ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは「トルコ行進曲」や「フィガロの結婚」などの名曲を生み出した音楽家です。ベートーヴェンやハイドンと同じく、古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在とされています。
彼は35歳という短い生涯の間に、確認されるだけで626曲を作曲しました。神童と呼ばれる一方で、彼には破天荒なエピソードも残されています。今回はモーツァルトの生涯や代表曲について解説します。
目次
モーツァルトのプロフィール
モーツァルトの肖像画(死後に想像で描かれたもの)
出典:Wikipedia
モーツァルトは、1757年に現在のオーストリアに位置するザルツブルクで誕生しました。幼少期から音楽の才能が飛び抜けており、「神童」と呼ばれます。彼は宮廷音楽家として活動するものの、25歳の頃に作曲家として歩み始めました。
彼は多くの名曲を生み出しますが、当時は音楽家が生計を立てる事が難しかった時代です。それなりの収入は得たものの、ギャンブルや妻の浪費もあり、生活は常に厳しい状況が続きました。
晩年になると彼は病に臥せるようになり、35歳でその生涯を終えました。彼の生み出した曲は、当時存在したあらゆる音楽を網羅したとされます。ベートーヴェンやシューベルトなど、名だたる音楽家も、モーツァルトの影響を受けているのです。
氏名 | ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト |
---|---|
通称・あだ名 | 神童 |
出生日 | 1756年1月27日 |
出生地 | 神聖ローマ帝国領・ザルツブルク |
死没日 | 1791年12月5日 |
死没地(亡くなった場所) | 神聖ローマ帝国領・ウィーン |
血液型 | O型 |
職業 | 作曲家 |
身体 | 163cm |
体重 | 不明も肥満説あり |
配偶者 | コンスタンツェ・モーツァルト |
座右の銘 | 夢を見るから、人生は輝く |
モーツァルトの人生年表・生涯
モーツァルトの人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1756年 | ザルツブルクで誕生 |
1761年 | 初めての作曲を行う |
1763年頃 | 演奏の為、欧州各地を回る |
1770年 | ローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される |
1777年 | ミュンヘンに渡る |
1781年 | ウィーンに定住する事を決意する |
1782年 | コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚 |
1783年 | トルコ行進曲を作曲する |
1786年 | ベートーヴェンがモーツァルトの元を訪ねる |
1787年 | 父・レオポルト死去 |
1788年 | 「3大交響曲」を作曲する |
1791年 | 死去(享年35歳) |
幼少期から神童と謳われる
ザルツブルクにあるホーエンザルツブルク城
出典:Wikipedia
モーツァルトは1756年1月27日に、神聖ローマ帝国領のザルツブルクで誕生します。父・レオポルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家やヴァイオリニストを勤めていました。父は息子や才能を見抜き、幼少期から音楽教育を施します。モーツァルトは3歳でチェンバロを弾き始め、5歳で既に曲を作りました。
親子はウィーンやパリ、ロンドンなどの各地を旅行し、各地で天才的な演奏を披露。その名声は各地に広まり、「神童」と呼ばれます。この旅行は、宮廷音楽家としてより良い就職先を探すという意味合いもありましたが、どの場所でも就職活動には失敗しており、順風満帆というわけではありませんでした。
その一方で、モーツァルトは世界各地の音楽に触れ、さまざまな技法を吸収。対位法やポリフォニーの技術など、後の楽曲に影響を与える技法も学びました。
音楽家として生計を立てる
プラハのエステート劇場
出典:Wikipedia
1781年、25歳のモーツァルトはフリーの音楽家として生計を立て始めます。これは、ザルツブルク大司教のヒエロニュムス・コロレドと対立した為でした。モーツァルトはウィーンへの定住を決意し、演奏会やオペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などに奔走します。
1782年にモーツァルトは、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚します。彼女は、ロマン派のオペラ様式を完成させ、「魔弾の射手」を作曲したカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉でした。2人の間には、6人の子が生まれるものの、成人したのは2人だけでした。
モーツァルトは1783年に「ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)」、1786年に「フィガロの結婚」を作曲。多くの名曲を生み出すと共に、名声は更なる高まりを見せます。特に「フィガロの結婚」はブラハ(現・チェコ共和国の首都)で大ヒットを記録。当時のブラハはオペラの都として大きな影響力を持っており、その後も何度かブラハに滞在しています。
モーツァルトは薄給ではなく、むしろ高給でしたが、生活は決して裕福なものではありませんでした。モーツァルトは貴族から支援を受けており、その体面を保つ為に浪費する事も多かったようです。またギャンブルにものめり込んでおり、それに莫大なお金もつぎ込んでいました。
徐々に体調が悪化する
死の2年前に描かれたモーツァルトの銀筆
出典:Wikipedia
モーツァルトは生涯にわたり高給には恵まれませんでした。これはモーツァルトの才能に恐れを成した、宮廷楽長アントニオ・サリエリら音楽貴族達がモーツァルトの音楽活動を妨害していたという説があります。
そんな逆境に負けず、モーツァルトは1790年にフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、私財を投じてコンサートも開催するなど、多岐に渡る活動を続けました。
1791年にはピアノ協奏曲・第27番 K.595を作曲し、この曲を自ら初演しますが、これがモーツァルトの最期のステージになりました。その後も次々と作曲を続けますが、9月ごろに体調は悪化し始め、薬を服用していたようです。
モーツァルトの死因と最期
モーツァルトは1791年12月5日に、ウィーンにある自宅で35歳の生涯を終えました。彼の死因はいくつかの説がありますが、どれも断定できるものではありません。
この項目では、モーツァルトの最後の様子や死因について考察します。
最期のレクイエム
モーツァルトの最期
出典:Wikipedia
モーツァルトの死因は不明ですが、11月20日に寝たきりとなり、浮腫や疼痛などの症状が見られ始めた事は間違いないようです。
初期の伝記作家の記述によれば、モーツァルトは人生最後の数か月間に、死の恐怖に怯えて「自分のためにレクイエムを描いている」と述べました。また友人のベネディクト・シャックは、死の前日のモーツァルトの様子を伝えています。
この日、モーツァルトはレクイエムの総譜を寝所へ持ち込み、親しい友人や義兄弟が各パートを歌ったとされます。途中でモーツァルトはひどく泣きはじめ、それから11時間後に亡くなったという事でした。
一方でモーツァルトの息子で、当時7歳だったカール・トーマス・モーツァルトも臨終の場に立ち会っていました。彼は、「死の数日前から父の全身は腫れあがり、身じろぎすらままならない状況であった」と述べており、とてもレクイエムを歌える様子ではなかった事が伺えます。
モーツァルトの死は、レクイエムを歌うようなドラマチックなものではなく、非常に苦しいものだったのかもしれません。
死因は毒殺?
モーツァルトと対立したアントニオ・サリエリ
出典:Wikipedia
また彼が人生最後の数ヶ月間に死の恐怖に怯えたのは、「毒を盛られた」と考えた為でした。その事からモーツァルトは毒殺されたという説があり、犯人としてモーツァルトと対立した宮廷楽長アントニオ・サリエリが浮上した事もありました。
しかし、モーツァルトの体調不良は毒殺を思わせるものではなかった為、この説は現在では否定されています。
慢性硬膜化血腫が原因?
モーツァルトは天然痘に罹患した
出典:Wikipedia
実はモーツァルトは生涯のうちに、天然痘、扁桃炎、気管支炎、リウマチ、歯周病などのさまざまな病気にかかりました。更に慢性硬膜化血腫も患っていたという説も浮上しています。
これは20世紀になりモーツァルトの頭蓋骨がモーツァルテウム博物館に受け渡された際に、頭蓋骨とその軟部組織を調べた時に発覚しました。モーツァルトは1789年と1790年に転倒しており、それ以降から虚弱体質、頭痛、失神などの症状を引き起こした点からも一致しています。
天才は早死にする事が多く、モーツァルトもその1人でした。
共同墓地に葬られる
モーツァルトの亡骸が墓地に運ばれる様子
出典:Wikipedia
葬儀を経てモーツァルトの亡骸は、聖マルクス墓地という共同墓地に葬られます。通説ではこの墓地は貧困者墓地とされていますが、当時の共同墓地は「貴族階級にない市民の為の墓地」であり、モーツァルトが冷遇されたわけではありませんでした。
ただ共同墓地は10年に一度掘り返され、次の埋葬に使われる事となっており、モーツァルトの遺体はすでに掘り起こされています。頭蓋骨は前述した通り保管されていたようですが、彼のお墓がこの墓地のどこにあったのかは不明です。
モーツァルトの性格
容姿端麗ではなかった?
少年時代のモーツァルト
出典:Wikipedia
モーツァルトの肖像画は神童の名に相応しく、容姿端麗に描かれています。しかし実際の容姿は諸説あり、「丸鼻で近眼」「天然痘の痕があった」など、実際は分かりません。死後にデスマスクが作られたという話もありますが、現在は行方不明です。
身長は163cmとされ、これは当時の成人男性としては平均的です。しかし肥満が著しかったという話も残されています。肖像画の端麗な顔立ちや姿は、モーツァルトを神格化する為に作られたものなのかもしれません。
下ネタが好きだった
モーツァルトに最も似ているとされる肖像画
出典:Wikipedia
モーツァルトは父や妻、そして従姉妹に数多くの手紙を残しました。内容は音楽だけではなく、猥談や排泄にまつわるユーモアなどがあります。モーツァルトが従姉妹であるマリア・アンナ・テークラに残した手紙の中には、「あなたの鼻に糞をします」「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!」などの記述が残されています。
更にモーツァルトは「俺の尻をなめろ」という作品も残しており、これは最低6人の男性が「俺の尻をなめろ」と合唱する異色なもの。かつてはモーツァルトの神聖を保つ為、一連の作品や手紙はタブーとされていました。しかし近年では、モーツァルトの快活な性格を示すエピソードとして、多くの人達にも知られるようになりつつあります。
モーツァルトは何した人?功績について
音楽家として初めて独立する
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
出典:Wikipedia
当時の音楽家は貴族か教会に雇われ、そのパトロン達の望んだ作曲や演奏をするものでした。モーツァルトはザルツブルクの大司教と喧嘩した結果、独立した音楽家として生計を立てる事を決意します。モーツァルトは作曲からレッスン、楽譜の出版などを自分で行い、初めてフリーの音楽家として給料を得ました。
ベートーヴェンを筆頭に、時代が下るにつれてフリーの音楽家は増えますが、その先駆者はモーツァルトでした。彼は決して裕福ではありませんでしたが、音楽家の生き方に大きな一石を投じたのです。
音楽を庶民に浸透させる
ゼウス像
出典:Wikipedia
ちなみに当時のオペラは、ギリシャ神話などの崇高な作品がメインですが、モーツァルトはオペラに男女の愛などの普遍的なテーマを導入。これはオペラを大衆化させる事に一役買いました。
そして前半生のモーツァルトの作品は、長調で装飾音の多い軽快で優美なものが多くあります。これは当時の流行を反映したものであり、モーツァルトが大衆の為に曲を作っていた事の表れです。
そんなモーツァルトですが、年を重ねるにつれ深い哀しみを帯びた作品は増加。これらの作品は、「天国的」とも称されており、モーツァルトが音楽の新たな境地にたどり着いていた事が分かります。こうした天国的な楽曲も、庶民の支持を集める事に一役買いました。
またベートーヴェンやハイドンなどの名だたる音楽家も、モーツァルトの影響を受けたとされますが、それは大衆性も大きいのでしょう。
モーツァルトの代表曲
モーツァルトが生涯に作曲した作品は626曲とされますが、実際には900曲以上になるとされます。この項目では、モーツァルトの代表曲を解説します。全てを解説する事は出来ないので、他の作品にも興味を持ったならyoutubeなどで調べてみてくださいね。
フィガロの結婚
フィガロの結婚は、フランスの劇作家・ボーマルシェが1778年に書いた戯曲です。封建貴族に仕える家臣・フィガロの結婚式を通じ、貴族を痛烈に批判した内容であり、たびたび上演禁止になっています。
モーツァルトによるフィガロの結婚のオペラは、1786年5月1日にウィーンのブルク劇場で初演されました。序曲は流麗かつ華麗な曲調となっており、モーツァルトの作品の中でも1〜2位を争うほどに人気があります。
ピアノ・ソナタ
ピアノ・ソナタとは、「ピアノの独奏によるクラシック音楽」の事です。モーツァルトは数多くのピアノ・ソナタを作曲していますが、皆さんがよく知っているのが「ピアノソナタk.545 ハ長調」です。このソナタをモーツァルトは、「初心者のための小さなソナタ」と称しました。
実際にピアノのレッスンではこの曲を用いる事も多く、ピアニストにはお馴染みの曲です。モーツァルトはフリーの音楽家として、個人レッスンも多く担当していましたが、ピアノソナタk.545 ハ長調はピアノ初心者に配慮したものなのかもしれません。
トルコ行進曲
トルコ行進曲は、オスマン帝国の軍楽隊の音楽に刺激を受けて作曲した行進曲です。モーツァルトは1783年(1778年説あり)ピアノソナタ第11番を作曲しますが、第3楽章にトルコ行進曲を盛り込んでいます。
モーツァルトの代表曲であり、日本でもさまざまな替え歌やアレンジがなされています。殿様キングスの「係長5時を過ぎれば」はトルコ行進曲に歌詞をつけて歌ったものであり、TM NETWORKの「Human System」には楽章の一部が使用されました。
アイネ・クライネ・ナハトムジーク
アイネ・クライネ・ナハトムジークはモーツァルトが1787年に作曲したセレナーデです。セレナーデは恋人の為に歌われる楽曲で、ヴァイオリンなどの弦楽器を用いて演奏されます。モーツァルトの作品の中でも特に有名で、日本のラッパー・KREVAの国民的行事にもサンプリングアレンジがなされています。
ジュピター
ジュピターはモーツァルトが1788年に完成させた「交響曲第41番 ハ長調 K. 551」の愛称です。由来はローマ神話の最高神・ユーピテルにちなんでつけられました。モーツアルトの交響曲は序奏の長さが特徴ですが、ジュピターは冒頭から優雅なメロディから始まります。
またこの冒頭の音階は「ドレファミ」で始まり、「ジュピター音型」と呼ばれます。この音階をモーツァルは好んで使用しており、ぜひ注目してみて欲しい部分です。
モーツァルトの名言
1777年頃のモーツァルトの肖像画
出典:Wikipedia
・僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。
モーツァルトは死去する3年前に、自分の事を語る手紙を残しています。その中で彼は、「自分は昔から天才と呼ばれてきたが、演奏は練習すればできる。でも作曲は別であり、作曲をするにあたり有名な巨匠の作品は全て研究してきた。」と言葉を残しています。
モーツァルトが天才音楽家である事は間違いありません。しかし、彼が生み出した楽曲の数々は膨大な努力によって生まれた事も間違いないのです。
・他人の賞賛や非難など一切気にしない。自分自身の感性に従うのみだ
前述した通り、私生活のモーツァルトは破天荒なエピソードが数多く残されています。他人の賞賛や非難は気にせず、自分の感性に則って行動する。それが天才・モーツァルトの生き様なのでしょう。
モーツァルトの子孫
モーツァルトはコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚しましたが、子孫は現在も健在なのでしょうか。この項目ではモーツァルトの子孫について解説します。
直系の子孫は断絶
コンスタンツェ・ヴェーバー
出典:Wikipedia
結論から言えば、モーツァルトの血筋は断絶しています。
モーツァルトはコンスタンツェ・ヴェーバーとの間に6人の子を設けましたが、成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけでした。当時は医療も発達していない時代であり、その事は珍しくはありません。
カール・トーマスも音楽家としての才能を受け継ぐものの、ミラノの地で行政に携わります。兄に代わり、フランツ・クサーヴァーは作曲家として活動しました。2人は共に独身を貫いた為、モーツァルトの血筋は息子の代で断絶します。
ちなみにモーツァルトには、マリア・アンナ・モーツァルトという姉がいました。彼女も何人かの子供を儲けたものの、この系統も1919年に断絶します。モーツァルトの血筋は途絶えても、名曲の数々は現在でも語り継がれています。モーツァルトにとっては、生み出した名曲達が子どもだったと言えるでしょう。
モーツァルトにまつわる都市伝説・武勇伝
天才音楽家と称されるだけあり、モーツァルトにはさまざまな都市伝説や武勇伝が存在します。全てを解説する事はできませんが、その中のごく一部を解説しますね。
モーツァルトはフリーメイソンだった
フリーメイソンのロゴ
出典:Wikipedia
フリーメイソンは世界最古かつ最大規模の友愛団体です。嘘か本当かは定かではありませんが、世界を裏から支配する存在とされます。モーツァルトは1784年12月14日にフリーメイソン に加入。「フリーメイソンのための葬送音楽」という楽曲を筆頭に、亡くなるまでの7年間はフリーメイソンの為に多くの音楽を作曲しました。
モーツァルトが生涯最後に完成させたオペラは「魔笛」ですが、この曲のストーリーは「フリーメイソンの儀式を暴露したもの」という説があります。魔笛を作曲した年にモーツァルトは死去しますが、もしかしたらフリーメイソンによって暗殺されたのかもしれません。
信じるか信じないかはあなた次第です。
優れた聴覚と記憶力を持っていた
チェロ
出典:Wikipedia
モーツァルトは幼少期から優れた音感を持っていました。6歳頃には、チェロの音を聴いて「あなたのバイオリンは僕のバイオリンより、8分の1ピッチ高く調律されている」と、わずかな音はズレを見逃していません。
オーケストラでは数多くの楽器が使用されますが、モーツァルトは最小の不協和音をすぐに察知しました。どの楽器の演奏が間違えたのか、どのキーで演奏すれば良いのかをすぐに口にする事ができたのです。
更にモーツァルトは、優れた記憶力を持っていた事も判明しています。交響曲第36番は3日で完成させた事が判明しており、交響曲第39番から41番までの3つの交響曲の作成期間はわずか6週間。彼は脳内で作曲した交響曲の第1楽章を楽譜に起こしつつ、次の第2楽章を脳内で作曲するという離れ技で、次々と交響曲を完成させたのでした。
彼は音楽に愛された人物だった事がよく分かりますね。
モーツァルトのゆかりの地
ザルツブルク
ザルツブルクの街並み
ザルツブルクはオーストリア中北部の都市で、モーツァルトが生まれ育った街です。
ザルツブルクのゲトレイデガッセ9番には、モーツァルトの生家がありました。彼の家族は、1747年から1773年までこの地まで住んでいたようです。
その後家族は1780年までMakartplatz Square(通称・モーツァルトの住居)に住んでおり、この地は世界中から人々が訪れる観光スポットになっています。「モーツァルトの住居」には、18世紀の家具が設置され、彼が愛用したバイオリンやクラヴィコードも展示されています。
モーツァルトの生家の住所:Getreidegasse 9, 5020 Salzburg
モーツァルトの住居の住所:Makartplatz 8, 5020 Salzburg
ブルク庭園(王宮庭園)
ブルク宮殿
出典:Wikipedia
1781年から、モーツァルトはウィーンに移り住み、本格的に音楽家として歩み始めました。ブルク庭園はブルク宮殿の隣にある庭園で、世界的に有名なモーツァルト像が存在します。台座には家族と演奏する様子が彫刻として彫られており、細かい部分まで手が混んでいます。
モーツァルトが感じた空気感を、是非とも体感して欲しいものです。
住所:住所:Josefsplatz 1, 1010 Wien
モーツァルトの関連人物
モーツァルトは生涯を通じ、多くの音楽家や貴族と関わってきました。中には皆様も知る「あの人」とも接点があります。この項目では、モーツァルトと関係のある人物を解説します。
ベートーヴェン
ベートーヴェンはモーツァルトと同じく世界的に有名な音楽家です。生年はモーツァルトが1756年、ベートーヴェンが1781年となっており、モーツァルトの方が年長です。
1787年に幼少期のベートーヴェンはウィーンを訪れており、この時に両者が出会っていたという説がありますが、確証はありません。19世紀の伝記作家・オットー・ヤーンは、ベートーヴェンがモーツァルトの前で即興演奏を行い、モーツァルトがそれに感心するという逸話を紹介しています。ただ、この逸話も伝聞に過ぎません。
2人が接触していたかは不明なものの、ベートーヴェンがモーツァルトに強い影響を受けた事は間違いないようです。例えばベートーヴェンの作曲であるピアノ協奏曲第3番は、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番と調性は同じです。ベートーヴェンの楽曲の中には、モーツァルトの作品にインスパイアされたものが多いのです。
マリー・アントワネット
マリー・アントワネットは、フランス国王ルイ16世の王妃であり、フランス革命で処刑された人物です。接点のなさそうなモーツァルトとマリー・アントワネットですが、2人には接点がありました。
1762年1月から、モーツァルトと彼の父親はミュンヘンやウィーンに音楽旅行に出かけており、10月13日にシェーンブルン宮殿で王族の前で演奏をしています。この時に7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)と出会っており、「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と話したそうです。
ただ、マリア・アンターニアは、それから半年後にフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との結婚が決まり、2人は二度と会う事はありませんでした。
ちなみにマリー・アントワネットは音楽に強い関心があり、ハーブの演奏会なども開催しています。現存するだけで12曲の楽曲を作曲しており、ごく一部がパリ国立図書館に保管されています。仮にモーツァルトとマリー・アントワネットが結婚していれば、マリー・アントワネットは処刑される事はなかったのかもしれません。
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モーツァルトについてのまとめ
今回は、モーツァルトの生涯や人物像について解説しました。破天荒なエピソードも多く残されているモーツァルトですが、作曲に向き合う熱意は誰よりも強いものがありました。
天才音楽家と呼ばれようとも、音楽に対する真摯な姿勢がなければ、良い作品は生まれてきません。逆に言えば、音楽に真摯に向き合ってきたモーツァルトだからこそ、数々の名曲を生み出したと言えるでしょう。
今回の記事を通じて、モーツァルトや彼の音楽に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト