徳川四天王!?井伊直政とはどんな人?生涯・名言・偉業を解説

徳川四天王のひとりである井伊直政は、浜松で鷹狩りをしていた家康に見出され出世の道を歩んだといいます。
ひとめでその器量が凡庸でないことを見抜いた家康は、かれに万千代と名付け2千石を与えています。

常に命懸けの、まさに捨て身で戦ったという直政は、いったいどういう人物であったのでしょうか。

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井伊直政とは?

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直政

井伊直政(いい なおまさ)は、のちに徳川四天王の一人に数えられたほどの大きな功績をあげた武将です。

かれは、遠江国井伊谷(とおとうみのくに いいのや)を治める、井伊家に生まれました。
幼名は虎松(のち万千代)。
幼くして父を亡くし、住処を転々と変えながら育ちます。

15歳になる頃、直政は養母・直虎(なおとら)の機転で家康に仕えます。
以後、戦場で数々の武功を立て、家康から武田家の旧臣を与えられ、赤い甲冑の部隊「赤備(あかぞなえ)」を率いることとなります。

家康は三河(愛知県東部)中心主義を生涯貫いた男です。
それがひとり、新参といってもよい直政を破格に取り立てました。
よほどの奉公ぶり、直政の知略と武辺がほかに際立っていたということでしょう。

生まれ

父:井伊直親、母:おひよ(奥山朝利の娘)
改名:虎松→松下虎松→井伊万千代(幼名)→直政
別名:

  • 井伊の赤鬼(いいのあかおに)
  • 人斬り兵部(ひときりひょうぶ)

身長

井伊直政の身長は、正確なところは不明ですが165cm前後と思われます。
当時の成人男性の平均身長は155cm弱と言われていますので、大柄なほうだったのでしょう。
また、容姿端麗で、心優しく、家康に愛されたという記述も残っています。

性格

直政は、義に厚く、真面目で誰よりも自分に厳しい人だった、と言われています。
出陣した際には、大きな角の脇立ての兜をかぶり、勇猛果敢に戦いました。

しかし、直政にはまた違う一面もあります。
普段の彼は戦場でのその猛々しい武者ぶりからはとうてい考えられないほど、落ち着きがあり物事に動じない寡黙な人だったと言われています。

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井伊直政の人生年表・生涯

井伊直政像(彦根駅前)

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直政

1561年 2月19日、今川氏の属将・井伊直親(なおちか)の長男として、遠江の国井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)に生まれる。
母は、奥山朝利(おくのやま ともとし)の娘・おひよ。幼名は虎松(とらまつ)。
1562年 父・直親が義元氏真(うじざね)の命により殺される。
虎松(井伊直政の幼名)、井伊家と親せきの今川家家臣・新野親矩(にいの ちかのり)に引き取られる。
1564年 新野親矩が戦死、虎松は遠江国浄土寺(とおとうみのくにじょうどじ)へ逃れる。
1568年 三河国鳳来寺(みかわのくにほうらいじ)へ逃れる。
1572年 母・おひよが浜松の松下源太郎清景(きよかげ)に再嫁したのにともない、以後、松下家で養育されることになる。
1575年 2月、浜松城下で放鷹中の家康と遭遇して家康に仕え、名を万千代と改める。
1576年 2月、遠江国芝浦で家康が武田勝頼と戦ったおりに初陣を飾る。
1581年 3月、遠江国高天神城を家康が攻めたおり、従軍して功を立てる。
1582年 3月、織田・徳川連合軍が攻めたため、甲斐国天目山のふもとで武田勝頼が自刃する。
これにより、長年家康を苦しめてきた戦国最強と謳われた武田氏が滅亡した。
5月、家康の上洛に小姓組のひとりとして従う。
6月2日、織田信長が京の本能寺で明智光秀の謀反に遭い自刃する(本能寺の変)。
万千代(井伊直政)、家康とともに堺から三河国に戻る(神君伊賀越え)。
8月26日、直政の養母・井伊直虎が病死する。
このころ、徳川家康の命をうけ、井伊の赤備を引き継ぐ。
同月以降、万千代(井伊直政)、家康の甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)計略に際して、取次役をつとめる。
10月、甲斐国若神子(山梨県北杜市)で家康が北条氏直と対陣したおり、和議の使者をつとめる。
11月、元服し、直政と名乗る。
1584年 正月、家康の家臣で松井松平家当主・松平康親(やすちか)の娘・花(のちの東梅院)と結婚。
3月、家康・織田信雄(のぶかつ)連合軍、秀吉軍と対峙する(小牧・長久手の戦い)。
4月、長久手の戦いで先鋒をつとめ、秀吉方の池田恒興(つねおき)・森長可(ながよし)らの軍勢を破る。
6月、尾張国蟹江城(愛知県)攻略に参陣する。
12月、家康、秀吉と和睦する。
1585年 7月、豊臣秀吉、関白に任ぜられる。
うるう8月、徳川軍、信濃国上田城(長野県上田市)で真田昌幸(まさゆき)と戦って大敗する(第1次上田合戦)。
9月、直政、信濃国上田へ徳川軍の撤退を指揮するために派遣される。
11月、徳川家の重臣・石川数正(かずまさ)が出奔し、秀吉の家臣となる。
1586年 10月、直政、家康と秀吉の和睦にともなう人質として、岡崎に下る秀吉の母・大政所を護衛する。
和睦後、大政所上洛の供として、大坂に至り、秀吉と謁見する。
12月、家康、駿府城に入る。
1587年 8月、侍従に任じられる(翌年3月の説あり)。
1588年 4月、従五位下(じゅごいのげ)に叙され、御陽成(ごようせい)天皇の聚楽第(じゅらくだい)行幸に家康とともに陪席する。
1590年 2月、長男・直継(嫡子・のちの直勝)、次男・直孝(庶子)が生まれる。
同月、秀吉の小田原征討に、徳川軍の先鋒として出陣する。
その後、直政、相模国小田原城(神奈川県小田原市)の外曲輪・篠郭(しのぐるわ)を攻めて功を立てる
7月、北条氏直、秀吉に降伏する(北条氏の滅亡)。
8月、秀吉、家康を関東に移封する。直政、上野国箕輪城(群馬県高崎市)12万石が与えられる。
1591年 秀吉の九戸政実(くのへ まさざね)征討のおり、家康の名代として陸奥国九戸城(岩手県二戸市)攻略におもむく。
1592年 9月、江戸城の普請を代行する。
1593年 5月、文禄の役に家臣を派遣する。
1598年 8月、秀吉が病死。直政、家康の命により、居城を箕輪城から上野国和田(高崎)城(群馬県高崎市)に移す。
1600年 6月、家康の会津征討に従軍する。
7月、家康、下野国小山(栃木県小山市)にて、石田三成(みつなり)挙兵の知らせを受ける。
8月、軍監として尾張国清州城に入る。
9月15日、家康率いる東軍と三成率いる西軍、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で激突(関ヶ原の合戦)。
この時、直政、家康の四男で娘婿の松平忠吉(ただよし)とともに先鋒・福島正則隊を越えて先陣を切る。
その後、直政、西軍・島津義弘隊の銃撃で負傷する。
10月、直政、家康と黒田官兵衛(如水)、毛利輝元らとの調停に奔走する。
長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)の所領・土佐国浦戸城(高知県高知市浦戸)の受け取りのため家臣を派遣する。
また、西軍についた真田昌幸・幸村(信繁)父子の助命のために尽力する。
1601年 近江国に18万石を与えられ、近江国佐和山城(滋賀県彦根市)へ入る。
1602年 正月、従四位下(じゅしいのげ)に叙される。
2月1日、直政、佐和山城にて病死(享年42)。
1603年 2月、家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府をひらく。

井伊直政のエピソード・逸話

『関ヶ原合戦屏風』に描かれた井伊勢。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/赤備え

「赤備」とは?

戦国最強と謳われた武田家の「赤備」を、最初に率いたのは、"甲山の猛虎"と称された飯富虎昌(おぶ とらまさ)でした。

この「赤備」とは、旗指物、旌旗、鞍などの馬具のすべてと、騎馬武者の甲冑、鎧、具足、刀のさやなどの装備品を朱色に統一した集団です。
かれら「赤備」は、いかなる局面であろうと後ろに下がらず、前に出る役目を担っています。
そのため、生死の境を越えていく強靭な精神力が求められます。
これは、家を継がない次男以下の、武田武士から選抜されていました。

虎昌から「赤備」をゆだねられた山県昌景(やまがた まさかげ)も長篠・設楽原の合戦で戦死を遂げていました。

そして1582年、徳川家康の命により井伊直政に引き継がれたのでした。
その後かれらは、小牧・長久手の戦いをはじめ、各戦場で活躍し、「井伊の赤備」として、徳川幕府成立の強靭な推進力となったのです。

「人斬り兵部」としての直政

直政は、本来寡黙な性格でしたが、その厳しすぎる気性は自分だけではなく、しばしば他人へも向けられました。
家臣のわずかな失敗も許さず、手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも言われていました。

鍋島勝茂からの評価

直政は、関ヶ原の戦いに際し西軍に与した鍋島勝茂から、作法やふるまいが見事であったと賛辞をうけています。
「天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫なり」と評された、と言われています。

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井伊直政の死因

関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直政

家康の功臣・井伊直政は、関ヶ原の合戦でも大活躍をしました。
「井伊の赤備」は敵将・島津義弘(よしひろ)の甥・島津豊久(とよひさ)を討ち取り、関ヶ原の合戦は午後3時頃東軍の圧勝で幕を閉じたのです。

そして、それから2年後の1602年2月1日、井伊直政はこの世を去ります(享年42)。
関ヶ原での戦いで受けた銃創(鉄砲傷)がもとで発症した破傷風と、併発した敗血症が原因だと言われています。

直政の「赤備」は後継者の直孝に受け継がれ、大坂の陣でも活躍。
その後、井伊家は代々彦根藩を治め、子孫も徳川家の先鋒と定められて江戸幕府を支えました。

井伊直政の兜

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/赤備え

直政の兜は、朱漆塗越中頭形兜(うるしぬりえっちゅうずなりかぶと)と呼ばれる兜です。

「赤備」を受け継いだ彼は、身につけるすべてのものを真っ赤に統一していました。
大きな鬼の角のような前立ての兜も当然その色は真っ赤でした。

そして、その鬼神も避けるような奮戦ぶりから、直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれていたようです。

井伊直政の家紋

井伊家は、丸に橘(まるにたちなば)の家紋で、彦根橘・井伊橘と呼ばれます。
橘はミカンの原種で、昔から高貴な植物として尊ばれていました。
橘を用いた家紋は多く、井伊家の家紋「橘紋」は日本十大家紋の一つにされています。

この家紋の由来としては、ひとつの逸話があります。
1010年の元旦に遠江国・井伊谷の八幡宮の神主が、手洗場の井戸横に捨てられている赤ちゃんを見つけました。
その赤ちゃんが、井伊家のはじまりされる共保(ともやす)だったのです。

その傍らに、橘が咲いていました。
橘は生命力が強く、長寿の象徴とされています。
そのことから、この橘紋が使われるようになったとされています。

井伊直政の名言・俳句

  • 武士の子をさやうに用心して何の役にかたつべき、はなして、もし討死ならば其(その)分の事よ。
    意味:武士の子をそのように用心してなんとする。放して討死すればとて、それだけのことだ。

 

  • 捨てて苦しかるまじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし。
    意味;逃すべきではない敵と思ったなら、敵がいると誰かに知らせるよりも前に、相手に討ちかかるべき。

井伊直政にゆかりのある地

清涼寺

井伊家のお墓は、

  • 清涼寺(滋賀県彦根市古沢町)
  • 豪徳寺(東京都世田谷区)

にあります。

井伊家は、江戸時代を通じて彦根藩を領しました。

原則として、国もとである彦根で死去した当主は清凉寺を墓所として、
江戸で死去した当主は彦根藩領であった世田谷区の豪徳寺を墓所としているようです。

記念館・資料館

  • 井伊美術館
    所在地:京都府京都市東山区

井伊直政や、かれを育てたおんな城主・井伊直虎のゆかりの文化財が管理されている美術館です。
井伊直政神像もあり、「井伊の赤備」として有名な甲冑や鎧、兜などの武具も展示されています。

井伊直政の子孫について

当初、家督は長男の井伊直継(後の直勝)が継ぎました。
ですが、家康の命により病弱だった直継に代わって、弟の井伊直孝が直政の家督を継ぐこととなりました。

以降は、直孝の子孫が彦根藩主を継承することとなります。
直政の死後は、佐和山城を廃して彦根城を築き、30万石の大大名となりました。
幕政に重きをなし、江戸時代264年間を通じて井伊直弼など4名の大老も輩出。
しかし、直弼が桜田門外の変で暗殺されたのちは、10万石の減封を受け、幕府から冷遇されることになります。

直勝と改名した直継の子孫(井伊兵部少輔家)は、安中藩主→三河西尾藩主→遠江掛川藩主→越後与板藩主として存続しました。

井伊直政を題材とした作品(映画・小説・ドラマ)

映画

『関ヶ原』(2017年)

監督・脚本:原田眞人
出演:岡田准一、役所広司、有村架純、平岳大、東出昌大、松山ケンイチ

石田三成と徳川家康が主人公となる、2017年制作の日本映画です。
豊臣秀吉の死から天下分け目の関ヶ原の戦いに至るまでの過程を追っていきます。
こちらの作品は、司馬遼太郎原作の歴史小説『関ヶ原』の映画化作品となっていることにも注目。

小説

『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』
川村真二著(PHP研究所、2014年)

家康の覇業を支えた、徳川四天王と呼ばれる四人の名臣たちが主人公。
かれらの知略と武勇を、新解釈をまじえながらストーリー展開していきます。

テレビドラマ

『おんな城主 直虎』(2017年)
作:森下佳子
音楽:菅野よう子
出演:柴咲コウ、三浦春馬、高橋一生

徳川家康の天下取りを支えた1人、井伊直政を育てた遠州伊井谷の女領主、井伊直虎が主人公のNHK大河ドラマです。

参考文献

  • 『戦国人物伝 井伊直政』(ポプラ社)
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