後鳥羽上皇(天皇)は何をした人?生涯・死因・作品・名言・子孫も解説

後鳥羽上皇は平安末期から鎌倉初期に朝廷で権力を握った天皇(上皇)です。彼は鎌倉で勢力を拡大する鎌倉政権と対立し、承久の乱を起こします。しかし北条義時率いる武士団に敗北し、隠岐の島に島流しとなりました。

承久の乱は武士の台頭と、朝廷の衰退を決定づける出来事として、教科書でも必ず習う出来事です。その一方で承久の乱が起きた背景や、後鳥羽上皇の人物像については知らない人も多いのではないでしょうか。

今回は後鳥羽上皇の生涯や人物像、更に承久の乱が起きた背景をわかりやすく解説しますね。

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後鳥羽上皇とは?

後鳥羽院像

後鳥羽院像 出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は(治承4年)1180年に生誕し、(寿永2年)1183年に第82代天皇として即位しました。建久9年(1198年)に第一皇子・為仁親王に譲位して院政を開始。その後は承久3年(1221年)まで朝廷で権力を握り続けました。

後に鎌倉幕府と対立し、後鳥羽上皇は承久3年(1221年)に時の執権・北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こします。しかし鎌倉幕府軍に大敗。隠岐島に流罪となり、二度と京に戻る事はなく、延応元年(1239年)に崩御しました。

後鳥羽上皇は中世屈指の歌人であり、文化面でも後世に大きな影響を与えています。

氏名尊成
通称・あだ名後鳥羽天皇(譲位後は後鳥羽上皇
出生日治承4年(1180年)7月14日
出生地五条町の亭
死没日延応元年(1239年)2月22日
死没地(亡くなった場所)隠岐島
血液型不明
職業天皇
身長不明
体重不明
配偶者九条任子(宜秋門院)
座右の銘不明

 

後鳥羽上皇の人生年表・生涯

後鳥羽上皇の人生年表

出来事
治承4年(1180年)後鳥羽上皇生誕
寿永2年(1183年)天皇に践祚する
文治元年(1185年)平家の滅亡
建久3年(1192年)後白河法皇崩御
建久9年(1198年)土御門天皇に譲位する
元久2年(1205年)西面の武士を設置
建保7年(1219年)源頼朝の暗殺
承久3年(1221年)承久の乱に敗北し、島流しとなる
延応元年(1239年)隠岐の島で崩御する(享年60歳)

 

神器なき即位

安徳天皇縁起絵図
出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は、治承4年(1180年)7月14日に五条町の亭で、高倉天皇の第4皇子として生誕します。当時は源頼朝が打倒平家を掲げて挙兵するなど、平安の動乱期にありました。

寿永二年(1183年)に、平家が安徳天皇と三種の神器を連れて京都落ちした為、8月に後白河法皇安徳天皇の異母弟である4歳の後鳥羽上皇を践祚させます。

皇位を継承した者は、皇室の正統たる帝の証として三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉)を継承されます。しかし後鳥羽上皇の践祚は、三種の神器が継承されないという異例のものでした。やがて文治元年(1185年)に平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇は壇ノ浦で入水します。

この際に宝剣は海中に沈み、遂に回収する事は出来ませんでした。建久元年(1190年)1月に後鳥羽天皇の元服の儀が行われますが、宝剣は欠いています。

その後も朝廷では後白河法皇が院政を敷きますが、建久3年(1192年)3月に後白河法皇は崩御。後鳥羽天皇は建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、その後は院政を敷いて朝廷の権力を掌握しました。

鎌倉幕府との対立

源実朝
出典:Wikipedia

正治元年(1199年)に鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が死去します。当初の後鳥羽上皇は融和的な姿勢で鎌倉幕府と接し、建仁3年(1203年)に二代目将軍・源頼家に代わり、弟・千幡の将軍就任を認めました。

千幡は後鳥羽上皇から「実朝」の名乗りを賜ります。源実朝は和歌を嗜むなど、文化的な素養に優れていた人間であり、後鳥羽上皇と良好な関係を築きました。

実子のいなかった源実朝は親王将軍の構想を打ち出し、後鳥羽上皇もそれに同意。しかし源実朝が建保7年(1219年)に甥の公暁に暗殺されると、源実朝の頃には見られなかった朝廷と幕府の対立が徐々に表在化しました。

源実朝暗殺後の鎌倉幕府では、将軍の政務を実朝の母・北条政子が代行し、執権である弟・北条義時がそれを補佐する体制となります。前述した通り、源実朝には実子がいなかった為、幕府は雅成親王(六条宮)か頼仁親王(冷泉宮)を鎌倉幕府の新たな将軍に招きたい旨を伝えました。

後鳥羽上皇はその要望を拒否し、摂関家の子弟を鎌倉に派遣する事を提案。結果的に北条義時は、同年6月に九条道家の子・三寅を新たな将軍に迎えました。

これ以降、北条義時率いる鎌倉幕府と、後鳥羽上皇率いる朝廷の対立は強まります。同年7月には大内守護の源頼茂が後鳥羽上皇率いる京の武士に攻められ、自害する事件も発生。源頼茂は自害の際に、大内裏に火を放っており、大内裏は焼失しました。後鳥羽上皇の命で大内裏の再建は行われますが、後鳥羽上皇の怒りは激しく、1ヶ月ほど寝込んだとされます。

承久の乱

承久の乱が起きた「瀬田の唐橋」 出典:Wikipedia

承久3年(1221年)4月、後鳥羽天皇の第三皇子である順徳天皇が懐成親王に譲位。これは後鳥羽上皇に協力する為であり、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立は修正不可能となりました。

4月下旬に後鳥羽天皇は北国や西国、更に京に在留する兵を集めます。この時に集結した兵は1000騎ほどで、その中には尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱などの有力御家人も含まれていました。

5月15日、後鳥羽天皇は「五畿七道」の御家人、守護、地頭などに「北条義時追討」の官宣旨を発しました。上皇挙兵の報に鎌倉幕府の中枢や、東国の武士たちは大いに狼狽えます。しかし、この時に尼将である北条政子が歴史に残る名演説で、東国の武士たちの心を一つにしました。

5月22日、北条義時は東海道、東山道、北陸道に分かれて軍勢を派遣。各地で鎌倉幕府に味方する兵は増加し、軍勢は(誇張の可能性はありますが)19万騎まで膨れ上がりました。後鳥羽上皇は官宣旨で鎌倉の武士たちも寝返ると考えていた為、この展開に狼狽。

6月13日に後鳥羽天皇軍と幕府軍は宇治川の橋で衝突。後鳥羽上皇軍は宇治川の橋を落とし、矢を射て防戦に徹するものの、翌日に幕府軍は強引に川を渡り、敵陣の突破に成功。後鳥羽上皇軍は敗走し、幕府軍は京に雪崩れ込みます。この時に幕府軍は、寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いたとされます。

6月14日夜、幕府軍の藤原秀康、三浦胤義は後鳥羽上皇のいる御所に現れ、「最後の一戦」を後鳥羽上皇に提案しました。しかし後鳥羽上皇は鎌倉幕府の更なる報復を恐れ、御所の門を閉ざして彼らを追い返します。後鳥羽上皇の冷淡な態度に、「大臆病の君に騙られたわ」と憤怒する者もいたようです。

6月15日に後鳥羽天皇は、「この度の乱は謀臣の企てであった」と北条義時追討の院宣を取り消し、代わりに藤原秀康、三浦胤義らの逮捕の通達を命じます。後鳥羽上皇に見捨てられた藤原秀康らは、幕府に抵抗して壮絶な最期を遂げました。

7月に後鳥羽上皇は隠岐の島、順徳天皇は佐渡島への流罪が決まります。後鳥羽上皇は隠岐の島に流される直前に出家。同年8月5日に出雲国大浜湊から船に乗り、隠岐島に向かいました。

過去の保元の乱で崇徳上皇が讃岐に流罪なった事がありましたが、それはあくまでも朝廷内の争いです。武士が上皇を流罪させるなど、前代未聞の事であり、朝廷の没落を決定つける出来事となりました。

隠岐での生活

隠岐国 出典:Wikipedia

隠岐島は島前と島後、多数の小さな島で形成されており、後鳥羽上皇が居住したのは島前の中ノ島。この地は海の幸、山の幸にあふれ、稲作も盛んに行われていました。

流罪された身とはいえ、後鳥羽上皇は上皇。地元の有力豪族の村上氏が後鳥羽上皇の身の回りの世話をしており、後鳥羽上皇は写経や神事、和歌に勤しむ日々を送りました。島の生活自体はあまり不自由はなかったようです。

ただ後鳥羽上皇は京に戻りたいという思いを持ち続けていました。村上家は上洛した際に、後鳥羽上皇の手紙を朝廷を通じて幕府に届けていましたが、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の望みを叶える事はありませんでした。

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後鳥羽上皇の死因と最期の言葉

60歳で崩御する

後鳥羽上皇の陵である大原陵 出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は延応元年(1239年)2月22日に、流罪先の隠岐島で崩御します。享年は60歳。死因は不明です。

後鳥羽上皇は、同月2月9日に自らの死期を悟り、長年自分に仕えた公家の水無瀬親成に置文を書きます。この置文は後鳥羽天皇宸翰御手印置文と呼ばれ、国宝に指定されています。

この置文の内容は水無瀬親成に水無瀬(現・大阪府島本町)の所領を与える事、この地に菩提を作り自らの御霊を弔って欲しいという事でした。水無瀬親成は跡地に御影堂(水無瀬神宮)を建立し、後鳥羽上皇の菩提を弔っています。

後鳥羽上皇の功績

同世代屈指の歌人だった

小倉百人一首 後鳥羽上皇
出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は承久の乱の首謀者というイメージがありますが、優れた歌人でもありました。後鳥羽上皇は建久9年(1198年)1月に土御門天皇に譲位した後、和歌の世界に傾倒し始めます。

積極的に歌会も開催し、建仁元年(1201年)11月には当時の代表的な歌人に『新古今和歌集』の撰進を通達。元久元年(1204年)に和歌集が完成し、一連の撰進には後鳥羽上皇も関与していました。後鳥羽上皇が推進した歌会で多くの優秀な和歌が生まれ、新古今和歌集はそれらの和歌を後世に伝える上で貴重な資料となりました。

後鳥羽上皇は承久の乱を起こさず、和歌の世界で留まり続けていれば、今とは違う評価になっていたのかもしれません。

武家の世を確立させる

京都の六波羅
出典:Wikipedia

承久の乱以前は西国の朝廷、東国の鎌倉幕府という二元政治体制が確立していました。しかし承久の乱で後鳥羽上皇が敗北した事に伴い、朝廷は鎌倉幕府の支配下に置かれます。鎌倉幕府は六波羅探題を京に設置し、朝廷を監視。皇位継承も管理するようになりました。朝廷も幕府を恐れ、細大漏らさず幕府にお伺いを立て始めます。

更に後鳥羽上皇が所有していた八条院領などの所領は没収。後鳥羽上皇に加担した西国の武士の所領も、東国の武士達に配られます。その結果、幕府の支配が畿内や西国にも及び始めました。承久の乱の敗北は、650年近く続く武家の世を決定づけたのです。

後鳥羽上皇の性格と人物像エピソード

気性の荒い性格

後鳥羽院歌碑
出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は気性の荒い性格だったと推測されています。院政を始めてからは武芸を好み、乗馬、弓術、狩猟などに取り組みました。腕前は一流であり、当時の名だたる武将とも引けをとりません。天皇は政治・祭祀を領文とする事が当然とされた時代の中、後鳥羽上皇は異彩を放つ存在でした。

後鳥羽上皇は承元4年(1210年)11月に、優しい性格の土御門天皇に譲位を迫り、新たに気性の荒い順徳天皇を即位させます。当時の朝廷は鎌倉幕府3代目将軍・源実朝と良好な関係を築いていたものの、一方で鎌倉幕府に強い対抗心を燃やしていた事がわかります。

また承久の乱で隠岐の島に流罪になった後も、後鳥羽上皇は北条義時ら鎌倉幕府に最後まで強い恨みを抱きました。崩御の2年前の嘉禎3年(1237年)には、「もしも魔縁に成ることになれば、この世に災いを為してやる!」と怨嗟の言葉を残しています。一連のエピソードからは、後鳥羽上皇の気性の荒さが見えてきます。

天皇としてのコンプレックスを抱えていた

三種の神器(画像はイメージ) 出典:Wikipedia

その一方で後鳥羽上皇は天皇としての資質に対し、強いコンプレックスも抱えていました。前述した通り、後鳥羽上皇は皇位の象徴である三種の神器を得ない状態で天皇に践祚します。更に文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、神器の一つである宝剣は海に沈み、見つける事はできませんでした。建久元年(1190年)1月の後鳥羽上皇の元服の儀も、宝剣を欠いたまま行われています。

その後、「伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた宝剣」を正式な神器にする事が決まりました。建久9年(1198年)の土御門天皇への譲位や、承元4年(1210年)の順徳天皇践祚の際も、新たな宝剣が用いられています。

当時は疫病や災害が起これば、為政者の不徳が原因と考えられた時代です。三種の神器を欠いた事は、後鳥羽上皇にとって行列なコンプレックスとなりました。後鳥羽上皇は三種の神器を欠いている事を払拭する為、武芸や和歌に励み、気の強い性格を演じるようになったのかもしれません。

後鳥羽上皇の逸話と凄さ

後鳥羽上皇が和歌や武術などを極めた天皇である事はお伝えしましたが、その他にも多くの逸話や武勇伝を持っています。この項目では後鳥羽上皇の知られざる逸話を紹介します。

皇室の菊花紋は後鳥羽上皇が由来

菊の御紋 出典:Wikipedia

皇室の紋章は「菊の御紋」と呼ばれ、和菓子や仏具でも目にする事が出来ます。後鳥羽上皇は菊の花をとても気に入っており、自作の刀に菊の銘を付けて「自分が作った刀である事」を証明しました。この菊の御紋は後も皇室の紋章として使われ続けています。

ちなみに後鳥羽上皇が刀を好んだのは、幕府との対立姿勢を明確にする事、朝廷の武力を高める目的もありました。承久の乱を経て後鳥羽上皇は流罪となり、朝廷は幕府の監視下に置かれますが、幕府に対する反抗心を持ち続けます。皇室が菊の御紋を紋章にし続けていたのは、後鳥羽上皇の意志を継ぐという決心の現れだったのかもしれません。

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自分で強盗を捕まえる

承久の乱の幕府軍進路
出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は承久の乱で北条義時に敗れた経緯もあり、本当に文武両道であったのか疑問に思う人もいるかもしれません。しかし『古今著聞集』には、後鳥羽上皇が交野八郎という強盗団の首領を、大捕物で逮捕したという記録が残されています。

この時に後鳥羽上皇は「船の櫂」を軽々と打ち振っていたとされ、交野八郎が降参を申し出ると、彼を中間として取り立てました。後鳥羽上皇が北条義時と一騎討ちをしていれば、勝利したのは後鳥羽上皇だったのかもしれません。

後鳥羽上皇の名言

人もをし 人も恨うらめし あぢきなく 世を思ふ故ゆゑに もの思ふ身は

小倉草子の古文
出典:Wikipedia

後鳥羽上皇が詠んだ和歌であり、小倉百人一首の1首です。意味は「ある時は人をいとしく思い、ある時はうらめしくも思われる。どうにもならないと世の中のことを思う為に、あれこれと物思いにふける私にとっては」となります。

この和歌は後鳥羽上皇が承久の乱を起こす少し前に詠まれたもの。既に朝廷と幕府の中はこじれており、後鳥羽上皇は虎視眈々と北条義時を征伐する手数を整えていました。そんな心境が、この和歌には表れているのかもしれません。

後鳥羽上皇の家系図と子孫

後鳥羽上皇の家系図

後鳥羽上皇の家系図 出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は第80代天皇・高倉天皇の第4皇子です。高倉天皇の皇妃・建礼門院は平清盛の娘ですが、後鳥羽上皇の母親は藤原殖子という人物。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇は異母兄にあたります。

承久の乱勃発時は、順徳天皇の子である仲恭天皇が天皇に即位していました。しかし乱の処罰を経て仲恭天皇は廃位となり、新たに高倉天皇の第2皇子・守貞親王(後鳥羽上皇の兄)の子が後堀河天皇として即位します。後鳥羽上皇の兄弟は数奇な運命を辿ったのでした。

後鳥羽上皇の子孫①土御門天皇

土御門天皇 出典:Wikipedia

後鳥羽上皇は中宮や女院の他、多くの後宮と関係を持ち、多くの子孫に恵まれています。

後鳥羽上皇の第一皇子・為仁は土御門天皇として、建久6年(1196年)に即位しました。ただ心優しい性格だった為、幕府に強く出る事ができないと後鳥羽上皇は判断。土御門天皇は承元4年(1210年)に、守成へ譲位します。承久の乱に土御門天皇は関与していなかった為、幕府も土御門天皇を島流しにするつもりはありませんでした。

しかし土御門天皇は「父が流罪になるのに自分が京にいるのは忍びない」と述べ、自ら流罪になる事を望みます。結果的に土御門天皇は阿波国に流罪になりますが、幕府は阿波に宮殿を造営するなど、かなりの厚遇を見せました。

土御門天皇は寛喜3年(1231年)10月に崩御しますが、守貞親王の血筋である四条天皇は仁治3年(1242年)に12歳で崩御 。結果的に土御門天皇の皇子・邦仁王が後嵯峨天皇として即位する事となり、後鳥羽上皇の血筋は再び皇位を継承する事になりました。

後鳥羽上皇の子孫②順徳天皇

順徳天皇
出典:Wikipedia

順徳天皇は後鳥羽上皇の第三皇子です。心優しい土御門天皇と異なり、後鳥羽上皇同様に気性の荒い人物でした。順徳天皇は承久の乱に積極的に加担しており、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位します。

順徳天皇は承久の乱を経て佐渡に流罪となり、仁治3年(1242年)9月12日に崩御しました。新たに土御門天皇の系統である後嵯峨天皇が即位した頃であり、この崩御は絶食による事実上の自殺を図った可能性もあります。

ちなみに仲恭天皇は幕府の手により皇位を廃され、天福2年(1234年)に17歳で崩御するなど、不遇の生涯を過ごしました。

後鳥羽上皇のゆかりの地

水無瀬神宮

水無瀬神宮
出典:Wikipedia

水無瀬神宮は後鳥羽上皇や順徳天皇を祀る神社です。この地には後鳥羽上皇が気に入っていた水無瀬殿下御所が建てられたいました。後鳥羽上皇崩御後の仁治元年(1240年)、後鳥羽天皇宸翰御手印置文に基づいて、この地に後鳥羽上皇を祀る御影堂が建立されます。

明応3年(1494年)に、後土御門天皇は後鳥羽上皇の御霊を隠岐の島から迎え入れ、御影堂は水無瀬宮の神号を得ました。1873年(明治6年)に水無瀬御影堂は神社となり、1939年(昭和14年)には神宮号を賜り「水無瀬神宮」となりました。

この神宮には紙本著色後鳥羽天皇像や、後鳥羽天皇宸翰御手印置文などが寄託されています。

住所:大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24

隠岐神社

隠岐神社
出典:Wikipedia

隠岐神社は海士町に鎮座する神社であり、後鳥羽上皇を祀っています。敷地は15000坪に及び、この地には「後鳥羽上皇御在所跡」や「後鳥羽天皇御火葬塚」などが存在します。神社が建立されたのは1940年ですが、江戸時代には祭祀が行われていた事もわかっており、隠岐の人達にとってこの地は神聖な場所でした。

ちなみに隠岐神社の正面には、海士町後鳥羽院資料館があります。資料館には後鳥羽院に関する資料や遺品の他、縄文・弥生・古墳各時代の考古資料も展示されており、隠岐の島の風土を知る上でおすすめの場所です。

住所:島根県隠岐郡海士町大字福井1365-5
※記載は隠岐神社のもの

後鳥羽上皇の関連人物

後醍醐天皇

後醍醐天皇 出典:Wikipedia

後醍醐天皇は第96代天皇および南朝初代天皇です。彼はクーデターで鎌倉幕府を打倒し、建武の新政という政治を行うものの、足利尊氏と対立。彼は大和吉野へ入り南朝政権を樹立しますが、足利尊氏率いる室町幕府が擁立した北朝とも対立した為、日本は長らく南北朝時代という動乱が発生します。

後醍醐天皇と後鳥羽上皇は生まれた時代が200年程異なり、同時代の人物ではありません。それでも後鳥羽上皇と後醍醐天皇を同世代の人物と思っている人も多く、後鳥羽上皇の検索ワードの中に後醍醐天皇も含まれています。

ただ2人に共通点がない訳ではありません。2人は共に幕府に反旗を翻し、隠岐の島に島流しに遭っています。しかし後鳥羽上皇は崩御するまで隠岐の島で過ごし、後醍醐天皇は隠岐の島を後に脱出しました。

後醍醐天皇が隠岐の島を脱出できたのは、鎌倉幕府の統制力が緩み、反幕勢力が各地に点在していた事が要因です。後醍醐天皇は後鳥羽上皇の無念を噛み締めながら、幕府の打倒を胸に誓った事は間違いないでしょう。

北条義時

北条義時
出典:Wikipedia

北条義時は鎌倉幕府の2代目執権です。彼は承久の乱の戦後処理で後鳥羽上皇を隠岐の島へ流罪させ、鎌倉幕府の磐石な体制を作り上げました。元々、鎌倉幕府の3代目将軍・源実朝と後鳥羽上皇は良好な関係を築いていましたが、彼の死をもって鎌倉幕府と朝廷の仲は悪くなり、さまざまな確執を経て対立は決定的なものとなります。

後鳥羽上皇が延応元年(1239年)3月28日に崩御すると、同年の12月5日に鎌倉幕府の御家人の筆頭である三浦吉村が死去し、翌年1月24日には北条義時の弟・北条時房も死去しました。既に北条義時は1224年に亡くなっていましたが、北条義時の身近な人々が相次いで亡くなった為、世間はこの出来事を後鳥羽上皇の祟りだと考えたようです。

後鳥羽上皇の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

・承久の乱

中世日本史のターニングポイントである承久の乱。その過程や各勢力の動向をわかりやすく解説した一冊です。当時の鎌倉幕府の政治機構や、朝廷との距離感など、教科書ではわからない内容も自然と頭に入ってきます。この時代を学ぶ上で必須と言える作品です。

・史伝 後鳥羽院
神器なき即位を経て、隠岐の島に流罪になった後鳥羽上皇。その波瀾万丈の生涯をわかりやすく解説します。天皇在位中や隠岐の島に流罪になった後の生活なども詳しく掘り下げられており、後鳥羽上皇の知られざる一面がわかる一冊です。

・後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか
歌人としても優れた才能を発揮した後鳥羽上皇。彼はなぜ新古今和歌集の編纂に心血を注いだのでしょうか。彼の和歌が現在に至るまで高い評価を得ている理由、彼の和歌が後世に与えた影響についてわかりやすく解説します。

おすすめの動画

・【鎌倉時代】79 後鳥羽上皇って誰?鎌倉幕府成立から承久の乱まで【日本史】

後鳥羽上皇の生涯をわかりやすく解説した動画です。承久の乱が起きた経緯や、乱の過程も掘り下げられており、中世の日本史を学ぶ上でもおすすめです。

おすすめドラマ

・大河ドラマ 鎌倉殿の13人 完全版
2022年の大河ドラマであり、主人公を北条義時に、平安末期から鎌倉初期を描いた作品です。後鳥羽上皇は物語後編における北条義時のライバルのような存在で登場します。幕府が隠蔽していた「源頼朝の落馬による死」を即座に見抜くなど、優秀な人物として描かれています。

・草燃ゆる 総集編
1979年の大河ドラマであり、源氏3代を中心とした鎌倉武士団よ興亡を描いた作品です。鎌倉殿の13人と同様に、この作品も承久の乱がドラマのクライマックスとして描かれています。作品は古い為、映像としては総集編のみです。

後鳥羽上皇のまとめ

今回は2022年の大河ドラマのキーパーソンとなった後鳥羽上皇について解説しました。後鳥羽上皇は、天皇でありながら武芸を好んだ異例の存在。ただ気性の荒さが仇となり、彼は隠岐の島に島流しとなりました。彼は歴史の敗者となったものの、文武を極め、歴代天皇の中でも有数の傑物だった事は間違いありません。今回の記事を通じ、後鳥羽上皇や承久の乱に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

後鳥羽上皇Wikipedia

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