越後の龍!?上杉謙信とはどんな人?名言・偉業・死因も解説

川中島(長野市)で武田信玄と戦った戦国武将、上杉謙信。

戦国時代随一のふしぎな武将としても知られています。
いったい、どんな人だったのでしょうか。

この記事では、上杉謙信の人物像について詳しくご紹介いたします。
歴史に残る名言、偉業や死因なども解説していきます。

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上杉謙信とは?

上杉謙信

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/上杉謙信

上杉謙信は、弱肉強食の戦国時代にあって、つねに弱い者の味方をし続けた”義将”です。

近隣の国々で強い武将が弱い武将を攻めると、きまって弱い方を応援しに駆けつけました。
そのため、彼の生涯は、いつでも強敵を相手に戦い続けなければいけない厳しいものとなったのです。

生まれ

1530年(享禄3年)1月21日、越後国(新潟県)の春日山城で誕生。
越後守護代(守護の代理人) 、長尾為景(ながお ためかげ)の末子。
改名:長尾虎千代(幼名)→景虎(初名)→上杉政虎→輝虎→謙信

性格

幼いときは乱暴な性格だったため、「鬼若殿(おにわかどの)」と呼ばれていました。
7歳のころ、お寺に入り仏門への道を歩み始め、そこで深い信仰心を培ったといわれています。
母・虎御前の信心深い性格にも影響を受けていたのでしょう。

謙信のするいくさは、ほとんどが救援・応援のためのいくさでした。
領土拡大の野心がなく、救援を頼まれていくさをし、勝てばそのまま持ち主に領土を返すのです。

したがって、謙信の家臣はどんなに勇ましく戦おうとまったく自分の領土は増えず、不満を持っていました。
そのため、越後国のなかで武士同士が領地を奪い合い、謙信はその対応にも手をとられなければならなかったのです。

それでも、かれは死ぬまで”義”を掲げ、その強い信念をまげませんでした。

死因

1578年、関東大遠征出陣の2日前に病気で倒れ、49歳の生涯を終えました。
脳溢血(のういっけつ)だった、と言われています。

謙信はお酒が大好きで、味噌や梅干しをつまみにほとんど毎日飲んでいたようです。
その塩分の摂りすぎが原因で脳溢血を引き起こした、とも言われています(諸説あり)。

悲願であった関東平定を目前にして、どんなにか無念だったことでしょう。

上杉謙信最強説

“越後の龍”とも呼ばれた謙信は、生涯にわたって戦い続けました。
その数およそ70戦。
そのうち敗戦はたったの2回だけです。
なぜ彼はこんなにも強かったのでしょうか。

謙信はたしかに勇敢で、部略に優れた名将に違いなかったのですが、それだけではありません。
その強さの一因には、引き際を見極めることに長けていたことも挙げられるのです。
引き際のタイミングを見極め、決着をつけずに終わった合戦は24回ほど。

謙信は、味方の兵たちの消耗や士気を把握し、戦局の流れを的確につかむことがとてもうまかったのです。
ましてや、彼の行う戦いには救援要請をうけ駆けつけることが非常に多く、これはつまり相手方は強い武将ばかりということです。

そんな情勢にもかかわらず負けたことがほとんどない謙信は、まさに軍神と呼ばれるほどの最強の武将であったと言えますね。

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上杉謙信の人生年表


年(年齢)出来事
1530年(1歳)越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城で誕生。
1536年(7歳)父・為景が死ぬ。

長尾家・菩提寺の林泉寺に入り、名僧・天室光育(てんしつこういく)和尚に弟子入りをして、厳しい禅の修行と文武の道を学ぶ。

1543年(14歳)元服して、名を景虎に改める。

長尾家・菩提寺の林泉寺に入り、名僧・天室光育(てんしつこういく)和尚に弟子入りをして、厳しい禅の修行と文武の道を学ぶ。

1544年(15歳)武将として敵を見事撃退、初陣を勝利で飾る。
1545年(16歳)上杉家の老臣・黒田秀忠(くろだ ひでただ)が謀反を起こし、兄・景康を殺害。
謙信、兄・晴景に代わって秀忠を討つ。
1548年(19歳)兄・晴景と仲違いをしいくさになるが、守護・上杉定実(うえすぎ さだざね)の調停により、この争いはおさまる。このとき謙信は兄・晴景の養子というかたちで家を継ぎ、春日城の城主となる。
1550年(21歳)この年の2月に上杉定実が亡くなり、後継ぎがいなかったため上杉家が断絶。
将軍・足利義輝(よしてる)から、国主大名として越後守護を代行することを命じられる。
1551年(22歳)一族の長尾政景(まさかげ)が謀反をおこすが、これを戦わずして降伏させる。
1552年(23歳)関東管領・上杉憲政(のりまさ)が北条氏康(うじやす)に敗れ、謙信をたよって越後へ逃走しこれをたすける。
4月、朝廷から従五位下・弾正少弼(じゅごいのげ・だんじょうしょうひつ)に任ぜられる。
1553年2月(24歳)兄・晴景が病気で死ぬ。
1553年6月(24歳)信濃(長野県)の村上義清が領土を奪われ、謙信を頼ってくる。
その頼みを受け入れ、武田信玄の兵をくいとめるために川中島へ出陣する(第1回川中島の合戦)
1553年10月(24歳)京へのぼる。朝廷から従四位下・近衛少将(じゅよんいのげ・このえしょうしょう)に任ぜられる。
1555年2月(26歳)北条高広(きたじょうたかひろ)の反乱をおさめる。
1555年7月(26歳)第2回川中島の合戦。何ヶ月も長引いたこの合戦は、駿河の今川義元の仲裁で武田軍と和睦
1556年(27歳)武将をやめて出家しようと比叡山延暦寺に入るが、越後の情勢がこれをゆるさず断念する

箕冠城(板倉)の大熊朝秀(おおくまともひで)の謀反をおさめ、越後を統一する。

1557年(28歳)第3回川中島の合戦。
1558年(29歳)上杉憲政がふたたび頼ってくる。
1559年4月(30歳)五千人の軍勢を連れて京へのぼり、将軍・足利義輝に拝謁。その間に、武田信玄が越後を攻めたので8月に帰国する。
1561年(32歳)北条氏康とたたかい関東へ出陣し、小田原城を攻めるが、攻略ならず。
1561年3月(32歳)上杉憲政のたのまれ、関東管領の山内上杉家のあとを継ぐことをひきうける
これにより正式に上杉家の当主となり、名を上杉政虎(まさとら)と改める。
1561年9月(32歳)第4回川中島の合戦は、かつてないほどの激戦となる。上杉軍一万三千、武田軍二万が川中島で、激しくぶつかり合うが決着はつかず。
1561年12月(32歳)将軍・足利義輝から輝の1字を与えられ、名を輝虎(てるとら)と改める。
1563年2月(34歳)騎西上(埼玉)を攻略。
1563年4月(34歳)小山城(栃木)を攻略。
1563年6月(34歳)謙信の師・天室光育和尚が病気で死ぬ。
1564年1月(35歳)北条方へ寝返った小田氏治を破り、小田城を攻略
1564年8月(35歳)第5回川中島の合戦。信玄が決戦を避けたため、決着はつかず。
1568年3月(39歳)越中の一向一揆と椎名康胤(しいな やすたね)を制圧するため、松倉城(富山県)・守山城(富山県)を攻撃。ところが、同時期に本庄繁長(ほんじょう しげなが)が謀反を起こしたため越後へ帰国し、これを鎮圧する。
1569年8月(40歳)ふたたび越中に出陣し、椎名康胤を討伐。
1570年3月(41歳)宿敵・北条氏康と和睦する。氏康の七男・氏秀(うじひで)に景虎(かげとら)の名を授け、養子とする。
1570年12月(41歳)法名・謙信を名乗る。
1571年10月(42歳)北条氏康が死去。
その後継者である北条氏政(うじまさ)が同盟を破り武田軍と和睦したため、謙信は再び北条とも敵対関係となる。
1572年8月(43歳)越中に入り一向一揆の大軍と戦い激戦となる。
1572年10月(43歳)富山城を攻略。
この年、織田信長から同盟の申し入れがあり、これに応じる。
1573年4月(44歳)宿敵・武田信玄が病気で死ぬ
1573年8月(44歳)一向一揆が立て籠もる朝日山城を攻撃し、越中を平定する
1574年(45歳)北条氏政に対抗して、関東に出陣する。
1574年12月(45歳)剃髪して法印大和尚に任ぜられる。
1576年(47歳)謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者である本願寺の顕如(けんにょ)と和睦

また、毛利輝元と同盟をむすび、織田信長との同盟は破綻する。

信長によってたおされた室町幕府再建をめざし、越中(富山県)・能登(石川県)に出陣。

難攻不落の巨城といわれる七尾城(石川県)を攻めるが、攻略できず。(第一次七尾城の戦い)

1577年(48歳)ふたたび能登に侵攻し七尾城を攻める。(第二次七尾城の戦い)

このとき城内に疫病が流行し、城に居た大勢のものが病死。

遊佐続光らが謙信と通じ、内部で反乱を起こし七尾城を陥落、能登も謙信の支配下となる。

ついで、信長軍を加賀(石川県)の手取川でやぶる。(手取川の戦い)

1578年(49歳)悲願の関東平定をおこなうことを決意し、北条氏政とたたかう準備をはじめる。
1578年3月13日(49歳)春日山城にて脳溢血(のういっけつ)で倒れ、人生の幕を閉じる

 

上杉謙信の人物エピソード

上杉謙信の人物エピソード

5度もあった川中島の戦い

川中島では、1553年から1564年までの間に5回も戦われています。
とくに有名なのが、上杉謙信と武田信玄が一騎打ちしたと言われる4回目の戦いです。

両軍ともに主力同士が激しくぶつかり合い、謙信みずから太刀をとり信玄に切りつけたと伝えられています。
上杉軍3400人、武田軍4600人の死者を出したこの戦いは、勝敗はつかずに終わりました。

謙信の信仰心

上杉謙信は、幼い頃、名僧・天室光育により林泉寺で厳しい禅の教えを受けました。
謙信の深い知識や厚い信仰心はこの頃に得たものだと言われています。

仏教の教えの中には、毘沙門天(びしゃもんてん)という強い武将が登場します。
毘沙門天は、悪とたたかい仏の世界を守っています。

謙信は、この毘沙門天のように、正義のためにたたかうことを自分の使命としていました。

彼は、春日山城の敷地内に”毘沙門堂”をつくり、出陣前には必ずこのお堂にこもり、毘沙門天に祈ってから出陣したといわれています。
軍旗には、毘沙門天の”毘”の文字を入れ、「私利私欲ではない正義の戦い」であることを表していました。

敵に塩を送る

ことわざにもなったエピソードです。
1567年、今川氏、北条氏が勢力の大きくなってきた武田氏を恐れ三者同盟を破り、武田軍に塩を売らないようにしたのです。

塩は人間にとって欠かせないものです。
海のない甲斐国では塩を生産することができず、武田軍は窮地に追い込まれました。
もしここで、謙信も軍勢を出して、越後から信濃をとおり甲斐へ運ばれていく塩を禁止してしまえば、武田軍はどうすることもできず降伏せざるを得なくなったでしょう。

しかし、謙信はその塩はこびをいっさい妨害しなかったのです。
塩が手に入らなければ信玄だけでなく、甲斐国のすべての住民が苦しみます。

正義を重んじる謙信は、正々堂々とした戦いによってではなく、塩止めという卑怯な手段で勝つことをいさぎよしとしなかったのです。

敵にも信用された謙信

「信玄と信長は心変わりしやすいが、謙信は約束を守る男だ。謙信の肌着をもらって、家臣たちの守り袋にしたい。」
謙信の義理堅い性格を評して、好敵手・北条氏康が言った言葉だそうです。

謙信の遺産

上杉謙信が49歳で亡くなったとき、その本拠地・春日山城には、合計27,000両余りもの黄金が遺されていました。
米価を基に現在の貨幣価値に換算すると、この遺産の額はなんと約40億5千万円にもなるそうです。

上杉謙信の家紋

上杉家の家紋「竹に飛び雀」

上杉家の家紋は、丸の内に雌雄2羽の雀が向か合っている「竹に飛び雀」です。
「上杉笹」とも呼ばれます。

謙信は、もとは長尾氏でしたが、32歳のころ上杉憲政から上杉家を譲り受けています。
そのときに上杉家家紋も一緒に受け取っています。

天皇家から下賜された家紋「五七桐」

天皇家から下賜された五七桐を花が咲いた図柄にアレンジして「上杉桐」としました。

謙信は、二度も上洛し天皇に謁見しています。
四方敵だらけのこの時代、国元をあけることになる上洛は非常に困難なことであり、また朝廷の権威もうわべだけのものとなっていました。

そんな情勢にもかかわらず、朝廷をたて2回も上洛をした謙信に対して、大親町天皇が喜び五七桐の家紋を下賜したと言われています。

上杉謙信の城

春日山城

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/上杉謙信

春日山城(かすがやまじょう)

春日山城は、上杉謙信が生まれた城です。
春日山(上越市)の山頂に位置し、南北朝時代に築城。

標高180mの山の地形を生かした、天然の要害を持つ難攻不落の城とされていました。
長尾為景によって大改修がほどこされ、長尾為景、長尾晴景、上杉謙信、上杉景勝と4代の居城となりました。
景勝が会津に移ったあと、越後を支配した堀氏は新しく福島城を築城。
それに伴い行政組織を福島城に移し、春日山城は廃城となりました。

栃尾城(とちおじょう)

謙信(15歳)の初陣「栃尾城の戦い」のときに居城としていた城で、1610年に堀氏の没落に伴い廃城。
新潟県長岡市栃尾にあり、現在では新潟県指定史跡となっています。
別名:舞鶴城、大野城
栃尾城跡のふもとにある秋葉公園には、上杉謙信の銅像が建立されています。

上杉謙信の刀

上杉謙信は、愛刀家としても知られています。
ここでは、代表とされる愛刀3振りをご紹介します。

無銘 一文字(号 山鳥毛)

上杉家の家宝とされている名刀、「無銘 一文字」
号(愛称)は、山鳥毛(さんちょうもう、やまとりげ、さんしょうもう)
※読みには諸説あり、「山焼毛(さんしょうもう)」と記される場合もあり。
刃長79cm、反り3.2cm、元幅3.5cm、先幅2.2cm

この刀は、もともと関東管領上杉家の家宝でした。
1556年10月、謙信が上州白井に出陣した際に、城主・長尾憲景から贈られています。
現在は個人所有(岡山県立博物館寄託)となっており、国宝に指定されています。

銘 一(号 姫鶴一文字)

鍔(つば)のない「合口拵(あいくちごしらえ」」という作りの名刀。
号(愛称)は、姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)
刃長71.5cm、反り2.1cm、拵は全長104.4cm

名前の由来として、磨上げ(刀身を短くすること)に出した際、その刀鍛冶の夢に「ツル」と名乗る姫君が現れ、磨上げしないよう懇願されたという説があります。
現在は、山形県米沢市が所有(米沢市上杉博物館蔵)しており、重要文化財に指定されています。

銘 吉光(号 五虎退)

天皇から拝領したといわれる短刀、「銘 吉光」
号(愛称)は、五虎退(ごこたい)
刃長25.2cm、反りはなし、鞘は33.6cm

謙信が足利義輝の要請をうけ1559年5月に上洛した際に、正親町天皇より拝領しました。
現在は、個人所有となっており、重要美術品に指定されています。
ときおり米沢市上杉博物館で展示されることもあるようです。

上杉謙信が行った偉業

正義を貫き通して、越後を統一

謙信は、義理と人情の厚い人でした。
弱い領主たちの味方ばかりして、戦いに勝利しても領土を奪わず、その態度を生涯つらぬきました。

この謙信の生き方は、強い武将と手をくみ、弱いものは容赦なく犠牲にしていくことが当たり前の戦国時代のなかで、大変な忍耐を要したと思われます。
そのような戦い方をしていけば、当然利益も少なく、実際そのために家臣の不信をも招いた時期もあったようです。

ですが、かれは強い信念のもと、広い越後国を守りぬき、武田信玄や北条氏康に指一本ふれさせませんでした。
そして、当時かなり荒廃していた越後を統一し、政治・経済的な安定をもたらしたのです。

上杉謙信の名言

上杉謙信の書状

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/上杉謙信

名言

  • 生を必するものは死し、死を必するものは生く。
  • 大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死に顧みず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つこれこそ武士の本意である。
  • 人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
  • 人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことを言ってはならぬ。
  • 戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。

辞世の句

“四十九年一睡の夢 一期の栄華一盃の酒”
四十九年の人生は一睡の夢のように思われる。人生の栄華は一盃の酒のように思われる、といった意味。

上杉謙信にゆかりのある寺院・神社・墓

林泉寺

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/上杉謙信

林泉寺

所在地:新潟県上越市中門前
長尾家の菩提寺で、謙信の供養塔(お墓)があります

春日山神社

所在地:新潟県上越市
春日山の中腹にあり、謙信を祀っています

上杉神社

所在地:山形県米沢市
米沢は、江戸時代に上杉家が治めた地域として、上杉家ゆかりの史跡が数多く残っています

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上杉謙信の子孫について

側室をもたない名のある武将は稀有だった戦国期において、謙信は一生妻をもちませんでした
そのため子どもはおらず、景勝・景虎を養子としていました

そのどちらを後継にするかを決めていなかったため、謙信の死後、上杉家の後継ぎをめぐって御館の乱が勃発
景勝が勝ち上杉家の当主となり、のちに米沢藩の初代藩主となりました。
ですが、この内乱によって、上杉家の勢力は大きく衰えることとなったのです。

参考文献

『図説学習 日本の歴史 6』(旺文社)

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『堂々日本人物史 3』(筑波常治/国土社)

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