのではないかと推測されています。
真田幸村の刀
白馬に跨がり赤備えの甲冑で大太刀を振りかざして、徳川家康本陣に向けて突撃する真田幸村。
映画やドラマのクライマックスシーンでの幸村の姿は、子供向けヒーロー映画のようにビジュアルが定まっています。
この幸村が手にしている刀、通説では「村正」と言われています。
徳川家康が忌み嫌い、徳川家に何度も禍いをもたらしたと言われる村正であればこそ、徳川家康の首を討ち取るために幸村はこれを手にして大阪夏の陣に参戦し、突撃したのだと言われています。
しかし、残念ながらこれら村正に関する逸話はすべて後世の作り話であると文献のよって明らかにされており、徳川家康は村正を嫌うどころか好んで手元に置いていたと言われています。
残念ながら幸村が使用した刀に定説はなく、武辺咄聞書には太刀は正宗、脇差は正宗の子・貞宗の業物であったとの記述があります。
また、大阪夏の陣で家康本陣に突撃を敢行したときは、手には薙刀または十文字槍であったとの証言もあります。
真田幸村が決戦の前に何を思い、何を考えて自身の刀の手入れをし、それを携えて戦場へと赴いたのか?
歴史に興味ある者としては非常に気になります。
真田幸村が歴史に残した伝説
大阪の陣、発端
1605年(慶長10年)4月16日、将軍職を徳川秀忠に譲り、政権を豊臣秀頼に戻すことはないことを対外的に示した家康は、豊臣方に臣下の礼を取るよう圧力をかけます。これを頑なに拒む豊臣方に対して家康は片桐且元を通して、
- 秀頼は江戸に参勤すること。
- 淀君は人質として江戸に出府すること。
- 秀頼は国替えに応じ大坂城を出ること。
以上の三条件を提示しました。
しかし淀君はじめ大阪城内の者は、片桐且元を裏切り者と責め提案を拒絶、且元は大阪城を退去します。
この事に1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件が重なり、豊臣と徳川に交渉の余地がなくなり遂に戦端が開かれます。
大阪冬の陣・真田丸の戦い
1614年(慶長19年)11月3日、豊臣家は全国の豊臣恩顧の大名・浪人に檄を飛ばし、徳川の非道を唱え豊臣への力添えを訴えます。
これに応えた大名家はなかったものの、全国から明石全登、後藤又兵衛、真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝永など浪人約10万が集結したのです。
これに対する徳川勢は約20万の兵力で大阪城へ攻め寄せました。
大阪方は籠城を主張する豊臣家直参の大野治長派と、近江国まで進出して徳川勢を迎え撃つ野戦を主張する真田幸村や明石全登ら浪人派が激しく対立しましたが、大阪城周辺に砦を築いて堅牢な大阪城に籠城することに決します。
1614年(慶長19年)12月19日から始まった木津川口の戦い、今福の戦い、野田・福島の戦いなど大阪城近郊で数度戦闘が行われ、大阪方の砦が陥落したところで大阪方は残りの砦を放棄し大阪城へ退却、籠城戦へと移行します。
20万の軍勢で大阪城を取り囲んだ徳川勢は、塹壕を掘り、土塁を築き攻城設備を整えはじめました。
大阪城へ撤収した真田幸村は大阪城南側に構築していた真田丸に兵5000とともに布陣、真田丸前方の篠山を占拠して、ここから前田利常の軍を鉄砲で攻撃しました。
1615年(慶長20年)1月3日、篠山占領を狙った前田勢が篠山に攻撃を仕掛けますが、真田軍はすでに篠山を放棄しており真田丸から前田勢への挑発をはじめました。
これに乗せられた前田勢は真田丸へと攻めかかりますが、火縄銃や落石でこれに対抗し前田勢を打ち払います。
前田勢に呼応した松平忠直、井伊直孝の軍勢も攻めかかりますが、こちらも後藤基次、木村重成の軍勢に追い払われてしまいます。
この後、多少の小競り合いはあったものの、両軍ともに決め手を欠き和議が結ばれることに成ります。
この和議の条件に外堀の埋め立てと出城の破壊が含まれており、真田丸は短い役目を終えることとなりました。
大阪夏の陣・天王寺の戦い
1615年(慶長20年)4月12日冬の陣以降、大阪城に残る浪人達の不穏な動きが京都所司代から徳川家康のもとに報告されます。
家康は即座に豊臣に対して浪人の解雇もしくは秀頼の転封を要求、豊臣方が転封を拒否するとすぐに江戸を進発し、大阪へ向かいます。
京都二条城に集結した徳川勢は約16万、これを二手にわけて河内路、大和路の二方面から大阪を目指しました。
これを聞き戦争不可避と悟った豊臣方は、浪人たちに金銀を分配し武具を調達します。
豊臣不利とみて城を退去するものも出ましたが、それでも約8万が大阪城に残りました。
堀を埋められた大阪城では籠城不可能として、野戦にて家康の首を狙うことで一致、大和路、河内路各所で徳川勢を迎え撃ちました。
真田幸村は1615年(慶長20年)5月6日の道明寺の戦いに参戦、先発した後藤基次隊が前線で孤立する致命的な作戦ミスとなった戦いは、徳川方の奥田忠次などを討ち取るなど奮戦しましたが、部隊は小松山で包囲され基次戦死、部隊壊滅となりました。
後藤隊がほぼ壊滅した頃、後続部隊が順次到着しますが敵に押し込まれてしまいます。
後続部隊が苦戦しているところに毛利勝永、真田幸村率いる主力部隊が到着、幸村は後続部隊を収容し伊達勢の片倉重長隊と対峙します。
鉄砲の撃ち合いから始まった戦は真田勢が有利に進め、伊達勢を押し返して毛利勝永隊と合流、戦線を維持して徳川勢を抑えますが、八尾・若江の戦いで豊臣勢が敗北し大阪城への撤退が決定すると幸村は殿軍を勤めて、無事全軍を撤収させました。
翌5月7日、豊臣秀頼に出馬を請うも淀君らに阻まれ不可能となったため、幸村らは最後の決戦を挑むべく茶臼山・四天王寺に兵を展開し家康の首を狙いに行きます。
徳川方の先鋒・本多忠朝と毛利勝永隊が銃撃戦を開始すると、一気に本格的な戦闘へと発展し両軍入り乱れての乱戦となります。この乱戦の中で幸村は家康の本陣への突撃を敢行します。
豊臣方の毛利勝永、明石全登、大野治房隊の奮戦もあり徳川方の前線が総崩れになると、真田勢は松平忠直15000の大軍を突き破り家康の馬廻り・旗本勢を切り崩し、家康の馬印「金扇」を倒すところまで追い詰めますが、時間の経過とともに真田勢の兵は討ち減らされ、徳川勢に巻き返されていきます。
数度の突撃で壊滅的な損害を出した真田勢が戦線を離脱、幸村は安居神社で休息中に松平忠直の家臣・西尾宗次に首を討たれました(場所については異説あり)。
大阪夏の陣のあとに生まれた伝説
大阪夏の陣によって豊臣秀頼は自害、大阪城落城とともに豊臣氏も消滅し、真田幸村も戦場の露と消え去りました。
ところがこの後、なぜか多くの伝説が誕生します。
一つは徳川家康討死の伝承です。茶臼山の戦いで馬印まで倒された徳川家康は、駕籠に乗って退却途中に後藤基次の槍に刺されて絶命し、南宗寺へ葬られたというのです。
これが事実かどうかわかりませんが、2代秀忠、3代家光が相次いで南宗寺を参拝しており、「この無名塔を家康の墓と認める」との山岡鉄舟が書いた碑文も残っています。
ただ、家康を刺したとされる後藤基次は前日に戦死しており、もし家康討死が事実なら真田隊の誰かが討ち取った可能性が高いとかんがえられています。
あくまでも伝承なのですが、このような伝承が残るほど茶臼山の戦いは激戦だったようです。
もう一つは秀頼脱出の伝承です。
落城寸前に秀頼は大阪城を脱出、島津氏の手引きで鹿児島へ落ち延びたというのです。
同伴したのは木村重成、島津との折衝を担当したのは真田幸村だと伝えられています。
こちらは家康討死よりも信憑性が薄いのですが、夏の陣が終わるとすぐに京の町で「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」と唄われていたそうです。
この伝承が事実であっても歴史が変わることはありませんが、真田幸村は夏の陣が終わった瞬間からスーパーヒーローとなる道を歩み始めていたようです。
真田幸村の名言
関東勢百万と候え、男はひとりもなく候
「関東武者は百万人いても、男子と呼べる者は一人も居ないものだな。」
大阪夏の陣で参戦した道明寺の戦いで、大阪方が城へ撤収する際に殿軍をつとめた真田幸村が、伊達政宗軍の追撃を撃退し、徳川勢を嘲笑しながら悠然と引き上げた時に語ったと伝えられる言葉です。
十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか。
「十万石では寝返らないが、信濃一国なら寝返るとでも思われたのですか」
大阪夏の陣の開始直前、真田幸村の武勇を恐れた徳川家康が、幸村の叔父である真田信尹を使者にたてて幸村を寝返らそうとした時の、幸村の返事がこれです。
男気そのままの言葉です。
今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ。
「今日の戦いはこれで最後であるから、あとは潔く戦うのみである。狙うのはもちろん徳川家康の首ただ一つのみである。」
茶臼山に陣取った真田幸村が、赤備えの我が将兵に向かって語ったと言われている言葉です。
乾坤一擲の大勝負に挑む心意気とそれに望む清々しい気持ちがあらわれたまさしく人生最後の言葉にふさわしいと言えます。
真田幸村の子孫について
真田幸村の死後も真田家は、幸村の兄・信之が徳川家の譜代大名格として信州松代藩10万石を領有し明治維新まで存続、華族令施行後は伯爵を授けられました。
真田幸村の直系血族
真田幸昌(さなだゆきまさ)
真田幸村の嫡男、一般的には真田大助の方が認知度が高いようです。
幸村が九度山に蟄居しているときに生まれたと言われており、大阪の陣にも従軍、茶臼山の戦いの前に大阪城へ帰らされますが、豊臣秀頼の自害を聞いて切腹したと伝えられています。この時13~16歳、若い命を散らせました。
真田守信(さなだもりのぶ)
真田幸村の次男、大阪城落城後に姉の阿梅が仙台伊達家の片倉重長の側室となったのを機に、片倉家に引き取られました。
逆賊・真田幸村の子と言うことで徳川家に憚られるとして片倉久米之介守信と名乗り仙台藩士として生涯を送りました。
子孫は幕末を迎えて本来の真田の姓に復し、仙台真田家として今も続いています。
真田幸信(さなだゆきのぶ)
真田幸村の三男、大阪城落城の二ヶ月後に京都で生まれています。母が豊臣秀次の娘で真田幸村の三男と言うこともあり、時勢を憚って母方の旧姓・三好姓を名乗りました。
後に姉・御田姫の嫁ぎ先、出羽亀田藩主・岩城宣隆に引き取られ元服後は出羽亀田藩士・三好左馬之介幸信として余生を全うしました。
真田幸村まとめ
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と評され、大阪夏の陣で討ち死にしたあと、武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われるほど、武将として尊敬と畏怖の念を受けた真田信繁こと真田幸村。
自身が指揮した戦はわずかに2度、その戦いで日本中の大名家の文献に記録されるほどのインパクトを残し、歴史から消え去りました。
しかし、それほどの人物を後世の歴史家や作家が捨て置くはずがなく、すぐに戦国時代のヒーローとして復活し、現代でもその人気は維持されています。
巨大なものに命を賭けて戦いを挑んだ人物を好む日本人の判官贔屓からみても、100年後にも真田幸村は戦国最強の武将の一人としていつまでも語り継がれていくでしょう。