空海は平安時代初期に存在した僧侶であり、真言宗を開いた人物です。弘法大師という名前でも知られ、高野山の地に金剛峯寺を創建する、日本最初の庶民教育機関を創設するなどの功績を残しています。
日本の文化や宗教面に与えた影響は計り知れませんが、その人物像や生涯については知らない人も多いのではないでしょうか。今回は空海の生涯や名言、最澄との関係性などについて解説します。
目次
空海とは
空海は宝亀5年(774年)に讃岐国で誕生します。幼少期から秀才として知られ、延暦23年(803年)に遣唐使の一員として唐に渡ります。大同元年(806年)に帰国し、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を建立して真言宗を開きました。
満濃池(まんのういけ)の修築工事や、十住心論などの書物、庶民教育機関などの教育機関の設置など、さまざまな功績を残しています。その後、空海は3月21日午前4時に永遠の瞑想、すなわち入定を果たしました。
氏名 | 佐伯真魚(さえき・まお) |
---|---|
通称 | 空海 |
あだ名 | 弘法大師 |
出生日 | 宝亀5年(774年) |
出生地 | 讃岐国多度郡屏風浦 |
死没日 | 承和2年(835年)3月21日 |
死没地(亡くなった場所) | 高野山 |
血液型 | 不明 |
職業 | 僧侶 |
身長 | 不明 |
体重 | 不明 |
配偶者 | なし |
座右の銘 | 己の長を説くことなかれ、他人の短を言うことなかれ |
空海の人生年表・生涯
空海の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
宝亀5年(774年) | 空海誕生 |
延暦11年(792年) | 長岡京の大学寮に入る |
延暦23年(804年) | 遣唐使の随員となる |
大同元年(806年) | 唐から帰国 |
弘仁7年(816年) | 朝廷から高野山を賜る |
弘仁14年(823年) | 朝廷から東寺を賜り、真言密教の道場とする |
天長9年(832年) | 高野山で万燈万華会が開催される |
承和2年(835年) | 61歳で入定する |
嫡男の子として生まれる
空海は宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で、郡司・佐伯田公の次男として生まれました。幼少期の名前は真魚(まお)と呼びます。空海は延暦7年(788年)に平城京に上り、翌年に母方の叔父・阿刀大足から論語、孝経、史伝、文章などを学びました。
空海は延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入り、翌年から仏教の修行に邁進。24歳で『聾瞽指帰』を著し、俗世の教えがこの世の全てではない事を世間に示しました。その後は阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで修行をしたと伝わっています。
室戸岬の御厨人窟で空海は一心不乱に修行を続け、洞窟の中で目にするのは「空と海」だけであり、その事にあやかって自らの法名を空海としたのです。なお、空海の出家の時期は確定はしていませんが、延暦23年(804年)という説が有力です。
唐に渡る
空海は中国語の能力と医薬の知識が買われ、延暦23年(803年)に遣唐使の長期学僧として唐に渡ります。空海は5月12日に難波津を出航し、12月23日に唐の都・長安に入りました。空海は密教の第七祖・唐長安青龍寺の恵果から密教の奥義を習い、後に「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛の灌頂名を与えられます。
元和元年(806年)4月から越州を訪れ、建築や薬学の知識も吸収しました。10月に空海は博多津に帰還し、その後は太宰府に滞在しています。すぐに帰京しなかったのは、本来20年かかる修行を2年で切り上げた為。大同4年(809年)に帰京を果たすと、真言密教の確立に尽力しました。
弘仁2年(811年)には乙訓寺の別当を務め、弘仁7年(816年)には修禅の道場として高野山を賜ります。空海は高野山に弟子を派遣。弘仁10年(819年)春に七里四方から結界を結び、伽藍建立に着手しました。更に同時期に『文鏡秘府論』や『篆隷万象名義』などの書物を執筆。まさに不眠不休で真言宗の確立に努めました。
空海は弘仁14年(823年)、太政官符から東寺を賜り、この地を真言密教の道場としました。更に天長元年(824年)2月には、仏教の僧尼を管理する役職である僧綱に任命されます。
空海は天皇からの信任も厚く、天長7年(830年)には淳和天皇の勅に答える形で、『秘密曼荼羅十住心論』十巻を執筆。これは、人間の心を凡夫から最終的な悟りの境地に至るまでの10段階に分けて解説したもので、空海の代表的著作となりました。また『十住心論』を簡略に示したものが、『秘蔵宝鑰』となります。
病に犯される
そんな空海も、天長8年(831年)5月末に病となります。一度は大僧都を辞する旨を天皇に上表するが、天皇の意向で慰留となりました。病となってからの空海は生命がけで真言密教の基盤の強化と、存続のために心血を注ぎます。
天長9年(832年)には、万の灯明と万の花を両部曼荼羅に供養する事を目的とした万燈万華会を開催。承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『般若心経秘鍵』を講じ、多くの人たちに『般若心経』の教えを説きました。承和2年(835年)に入ると、玉体安穏・鎮護国家・五穀豊穣・万民豊楽を目的とした後七日御修法を開催。この行事は一時中断されますが、真言宗最高の法儀として明治に復活しています。
同年2月30日には空海の尽力で、金剛峯寺が定額寺(官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺)になる等、真言宗の基盤は着実に強化されました。
空海の死因と最期の言葉
空海は入定した
空海は承和2年(835年)3月21日に62歳で亡くなります。10世紀に書かれた伝真済撰『空海僧都伝』によると、空海の死因は病気。最後の言葉は詳しくは分かりませんが、死の6日前に空海は高野山で弟子達に遺告を与えました。
平安時代に成立した歴史書『続日本後紀』では、遺体は遺体は荼毘に付されたとされます。しかし年月を重ねるにつれ、空海は病死したのではなく「永遠の瞑想に入った」とする文献が見られ始めます。この永遠の瞑想を真言宗では「入定」と呼んでいます。
真言宗では、空海は今でも高野山奥之院の弘法大師御廟で入定していると信じられており、入定から現在に至るまで仕侍僧が1日2回、空海がいるとされる御廟へ服と衣服と食事を届けているのです。この儀式を「生身供(しょうじんぐ)」と呼びます。
空海のミイラが存在する?
ちなみに空海の入定を誤って解釈し、高野山奥之院には空海のミイラが存在すると考えている人もいます。ただこれは間違いであり、空海のミイラが高野山奥之院に安置されているわけではありません。
空海が達成したのは、修行の末に肉体を持ったまま悟りを得る「即身成仏」。科学的に空海は既に亡くなっていますが、信仰上は「如来と結合して仏になっている」のです。
一方、日本の一部地方に見られる民間信仰の中には、「即身仏」というものがあります。これは厳しい修行を経て自らの肉体をミイラにして残す事であり、自らの体を捧げて仏になる事を意味します。この即身仏と入定を同じと解釈し、空海のミイラが存在すると勘違いしているのでしょう。
この即身仏の信仰は山形県に多く、日本に現存する17体の即身仏のうち、8体が山形県に存在します。
空海の功績
空海の生涯を簡単に解説しましたが、彼の功績については詳しく分からない人も多いかもしれません。彼は宗教の発展だけでなく、文化、果ては建築面など、様々な分野で大きな功績を残しています。この項目では知られざる空海の功績をわかりやすく解説します。
真言宗の基礎を築く
空海は真言宗の発展に大きな功績を残しました。真言宗は13ある仏教宗派のひとつであり、空海が唐にいた時に恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤とします。
真言宗は即身成仏と密厳国土を教義とし、中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来です。即身成仏や仏と同じように行動して心を清く保つことで、誰でも仏になれるという意味があります。真言宗はその後、空海の全国行脚を経て広まり、1300年以上も日本人の教えの中に生き続けています。
多くの著書を著す
空海は生涯に渡り多くの著書を著しており、内容は真言宗にまつわるものだけではありません。例えば『文鏡秘府論』は中国の六朝期から唐朝に至る詩文の創作理論を著したものであり、『篆隷万象名義』は現存最古の日本製の辞書とされます。
もちろん、真言宗の啓発への熱力は生涯を持ち続け、天長7年(830年)には真言密教の体系を述べた書として、『十住心論』を執筆。こうした1つ1つの書籍は高い評価を得ています。
綜芸種智院の創設
空海は教育分野でも功績を残しています。それは「綜芸種智院」の創設であり、天長5年(828年)の事でした。平安時代において、中央の教育機関は大学、地方の教育機関は国学がありましたが、進学できるのは身分のある者に限られていました。
ただ空海の創設した綜芸種智院は、身分貧富に関係なく皆が儒教・仏教・道教などの思想や学業を総合的に学ぶ事が出来ます。更に全学生・教員への給食制も完備。まさに時代を先取りした教育機関でした。綜芸種智院は空海の死後、後継者がおらずに廃絶しますが、その教えは種智院大学に承継されています。
満濃池の改修工事を行う
香川県仲多度郡まんのう町にあるまんのう池は、日本最大級のため池です。ため池が完成したのは、701年-704年頃ですが、たびたび氾濫に悩まされていました。
空海は地質や土木などの理系の知識も卓越しており、821年に嵯峨天皇の命を受けて、まんのう池の改修工事に関与します。水圧に対しアーチ型を描く堤防を提案し、まんのう池の氾濫の頻度を減らす事に成功。この堤防は1200年経った今でも使われています。
空海の性格と人物像エピソード
度胸と向上心を兼ね備えていた
空海は若い頃から非常に勤勉であり、一心に様々な学問を学びました。15歳の頃には、母方の叔父・阿刀大足から論語、孝経、史伝、文章などを学び、大学では春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びます。遣唐使の学僧として唐に渡った時には、20年かけて学ぶべき内容を2年で学び終えています。こうした吸収力の高さは、空海の勤勉さと優秀さがあっての事でしょう。
また空海はどんな場面でも物おじする事なく、度胸を兼ね備えていました。空海の乗った遣唐使の船は嵐に遭い、航路を大きく逸れてしまいます。空海達は福州長渓県赤岸鎮の地で、海賊の嫌疑をかけられますが、空海は遣唐大使に代わり福州の長官へ嘆願書を代筆。この嘆願書の理路整然とした内容と優れた筆跡により、空海達は長安入りを許されます。空海は単に勉強ができるだけでなく、度胸も兼ね備えていたのです。
弘法も筆の誤り
「弘法も筆の誤り」とは、「どんな名人上手にも間違いがある」という意味の諺です。この弘法とは空海の事を指していますが、実は空海は本当に字を間違えた事がありました。それは、應天門に掲げる額を書いた時の事。空海は額に飾った時に、「應」の字に点を一つ打ち忘れていた事に気づきました。
空海は手に持っていた筆を投げつけ、「應」の字に「点」をつけて間違いを修正します。この対応に、周囲の人達は喝采したとの事です。人間は誰しも間違いがあるもの。それは天才たる空海も同じです。ただ空海が一味違うのは、「事後処理の大切さ」と「応用力の高さ」でしょう。空海は頭が良いだけでなく、知己に富んだ人物だったのです。
空海の逸話と凄さ
弘法大師と呼ばれる
空海は延喜21年(921年)10月27日に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られます。弘法とは仏教用語で「仏の教えを世に広めること」、大師は「高徳な僧に対する尊称」です。つまり空海は「仏の教えを世に広めた幸徳な僧侶」と天皇から認められたのです。
どこまで事実かは不明ですが、空海には神格化されたエピソードが多々あります。
例えば…、
・空海がお腹にいた頃に、仏様が「その身に宿らせてくれ」と母親の元に現れた。
・人を助けられる人になりたいと思い、願いを叶える為、7歳の頃に崖から飛び降り、釈迦如来と天女が空海を助けた。
等があります。こうした神格化されたエピソードが空海には多々あり、全国規模だと実に300件は下りません。こうしたエピソードはキリストや釈迦などの聖人にもあります。空海も仏の生まれ変わりともいえます。
トリリンガルだった
空海が長安であらゆる学問を身につける事ができたのは、空海が中国語とサンスクリット語も堪能だった事が挙げられます。他の学僧が通訳を介して勉学に励む中、空海は言葉の壁を乗り越えて学問に励みました。当時は今以上に語学を学ぶ事が難しかった時代。空海の凄さが際立っています。
空海の家系図・子孫
日本の仏教の発展に寄与した空海ですが、子孫はいるのでしょうか。この項目では空海の家系や子孫について解説します。
空海の家系
空海の家系図は複数存在し、正確なものは不明です。空海の父・佐伯田公の家系は、佐伯直(さえきのあたい)と言い、讃岐国多度郡の豪族でした。この一族は多くの宗教家を輩出した事でも知られ、真言宗の発展に寄与します。ちなみに空海は佐伯田公の次男です。
佐伯田公の長男・佐伯鈴伎麻呂は外従五位下を賜り、淳和天皇に支えました。三男の真雅は清和天皇の御願寺・貞観寺の開基であり、法光大師の名を賜っています。この他に空海の姉の子・智泉は十大弟子の一人に数えられ、佐伯田公の四男の子・真然は最澄の死後に高野山(金剛峯寺)の復興・発展に尽力しました。
こうした空海の一族が一丸となり、真言宗の発展に寄与したのですね。
空海の子孫はいるの?
結論から言えば空海の子孫はいないとされます。当時の仏教徒は狭義では結婚できず、「女犯」は五戒のうちの一つです。浄土真宗は例外とされ、親鸞や蓮如は妻帯していました。
ただそれはあくまで「表向き」の話で、秘密で妻帯していた可能性が全くないとは言えません。2017年4月1日には「空海の子孫」を名乗る男性が高野山に現れています。彼は筆を取り出すと『風信帖』を寸分の狂いなく達筆で書き上げ、皆を驚かせました。
誰もが彼を空海の子孫と信じる一方、突如1人の僧侶が現れ別の筆でもう一度『風信帖』を書くよう伝えると、空海の子孫を名乗る男は逃げ出しました。その僧侶は自らを「まお」と言う名前だと伝えると、その場からいなくなります。
…そう。まおは空海の幼少期の名前である『眞魚』から来ていたのです。その事に気づいた人達が高野山を探すものの、その僧侶を見つける事が出来ませんでした。もしかしたら空海は、若い頃の自分の姿になり、時々高野山で修行をしているのかもしれません。
この話が本当か嘘か、信じるかはあなた次第です。
空海の名言・俳句
空海は様々な学問を学び、人生経験も豊富なだけあり、数々の名言を残しています。今回は、現在に生きる私達にも通ずる部分がある名言を紹介しましょう。
・己の長を説くことなかれ、他人の短を言うことなかれ
空海が座右の銘にしていた名言であり、意味は「自分の長所は自慢するな。人の短所は追及するな」となります。元は中国の格言とされており、中国に詳しい空海も感銘を受けたものと思われます。
自分の長所をひけらかし、他人の短所ばかりを指摘する。そんな人にあなたはついて行くでしょうか?やはり他者への配慮を忘れず、謙遜する人に人はついて行くもの。現在に生きる私達にも通ずる名言ですね。
・悠悠たり悠悠たりはなはだ悠悠たり
悠々は「ゆうゆう」と読み、「はるかに限りない」という意味です。空海は日本から唐へと羽ばたき、仏教の真髄へと没頭していきました。学べども学べども、世界はそれ以上に限りなく広い。空海はそんな心境をこの名言に表したのかもしれません。
・三界の狂人は狂せることを知らず
三界とは、欲界(よっかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の3つの世界の事であり、衆生は生死を繰り返しながらこれらの世界を輪廻します。迷いながら生きる人達は、自らが迷っている事に気づいていません。自己を見つめ直す事で、初めて自分が迷いの中にいる事に気づくのです。たとえ仏教の事を詳しく知らずとも、地に足をつけた考えを持つ上で重要な名言ですね。
空海のゆかりの地
空海は数々の寺の建立に関与した経緯もあり、数々のゆかりの地が存在します。少しではありますが、この項目ではそんな空海のゆかりの地を解説していきますね。
金剛峯寺
金剛峯寺は高野山にある真言宗の総本山の寺院です。創建年は弘仁7年(816年)であり、空海が所以は嵯峨天皇から高野山の地を賜った事に起因します。金剛峯寺は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部であり、多くの参列者がこの地を訪れます。
なお、この地には高野山霊宝館も存在し、高野山内の国指定文化財の美術工芸品の大半が所蔵されており、その数は実に5万点以上。ある意味で記念館や資料館を兼ねています。
なお、高野山の奥之院には弘法大師御廟が存在し、この地で空海は今でも生き続けていると「宗教上」は信じられています。
住所:和歌山県伊都郡高野町高野山132
東寺
東寺は真言宗の根本道場であり、教王護国寺とも呼ばれます。嵯峨天皇より空海に下賜された事で、真言密教の根本道場として栄え、現在に至るまで京都の代表的な名所として存続しています。五重塔は木造塔としては日本一の高さを誇っており、その長さは実に54.8m。日本で最も有名な曼荼羅である絹本著色両界曼荼羅も存在します。
住所:京都府京都市南区九条町1
曼荼羅寺
曼荼羅寺は空海の父方の一族・佐伯氏の氏寺です。建立されたのは推古天皇4年(596年)の事。空海は唐から帰国後に請来した両界曼荼羅を奉納し、この寺を曼荼羅寺と改称しました。また曼荼羅寺は空海の母親(伝承では玉依御前)の菩提寺となっており、空海の心優しい性格が垣間見えますね。
住所:香川県善通寺市吉原町字曼荼羅寺1380番地1
空海と最澄の違いや絶好に至った経緯
空海と最澄は平安時代初期を代表する僧侶ですが、それ故に混同する事も多いのではないでしょうか。学校のテストでも、空海と最澄の違いはよく問われます。両者は接点があったものの、後に絶交しています。
この項目では空海と最澄の違いや、絶好に至った経緯について解説します。
最澄は天台宗を広めた
最澄(767年〜822年)は、近江国で生まれ、天台宗を日本に広めた人物です。比叡山に延暦寺を建てた事でも知られ、伝教大師とも呼ばれます。彼は全ての者が仏になれる「一切皆成仏」を説き、延暦寺は後に仏教教学の中心地になり、浄土宗や日蓮宗などの鎌倉新仏教の指導者たちを輩出しました。
両者の違いを簡潔に述べるなら、
・空海は真言宗の開祖で、高野山金剛峰寺を開いた。密教を学び、弘法大師と呼ばれた。古い仏教とは協調的な立場だった。
・最澄は天台宗の開祖で、比叡山延暦寺を開いた。法華経を学び、古い仏教とは対立的な立場であった。
となります。
ちなみに両者が接点を持ったのは、延暦23年(803年)の遣唐使です。既に最澄は仏教界に確固たる地位を築いており、天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されていました。一方で空海は当時は無名な僧に過ぎませんでした。
やがて空海は最澄と肩を並べる僧侶となりますが、これは空海が大変な苦労を重ねていた事を表していると言えます。
空海と最澄が絶交に至った経緯
空海と最澄は遣唐使で共に唐に渡って以来、交流を待ち続けていました。しかし、弘仁4年(813年)11月に2人は絶交に至ります。原因は、最澄が空海に『釈理趣経』(『理趣経』の注釈書)の借用を願い出た事でした。
『理趣経』は「仏の智慧(般若)の理」を密教的に説いたものですが、空海は最澄の依頼をきっぱりと断ります。空海は師から弟子への面授を飛び越え、安易に教えを学ぼうとした最澄に激しい非難を抱きました。
このやりとりが影響したのかは分かりませんが、最澄は空海から何かを借用する事はなくなり、弘仁8年以降は書簡は途絶えます。おそらく、2人の交流は途絶えてしまったものと思われます。
ただ最澄を擁護するなら、当時の彼は各宗派の経典を集めて仏教を体系化する一大事業に取り組んでおり、一つ一つの宗派の教えを丹念に学ぶ時間はありませんでした。空海と最澄。2人が偉大な人物である事に変わりはありません。目指す目標が違った故のすれ違いだったと言えるでしょう。
空海の関連人物
空海と最澄の関係について解説しましたが、空海はこの時代を代表する僧侶。最澄以外にも多くの人達と交流を持っていました。この項目では空海にまつわる関係人物を解説します。
泰範
泰範(たいはん)は空海や最澄と同じく平安時代初期の僧侶であり、元々は最澄の一番弟子だった人物です。最澄と空海が『釈理趣経』の借用をめぐり絶交した事は先程述べましたが、実は最澄はその後も何度か『釈理趣経』の借用を空海に求めていました。結果的に最澄は、一番弟子の泰範を空海のいる高野山に送り込んでいます。
ところが、泰範は空海に感化され、比叡山に戻る事はありませんでした。最澄は泰範を後継者にするつもりだった為、再三にわたり書簡を送ります。泰範は弘仁7年5月に、決別の意を込めた手紙を送っています。空海と最澄の書簡のやり取りが途絶えるのは翌年の事。最澄が絶交を決断した背景には、泰範という一番弟子が自分の元を去った事も大きいのではないでしょうか。
嵯峨天皇
嵯峨天皇は日本の第52代天皇。彼は検非遣使の設置や弘仁格式の編成などを行った人物ですが、仏教も強く信仰していました。嵯峨天皇は薬子の変勝利後に、鎮護国家を目的とした大祈祷を行いますが、空海もその祈祷に参加しています。
嵯峨天皇は真言宗を世に広める事に理解を示し、後に乙訓寺の別当に空海を任命しました。嵯峨天皇は空海と橘逸勢と並び、三筆と呼ばれる程に能書に優れており、中国の知識にも詳しい空海を手元は置きたかったものと思われます。時の天皇にも信頼される事からも、空海の見識の深さがわかりますね。
空海を題材とした関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
・空海「三教指帰」 ビギナーズ 日本の思想
https://www.amazon.co.jp/空海「三教指帰」-ビギナーズ-日本の思想-角川ソフィア文庫-空海-ebook/dp/B00F5W60ZM/ref=mp_s_a_1_10?crid=1H9CY4HKI5D1Q&keywords=空海+教え&qid=1678661358&sprefix=空海+教え%2Caps%2C336&sr=8-10
空海の三教指帰の現代語訳です。本書は放蕩息子を改心させる為、儒者・道士・仏教者が説得を試みるという形で儒教・道教・仏教の三つの教えを比較する内容。最終的に息子を改心させたのは仏教者でした。本書は、空海が若き頃に執筆したもので、仏教に生きる決めた青年空海の意気込みが全編に溢れています。
・空海に学ぶ仏教入門
https://www.amazon.co.jp/空海に学ぶ仏教入門-ちくま新書-吉村均-ebook/dp/B0765SP41M/ref=mp_s_a_1_12?crid=1H9CY4HKI5D1Q&keywords=空海+教え&qid=1678661358&sprefix=空海+教え%2Caps%2C336&sr=8-12
私達が様々な苦しみが逃れられないのは、欲望のままに何かを追いかけ続ける心のあり方に問題があります。本書は「どのように心を入れ替えれば良いか」という事が分かりやすく書かれています。初めて仏教を学ぶ人にもおすすめの一冊です。
・空海
https://www.amazon.co.jp/空海-コミック版日本の歴史-加来-耕三/dp/4591146227/ref=mp_s_a_1_3?crid=LUA383H2ITZD&keywords=空海+漫画&qid=1678678562&sprefix=空海+まん%2Caps%2C286&sr=8-3
私達にはあまり馴染みのない空海の生涯。本書は空海の生涯を分かりやすく解説した伝記漫画です。子供だけでなく、大人も楽しめる内容になっています。本書を入り口にして、空海の教えや真言宗のあり方を学ぶ機会になれば幸いです。
おすすめの動画
・【衝撃】空海が高野山に拘った理由とは?【まとめ】
https://m.youtube.com/watch?v=eyF-iHTuK-E
空海が高野山に拘った理由は何だったのでしょうか。その理由がこの動画を観れば見えてきます。
・空海 5000の伝説を持つ僧侶 密教に捧げた生涯を解説【ゆっくり解説/偉人伝】
https://m.youtube.com/watch?v=3b6bHlDEQh8
空海の生涯をわかりやすく解説したゆっくり解説です。
おすすめのドラマ
・NHKスペシャル 空海の風景
https://www.amazon.co.jp/NHKスペシャル-空海の風景-DVD-司馬遼太郎/product-reviews/B000GH2RTY/ref=cm_cr_dp_mb_show_all_top?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews
NHK製作のドキュメンタリー番組です。空海がなぜ仏教に帰依し、真言宗を確立させるに至ったのか。その足跡を学べます。本作品は司馬遼太郎の「空海の風景」を映像化したもの。司馬遼太郎が伝えたかった「空海の教え」がこの作品から見えてくるのではないでしょうか。
おすすめの映画
・空海―KU-KAI―美しき王妃の謎
https://www.amazon.co.jp/空海―KU-KAI―美しき王妃の謎-Blu-ray-染谷将太/dp/B07DJ157X8/ref=mp_s_a_1_4?crid=E7I9ZQSUVSUO&keywords=空海+映画&qid=1678658251&sprefix=空海%E3%80%80えい%2Caps%2C379&sr=8-4
遣唐使の学僧として唐に渡った空海が、詩人・白楽天と長安にある巨大な謎に迫るストーリー。2017年に日中合同で製作された映画であり、若き空海を演じたのは染谷将太です。当時の長安を再現した世界観は圧巻です。
・空海
https://www.amazon.co.jp/空海-DVD-北大路欣也/dp/B005FCX6PO/ref=mp_s_a_1_3?crid=3NM6LZ0WXNHMB&keywords=空海+映画&qid=1678660061&sprefix=空海+映画%2Caps%2C680&sr=8-3
こちらは1984年に公開された作品です、空海を演じるのは北大路欣也です。弘法大師空海入定1150年を記念して製作され、全真言宗青年連盟が前売り券200万枚を完売させた為、かなり潤沢な予算が組まれました。その結果、当時のままの遣唐使船が建設され、中国西安に大ロケーションが敢行されるなど、かなり気合の入った作品になっています。
まとめ
今回は空海の生涯や功績について解説しました。空海は真言宗を日本に広めるだけでなく、学校の創設などの様々な功績を残しています。私達が思う以上に空海が日本に与えた影響は大きく、それは日本の文化や意識の中に根付いています。
今回の記事だけでは空海の教えや記した書物の全てを解説する事はできません。今回の記事をきっかけに空海の功績や、真言宗の教えに興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/空海