明智光秀の生涯と人物像まとめ!名言・妻・子孫も解説

(明智光秀像・本徳寺所蔵、出展ウィキペディア

近畿周辺と尾張、美濃、越前など日本の中心地を支配した織田信長(おだのぶなが)は、天下統一のために敵対する国へ大軍を率いて向かう総司令官を5人任命しました。

方面軍司令官とも呼ばれた彼らは対上杉の柴田勝家(しばたかついえ)、対北条の滝川一益(たきがわいちます)、対毛利の羽柴秀吉(はしばひでよし)、対長宗我部の丹羽長秀(にわながひで)、そして但馬丹波平定後、山陰への出兵準備中であった明智光秀(あけちみつひで)です。

ところが織田家中では重臣中の重臣であった明智光秀は、主君・織田信長に対するクーデターを計画、これを実行に移し見事に成功するも、わずか11日後には羽柴秀吉との戦に敗れ百姓に討たれてしまいました。

今回は日本史上でも人気、知名度ともに高い武将でありながら、あらゆる面で謎の多い人物・明智光秀の正体に迫ってみました。

明智光秀の人物像の謎

本能寺の変という日本史上最も有名なクーデターを成功させ、わずかの期間ながら天下人の地位にのぼった明智光秀は、その誕生から織田信長の家臣になるまでの前半生は多くの謎に包まれています。

明智光秀の生年月日

明智光秀の誕生に関しては諸説があり、またどの説も裏付けが取れていないため正確な生年月日は不明です。

最も早い誕生が1516年(永正13年、当代記)、次が1528年(享禄元年、明智軍記)他にも1534年(天文3年)、1540年(天文9年)などもあります。

明智光秀が織田信長の家臣として天寿を全うしていれば数多くの文献が明智家に残され、彼の誕生からの記録が残されたでしょうが、主君殺しの敗者となってしまったため彼の記録はすべて抹殺されてしまったのです。

明智光秀の誕生の地

(明智城跡、出展ウィキペディア

一般的に明智光秀は現在の岐阜県可児市にあった明智城で生まれたと伝えられていますが、他にも岐阜県瑞浪市、同県大垣市など岐阜県内でも諸説あり、いまだその生誕の地は定まっていません。

また明智光秀の先代が美濃国主土岐氏と対立し、近江六角氏を頼った説から滋賀県彦根市の説もあり推計で6ヶ所がその候補地となっています。

明智光秀の人物評価

才知に長け、深慮遠望、沈着冷静で感情を表に出すことが少なく、織田家臣団の中でも浮いた存在だったと描かれる事が多い明智光秀の人物評価はどのようなものだったのでしょうか?

軍事面では近畿周辺の平定を織田信長に任され、石山本願寺攻め、槇島城の戦いなどでその才能を発揮し、明智軍単独では丹波国を平定、長篠合戦にも参戦しその才覚は織田信長から認められるものでした。

そして何よりも見事に織田信長を討ち取った本能寺の変は、明智光秀の軍事的手腕を最も発揮した戦でした。

明智光秀は行政手腕においても評価が高く、明智光秀が統治した坂本城下や福知山市や亀岡市では善政を行っていた証として、領民から慕われていた逸話がいくつも残されています。

亀岡市には明智光秀を偲ぶ亀岡光秀まつりがいまも行われ、福知山音頭には光秀を偲ぶ歌詞が綴られています。

ただ職務に忠実で真面目な性格の上に空気を読むのが下手なタイプだったため、織田家臣団の中には腹を割って話せる相手もいなかったようで、結局それが本能寺の変後の運命を決めてしまったようです。

また非常に冷徹なところも持ち合わせていたようで、当初は反対したと言われる比叡山焼き討ちでも実行部隊を率いては徹底した破壊、惨殺を行い、文字通りこれが評価され近江志賀郡に五万石を信長から与えられています。表情を表に出さず友人が少なかった事を除けば文武ともに優秀な武将だったようです。

(福知山城、出展ウィキペディア

明智光秀の最期

織田信長を京都で討ち取った明智光秀でしたが、備中高松で毛利と対峙していた羽柴秀吉は本能寺の変の報を聞くと、即座に毛利と和解し織田信長の弔い合戦を叫びながら一直線に京都へ舞い戻って来ました(中国大返し)。

この電撃的進軍で明智軍はほとんど迎撃準備も出来ずに、山崎の地で羽柴軍を迎え撃つ事になります。羽柴軍は本隊だけで2万、丹羽長秀始めとする友軍を合わせると4万にも膨らんだと言われており、対する明智軍は光秀直属軍のみで約1万5千程度でした。

1582年(天正10年)6月12日に両軍は天王山で対峙し、翌13日に局地的戦闘が開始されると戦線は徐々に拡大、その後は数に勝る羽柴軍が各方面から明智軍に襲いかかると明智軍は総崩れとなり、日没前にはほぼ合戦の雌雄は決しました。

勝竜寺城に退却した明智光秀は、体制を立て直すために本拠である坂本城を目指して城を脱出、京都伏見の小栗栖の藪(現在は明智籔)を数名の家臣と通過中に落武者狩りに遭遇し竹槍で刺されて落馬、家臣に介錯されて絶命したと伝えられています。

なお光秀の首は翌日発見者によって届けられ本能寺と粟田口にさらされました。これが世に言う明智光秀の三日天下です。

(山崎の合戦石碑、出展ウィキペディア

明智光秀の生涯年表

明智光秀の生誕に関しては、生年月日も誕生の地も特定されていないため割愛します。明智光秀が歴史的史料に登場した頃からの年表になります。

1556年(弘治2年)
長良川の戦い斎藤義龍(さいとうよしたつ)に敗れ美濃を逐われる。後に越前国の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕える。

1568年(永禄11年)
朝倉義景を頼ってきた足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の橋渡し役を担い、義昭上洛の伴に加わる。

1569年(永禄12年)
羽柴秀吉、丹羽長秀らとともに京都奉行を務め対立する義昭と信長の間を取り持つ。

1570年(元亀元年)
金ヶ崎の戦いで浅井朝倉軍に挟撃された織田軍の殿軍を羽柴秀吉とともに務め、退却戦を成功に導く。

1571年(元亀2年)
石山本願寺の挙兵に包囲軍として参戦、比叡山焼き討ちにも実行部隊として参加し、信長より武功を認められ近江国志賀郡5万石を与えられ坂本城を築城。

(坂本城石垣跡、出展ウィキペディア

1573年(元亀4年)
槇島城で足利義昭が挙兵、光秀らの参戦により鎮圧、足利義昭は追放され室町幕府滅亡

1575年(天正3年)
信長の推挙により朝廷から九州の名族鎮西九党のひとつ惟任(これとう)の姓を賜り、従五位下日向守に任じられ、この後は惟任日向守と呼ばれるようになる。長篠の合戦越前一向一揆討伐高屋城の戦いなど各地を転戦、丹波攻略戦開始。

1576年(天正4年)
天王寺の戦いで石山本願寺に追い詰められるも九死に一生を得る。このあと過労で倒れ休養、この年に正室・煕子(ひろこ)病死。

1577年(天正5年)
雑賀攻め信貴山城攻めに参加、丹波では亀山城を攻略、八上城を包囲。

1578年(天正6年)
播磨神吉城攻めに羽柴秀吉の与力として加わる。反旗を翻した荒木村重(あらきむらしげ)有岡城攻めにも参加。光秀の三女・玉子(たまこ、のちの細川ガラシャ)細川忠興(ほそかわただおき)が結婚。

1579年(天正7年)
八上城が陥落し丹波平定に成功、続いて細川藤孝(ほそかわふじたか)の協力で丹後の平定にも成功し、信長より丹波一国を加増され、志賀郡を併せて34万石の大名となる。

1582年(天正10年)
甲州征伐に出陣するも戦闘することなく武田氏は滅亡、安土城に招待された徳川家康(とくがわいえやす)の接待役を担当していたが、急遽羽柴秀吉の支援のために出陣命令が下る。

1582年(天正10年)6月2日
丹波亀山城を出陣した明智軍は、途中で進路を京都へ変更し本能寺に滞在する織田信長を急襲、二条御新造に立て籠った織田信忠(おだのぶただ)も討ち取る(本能寺の変)

1582年(天正10年)6月13日
天王山の麓の山崎の地で毛利攻めから引き返してきた羽柴秀吉と対峙、開戦するも兵力差を埋められず敗走、坂本へ退却途中に落武者狩りに遭遇し落命

明智光秀の謎と伝承

日本史の中で高い知名度を誇りながら、多くの謎に包まれた武将・明智光秀。ここではその謎や光秀にまつわる伝承などを紹介します。

本能寺の変の動機の謎

多くの歴史家が長い時間をかけ多くの資料を精査しながらも未だに解明されていない本能寺の変にのぞむ明智光秀の動機。

多くの家臣の前で信長から叱責され罵倒された悔しさ、八上城攻めで人質となった母親を犠牲にさせられた恨みなど信長に仕えてからの鬱積したものが行動に移させた怨恨説、室町幕府再興を狙う足利義昭や誠仁親王(さねひとしんのう)近衞前久(このえさきひさ)を代表とする朝廷勢力やキリスト教による日本支配を狙うイエズス会が光秀をけしかけた黒幕説、四国で光秀が肩入れしていた長宗我部の討伐開始や佐久間信盛(さくまのぶもり)林秀貞(はやしひでさだ)の追放を見て織田信長に対する怖さから暴挙に出た恐怖心説、そして純粋に天下を欲した野望説が唱えられています。

どれもこれも一長一短があり、また資料的な確証もないため未だに定説はありません。筆者は恐怖心や怨恨は軍事クーデターでなくても、信長を単純に暗殺するだけで可能なため根拠が薄いと考えており、兵を動かしての軍事クーデターを起こしたのであれば当然、光秀の野心に誰かが火を付けた野望黒幕説を推奨しています。

明智光秀は生きていた?

(天海像・輪王寺所蔵、出展ウィキペディア

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)は徳川家康の晩年、2代徳川秀忠(とくがわひでただ)、3代徳川家光(とくがわいえみつ)に仕えた天台宗の僧侶ですが、徳川幕府の権力の中枢にいながらもその素性や出生がはっきりしていません。

出生は蘆名氏の出身であるとか室町幕府11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)の末子などと諸説があり、その生年に関しても1536年(天文5年)が有力とされていますが他にも4つほど候補があるなど未だに定まっていません。

家康に仕えるまでも比叡山延暦寺や興福寺で修行していたとされているだけで裏付けは残っていません。

このように経歴がはっきりしないものが権力の頂点にいる徳川家康の側近になったことが大きな謎になっています。

このため大正時代にはこの南光坊天海が山崎の合戦を生き残った明智光秀であると言う説が登場し、徳川家康の側近となり自分を滅ぼした豊臣秀吉に復讐を遂げたという奇説が唱えられます。

 

この説を肉付けするように南光の墓所である日光に明智平と名付けられた場所が存在していること、3代家光、4代徳川家綱(とくがわいえつな)の乳母はともに明智光秀の旧家臣の娘がなっていること、天海の廟所・慈眼堂が明智光秀の旧領坂本に建てられたことがあげられています。

歴史学者でこの説を支持している人はいませんが、源義経(みなもとのよしつね)ジンギス・カンになった伝説と同じく歴史にロマンを求めた結果の奇説と言うところです。

謎の童謡・かごめかごめ

童謡・かごめかごめは、かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やるで始まる子供遊びの歌ですが、この歌詞の中に明智光秀に関する文言が含まれておると解釈する説があります。

歌詞の出だしに続く夜明けの晩に鶴と亀が統べったの部分の、鶴は敦賀、亀は亀岡を指していると考え、この2ヶ所は明智光秀が本能寺の変直前まで統治した場所であり、後ろの正面だあれ?の部分は明智光秀の出生地と言われる岐阜県可児市から日光東照宮を見ると真後ろになるところに日本で唯一、明智光秀の肖像画を所蔵する本徳寺が存在するため、この歌は明智光秀のことを唄ったのだと解釈しています。

その上に日光東照宮御宝塔の前に置かれている鶴と亀をこの歌に出てくる鶴と亀になぞらえ、鶴を空飛ぶ=天、かめは水中を泳ぐ=海と考え、鶴と亀を南光坊天海だと考えて明智光秀=南光坊天海の説の裏付けとしています。

かなりの無理のある解釈だと思われますが、今も昔も都市伝説は人々の想像を掻き立てる魅力を持っているようです。

(後ろの正面説明図、出展ウィキペディア

日本史上最高のクーデター、本能寺の変

(本能寺焼討之図・楊斎延一作、出展ウィキペディア

本能寺の変、序章

1582年(天正10年)6月2日早朝、京都の西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる広大な敷地を持つ本能寺を、水色桔梗の旗印を掲げる軍勢1万3千が囲みました。

本能寺に滞在していたのは京都を中心にした近畿地方から美濃、尾張、越前、信濃、甲斐などの広大な領地を平定し、天下統一に向け着実に勢力を拡大していた織田信長、この織田信長の命を狙って本能寺を包囲したのは、織田信長の家臣の中でも重用されていた惟任日向守こと明智光秀でした。

 

この日から遡ること約半月前の5月17日、毛利攻略を担当していた羽柴秀吉から信長のもとへ応援要請が到着しました。

 

この書状を受け取った信長はこれを契機に一気に毛利殲滅をはかろうと考え、織田直属軍に加え近畿に駐屯する明智軍を動員するため、徳川家康の安土来訪の饗応役であった明智光秀を饗応役から解任し出陣の命令を下します。

本能寺の変、明智光秀の場合

中国筋への出陣命令を受け取った明智光秀は、17日中に坂本城に帰還し準備を開始します。

 

すでに明智光秀の与力大名である細川藤孝・池田恒興(いけだつねおき)高山右近(たかやまうこん)中川清秀(なかがわきよひで)にも出陣の命令が出ており急ぎ出陣の準備をして、26日に坂本城を発してその日のうちに丹波亀山城へ入城、翌27日に愛宕権現に参拝、28日には威徳院西坊で連歌の会を開催、29日に備中へ向け鉄砲などの武器を運ぶ輸送隊を進発させました。

6月1日、1万3千の兵を率いて亀山城を進発した明智光秀は途中柴野で軍を勢揃いさせ、足利尊氏(あしかがたかうじ)が倒幕挙兵をした篠村八幡宮で明智秀満(あけちひでみつ)をはじめとする明智家重臣に、信長への謀反を打ち明け支持を取り付けたと伝えられています。

 

明智軍は沓掛まで来るとここで休息を取り兵糧を使用、京都への先発隊を出して行軍の機密漏洩を防ぎました。

6月2日、桂川に到着した明智光秀は全軍に対して、火縄の着火や草鞋の履き替えなどの命令を通達、京都への進軍を表明しました。映画やドラマで有名な「敵は本能寺にあり」はここで言われた言葉だと伝えられていますが、研究の結果どうやら史実ではないようです。

明智軍は斎藤利三(さいとうとしみつ)を先鋒として京都に入ると、2日午前4時頃本能寺を約3千の兵で包囲しました。

(愛宕神社社殿、出展ウィキペディア

本能寺の変、織田信長の場合

織田信長は19日に、徳川家康や近衞前久らを招いて総見寺で舞や能の舞台を鑑賞、20日には丹羽長秀以下4名を明智光秀の後任の徳川家康饗応役に任命し、21日には家康に大阪見物を勧め、丹羽長秀、津田信澄(つだのぶずみ)を案内役として大阪へ先発させました。

この日は信忠も上洛し妙覚寺に入り、このまま本能寺の変当日までここに逗留しました。29日に織田信長は留守居役に出陣準備を命じて小姓のみを連れて安土城を出発し本能寺へ入りました。

6月1日に近衞前久ら公家や僧侶ら40名を招いて茶会を開き、その後は囲碁などを見物しながらの酒宴となりしばらくして就寝、運命の日を迎えることとなりました。

(真書太閤記本能寺焼討之図・渡辺延一作、出展ウィキペディア

本能寺の変、結末

明智軍が本能寺へ攻め込んだとき織田側は当初、足軽同士の喧嘩程度に思っており明智軍が鉄砲を撃ち込み、門を打ち破って突入してくるのを見てそこで始めて襲撃を受けたことを知りました。

 

織田信長は注進に来た小姓の森蘭丸(もりらんまる)に誰の謀反かと問いただし、惟任日向守が軍勢ですとの答えを聞くとただ一言「是非もなし」と呟いたと言われています。

本能寺にいた織田勢は少なくて30人、多くても200人程度と考えられており多勢に無勢でほとんどのものが討ち取られ、弓や槍を手にして奮戦した織田信長も火災を起こした御殿の中で切腹したと伝えられています。午前8時ごろに戦いの目処がたつと、明智光秀は配下のものに織田信長の遺骸を探させましたが、これを発見することができず生死を確認することができませんでした。

 

このため、明智光秀が与力大名や織田家の家臣に援助を乞うたときに、ほとんどのものが協力を拒否したのには信長の生死が不明であったことも大きく影響したのです。

(現在の本能寺にある信長公廟所、出展ウィキペディア

本能寺の変、二条御新造攻防戦

本能寺の変が起こったとき、信長の嫡男・信忠は妙覚寺に宿泊しており、すぐに本能寺へ救援に向かおうとしました。

しかし、500名程度の信忠勢では無謀との家臣の進言を受け入れ、防備に優れた二条御新造へ移動しました。二条御新造に住んでいた誠仁親王や和仁王(かずひとおう、後の後陽成天皇)を明智との停戦交渉にて避難させると、信忠の手勢500名に京都駐留の織田家臣団1000名を加えた約1,500名で1万の明智軍を迎え撃ち、三度も門を開いて討って出て明智勢を撃退するなど奮戦しました。

 

しかし1時間を越える攻防の末、隣接する近衛邸の屋根から撃ち込まれる鉄砲や弓矢で多くの織田側将兵が討ち取られ、ついに明智軍は屋敷への突入に成功し勝敗は決しました。時を同じくして信忠は鎌田新介(かまたしんすけ)に介錯を命じて自刃しました。

(織田信忠像・総見寺蔵、出展ウィキペディア

明智光秀はターゲットとした主君・織田信長のみならず、嫡男・織田信忠までも確実に葬りましたが、その作戦の高い秘匿性と主君殺しのイメージ、信長の遺骸の未発見が仇となり、戦闘終了後に京都を抑え天下人になりながらも味方となる大名が出現せず、孤立無援のまま羽柴秀吉との戦いに向かうことになるのでした。

明智光秀の一族と子孫

乱世の戦国時代でありながら、身内や親族での争いがなく助け合いながら、時代を乗り切ろうとしていた明智光秀の一族をエピソードとともに記載しておきます。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)

明智氏から派生した妻木氏の出身で、光秀が不遇の時代を過ごした浪人時代や朝倉氏に身を寄せていた時に苦しい生活を支えた内助の功の女性です。

光秀が催した連歌会の費用を自信の黒髪を売ることで工面した話は逸話として残っており、松尾芭蕉(まつおばしょう)が門弟の妻に宛てて「月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ」と詠んでいます。

また光秀も結婚前に煕子が疱瘡にかかり、頬にその痕が残った事を全く気にすることなく妻として迎えたと伝えられており、二人の間に三男四女をもうけるほど夫婦仲は良かったようです。

煕子は1576年(天正4年)に病で死去、光秀が床に伏した時の看病疲れが原因とされています。

(西教寺にある煕子の墓所、出展ウィキペディア

明智光秀の嫡男・光慶(みつよし)

光秀同様に謎のベールに包まれている明智一族の中で、光秀の子供として名前が史料の中に明記されているのが嫡男・明智光慶(あけちみつよし)で、本能寺の変直前の愛宕百韻での句の作者の中と明智軍記の中にその名が表記されています。

 

しかしいつ生まれ初陣はいつだったのかなど経歴はほとんど不明で死去したのが1582年(天正10年)7月4日と記録されているだけです。ただこの死去の記録に関しても、本能寺の変後に亀山城で病死した説と坂本城で自害した2説が存在しているだけでなく、難を逃れて城を脱出し妙心寺や本徳寺の住職になった伝承も存在します。

光秀本人だけでなく、その息子も多くの謎を持った人物だったようです。

明智光秀の三女・玉(たま、ガラシャ夫人)

明智光秀の4人の娘は嫁いだ時には良き伴侶を得たと言える結婚だったのですが、その後に起こる悲劇的な結末は戦国時代の厳しさ酷さを物語っています。

長女は荒木村重の嫡男・荒木村次(あらきむらつぐ)に嫁ぎますが、村重が信長に謀反を起こしたときに離縁され実家に戻り、明智一族である明智秀満に再嫁したとされ、父・光秀の謀反により夫・秀満とともに坂本城で自害しています。

 

次女は明智家重臣で光秀の従兄弟にあたる明智光忠(あけちみつただ)に嫁ぎますが、山崎の合戦後に夫とともに自害、四女は織田信長の甥となる津田(織田)信澄に嫁ぎ織田家の連枝となりますが、信澄も本能寺の変後に明智光秀との共謀を疑われ丹羽長秀に討ち取られました。四女についてはこのあとどうなったかの資料は残っていません

 

そして三女は日本史上でも有名な悲劇のヒロインとして語られている細川ガラシャ夫人です。ガラシャ夫人は明智珠(玉)子(あけちたまこ)が本名でガラシャはキリスト教の洗礼名です。

1578年(天正6年)8月、織田信長の勧めで細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎます。嫡男・細川忠隆(ほそかわただたか)と長女が生まれるなど順調な結婚生活を送っていましたが、突如起こった本能寺の変の後には謀叛人の娘として、覇権を握った羽柴秀吉の取りなしによって忠興に許されるまで約2年間幽閉されました。

その後は伝え聞いたキリスト教に強く興味を持ちその教義に引かれていき、ついには改宗して洗礼を受けます。豊臣秀吉によるバテレン追放令などキリスト教弾圧によって忠興はガラシャにキリスト教を捨てるよう説得しますが、ガラシャはこれを断固拒否、離婚も考えますがキリスト教が離婚を否定していることもあって思い止まります。

1600年(慶長5年)、大阪で打倒徳川家康の旗をあげた石田三成(いしだみつなり)が細川家から人質を取ろうと屋敷を囲んだとき、キリスト教信者は自殺できないと言って家臣・小笠原秀清(おがさわらひできよ)介錯させその人生を閉じました。父親の謀叛によって人生を大きく狂わせた4人の娘たちも父親同様に壮絶な最期を遂げて行ったようです。

(細川ガラシャの墓・崇禅寺、出展ウィキペディア

明智光秀のその他の子孫

ここまでは明智光秀の子供は3男4女の説で記述して来ましたが、他にも6男7女の説があるなどまだまだ研究途上というのが現実です。

このため光秀の子孫に関しては確実なもののみ記述します。明智光秀の血は細川忠興に嫁いだ玉子(ガラシャ)の生んだ多羅(たら)と忠隆の血筋が後に天皇家に入り、仁考天皇、孝明天皇へと受け継がれ現在の天皇陛下にも受け継がれています

忠隆の血筋は新聞記者、政治家、評論家として活躍した細川隆元(ほそかわりゅうげん)・細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)は子孫に当たりますが、忠利の血筋を引いた熊本藩主は8代目で他家から養子を迎えたため光秀の血は受け継がれておらず、内閣総理大臣・細川護煕(ほそかわもりひろ)は光秀との血の繋がりはありません。

坂本龍馬の家紋が水色桔梗てあると言うことで明智光秀の子孫であると言うのは小説の中での話で、実際は違うと言うのが定説になっています。

(細川忠興像・永青文庫所蔵、出展ウィキペディア

明智光秀の家紋

(土岐桔梗紋、出展ウィキペディア

明智光秀が使用していた家紋と言えば映画やドラマで描かれた本能寺の変で写し出された水色桔梗です。

清和源氏の正統な流れを汲む名門の武家である土岐氏が使用していた家紋でその支流である明智氏もこの家紋を使用していました。土岐氏の氏族以外でも加藤清正(かとうきよまさ)脇坂安治(わきさかやすはる)など豊臣秀吉に仕えた武将も桔梗の旗を使用していたそうです。

明智光秀が残した名言

時は今、あめが下知る五月哉

本能寺の変の直前に山城国(現在の京都府)愛宕山で明智光秀が主催した連歌の会での光秀自身が詠んだ発句。時=土岐氏に繋がる明智のこと、あめが下知る=天が下る、すなわち光秀が織田信長を討って天下を取ると解釈できる意味深な句となっています。

 

仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。これをみれば、土地百姓は可愛いことなり

明智光秀が大名となり自身の領地の百姓が年貢をごまかしたことに対する光秀の思いを伝えた言葉です。仏(坊主や僧侶のこと)や武士が嘘をついても敬われたり褒められたりするのに、百姓が年貢をごまかすと罰せられてしまう。仏や武士がつく嘘に比べたらよほど百姓の嘘の方が他愛もなく可愛いものではないかという意味。

 

敵は本能寺にあり

この言葉は前述した通り、桂川で光秀が自身の軍勢を目の前にして発したと言われていますが、この言葉に関する史料は全く残っておらず、後世の創作だと言われています。ただ現在でも大きな目標に向かって自身の士気を高めたり、覚悟を決めるときの言葉としてこれからも使われていくことは間違いないと思います。

明智光秀のゆかりの場所

ここでは明智光秀ゆかりの場所を紹介したいと思いますが、主君織田信長に謀叛を起こした逆臣のため、その存在自体が豊臣秀吉によって葬られてしまい、多くは残っていません。そのなかでも明智光秀の足跡が色濃く残る場所を選びました。

明智光秀の居城・坂本城

(坂本城本丸跡石標、出展ウィキペディア

比叡山焼き討ちの後にこれまでの業績が認められ、近江国滋賀郡に織田家家臣ではじめての城持ち大名として領主となった明智光秀が建設した城が坂本城です。

城郭から船に乗り込み直接琵琶湖へ出て安土城へ向かえるなど、画期的な構造を持った城だったようです。本能寺の変の時に明智秀満の自刃により焼失し、丹羽長秀により再建されます。1586年(天正14年)に浅野長政(あさのながまさ)の大津城築城にあわせて廃城となりました。

明智光秀の供養塔・西教寺

(西教寺本堂、出展ウィキペディア

滋賀県大津市坂本にある天台宗系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として室町時代の1486年(文明18年)頃から文献に登場する西教寺は、1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちによって焼失しました。

 

しかし坂本の地を統治することとなった明智光秀は、西教寺復興に数多くの貢献を行っていたようで、戦死した部下の供養のために米を納めた寄進状が今も西教寺に現存しています。

このような明智光秀との関係から寺の境内には明智光秀の供養塔と、明智一族の墓が建てられています。

明智光秀の首塚・梅宮社

(明智光秀首塚・梅宮社、出展ウィキペディア

山崎の合戦で羽柴秀吉に敗退した明智光秀は、僅かな供回りだけを連れて戦場を離れ坂本城へ繋がる道を撤退していました。

 

しかし坂本城までの道はすでに落武者狩りが行われており、間道を抜けようとした光秀も襲われ槍によって致命傷を負い、家臣の溝尾茂朝(みぞおしげとも)に介錯させ生涯を閉じたと言われています。

 

光秀の首を坂本へ届けようとした溝尾でしたが、落武者狩りの執拗な追跡を振り切る事が出来ず、土を掘り光秀の首を埋めるとここで自害したと伝えられています(坂本まで逃げ帰り自害した説もある)。

 

光秀の首は土地の百姓によって織田信孝(おだのぶたか)の元へ届けられ、そのまま本能寺で晒し首にされたのちは、京都の粟田口(現在の京都府京都市東山区と左京区にまたがる地域)にて引き続き晒し首にされ、この後ここに首塚が作られました。

光秀の殺害場所と首に関しては諸説ありその真偽は未だに定まっていません。

映像、小説の中の明智光秀

逆臣として歴史に名を刻んだ明智光秀は近年まではドラマや映画で主役として扱われることはほとんどありませんでした。しかし、織田信長や豊臣秀吉と同世代を生き、僅か数日でもその手に天下を握った人物であるため、戦国時代を扱う作品では主役級の俳優が演じることも多い人物です。

小説の中の明智光秀

司馬遼太郎「国盗り物語」、藤沢周平「逆軍の旗」、南條範夫「桔梗の旗風」、早乙女貢「明智光秀」など歴史小説の大家と呼ばれる作家のほとんどが光秀を主役または主役級として扱った作品を世に出しています。

 

ただ1900年代に執筆されたものは従来の光秀の信長に対する憎しみやその所業に対する反発から謀叛に及ぶ解釈が多いようですが、2000年代に入ると天下取りを狙う野望説、黒幕が存在した陰謀説などを取り扱うものが増え、本能寺の変に対する解釈が変化していることが感じられます。

映像の中の明智光秀

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」は大河史上初めて明智光秀を主役に据えたドラマとなりました。

明智光秀には長谷川博己、織田信長は染谷将太、羽柴秀吉には佐々木蔵之介がキャスティングされており期待値も高く上々の好スタートを切ったのですが、主役級の女優の降板や新型コロナウィルスの影響で放送が延期になるなど波乱の大河と呼ばれています。

今回は明智光秀が主役ですが、過去の大河では準主役級として明智光秀が重要な役としてキャスティングされた大河ドラマも多くありました。

 

竹中直人が豊臣秀吉を演じた「秀吉」では村上弘明、岡田准一が黒田官兵衛を演じた「軍師官兵衛」では春風亭小朝、唐沢寿明と松嶋菜々子が前田利家とまつを演じた「利家とまつ」では萩原健一、他にも市村正親、鶴見辰吾、寺田農など個性的または実力派といわれる俳優が起用されていることからも、映像で描かれる明智光秀は戦国時代末期には欠かせない歴史上の重要人物だと言うことがわかります。

まとめ

日本の歴史上、最も見事に成功を納めたといえる軍事クーデター・本能寺の変。これを立案し実行に移した明智光秀なる武将は間違いなく類い稀なる軍事的才能を持っており、もっと評価されても良い人物なのかもしれません。

 

しかし、後世の歴史家は主君に背いた反逆者、数日程度で頂点から滑り落ちた凡庸な為政者のレッテルを貼り付け正当な評価が長く行われてきませんでした。

近年、謀叛の理由や本能寺の変に対する新しい解釈が相次ぎ発表され、多くの歴史研究家が明智光秀を再評価し脚光を浴びています。

これによって謎の多かった明智光秀の生涯の謎が1つでも多く解き明かされることを期待しています。

参考文献

太田浩司他「明智光秀ゆかりの地を歩く」サンライズ出版

堺屋太一「鬼と人と―信長と光秀」PHP文庫

藤田達生「本能寺の変 」講談社学術文庫

福知山光秀ミュージアム
https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/

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