杉田玄白とは何をした人物?生涯・功績・名言・死因・子孫も解説 【解体新書の著者】

杉田玄白は、江戸時代中期に活躍した蘭学医です。前野良沢らと、『ターヘル・アナトミア』というオランダ語訳書の解剖学書を翻訳。『ターヘル・アナトミア』は『解体新書』として、日本で出版され、日本の蘭学や医学の発展に多大なる功績を残しました。

当時はオランダ語を十分に読める人はおらず、まともな辞書もない時代です。このような時代に解体新書が誕生したのは、奇跡と言ってもよいのです。杉田玄白という名前は授業でも必ず習いますが、その人物像については分からない人も多いでしょう。

今回は杉田玄白の生涯や功績について解説していきます。

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杉田玄白とは?

杉田玄白とは?

杉田玄白(石川大浪筆) 出典:Wikipedia

 

杉田玄白は、1733年に小浜藩医の杉田玄甫の息子として誕生します。医者として頭角を現し、1757年から江戸の日本橋で町医者として開業。1771年から前野良沢や中川淳庵らと、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始します。3年の月日をかけてこれを完成させ、『解体新書』として世に送り出しました。

その後は、弟子の育成に力を注ぎ、多くの優秀な蘭学者と医者を育て上げます。晩年には解体新書ができる過程を回想した『蘭学事始』を執筆。蘭学導入草創期の様子を知る貴重な資料となっています。その2年後の1817年に、杉田玄白は83歳で死去したのです。

氏名杉田玄白
出生日享保18年(1733年)9月13日
出生地江戸牛込
死没日文化14年(1817年)4月17日
死没地(亡くなった場所)江戸
血液型不明
職業蘭学医
身長不明
体重不明
配偶者前妻・登恵、後妻・伊與

 

杉田玄白の人生年表・生涯

杉田玄白の人生年表

出来事
1733年杉田玄白誕生
1740年小浜に移住する
1753年5人扶持で召し出されて小浜藩医となる
1757年江戸の日本橋で医院を開業する
1765年藩の奥医師となる
1771年前野良沢らとターヘルアナトミアの翻訳を開始
1774年解体新書を発行する
1776年医学塾・天真楼を開く
1805年将軍・徳川家斉に拝謁する
1815年蘭学事初を執筆
1817年死去 享年85歳

 

小浜藩の医師の子として生まれる

小浜藩の医師の子として生まれる

神楽坂から見た牛込門 出典:Wikipedia

 

杉田玄白は享保18年(1733年)9月13日に、若狭国小浜藩医・杉田玄甫の三男として生まれました。杉田玄甫は、江戸と故郷である小浜藩を行き来する生活を送り、杉田玄白も5歳から10歳の間を小浜藩で過ごしています。

杉田玄白は医者の才能を受け継ぎ、1753年に5人扶持で召し出されて小浜藩医となり、上屋敷に勤めています。更に4年後の1757年には、小浜藩に籍を置きつつ江戸の日本橋で医院を開業。これ以降、杉田玄白の拠点は江戸となりました。

当初の杉田玄白は、東洋医学を中心とした医術を学んでいましたが、徐々に西洋医学に強い興味を持つようになります。この頃から平賀源内や、中川淳庵などの蘭学社達と交流を持つようになり、後の解体新書の発行の大きな原動力になるのでした。

ちなみに1769年に父が死去。長兄は既に亡くなっており、杉田玄白は家督(30人扶持)と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷に詰める事となりました。

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ターヘル・アナトミアの翻訳に着手

ターヘル・アナトミアの翻訳に着手

ターベル・アナトミア 出典:Wikipedia

 

1771年に杉田玄白は、人生の大きな転換点を迎えます。この年の春、蘭学者グループの中川淳庵が『ターヘル・アナトミア』というオランダ語訳書の解剖学書の入手に成功。これは当時では最先端の医学書であり、中川淳庵はこれを杉田玄白のところに持っていきます。挿絵の内容から、杉田玄白は大いに興味を持ち、藩の家老に頼み込んで購入に成功したのです。

更に蘭学者仲間の前野良沢は、1770年に同書を入手していました。3人は人体の中身が、ターベル・アナトミアと同じであるかを確認する為、1771年3月4日に小塚原刑場での刑死者の腑分に参加。この時に杉田玄白と前野良沢は、同書同版のターベル・アナトミアを持参しており、両者は互いに手を打ち合い、この本を翻訳する事を決めたのでした。

1825年ごろの出島 出典:Wikipedia

 

翌日から3人による翻訳作業が始まりますが、翻訳は根幹を極めます。当時の日本は鎖国状態にあり、オランダ語を話せるのは長崎の出島にいる通司のみ。更に彼らも読み書きをできるわけではありません。3人は前時代の蘭学者・青木昆陽「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」に登場する100〜200程の単語、前野良沢が長崎に遊学した際に教えてもらったわずかな単語と、文法の理解のみで翻訳作業に着手したのでした。

杉田玄白と中川淳庵はオランダ語を読む事が出来ず、この時代指折りの蘭学者である前野良沢も十分な知識を持っていたわけではありません。1ページはおろか、最初の数行を翻訳するだけでも、単語の確認や推測に何時間もかかります。それでも少しずつ翻訳作業は進み、1774年にターヘル・アナトミアは『解体新書』という名前で刊行されるに至ります。

田沼意次 出典:Wikipedia

当時は田沼意次が政治の実権を握っていた時代でした。彼は蘭学にも理解があり、平賀源内などの多くの蘭学者と交流があったのです。杉田玄白は平賀源内とも交流があり、解体新書の刊行にも平賀源内の斡旋がありました。解体新書の発行は、医学界のみならず蘭学界にも大きな影響を与え、これ以降日本の医術や蘭学者は飛躍的な進歩を遂げるのです。

ちなみに解体新書の発行時に、前野良沢は自らの名前を出していません。これは翻訳に不備がある事を恥じ、自らの名前が載る事を避けた為とされています。その為、解体新書は刊行された際に、杉田玄白の名前は世に轟いたものの、前野良沢の名前は世に知られる事はありませんでした。

医者としての責務を全うする

医者としての責務を全うする

大槻玄沢 出典:Wikipedia

 

解体新書の刊行で、杉田玄白の威光は大いに高まりました。そんな背景もあり、杉田玄白は1776年に「天真楼」という医学塾を開設。当時の日本では東洋医学が主流でしたが、杉田玄白は外科による手術も行っていたようです。「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」とその腕前も高く評価されていました。

1787年に田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が主導すると、多くの蘭学者は肩身の狭い思いをするものの、杉田玄白の威光は衰える事はありませんでした。1790年からは、前野良沢との共通の弟子である蘭学者の大槻玄沢が、解体新書の改訂に着手します。

これは解体新書の誤字や意訳が多すぎる事を杉田玄白と前野良沢が懸念した為であり、1798年に『重訂解体新書』は完成しました。ただ実際の刊行は大幅に遅れ、刊行は1826年となっています。

また1805年に杉田玄白は、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上しています。医者として高い評価を得たまま、1807年に娘婿の杉田玄元に家督を譲って隠居しました。

杉田玄白の死因と最期

杉田玄白の死因と最期

杉田玄白記念公立小浜病院にある杉田玄白像 出典:Wikipedia

 

杉田玄白は文化14年(1817年)4月17日に83歳で死去します。死因は不明ですが、当時としてはかなりの高齢であり、老衰と呼んで良いでしょう。彼は「百たらず八十路に余る五とせの いつも替わらぬ春に逢いにけり」と述べ、高齢に差し掛かっても、何ら変わらぬ春の訪れを享受していました。

ちなみに杉田玄白の最後の言葉は、「医事は自然に如かず」。病気の治療にあたっては、自然に従った治療が求められると考えており、自然の治癒力を妨げず、生かして行く事が重要と考えていたようです。

杉田玄白の性格と人物像エピソード

せっかちで世渡り上手な出世人

せっかちで世渡り上手な出世人

小浜神社 出典:Wikipedia

 

解体新書の一件から、杉田玄白は真面目な人物だったと考える人もいるかもしれません。しかし、実際の杉田玄白は意外とそうではなく、せっかちで要領の良い人物だった事が伺えます。

彼は医者の家に生まれるものの、当初は勉強についていけず、「自分は医者になる才能がない」と考えていました。しかし兄が夭折し、次兄が既に容姿に出されていた経緯から、杉田玄白は家の家督を継ぐ事を余儀なくされる。勉強を本格的に始めたのは10代の後半。そこから彼は医者としての才能を発揮させています。

また無理とわかっているものは、早めに放棄する性格でもありました。蘭学の魅力と、その先駆性に気づいた杉田玄白は、長崎にいる通司に「オランダ語を教えて欲しい」と相談した事があります。しかし通達は、オランダ語を習得する難しさを杉田玄白に力説すると、杉田玄白はあっさりと蘭学の勉強を辞めてしまうのです。

そんな杉田玄白も、ターヘル・アナトミアの翻訳に着手すると、前野良沢や中川淳庵の協力を経て翻訳を完成させました。完璧なる翻訳を目指す前野良沢に対し、杉田玄白は蘭学の発展の為に、一刻も早い刊行を目指しています。結果的に平賀源内や田沼意次など、多くの有識者を動かして解体新書の発行に成功させました。

前述した通り、当時の政治の実権を握っていたのは田沼意次です。彼は蘭学の発展に寛大で、解体新書の発行にも特に制裁はどは行っていません。次の老中首座の松平定信と治世だった場合、解体新書の発行がこれほどスムーズに進んだとは思えません。解体新書の刊行が成功したのは、杉田玄白の世渡り上手のうまさと見切りをつける速さが関係していると言えるでしょう。

趣味は食べること

趣味は食べること

酒や食事はほどほどに 出典:Wikipedia

 

杉田玄白は病弱ながら、83歳という当時では異例の長寿を誇りました。そんな彼の趣味は食べる事でしたが、そんな中にも医者としての健康増進の考えが反映されています。杉田玄白は69歳の時に、「養生七不可」という健康長寿の為に必要な事を書き記しています。内容は以下の通りです。

  • 一、昨日の非は恨悔すべからず。
  • 二、明日の是は慮念すべからず。
  • 三、飲と食とは度を過すべからず。
  • 四、正物に非れば苟しくも食すべからず。
  • 五、事なき時は薬を服すべからず。
  • 六、壮実を頼んで、房を過すべからず。
  • 七、動作を勤めて安を好むべからず。

飲酒と食事は節度を心がける事、無駄に薬を飲まない事など、現在でも通じる健康の秘訣が記されています。彼は食べる事が好きではあったけれど、決して暴食はせずに日々の1品か2品。その僅かな量に楽しみを見出していたのでした。

彼が長生きだった理由が、この書籍からも見えてくるのです。

杉田玄白がやったこと・功績

杉田玄白の功績といえば、ターヘル・アナトミアを翻訳し、解体新書を世に送り出した事が挙げられますが、実は翻訳内容は誤訳だらけ。更に解体新書自体が日本初の西洋医学の翻訳書というわけではありません。

では、なぜ解体新書がこれほどまでに教科書で取り上げられるのでしょうか。その理由に迫っていきたいと思います。

解体新書の歴史的な意義

解体新書の歴史的な意義

解体新書の表紙と挿絵 出典:Wikipedia

 

解体新書の歴史的な意義としては、蘭学の医術を心得た人物が西洋医学の本を翻訳した事にあります。

日本初の翻訳された医学書は、1680年に刊行された『阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解』です。ただこちらは、長崎にいる通司が翻訳したものであり、医者が翻訳をしたわけではありません。その為、医学書としての翻訳は不完全なものでした。

更に当時の医学は中国から輸入された考え方が主流でしたが、杉田玄白や前野良沢は、中国の治療法は不完全なものが多いと考えており、それがターヘル・アナトミアの翻訳に繋がっています。彼らは翻訳の過程で、今までに存在しなかった西洋医学の概念を取り入れました。

解体新書に記された神経図 出典:Wikipedia

 

彼らがこの時に生み出した単語としては、神経、動脈、筋、軟骨などが挙げられます。特に神経という言葉は、直訳すれば「神の通り道」。これはキリスト教の影響が色濃い西洋の概念をうまく取り入れた例と言えるでしょう。

更に杉田玄白らは、解体新書の過程において、『トンミュス解体書』『ブランカール解体書』などの解剖書も参考にしています。解体新書は単なる翻訳書にとどまらず、東洋にありながら西洋医学の概念を再構成させた書物なのです。

そんな経緯から、解体新書は日本史における重要な書物だと言えるのです。

蘭学事始を遺す

蘭学事始を遺す

蘭学事始を世に送り出した福沢諭吉 出典:Wikipedia

 

また杉田玄白は、亡くなる2年前に「蘭学事始」という手記を残しています。これは、ターヘル・アナトミアを翻訳した頃の当時の過程を手記として遺したものです。

杉田玄白が世に送りだした解体新書は、日本の蘭学の発展に多大なる影響を与えました。ただ、当時は辞書もなければまともな蘭学者もいない時代であった事は、徐々に風化されていたのです。前野良沢の存在が忘れ去られる事、先人達の苦労の末に現在の恵まれた環境があった事を杉田玄白は記録として遺したいと考えたのです。

蘭学事始は、自筆の原稿本と写本の2冊が出回ったのみでした。写本は二人の弟子である大槻玄沢に贈られています。ただ1855年の安政の大地震で杉田家は被災し、原稿は失われました。更に大槻家の写本も散逸し、蘭学事始は完全に失われたとされ、関係者は惜しんでいたのです。

ところが、幕末になり露店で偶然写本が発見され、杉田玄白の子孫の校正を経て、福沢諭吉らの手によって再び世に送り出される事になりました。現在では蘭学事始は、西洋医学導入期の貴重な資料として広く読まれています。

 

杉田玄白の名言

杉田玄白の名言

明治2年の蘭学事始に記された杉田玄白 出典:Wikipedia

 

杉田玄白は文才があり、蘭学事始などの手記に多くの名言を残しています。この項目では杉田玄白の残した名言を解説していきます。

舵や櫂をなしで、大海に乗り出したよう

蘭学事始に残された名言です。辞書も通司もいない中でのターヘル・アナトミアの翻訳は難航を極め、その時の心境をこのように現したのです。まさにターヘル・アナトミアは大海であり、彼らの苦悩が伺えます。

一滴の油、これを広き池水のうちに点ずれば、散じて満池に及ぶとや。

ターヘル・アナトミアを訳した後で、杉田玄白が残した名言です。意味は「一滴の油を広い池に落としても、何の影響もない。ただそれを続けていけば必ず湖を満たす」というものです。

解体新書の刊行は、数ある書物の一つに過ぎません。ただ、その一つの書物が他の蘭学者や医者の気持ちを奮い立たせ、多くの著作や著名な学者が生まれる事になったのです。

杉田玄白の家族や子孫

杉田玄白の子孫は今も存命なのか?そんな疑問を持つ人もいるかもしれません。この項目では、杉田玄白の家族や子孫の動向について解説していきます。

杉田玄白の子孫は存命?

杉田玄白の子孫は存命?

杉田玄白の孫である杉田成卿

 

結論から言えば、杉田玄白の直系の子孫はいません。ただ娘や息子の娘などはたくさんいて、彼女たちの血筋が現在にも伝わっています。

杉田玄白は死別した前妻・登恵と、後妻・伊與の二人の妻がいました。登恵との間に一男二女が授かるものの、長男は早産で知的障害があり、後に夭折しています。杉田家の当主は、長女の婿・伯が継ぐ事となりました。

ただ杉田伯元の子、白玄(杉田玄白の孫)には実子がいなかった為、尾張藩医・權頭信珉の子である玄瑞が養子となり、杉田家の当主を継いでいます。杉田玄瑞は医学や翻訳の才能に優れ、幕末に外国奉行支配翻訳御用頭取などを歴任。福沢諭吉らと親交を深めました。

後妻・伊與との間には、1男3女を授かっており、杉田玄白は次男である甫仙に分家を立てさせています。杉田甫仙は杉田成卿という息子がいて、幕府天文方などの要職を務めていました。ただ1859年には杉田成卿は43歳で病死。この時点で、杉田玄白の男系の子孫は途絶えています。

杉田玄白の現在にも繋がる子孫

杉田玄白の現在にも繋がる子孫

富田鐵之助 出典:Wikipedia

 

杉田玄白の男系の子孫は途絶えていますが、その後も杉田玄白の血筋は続いています。杉田成卿には3人の娘がいて、長女の縫はニューヨーク領事官だった富田鉄之助と再婚。次女の継は哲学者の乙骨太郎乙と結婚しています。

乙骨太郎乙と継との間には10人もの子どもがいて、長女・まきは帝室林野局技師の江崎政忠に嫁いでいます。二人の間には著名な子孫が多く、昆虫学者の江崎悌三や野球選手の長谷部銀次などがいるのです。

ちなみに、長谷部銀次は杉田玄白から数えて9代目。杉田玄白の血筋を辿れば、野球選手に行き着くのは興味深い事ですね。

杉田玄白のゆかりの地

矢来公園

この地は、かつて若狭小浜藩酒井家下屋敷跡があった場所で、杉田玄白の生誕地となっています。近隣には、神楽坂という坂もあり、こちらはかつての小浜藩の藩主・酒井忠勝が途上の際に利用したと伝わっている場所です。

この場所は福井県にとっては重要な場所。毎年11月には「ドーンと福井in神楽坂」が開催され、福井県のPRとして登城行列などが行われおり、杉田玄白が未だに多くの人達に慕われる事の証明になっているのです。

住所:東京都新宿区矢来町38

栄閑院

栄閑院

栄閑院にある杉田玄白のお墓 出典:Wikipedia

 

栄閑院には、杉田玄白のお墓があります。栄閑院は別名を猿寺と呼びますが、それは江戸前期の寛永(1624〜1643)に猿回しに扮した泥棒がこの寺に逃げ込んだ際に、住職に改心させられたという逸話が関係しています。

ちなみに、泥棒と共に栄閑院に現れた猿は江戸中の人気者になりました。

杉田玄白の墓石には、九幸(9つの幸せ)と刻まれており、杉田玄白が充実した人生を送った事がわかります。

住所:東京都港区虎ノ門3-10-10

杉田玄白の関連人物

前野良沢

前野良沢

前野良沢 出典:Wikipedia

 

前野良沢は、杉田玄白や中川淳庵とターヘル・アナトミアの翻訳に携わった人物です。彼は中津藩士の藩医で杉田玄白より10歳年上。20歳の頃から蘭学の勉強を行っています。ターヘル・アナトミアの翻訳時点で、彼よりもオランダ語の文法や単語を知る者はおらず、翻訳に多大なる功績を残しているのです。

ただ前野良沢は、「とりあえず解体新書を世に送り出したい」と主張する杉田玄白に対し、「納得のいく訳書を作りたい」と主張。解体新書の発行の際にも、「翻訳の不備」を恥じて名前を出そうとはしなかったのです。

ただ杉田玄白の前野良沢は、対立していたわけではなく、互いを尊敬し合っていました。杉田玄白は前野良沢の思いを汲み取り、解体新書に前野良沢の名前を載せていません。ただ彼の事が世間から忘れ去られる事を忍び、晩年に蘭学事始を書き表したのでした。

前野良沢は杉田玄白にとって盟友であり、歴史上でも指折りのコンビだったといえるでしょう。

杉田玄白の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

風雲児たち

故人・みなもと太郎による歴史漫画です。本作品は幕末を描く為に、関ヶ原の戦いから物語をスタートさせた意欲作で、杉田玄白と前野良沢も登場しています。惜しくも作者は2021年に死去し、作品は1862年付近で未完となりました。

とはいえ本作品の分かりやすさ、壮大さは群を抜いており、多くの人達に読んでほしい作品です。

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冬の鷹

杉田玄白と前野良沢を主人公にした歴史長編小説。学者肌の前野良沢と、世渡り上手な杉田玄白。解体新書は相反する二人が両軸となり、世に解き放たれた訳書です。二人の生き様はどちらも共感できる部分があるのではないでしょうか。

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杉田玄白 晩年の世界――『鷧斎日録』を読む

杉田玄白といえば、解体新書の出版が有名で、晩年の動向についてはあまり知らない人が多いです。彼は当時としては異例の85歳まで存命だった人物。19年にわたり、鷧斎日録という日記を残しており、これは当時の世相を現在に伝える貴重な資料となっています。杉田玄白の人物像を深く知りたい人におすすめの一冊です。

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おすすめの動画

杉田玄白・本居宣長 〜江戸時代の学問〜 #歴史にドキリ

過去に放送された歴史教養番組です。ターヘルアナトミアを翻訳する杉田玄白達の苦悩がよくわかる内容になっています。

おすすめドラマ

風雲児たち 蘭学革命(れぼりゅうし)篇

前述した風雲児たちは2018年の正月にドラマ化されています。舞台は蘭学黎明編であり、主人公は新納慎也演じる杉田玄白と、片岡愛之助演じる前野良沢でした。監督は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を手がける三谷幸喜。コミカルな杉田玄白と前野良沢のやりとりもおすすめです。

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杉田玄白についてのまとめ

今回は杉田玄白の生涯について解説しました。彼は前野良沢と共に、手探りの状態からターヘル・アナトミアの翻訳に着手し、日本の医学や蘭学の発展に多大なる影響を与えました。辞書も満足にない時代の中、その作業はとても困難な伴った事でしょう。

教科書ではわずか1行しか描かれない出来事の中には、たくさんのドラマや人間模様が存在します。杉田玄白と前野良沢の関係性も、そんな例の一つです。今回の記事を通じて、杉田玄白の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。

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