小早川秀秋の生涯と人物像!関ヶ原の裏切り後や子孫・偉業・死因も解説

関ヶ原の戦いのキーマンといえば小早川秀秋です。彼が家康に寝返った事で、戦いはあっさりと決着します。世間的には『裏切り者』『愚将』等、良い評価を得られていません。今回は小早川秀秋の生涯やエピソード等から、彼の本来の人物像を掘り下げていきたいと思います。

小早川秀秋とは?


(絹本着色小早川秀秋像 出典:Wikipedia)

小早川秀秋は幼い頃に秀吉の養子となりましたが、秀吉に子どもが生まれた事で、小早川隆景の養子となります。
関ヶ原の戦いの戦いでは秀吉派の東軍につきますが、戦いの最中に家康派の西軍につきます。戦いは秀秋の寝返りにより家康の勝利で決着します。若くして岡山城55万石の城主となりますが、21歳で急死します。

小早川秀秋についての動画

こちらの動画は小早川秀秋の生涯が分かりやすく紹介されています。

小早川秀秋の生い立ちと生涯

秀吉の養子になる


(豊臣秀吉像 出典:Wikipedia)

小早川秀秋は1582年に木下家定の五男として近江長浜に生まれます。家定の妹の"おね"は羽柴(豊臣)秀吉に嫁いでおり、家定は秀吉の家人でした。秀吉とおねの間に子はおらず、秀次という秀吉の甥っ子が養子に入っていましたが、1585年に秀秋も養子となりました。

秀吉の期待からか、1588年に7歳で元服。翌年には丹波亀山に10万石の領地を与えられ大名となります。

1591年に秀吉は表向きは現役を退く為、秀次に関白の座を譲ります。この年に秀秋も豊臣の姓を与えられ、翌年には権中納言兼左衛門督の官位を朝廷から授けられます。この時点で秀秋は11歳。本人の意思とは関係なく、出世を重ねていきます。

小早川家の養子になる


(小早川隆景像 出典:Wikipedia)

1593年秀吉の側室淀君が秀頼を産みますが、ここから秀秋の立場が怪しくなります。秀吉は秀頼に自分の跡を継がせたいと思うようになり、秀次と秀秋を邪魔に感じ始めます。

翌年秀吉の家臣黒田官兵衛が、子どものいない中国地方の大名毛利輝元に、秀秋を養子にするように持ちかけます。この時に仲介役だったのは毛利家の統率者である小早川隆景です。小早川隆景は豊臣家の息がかかった人物が養子になる事を恐れ、輝元の弟の子を後継ぎとし、秀秋を自分の養子とします。小早川秀秋の誕生です。

1595年に秀次は突如謀反の疑いを立てられ、切腹。秀秋も丹波亀山の領地を没収されます。領地を失う秀秋ですが、養父の隆景が隠居する形で筑前名島の30万7千石を譲り受けます。

朝鮮出兵


(文禄の役『釜山鎮殉節図』出典:Wikipedia)

その頃秀吉は朝鮮半島への出兵を進めていますが、1597年2月に秀秋にも命令が下ります。15歳の秀秋は前線に出る事はなく、城の普請等が主でした。蔚山城の戦いに参加したとも言われますが、確かな証拠はありません。総大将に任命され、敵陣に先陣を切って戦ったとも言われますが、1672年に成立した「朝鮮物語」が元になっており、当時の資料に記録はありません。

秀吉からの要請を受けて帰国すると、越前北ノ庄15万石に減封を命じられます。軽率な振る舞いが目立ったとも言われますが、詳しくは不明です。15万石に減封された事で、多くの家臣を解雇することとなりました。

1598年に秀吉が死去した後は、五大老の1人徳川家康の計らいで筑前筑後に復領し、領土も59万石に大幅に加増されます。豊臣家の勝手な都合で養子に出され、理不尽に減れる。秀秋にとって豊臣家は恨みや憎しみの対象に変わっていたのかもしれません。

関ヶ原の戦いでの寝返り


(関ヶ原合戦図屏風 出典:Wikipedia)

伏見城の戦い

秀吉の死後、毛利輝元を総大将にした石田三成が率いる西軍と、家康を総大将とした東軍が関ヶ原で戦いを始めます。
その前哨戦とも言える伏見城の戦いで秀秋は西軍に着きます。秀秋は毛利輝元の家臣小早川隆景の養子になったので、西軍につくのは当然です。秀秋は1万5千人の兵を率いており、戦局に大きな影響を与える為、三成も秀頼が成長するまでの間、秀秋を関白にすると約束していました。伏見城攻めの後、狭義の意味での関ヶ原の戦いが始まります。

裏切りの調略

秀秋は関ヶ原では西軍として松尾山に布陣しますが、この時点で家康から裏切りの調略が進んでいました。小早川家の家老・平岡頼勝と東軍の武将黒田長政は親戚筋であり、裏切りの打診があったようです。伏見城の戦い後、秀秋は戦線を離れている時があり、何らかの話し合いがあったのかもしれません。
松尾山は戦局がよく見える位置にあり、秀秋は三成側の伊藤長門守盛正を追い出して陣取っています。これは東軍の手引きがあったとも言われています。

関ヶ原の戦いが始まってからも秀秋は兵を動かそうとはしませんでした。東軍、西軍どちらからも良い条件で味方につくよう要請されていたので、戦局を見ていたのかもしれません。
中々裏切らない秀秋をみて、家康が発砲し焦って裏切りを決行したというのが通説でしたが、近年では合戦の最中に銃声は聞こえず、届かないとも言われています。その為、秀秋は自発的に裏切ったと最近は言われています。

戦後の論功行賞

秀秋軍は西軍の大谷吉継軍を襲撃し、関ヶ原の戦いの戦いは東軍の大勝利に終わります。戦後の論功行賞では西軍の宇喜多秀家軍の領地岡山城55万石に加増移封されています。とは言え当時の資料に卑怯と書かれており、東軍を裏切った事は世間からよく思われていなかったようです。

小早川秀秋の死因・最期


(大谷刑部の祟りに怯える秀秋 出典:Wikipedia)

関ヶ原のその後、2年後である1602年に秀秋は鷹狩りの帰りに体調を崩し、3日後に急死します。21歳の若さでした。関ヶ原の戦い後は乱心や奇行が目立つようになったと言われます。

死因は大谷吉継の祟りや、裏切りを病んでの自殺といった説がありますが、近年では大量の飲酒による内臓疾患が有力です。

秀秋は7歳で元服した後、多くの大名から接待を受けており、連日酒を飲み続けました。後継者候補から外れ、接待が激減した後も酒は辞められず、12歳でアルコール依存症になったのです。関ヶ原の戦いの翌年に診察した医師のカルテには、黄疸や肝臓の炎症の診断が残されています。

小早川秀秋の人生年表


(小早川秀秋の浮世絵 出典:Wikipedia)

天正10年 1582年 誕生
天正13年 1585年 羽柴秀吉の養子になる
天正17年 1589年 7歳で元服し、丹波亀山城の城主となる
文禄元年 1591年 豊臣姓を名乗る
文禄2年 1593年 秀頼誕生
文禄3年 1594年 小早川隆景の養子となる
慶長2年 1597年 慶長の役に参加し、帰国後に福井城に減封される
慶長3年 1598年 秀吉死去
慶長5年 1600年 関ヶ原の戦いで石田三成を裏切る
慶長7年 1602年 急死 享年21歳

小早川秀秋の性格と人物像エピソード

小早川秀秋の性格


(『絹本着色高台院像』ねね 出典:Wikipedia)

秀秋は幼少期にはねねから熱心な教育を受けており、道澄と言う家庭教師から一流の教育を受けています。文学、蹴鞠、歌の読み方等、若くして芸の才能を発揮していたそうです。貧しい人に施しをする等、優しいエピソードも残っています。
元服後に度重なる接待で、酒を飲むようになってからは乱暴を企てたり、ねねから莫大な借金をする等、粗暴な面が目立ってきます。周囲の環境によって性格やエピソードにも変化がある事から、環境に影響を受けやすい性格だったのかもしれません。

小早川秀秋のエピソード


(豊臣秀次像 出典:Wikipedia)

秀秋は関ヶ原の戦いの裏切りがクローズアップされ、「愚将」の印象が強いです。一説では秀秋が関ヶ原の戦いの戦いですぐに行動を起こさなかったのは、アルコール依存症による肝性脳症で、正常な判断が出来なかったとの説があります。しかし岡山城に入城してからは、検地の実施や農地の整備等、岡山の近代化を進めています。脳症だとこのような政策は出来ませんね。もう少し長生きすれば、名君と言われていたかもしれません。

小早川秀秋が行った偉業


(石田光成像 出典:Wikipedia)

秀秋の最大の偉業は関ヶ原の戦いで東軍についた事です。歴史にifはありませんが、石田三成が勝っていたら?と議論になる事はよくあります。徳川家康が勝利し、江戸幕府を開く事で260年に及ぶ太平の世が続く事になります。
石田三成はあくまでも豊臣政権の継続に拘っていた為、仮に西軍が勝利していても、戦国時代はそのまま続いていたと思われます。秀秋の裏切りは(本人にその気があったかは不明として)日本史におけるターニングポイントであったと思われます。

関ヶ原の戦い以降も、岡山で藩主の責務を果たしています。岡山の近代化の基礎を作った点も、秀秋の偉業と考えて良いでしょう。

小早川秀秋の家臣

秀秋には多くの家臣がいましたが、離反した者も多くいました。特に関ヶ原の戦い以降は奇行も目立つようになり、多くの家臣が上意討ちで命を落としたり、秀秋から離れていきます。

よく秀秋の家臣達は関ヶ原の戦いの裏切りを咎められ、仕官先がなかったと言われています。浪人になった者もいますが、実際には大名や徳川家の家臣になった者もいます。

山口宗永(1545〜1600)

秀吉の家臣であり、丹波時代から秀秋に仕えています。検地の他、朝鮮出兵でもサポートもしていますが、秀秋とは折り合いが悪かったようです。秀秋が筑前名島に移る際に離反。後の関ヶ原の戦いでは西軍につき、前田利長軍に敗北し自刃しています。

松野重元(〜1655)


(松野主馬(関ヶ原合戦図屏風)出典:Wikipedia)
同じく丹波時代からの家臣です。山口宗永とは異なり、筑前名島に移転した後も秀秋に仕えます。関ヶ原の戦いでは裏切りに同調せず、最後まで西軍につきます。戦いには敗北しますが、豊臣家を裏切らなかった事が忠臣と評価され、田中吉政に仕えます。

稲葉正成(1571〜1621)


(稲葉正成像 出典:Wikipedia)

平岡頼勝同様に英明が小早川家に養子に入った際に家老となります。家康と内通しており、関ヶ原の戦いで裏切りを勧めます。
関ヶ原の戦い後、秀秋と対立します。秀秋死去後は浪人になりますが、家康に仕えており、大坂夏の陣で功績をあげます。後に下野真岡藩2万石藩主となりました。

平岡頼勝(1560〜1607)


(平岡石見(関ヶ原合戦図屏風)出典:Wikipedia)
秀秋が小早川家に養子に入った際に家老となります。正室は黒田長政と従兄弟であり、関ヶ原の戦いでは長政と通じており、秀秋に裏切りを勧めます。関ヶ原の戦い後、秀秋が乱心する中、最期まで忠義を尽くします。秀秋死後は家康に仕え、美濃に1万石の所領を与えられます。

小早川秀秋の家紋

丸に違い鎌

秀秋の家紋として有名です。秀秋は秀吉の影響もあり、岡山の地で検地等の農業政策を行っています。鎌は農業に欠かせないものであり、五穀豊穣を願って家紋に使用しました。
他にも鎌は武器を連想させます。鎌を家紋にする事で、戦勝を願っていたとも言われます。

三つ巴紋

小早川隆景が使用した家紋であり、養子に入ると共に使用しています。巴は渦巻きの形をしており、蛇や渦巻く水、勾玉等、由来には多くの説があります。この家紋自体は足利、佐野、結城家、使われる事の多い家紋でした。あの土方歳三もこちらの家紋を使っています。

五七の桐

秀吉が使っていた家紋です。桐は鳳凰が止まる木とされ、中国では神聖視されています。天皇家が使用しており、秀吉は賜ったものを使っています。秀吉はお気に入りの家臣にこの紋食を使う事を許可しています。養子に入り、可愛がられていた時に賜ったものでしょう。ちなみに五七の桐の紋章は現在日本の政府機関の紋章として使われています。

秀秋は秀吉や隆景等、養父から家紋を賜っていますが、関ヶ原の戦いで使用しているのは本人のオリジナルである丸に違い鎌です。運命に翻弄された秀秋ですが、家紋を自分で選んだ点からも現状を打開しようと足掻いていた事が分かります。

小早川秀秋の子孫


(岡山城天守の古絵図 出典:Wikipedia)

結論から言うと、秀秋は子どもを残す事なく亡くなったので、子孫はいません。一応側室が子を産んだと言う伝承はありますが、確実な資料はありません。後継がいなかった為、小早川家は無嗣断絶と共に改易の憂き目にあいます。これは豊臣家の力を削ぎたい家康の策略だと言われています。家康に勝利をもたらした若者に対し、あまりにも酷い仕打ちでした。

小早川は現在も続いている

秀秋の血筋は途絶えますが、明治になり毛利家の当主である元徳の三男三郎が小早川姓を名乗り、小早川家は再興されます。秀秋の養父であった小早川隆景は毛利家の出身なので、分家と言う事になります。
三郎が家を継いだものの、その息子四郎に子どもが出来ず、再度毛利家から養子(元治)をもらいます。現在の当主は隆春氏であり、ゆくゆくはその息子の隆浩氏が小早川家の当主となります。

小早川家は三郎→四郎→元治→隆春→隆浩と続いています。隆春氏、隆浩氏は元にマツダの技術者として働いているそうです。

小早川秀秋のゆかりの地

岡山城


(岡山城再建天守 出典:Wikipedia)

秀秋が関ヶ原の戦い後に入城しました。元々は西軍の宇喜多秀家の城でした。秀秋の死後は池田輝政の次男、忠継が入城。江戸時代を通して池田氏がこの地を治めます。
漆黒の外観から別名を烏城と呼びます。現在は岡山市のシンボルとして観光地となっています。最上階は岡山を一望出来ます。
住所:岡山県岡山市北区丸の内2丁目3-1

松尾山


(松尾山にある関ヶ原の戦いの小早川秀秋陣跡 出典:Wikipedia)
秀秋が関ヶ原の戦いで陣を構えた場所ですね。標高は292m。登山口から40分程歩く必要があります。山頂からは関ヶ原の戦いの現場を一望する事が出来ます。元々この地には南北朝時代に建てられた松尾城がありましたが、現在は土塁、主曲輪等の跡があるだけです。
秀秋はこの地で何を思ったのでしょうか?
住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字山中731-1

瑞雲寺

瑞雲寺に秀秋のお墓があります。元々は満願山
成就寺と言う名前でしたが、秀秋の法号
「瑞雲院殿前黄門秀厳日詮大巨士」に由来して瑞雲寺と言う名前になりました。秀秋のお墓は本堂の中にありますか、直接参拝は出来ません。参拝したら時代に翻弄された秀秋の事を弔いましょう。
住所:岡山県岡山市北区番町2丁目6−22

小早川秀秋を題材にした作品

小説


(司馬遼太郎 出典:Wikipedia)

司馬遼太郎の小説「関ヶ原」では優柔不断で、家康の鉄砲に怯える秀秋が書かれています。従来の秀秋像の影響を受けています。関ヶ原の戦いという局面のみで考えるなら、秀秋=裏切り者と描かれるのは仕方がないかもしれません。

小早川秀秋を小説の題材にする際、裏切りに正当な理由を作る必要があります。多くの小説家が、史実の記録を元に、魅力的な秀秋を作り出しています。

大塚高嗣:鬼手小早川秀秋伝
秀秋を肯定的に捉えた作品であり、愚将を演じている知将と言うテーマの作品です。秀秋だけでなく、石田三成や大谷吉継等の武将も魅力的に書かれています。

矢野隆:我が名は秀秋
秀秋と3人の親子関係に焦点を当てた作品です。特に小早川隆景が人格者として描かれており、血の繋がりだけでなく、共に過ごした時間、愛情が何よりも大事である事を伝えてくれます。文化人として育てられた秀秋が、立派な武将として成長していく様が描かれています。

映画・ドラマ

秀秋を主人公にした映画やドラマはまだありません。生涯が短すぎる事と、やはり裏切りと言うイメージがつきまとうからです。しかし戦国時代を題材にした作品には頻繁に登場しています。

2017年に放映された「関ヶ原」は司馬遼太郎の小説を実写化したものですが、東出昌大が演じています。

大河ドラマでは1989年の春日局で若き香川照之が演じている他、2009年の天地人では上地雄輔が演じています。2014年の黒田官兵衛、2016年真田丸では浅利陽介が連続で演じています。いつか秀秋を主人公にした作品が作られると良いですね。

小早川秀秋は愚将だったのか?

秀秋は関ヶ原の戦いでの裏切りがクローズアップされていますが、愚将と言い切れない部分も多いです。秀吉の後継者に選ばれた段階で、秀吉が認めるだけの素質はあったと思われます。生涯を振り返ると、周りの都合に振り回された若者という印象が強いです。
秀秋は若くして亡くなり、後継者もいなかった為、関ヶ原の戦いの戦いの正当性を主張してくれる存在がいなかった事が大きいでしょう(肖像画も少々頼りないですし…)。歴史はいつも生き残った者により作られます。秀秋の評価も徐々に進んでいるので、新たな発見や考察が今後生まれるかもしれませんね。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小早川秀秋
https://senjp.com/hideaki/
https://bushoojapan.com/bushoo/toyotomi/2019/10/18/32779
https://history-men.com/kobayakawa-hideaki/
https://colorfl.net/kobayakawahideakikamon/#i-3
https://sengoku-data.com/historical_people/207
https://sekigaharamap.com/mathuoyama/
黒田基樹:小早川秀秋(シリーズ実像に迫る)

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