マリーアントワネットとはどんな人物?生涯・名言・偉業を解説【フランス国王ルイ16世の王妃】

 

処刑台に消えた名門王家の王妃、マリー・アントワネット。

彼女は、18世紀フランスのファッションリーダーだったといわれ、頭の上に軍艦をのせたヘアスタイルなど、次々と新しいものを考えだしました。
そんなマリーがのちに「悲劇の王妃」と呼ばれるようになったのには、深い同情の気持ちが込められていたといいます。

なぜ国民の非難の的になってしまったのか、なぜ処刑されなければならなかったのか。
革命の嵐にのまれた王妃マリ―・アントワネットの生涯をご紹介します。

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マリーアントワネットとは?

ヴェルサイユ宮殿をつくったルイ14世の後半からルイ16世の時代にかけて、フランスの国家財政は大変苦しくなっていました。
たび重なる戦争や宮廷のムダづかいなどが原因でした。
このフランス王家の、のちのルイ16世になる王太子と結婚した女性が、オーストリアの皇女マリー・アントワネットです。

生まれ

マリーアントワネットは、1755年11月2日、神聖ローマ帝国(オーストリア)にて誕生。
神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの末娘として生まれました。
ドイツ語名は、マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ。

身長

身長は154cm(当時の平均身長は156cmほど)。
ウエストは58〜59cm、バストが109cm。
体型は、その頃の流行に見合っていたようです。
マリーは、金髪に青い瞳、抜けるような白い肌をしていました。
ハプスブルク家特有の受け口も少しは受け継いでいるものの、非常に美しく、可憐で優雅であった、といわれています。

性格

幼少期のマリー・アントワネットは、学習に熱心で、魅力もあり、知力も高かったようです。
しかし、集中力がなく、すぐにふざけるクセと常に気が散る性格のために、学問的な才能を発揮することができなかった、といわれています。

明るく活発なマリーは、ダンスや音楽は好きは好きでしたが、じっと座ってする読書や勉強は嫌いだったのです。
彼女はのびのびとした自然児で、つねに率直であり、どちらかと言えば理性的ではなく、感情的な人間でした。

マリーアントワネットの人生年表・生涯

マリー・アントワネットが最後の時を過ごしたコンシェルジュリー監獄

年月年齢出来事
1755年11月2日0歳(誕生)神聖ローマ帝国フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの第15子として、オーストリアのウィーンで生まれる。
1756年1歳オーストリアとフランスの間でヴェルサイユ条約が結ばれ、フランスとの政略結婚が決まる。
1762年10月13日7歳シェーンブルン宮殿でモーツァルトと出会う。
1765年8月18日10歳父フランツ・シュテファンが亡くなる。
1768年13歳ヴェルモン神父が教育係として招かれる。
1769年14歳母マリア・テレジアと、マリアツェルの聖堂へ巡礼する。
1770年4月19日15歳ウィーンの聖アウグスティーナ教会で、兄フェルディナントを花婿の代理として、結婚式を挙げる。
1770年4月21日15歳ルイ・オーギュストと結婚するため、ウィーンを出発してフランスへ向かう。
1770年5月7日15歳ライン川の中州でフランスへ引き渡される。
1770年5月14日15歳コンピエーニュの森でフランス王ルイ15世、王太子ルイ・オーギュストと対面する。
1770年5月15日15歳ラ・ミュエットの狩猟館でデュ・バリー夫人と対面する。
1770年5月16日15歳ヴェルサイユ宮殿で結婚式を挙げる。
1774年5月10日19歳ルイ15世が亡くなる。
1774年19歳ルイ・オーギュストが王に即位し、ルイ16世となったことにともない王妃になる。
1774年19歳ルイ16世よりプチ・トリアノンを贈られる。
1777年22歳兄ヨーゼフ2世がヴェルサイユを訪問する。
1778年23歳ルイ16世がアメリカ独立戦争に介入する。
1778年12月19日24歳長女マリー・テレーズ・シャルロットが生まれる。
1780年25歳プチ・トリアノンに劇場をつくり芝居を上演。みずからも舞台に立つ。
1780年11月29日26歳母マリア・テレジアが亡くなる。
1781年10月22日26歳長男ルイ・ジョゼフが生まれる。
1785年3月27日30歳次男ルイ・シャルル(のちのルイ17世)が生まれる。
1785年8月15日30歳首飾り事件により、ロアン枢機卿がバスティーユに投獄される。
1785年8月18日30歳自称ラ・モット伯爵夫人が逮捕される。
1786年7月9日31歳次女ソフィー・ベアトリスが生まれる。
1787年32歳ソフィー・ベアトリスが亡くなる。
1788年33歳ルイ16世に政治的助言を行うようになる。
1789年5月5日34歳ヴェルサイユ宮殿で三部会が開かれる。
1789年6月2日34歳長男ルイ・ジョゼフが亡くなる。次男のルイ・シャルルが王太子になる。
1789年7月11日34歳ルイ16世が財務総監ネッケルを罷免する。
1789年7月14日34歳バスティーユ監獄が民衆に襲われる。フランス革命が始まる。
1789年10月5・6日34歳女性たちがパンを求めてヴェルサイユ宮殿へ行進する(10月事件)。
国王一家がテュイルリー宮殿に移る。
1790年7月3日35歳サン・クルー離宮でミラボー伯爵と対面する。
1791年4月2日36歳ミラボー伯爵が亡くなる。
1791年6月21日36歳国王一家で国外逃亡をしようとするが、ヴァレンヌで逮捕される。
1791年6月25日36歳パリに連行される。
1792年6月20日37歳パリ市民がテュイルリー宮殿に乱入する。
1792年8月10日37歳議会が王の権利を停止する。
1792年8月13日37歳国王一家がタンプル塔に幽閉される。
1792年9月3日37歳友人のランバル夫人が市民によって殺される。
1792年12月11日38歳ルイ16世の裁判が始まる。
1793年1月15日38歳ルイ16世に有罪判決が下る。
1793年1月21日38歳ルイ16世が処刑される。
1793年7月3日38歳次男ルイ・シャルルがマリーの元から引き離される。
1793年8月1日38歳タンプル塔からコンシェルジュリ監獄に移送される。
1793年8月28日38歳脱出を計画するが失敗する(カーネーション事件)。
1793年9月3日38歳第1回予審尋問が始まる。
1793年10月6日38歳第2回予審尋問が始まる。
1793年10月12日38歳第3回予審尋問が非公開で行われる。
1793年10月14日38歳裁判が始まる。
1793年10月16日の未明38歳死刑が確定。12時、革命広場にて、処刑が執行される。
1793年11月1日38歳遺体がマドレーヌ墓地に埋葬される。
1795年6月8日没後2年次男ルイ・シャルルが、タンプル塔で亡くなる。
1799年6月10日没後6年長女マリー・テレーズ・シャルロットが、アングレーム公爵と結婚する。
1810年6月20日没後7年フェルセンがスウェーデン王族毒殺疑惑により、市民に殺される。
1815年1月21日没後12年マリー・アントワネットとルイ・16世の遺体が、サン・ドニ聖堂に移葬される。
1851年10月19日没後58年長女マリー・テレーズ・シャルロットが、ゴーリッツで亡くなる。

 

マリーアントワネットのエピソード・逸話

「首飾り事件」の元となったダイヤの首飾り。金500kg相当の価値があった。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/マリー・アントワネット

王妃を陥れる”首飾り事件”

マリーをめぐるスキャンダルとして「ダイヤモンドの首飾り事件」と呼ばれるものがあります。
フランスの貴族ルイ・ド・ロアン公爵にジャンヌという女性が接近、マリーとの友好関係を築こうと持ちかけます。
しかし実は、このジャンヌは詐欺師だったのです。
公爵はマリーに扮した偽物にだまされ、高価なダイヤの首飾りを奪われました。
また、詐欺師に名前を使われたマリーの名誉も大きく傷ついたのでした。

『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』

マリーがフランス国民を怒らせたとされている言葉に、「パンがなければお菓子(ケーキ)を食べればいいじゃない」というものがあります。
しかしこのセリフは、フランスの哲学者ルソーが記した書物の一節から採られたもので、マリーとはまったく関係ありません。
「貧しさに苦しむ国民の生活を理解しない愚かな王妃」というイメージを広めるため、あたかもマリーが語ったかのように伝えられていたことが明らかになっています。

※この発言の「お菓子(ケーキ)」とは、ブリオッシュという菓子パンの一種のことです。
かたいフランスパンと違って、牛乳やバターを使ってやわらかく作られた、庶民にとっては高級な食べ物でした。

赤字はマリーのせいではなかった

マリーの散財は民衆の悪評をうけ、「赤字夫人」とあだ名までつけられていました。
しかし、実際は、王家に関わる支出はフランスの出費総額の5~6%に過ぎず、マリー個人にかかったお金は、その中のさらに一部だけでした。
マリーは、宮廷の無駄なしきたりを省いて、余計な出費を抑えようとも提案していたようです。

亡命失敗の最大の要因

亡命に際し、マリーは家族一緒に大型馬車で逃げると主張しゆずりませんでした。
馬車に大量のワインを積み、道中ではゆっくりと食事と散策を楽しんだのです。
この危機感のなさが、亡命失敗の最大の要因となったのでしょう。

ルイ17世の生存説の否定

「監禁されたルイ17世(マリー・アントワネットの息子ルイ・シャルル)は影武者で、どこかでまだ生きている」などの生存説が根強く残っていました。
死体のDNA鑑定により、この生存説が否定されたのは、死後209年もの歳月がたった2004年のことでした。

マリーと日本の意外なつながり

マリーの母、マリア・テレジアは、日本製の漆器、特に蒔絵を集めていました
戦国時代に日本に訪れた宣教師がヨーロッパに持ち帰ったものです。
彼女は、宮殿に「漆(うるし)の間」を作るほどの熱中ぶりだったようです。

それらを受け継いだマリーも、ヴェルサイユ宮殿に漆器を集めるため部屋を設けました。
当時のヨーロッパでは、つやのある黒を表現することができなかったため、漆器はたいへん貴重なものとして扱われていました。
グランドピアノが黒く塗られるようになったのも、漆塗りを参考にしたのだといわれています。

マリーアントワネットの死因や最後の時

マリー・アントワネットとフランス革命

ヴェルサイユ宮殿_正門

政略結婚によりフランスに嫁いできてからのマリーの生活は、息のつまるつらい日々となりました。ーストリアの自由な宮廷で生まれ育ったマリーにとって、ヴェルサイユ宮殿の古いしきたりや礼儀作法は、意味のない退屈なものでしかなかったのです。
そのうえ、早く世継ぎを生まなければいけない、というプレッシャーも抱えていました。

この時期、多額の財政赤字を抱えていたフランスは、重税を課された国民の不満であふれていました。
けれども、皇女として生まれたマリーは宮廷以外の生活を知らず、民衆の気持ちがわかりませんでした。

彼女は、宝石やドレスの購入に散財し、民衆の貧しい生活とはうらはらな贅沢な暮らしをしていたのです。
マリーの衣装代には、日本円にして年間10億円相当、1着に6,000万円ほどもかけた、といわれています。

夫・ルイ16世からヴェルサイユ宮殿の離宮プチ・トリアノンを与えられると、6億円を費やしてイギリス庭園をこしらえました。
そこでボール遊びやかくれんぼうをしたり、仮面舞踏会や芝居を頻繁に催したのです。
そのすさまじい浪費癖は、日々のパンにもこと欠く生活を強いられてきた貧しい民衆から悪評をうけました。

ですが、結婚して8年たちようやく子を授かったマリーは、子育てを機に変わり始めます。
落ち着きが出てきて、以前ほど遊ぶこともなくなり、悪いとりまきたちにも影響されることが少なくなったといいます。

しかし、この変化は遅すぎました。
すでに、マリーには、敵がたくさんできてしまっていたのです。
そして、彼女にとって決定的な打撃となった「首飾り事件」により、マリー・アントワネットと王室の権威は失墜しました。

不穏な空気が漂うなかで起きた最大の事件が、1789年のバスティーユ牢獄の襲撃です。
不満を持った民衆が、自由で平等な社会をつくろうと、怒りをあらわに動き出したのです。
また、食料不足に苦しんだ数千人女性たちが、武器を手にヴェルサイユ宮殿へ乱入しました。

かくして、これらの事件をキッカケとして、フランス革命は始まったのです。

マリー・アントワネットの最期

コンシェルジュリ監獄から革命広場へ出発するマリー・アントワネット

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/マリー・アントワネット

革命が始まると、マリーは愛人フェルセンの力を借りて、一家でオーストリアを目指しますが、国境近くのヴァレンヌで捕まってしまいます。
以後、国王一家は国民の信頼を失い、パリの牢獄で軟禁状態に置かれます。

このヴァレンヌ逃亡事件の10ヶ月後、オーストリアがフランス革命に干渉、両国は戦闘状態に入ります。
ほどなくして、「マリ―・アントワネットは、敵国に情報を流している」など真実ではない噂まで流れました。

その革命裁判でマリー・アントワネット(享年38歳)は、王とともにギロチンによる斬首刑に処せられたのです。
1793年10月16日の朝、マリーは髪をバッサリと切られ、処刑場までの2キロの道のりを民衆の罵声を浴びながら1時間半かけてゆっくりと連れていかれました。
12時15分、マリー・アントワネットは処刑されました。
ルイ16世と同様に王妃らしい立派な態度で死に臨んだといわれています。

マリー・アントワネットについては様々な見解や意見がありますが、決して愚かな女性ではなく、家族を愛していた優しい女性だったという説が有力です。
王室の権威を守ることが家族を守りフランスを守る事だと心から信じていたのです。
彼女は、フランス革命という大きな歴史のうずに巻き込まれた悲劇の王妃だったといわれています。

マリーアントワネットの名言・俳句

  • 私は退屈することが死ぬほどこわいのです。
  • 私は何も必要としません。私にはすべてが終わりました。
  • 私がこれからおもむくのは恥ずべき死ではありません。
  • 不幸になってはじめて、自分が何者かわかるのです。群衆はやじを飛ばすでしょうけど、私は姿を見せなければなりません。
  • 王朝は冬の時代をむかえバラの花びらは落ちるでしょう。するととげがあらわれ、とげの痛みを感じるでしょう。
  • 子どもたちを置いていくのは心が引き裂かれる思いです。

マリーアントワネットにゆかりのある地

サン=ドゥニ大聖堂の慰霊碑

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/マリー・アントワネット

マリー・アントワネットの埋葬場所は、ルイ16世ととともに革命広場ちかくのマドレーヌ墓地に埋葬されていました。
ですが、ルイ16世の20回目の命日に、サン=ドゥニ聖堂の王墓に改葬されました

サン=ドゥニ聖堂は、古くからフランスの王と王族が埋葬されてきた場所です。
タンプルの墓地で無縁仏として葬られていたルイ17世も、2004年にDNA鑑定で本人だと確認されたのち、ようやくサン=ドゥニ聖堂に運ばれ、父や母と一緒に眠ることになりました。
DNA鑑定の際に使用されたミイラ化した心臓は、聖堂地下室の壁に封印されました。

記念館・資料館

カルナヴァレ美術館は、パリの歴史専門の美術館です。
絵画作品では、昔のパリの街並を描かれているものが多くあります。
また、ルイ15世・16世の時代や、フランス革命時代の王の邸宅をそのまま再現した豪華な内装や丁度品、美術品も展示されています。
展示室は、ルイ16世やロベスピエールなど、革命に関わった人物に焦点をあてています。
マリーアントワネットが最後に過ごしたコンシェルジュリーの独房の質素な部屋も再現されています。

マリーアントワネットの子供や子孫について

マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/マリー・アントワネット

マリ―・アントワネットの4人の子どものうち3人は幼くして夭逝しました。
唯一天寿を全うした長女マリー・テレーズは結婚をし、1813年に懐妊しましたが、流産してしまいます。
その後は子どもを授からず72歳のとき病死したため、これによってルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなりました。

マリー・アントワネットの息子

長男:ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ

1781年10月22日 – 1789年6月4日(享年7歳)
結核により7歳で夭逝しました。

次男:ルイ・シャルル(ルイ17世)

1785年3月27日~1795年6月8日(享年10歳)
誕生と同時にノルマンディー公の爵位を受ける。
明るく活発な美しい少年だった、と伝えられています。
兄であるルイ・ジョゼフが幼いうちに亡くなったため、4歳で王位の第一継承者となりました。
フランス革命で両親が処刑されたあとは、風呂も窓もない劣悪な環境と虐待による監禁生活で衰弱死しました。

マリー・アントワネットの娘

長女:マリー・テレーズ・シャルロット(アングレーム公爵夫人)

1778年12月19日~1851年10月19日(享年72歳)
12歳でヴァレンヌ逃亡事件を経験し、17歳でようやく幽閉を解かれました。
捕虜交換によりオーストリアも渡り、従兄弟のアングレーム公と結婚しました。
結婚13年目にして妊娠するも、流産。
72歳のとき、肺炎のため死亡しました。

次女:ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス

1786年7月29日~1787年6月19日(享年当歳)
結核により生後10ヶ月で夭逝しました。

マリーアントワネットを題材とした作品(映画・小説・ドラマ)

映画

マリー・アントアネットの生涯(1938年)

主演:ノーマ・シアラー , タイロン・パワー , ジョン・バリモア 、 ロバート・モーレイ
監督:W・S・ヴァン・ダイク
元祖マリ―アントワネットの映画です。
オーストリア人作家シュテファン・ツヴァイクによって書かれたアントワネットの伝記をもとに製作。
ベルサイユ宮殿の敷地で撮影が許可された、最初の映画として注目されました。

マリー・アントワネットの首飾り(2001年)

主演:ヒラリー・スワンク、サイモン・ベイカー
監督:チャールズ・シャイア
1785年に実際に起こった歴史的詐欺事件「首飾り事件」をモチーフにした作品です。

マリー・アントワネット(2006年)

ソフィア・コッポラ監督、キルスティン・ダンスト主演
マリー・アントワネットの恋愛を中心とした、青春映画。

王妃マリー・アントワネット(2008年)

主演:ダニー・ギルモア, マリー・イヴ・ボーリュー, カリーヌ・ヴァナッス, オリヴィエ・オーバン, クロエ・ロシェロー
監督:イヴ・シノモー, フランシス・ルクレール
歴史的事実を忠実に展開していくストーリー。
混乱しがちな歴史的背景もわかりやすく解説してくれるナレーション付きで、多くの人に評価されています。

小説・ミュージカル

『王妃マリー・アントワネット』

遠藤周作著、新潮文庫
この作品は、東宝ミュージカル「マリー・アントワネット」の原作となっています。

『マリー・アントワネット物語』

藤本ひとみ著
上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。

ラジオドラマ

フランツ・ルフレルの天使たち(声:ReeSya)

脚本・杉崎智介
杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM
フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。

参考文献

『王妃 マリー・アントワネット』(遠藤周作/新潮文庫)

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『人物世界の歴史8 ナポレオンとフランス大革命の嵐』(監修 東京大学教授 木村尚三郎)

『ビジュアル 世界史100人 下巻』(世界文化社)

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