足利尊氏の人物像と人生年表まとめ!死因・性格・子孫・偉業も解説

足利尊氏は鎌倉時代末期から室町時代初期に活躍した武将です。後醍醐天皇と鎌倉幕府を崩壊させた後、後醍醐天皇に反旗を翻して室町幕府を創設します。室町幕府は1573年に崩壊するまで、武家政権として存在し続けました。

授業でも必ず習う足利尊氏ですが、同じく幕府を開いた源頼朝徳川家康に比べると、その人物像や生涯については知らない人も多いでしょう。彼は複雑なこの時代を理解する為に不可欠な人物であると共に、破天荒な人物でもありました。

今回はそんな足利尊氏の生涯や功績について解説していきます。

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足利尊氏とは?

足利尊氏とは?

絹本著色伝足利尊氏像 出典:Wikipedia

出来事
氏名足利尊氏・源尊氏
出生日嘉元3年(1305年)
出生地相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)など諸説あり
死没日延文3年(1358年)4月30日
死没地(亡くなった場所)京都二条万里小路第(京都市下京区)
血液型不明
職業武将
身長180cm(推定)
体重不明
配偶者正室:赤橋登子
側室:加古基氏の娘、越前局等
座右の銘文武両道は車輪のごとし。一輪欠ければ人を渡さず

 

足利尊氏の人生年表・生涯

足利尊氏の人生年表

出来事
嘉元3年(1305年)足利尊氏誕生
元応元年(1319年)元服
元弘元年(1331年)父・貞氏が死去し、家督を継ぐ
元弘3年(1333年)鎌倉幕府倒閣に貢献 建武の新政が開始する
建武2年(1335年)中先代の乱を端に発し、建武の乱が勃発
延元元年(1336年)室町幕府が成立
観応元年(1350年)観応の擾乱の発生
文和元年(1352年)弟の足利直義死去
延文3年(1358年)足利尊氏死去

 

足利尊氏の生涯①

足利尊氏の生涯①

鎌倉にある鶴岡八幡宮 出典:Wikipedia

 

足利尊氏は嘉元3年(1305年)に足利氏当主の足利貞氏の次男として誕生します。足利家は鎌倉幕府の実質的支配者である北条得宗家と友好な関係にあり、鎌倉幕府の有力御家人としての地位にありました。

足利尊氏は元応元年(1319年)10月10日に15歳で元服。得宗・北条高時の偏諱を賜って高氏と名乗りました(幼少期の足利尊氏の名前は又太郎)。元弘元年(1331年)9月5日に父・足利貞氏が死去。この時点で長男の高義は亡くなっており、足利尊氏が足利家の当主となりました。

その少し前に後醍醐天皇が幕府の崩壊を目論み、元弘の変を起こしています。全国各地で反乱の狼煙が上がる中、足利尊氏は笠置山(現・京都府)にいる後醍醐天皇の討伐を命じられます。この時に足利尊氏は父の喪中である事から出兵を断るものの、許可は得られませんでした。この一件をきっかけに足利尊氏は幕府に反感を持ったとされます。

結果的に後醍醐天皇の元弘の変は失敗し、後醍醐天皇は隠岐島に流罪となります。

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足利尊氏の生涯②

足利尊氏の生涯②

山中をさまよう後醍醐天皇 出典:Wikipedia

 

あくまでも鎌倉幕府の崩壊を目論む後醍醐天皇は正慶2年(1333年)2月に隠岐島を脱出し、伯耆国船上山に籠城。足利尊氏は再度の討伐の為に上洛しています。ただ今回の足利尊氏は鎌倉幕府ではなく、後醍醐天皇側に寝返る事を決め、4月には反幕府の兵を挙げました。足利尊氏は反幕府勢力を味方につけながら、5月7日には六波羅探題を攻め落とします。

六波羅探題陥落の翌日には、新田義貞の兵が反幕府勢力を集めて鎌倉幕府の本拠地・鎌倉を制圧。5月22日には北条高時をはじめ、幕府の中枢の諸人総計800余人は東勝寺において自害。鎌倉幕府は滅亡したのでした。

鎌倉幕府崩壊後は後醍醐天皇による建武の新政が始まります。足利尊氏は勲功第一とされ、従四位下に叙された他、30箇所の所領を与えられています。また天皇の諱「尊治」から、尊の字を賜ったのもこの頃です。

ちなみに建武の新政は新たな政権であったものの、後醍醐天皇は武家をあまり重用しませんでした。後醍醐天皇に失望する声が増えると共に、武士の棟梁たる足利尊氏による武家政権を望む声が日増しに高まっていったのです。

足利尊氏の生涯③

足利尊氏の生涯③

後醍醐天皇の忠臣・楠木正成 出典:Wikipedia

 

建武2年(1335年)7月に鎌倉で、北条高時の遺児・時行による中先代の乱が勃発します。鎌倉では足利尊氏の弟・足利直義が北条時行と戦いますが、足利軍は劣勢を強いられました。

当時京都にいた足利尊氏は弟を救う為に、鎌倉へ出陣する大義名分とした征夷大将軍の官職を後醍醐天皇に望みますが、後醍醐天皇はこれを拒否します。足利尊氏の威光が更に高まる事を恐れての事でした。

結果的に足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ぬまま出陣し(後から慌てて後醍醐天皇が征東将軍の号を与える)、8月19日には足利直義と共に北条時行の軍勢を鎌倉から追い出しています。

後醍醐天皇は足利尊氏に京都に戻るように命じますが、足利尊氏は足利直義と相談し、鎌倉の地に武家政権を樹立する事を計画。独自に兵士に恩賞を与えはじめ、後醍醐天皇の上洛の命令も拒んだのでした。

これ以降、後醍醐天皇は新田義貞や尊良親王などに足利尊氏の討伐を命令。両者の激しい戦いが続きました(建武の乱)。建武3年(1336年)6月に足利尊氏は京都を制圧し、先月には楠木正成や新田義貞も戦死しています。

足利尊氏の勢力は比叡山に逃れていた後醍醐天皇に和議を申し出ており、後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲っています。その5日後に足利尊氏は側近らと諮問する形で「建武式目」を定め、政権の樹立を宣言。この時点で室町幕府は誕生したと言えます。

一方で幽閉されていた後醍醐天皇は「光明天皇に渡した三種の神器は偽物」と主張し、12月に京都を脱出。吉野に独自の朝廷を樹立します。これ以降、国内では足利尊氏が擁立する北朝と、後醍醐天皇が主張する南朝という2つの朝廷が存在する南北朝時代が到来するのです。

足利尊氏の生涯④

足利尊氏の生涯④

光明天皇 出典:Wikipedia

 

暦応元年(1338年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に命じられ、名実共に室町幕府が誕生。足利尊氏は武士の棟梁として君臨し、政務を弟の足利直義に任せています。後醍醐天皇ら南朝勢力も執事の高師直が主導する形で、駆逐されていきました。

しかし徐々に足利直義と高師直による対立は表在化。この対立は観応の擾乱と呼ばれています。貞和5年(1349年)に足利直義は高師直の暗殺を画策して失敗。足利尊氏が仲介に入り出家する事が決まります。

足利直義は九州地方で勢力を拡大する足利直冬(足利尊氏の息子だが、足利尊氏は直冬を快く思っていなかった)と結託。足利尊氏は観応元年(1350年)に高師直を連れて九州に直冬征伐に向かうものの打出浜の戦いで敗北。逆に高師直は出家(後に暗殺)を余儀なくされ、足利直義は政界に復帰します。

ただ足利直義は北条泰時を理想とする守旧的な政治を志しており、徐々に人々は離反。足利直義は再び政務から引退するものの、足利尊氏との対立は深刻なものとなっていました。足利直義は足利尊氏に捕らえられ幽閉の身となり、翌年の観応3年(1352年)2月に急死。この死は足利尊氏達の毒殺という説も根強いです。

足利直義という反対勢力は消え去ったものの、室町幕府が擁立する北朝と、南朝による争いはその後も続きました。南朝勢力は何度も京を占拠し、その都度足利尊氏は京を奪還。戦いに明け暮れる日々を送ったのです。

足利尊氏の死因と最期の言葉

足利尊氏の死因と最期の言葉

平重盛像(近年では足利尊氏という説が浮上している) 出典:Wikipedia

 

足利尊氏は延文3年(1358年)4月30日に背中の腫れ物が原因で亡くなりました。享年54歳でした。

背中の腫れ物は足利直義軍の残党(一説には直冬)から受けた傷ともされています。その傷が細菌感染を起こし、敗血病を起こしたのです。歴戦の武将も細菌には勝つ事ができませんでした。

死期を悟ったのか、足利尊氏は死の前年に21箇条からなる「等持院殿御遺言」を遺しています。これはある意味で足利尊氏の「最期の言葉」であり、そこに書かれている一文は以下の通り。

文武両道は車輪の如し 一輪欠ければ人を度(わた)さず
しかれども、戦場に 文者(もんじゃ)は功なき者なり

文武両道とは車輪のようなものであり、一輪だけでは人を運ぶ事は出来ません。片方だけを身につけても、人を前に進める事は出来ないのです。これは足利尊氏は長年にわたり戦いを繰り広げていたものの、存命中には南北朝の動乱を治める事は出来ず、仲の良かった足利直義を死に至らしめています。

これは足利尊氏の後悔の念であると共に、後継者達に向けたメッセージと言えるのではないでしょうか。

足利尊氏の功績と偉業

征夷大将軍となり室町幕府を開く

征夷大将軍となり室町幕府を開く

鎌倉幕府を開いた源頼朝の肖像画(近年では足利直義説あり) 出典:Wikipedia

 

足利尊氏の1番の功績は室町幕府を開いた事です。建武の新政は当時の世相には合わず、武士達は後醍醐天皇に失望していました。そんな中で足利尊氏は武士の世を再び作る為、室町幕府を開いたのでした。確かに足利尊氏は天皇に叛いた逆賊として、一時は低い評価を下されていたものの、時代が足利尊氏を望んでいた事は確かです。

足利尊氏自体は政策作りなどはあまり得意ではなく、政務は弟の足利直義に任せ、南朝勢力の討伐は執事の高師直に委ねています。自らは武家の棟梁としての神輿的な立場に収まりました。これは裏を返せば「信頼できる身内や部下に幕府の運営を任せば安泰である」と考えた為であり、足利尊氏が深い度量を兼ね備えていた事の現れでもあります。

室町幕府はしばらくの間は混乱を極めますか、高師直も足利直義も死没した後は足利尊氏が積極的に政務に参与。足利尊氏は自分が置かれた境遇を理解し、「自らが今するべき事」を実践できる人物だった事がわかります。

ちなみに南北朝の動乱は孫の足利義満の代に終焉を迎えます。室町幕府は1467年の応仁の乱までは比較的安定した幕府運営を続けていました。

歌人としても超一流

武人としてのイメージが強い足利尊氏ですが、歌人としても優れた作品を残しています。正中3年(1326年)の「続後拾遺和歌集」から永享11年(1439年)の「新続古今和歌集」の間に収められた和歌は計86首。

連歌については「菟玖波集」に68句が入集されており、この連歌集の中では武人の中では2番目の多さです。これは足利尊氏がこの時代を代表する歌人である事を示しています。

足利尊氏の性格と人物像エピソード

武士の棟梁としての資質を備えていた

武士の棟梁としての資質を備えていた

無窓疎石 出典:Wikipedia

 

足利尊氏は人間的な魅力に溢れ、武家の棟梁としてのカリスマを持つ人物でした。足利尊氏と信仰のあった臨済宗の僧侶・無窓疎石は梅松論で足利尊氏の人間的魅力を以下のように記しています。

1つ、心が強く、合戦で命の危険があった時も全く死を恐れる様子がなかった
2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らない。
3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考える。

実際に足利尊氏は戦場で功績を挙げた者には惜しみなく恩賞を約束しています。その影響で訴訟になった事例とあるものの、足利尊氏の心の広さに感服し、家臣達は命を賭けて戦いに身を投じたのでした。この人間的魅力とカリスマ性こそが足利尊氏の最大の武器だったと言えるでしょう。

躁鬱の傾向あり

躁鬱の傾向あり

足利尊氏のひ孫で万人恐怖と呼ばれた足利義教 出典:Wikipedia

 

その一方で足利尊氏の行動を紐解けば支離滅裂な行動が見られるのも事実です。後醍醐天皇に反旗を翻したと思えば、後醍醐天皇から足利尊氏へ追討命令が下ると、鎌倉の浄光明寺に引きこもってしまう事もありました。

足利尊氏の父は発狂した経歴があり、ひ孫の6代将軍・足利義教は「万人恐怖」と呼ばれる程の熾烈な人間でした。このような家系図をもとに足利尊氏の支離滅裂な行動は躁鬱によるものと判断する歴史家が(ごく少数)いる事も事実です。

一方で足利尊氏の行動は後醍醐天皇の忠誠心と、足利直義に対する兄弟愛からくるものであると主張する学者もいます。いずれにせよ躁鬱という説は近年では否定される傾向にあるのです。

足利尊氏の逸話と凄さ

遠征と転戦を繰り返した

遠征と転戦を繰り返した

金ヶ崎の戦いの古戦場碑 出典:Wikipedia

 

足利尊氏の凄さは長年にわたり、戦で各地を奔走した事でしょう。鎌倉幕府を開いた源頼朝は源平の争乱では本拠地の鎌倉で幕府の体制作りに着手していましたが、足利尊氏は積極的に討伐に出陣しています。

ざっと解説するだけでも

  • 元弘元年(1331年)の元弘の乱で後醍醐天皇の幕府崩壊計画を阻止するが、後に後醍醐天皇に寝返り六波羅探題を攻め落とす。
  • 建武2年(1335年)の中先代の乱で北条時行軍を駆逐。
  • 建武の乱では12月に新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、12月には逆に敗北。多々良浜の戦いで菊池武敏らを倒し、5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破る。
  • 観応元年(1350年)に直冬討伐のために中国地方へ遠征し、光明寺合戦や打出浜の戦いで敗北。
  • 観応2年(1351年)12月に薩埵峠の戦いで足利直義軍に勝利した 等があります。

足利尊氏の生涯はまさに戦いに明け暮れた日々でした。割と敗北もしてはいるものの、無事に生き延びてから再起を図っている事からも、彼が優秀な武将である事が分かるはずです。

肖像画にまつわる謎

肖像画にまつわる謎

従来の足利尊氏と思われていた肖像画だが、高師直という説あり 出典:Wikipedia

 

足利尊氏の肖像画といえば、「騎馬武者に乗った髭の生えた男」を思い浮かべる人も多いでしょう。この肖像画が足利尊氏とされたのは1920年頃ですが、近年ではこの人物は執事の「高師直」という説が定着しつつあります。

根拠としては

  • 画像上部に書かれた花押が息子の義詮のものであり、父に対する無礼になる。
  • ざんばら髪の頭や折れた矢など、幕府の将軍を描いたにしては荒々しすぎる
  • 刀や馬具に描かれている輪違の紋は高家の家紋である

等が挙げられます。

足利尊氏の肖像画として有力なのは、源頼朝像で有名な神護寺三像の一枚です。この肖像画は近年では源頼朝ではなく、足利直義を書いたという説があり、平重盛を描いたとされる肖像画こそが足利尊氏であると考えられています。また新たな考証や新説を待ちたいところですね。

足利尊氏の家紋

足利尊氏の家紋

足利家の家紋 出典:Wikipedia

 

足利尊氏の家紋は二つ引両(ふたつひきりょう)と呼ばれ、円の中に横線が2本入るシンプルなものです。武家の旗はかつて神霊の号を記入し、その下に黒い線を引く習慣がありました。しかし時代が下るにつれ、神霊の号が省略されて黒い線が残るだけになったのが、足利尊氏の家紋だと言われています。

この家紋は足利家だけでなく、引両紋の下賜により足利氏の一門(斯波氏、畠山氏など)も用いているのです。

足利尊氏の名言

足利尊氏の名言

足利高氏旗あげの地碑 出典:Wikipedia

 

他人の悪をよく見る者は、己が悪これを見ず。

これは前述した「尊氏卿御遺書」に記されている一文で、他人の欠点を良く見る者は、自分の欠点を見ていないというものです。

足利尊氏は政務に優れた足利直義と、武功に優れた高師直を重用し、室町幕府の基礎固めを行っています。これは足利尊氏が人の優れた部分をよく見ていたからこその采配でしょう。これは現在に生きる私達にも通ずる名言ではないでしょうか。

いそぢまで まよひきにける はかなさよ ただかりそめの 草のいほりに

この和歌は足利尊氏が詠んだ和歌であり、観応の擾乱が始まる前の不穏な時期に成立したものでした。この時点で足利尊氏は47歳と当時としては十分高齢です。戦乱の世を嘆き、遁世を願っている事がこの和歌からも読み取る事ができ、足利尊氏の繊細な性格が伺えます。

足利尊氏の家系図・子孫

足利家の系図

足利家の系図

伝足利義兼像 出典:Wikipedia

 

足利家は源頼朝の祖先にあたる源義家の血筋をルーツに持つ一族です。厳密に言えば嫡男の源義親が源頼朝の祖先にあたり、四男の源義国が足利尊氏の祖先となります。

源義国→源義康(初代足利家当主)→足利義兼→足利義氏→ 足利泰氏→足利頼氏→足利家時→足利貞氏→足利尊氏と繋がっていきます。

ちなみに足利義兼が当主の頃に源平合戦が起きており、足利義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍。多くの源氏が滅ぼされる中で無事に生き残る事が出来たと共に、源頼朝北条政子の妹を妻にあてがっています。

その後も足利家は北条家と婚姻関係を続けており、足利尊氏は北条守時の妹・赤橋登子を妻としています。鎌倉末期にも足利家は名門の筆頭として重用されていたのです。

足利尊氏の兄弟

足利尊氏には兄と弟がいました。源淋(田摩御坊)という人物も系譜にはあるものの、詳しくは不明です。

兄の足利高義は元々嫡男としての立場だったものの、文保元年(1317年)に死去。結果的に足利尊氏に嫡男の座が回ってきます。一説では足利尊氏は名門の当主が受けるべきものであった帝王学を学ぶ事が出来なかった為に、支離滅裂と言える行動をとっていたという説もあるのです。

そして弟の足利直義は足利尊氏の同母弟にあたり、若き頃から仲の良い兄弟だったと言われます。室町幕府の政務は当初は足利直義が取り仕切り、足利尊氏が棟梁として君臨する二頭政治となっていました。やがて観応の擾乱で両者は対立し、足利尊氏は仲の良かった弟を自らの討伐すら事になるのです。

足利尊氏の子供や子孫

足利尊氏の子供や子孫

足利義詮像 神護寺三像より伝藤原光能像ともされる 出典:Wikipedia

 

足利尊氏は正室や側室を含めて何人かの子供がいました。長男の足利竹若丸は足利尊氏が六波羅探題を攻め落とそうとした時に、北条氏の刺客長崎氏・諏訪氏によって刺殺されています。

結果的に嫡男になったのは足利義詮で、後に二代目の将軍になっています。彼は足利尊氏と足利義満に挟まれて目立たないながら、南北朝の動乱を鎮める事に一役買いました。

また四男の足利基氏は鎌倉に睨みを効かせる為に、鎌倉公方として下向しています。この基氏の血筋は室町時代も続き、江戸時代には喜連川家としてその名を伝えています。

そして足利直冬は足利尊氏の側室の子にあたります。ただ足利直冬の事を足利尊氏は認知せず、足利直冬は徹底して足利尊氏と対立しました。ただ足利尊氏が死去した後は勢力は一気に後退します。足利直冬は後に足利義満と和解し、吉川氏が保護していました。

足利直冬は足利義満が室町幕府の全盛期を築こうとする至徳4年(1387年)もしくは応永7年(1400年4月5日)まで存命していたとされます。足利直冬は幕府が隆盛を極める様をどのように見ていたのでしょうか。

足利尊氏のゆかりの地

等持院

等持院

足利尊氏の墓 出典:Wikipedia

 

等持院は足利将軍家の菩提寺であり、足利尊氏のお墓があります。等持院のルーツは暦応4年(1341年)に足利尊氏が現在の京都市中京区に等持寺を建立した事が始まりでした。足利尊氏が亡くなった時に等持寺は「等持院」と改称され、足利将軍家の菩提寺となったのです。

ちなみに院内の霊光殿には歴代の足利将軍家の木像も安置されている等(足利義量と足利義栄の木像はありません)、足利将軍家にまつわるものも展示されています。

住所:京都府京都市北区等持院北町63

足利尊氏邸跡

足利尊氏邸跡

足利尊氏邸跡 出典:Wikipedia

 

京都府保険事業共同組合の前には足利尊氏の邸宅跡があります。元の屋敷は「二条万里小路第」と称され、古くは平安時代の公卿・藤原定方や後に冷泉天皇の中宮・昌子内親王の屋敷が住んでいました。足利尊氏がこの地に屋敷を構えたのは建武の新政の頃でした。

ちなみに清浄華院を挟んで隣り合って存在していたのは足利直義の邸宅である三条坊門第です。神輿となった足利尊氏と、政務を司った足利直義。この地は「室町幕府発祥の地」とも呼ばれています。

住所:京都府京都市中京区高倉通御池上る柊町583−2

足利尊氏の関連人物

後醍醐天皇

後醍醐天皇

絹本著色後醍醐天皇御像 出典:Wikipedia

 

後醍醐天皇は第96代天皇および南朝初代天皇です。足利尊氏は後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を崩壊させるものの、後に反旗を翻して足利直義と共に室町幕府を創設しました。最終的に両者は対立したものの、足利尊氏は勤皇精神が強く、最後まで後醍醐天皇を尊敬し続けていました。

後醍醐天皇に反旗を翻す事を余儀なくされた時は、赦免を求めて寺に引きこもって斬髪し出家を宣言。後醍醐天皇が吉野で崩御した時は慰霊のために天龍寺造営を開始しています。この天竜寺は足利将軍家が定めた五つの禅宗の寺院(京都五山)の第一位とされており、足利将軍家にとって特別な存在となりました。

足利尊氏が後醍醐天皇を尊敬し続けた理由は定かではありませんが、天皇家に弓を引いた事を足利尊氏は生涯後悔し続けていた事は間違いありません。

高師直

高師直は鎌倉末期から足利尊氏に仕えた武将であり、執事(江戸時代の家老のようなもの)という役職にあった人物です。武将としては建武の乱や南北朝の内乱で活躍し、内政面でも執事施行状(しつじしぎょうじょう)の考案・発給などの功績を残しています。

元々は太平記の記述などから武闘派で内政能力は高くなかったとされていますが、近年では為政者としての能力も高かった事が分かっています。観応の擾乱で足利直義に敗れた事で、直義派の武将に殺害される悲劇の最期を遂げました。

一級の人物ではあったものの、石清水八幡宮焼き討ち等の様々な事件を起こした事は事実。その事が高師直の評価を下げていると言われています。

足利尊氏の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

風の群像 小説・足利尊氏

足利尊氏を主人公にした歴史小説です。様々な勢力が群雄割拠する複雑な時代を非常に分かりやすく捉えています。逆賊と言われがちな足利尊氏ですが、本書では足利一門の繁栄のために心血を注ぐ等身大の父親という描かれ方をしています。この小説を読む事で足利尊氏の見方が変わるかもしれません。

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観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い

本書は観応の擾乱に主眼を置いた一冊であり、南北朝時代のややこしい時代背景を学ぶ上で助けになります。筆者も当初はあまり興味のなかった南北朝時代ですが、本書を読んで「なるほど」と思う事も多く、この時代を深く知ろうと思うようになりました。

この時代に興味を持っている人にはお勧めしたい一冊です。

おすすめの動画

おすすめドラマ

太平記

1991年に放送された足利尊氏を主人公にした大河ドラマです。鎌倉末期から南北朝時代を描いた大河ドラマは本作だけであり、歴代の大河ドラマの中では異色と言えます。皇室のタブー、複雑な時代背景と人間関係。それらを真っ向から取り上げて、名作に昇華した作品であり、この時代に興味のある人には是非観てほしい大河ドラマです。

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まとめ

今回は足利尊氏の生涯について解説しました。足利尊氏
教科書で必ず習う人物ですが、その生涯を知らない人は多いです。それはこの時代が非常に複雑であり、とっつきにくいという事も大きいでしょう。

足利尊氏は良くも悪くもカリスマに溢れた人物であり、戦いに身を投じる生涯を送りました。調べれば調べるほど、面白い人物でもあります。今回の記事を通じて足利尊氏について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

  • 亀田俊和 観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い
  • 佐藤 進一 日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)改 版
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