紫式部の生涯と人物像!作品・性格・死因は?

紫式部は平安中期の女流作家であり歌人です。紫式部の執筆した「源氏物語」は世界的に知名度があり、日本文学史に多大なる影響を与えました。その知名度と功績とは裏腹に紫式部については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。

今回は紫式部の生涯や人物像について迫っていきます。

紫式部とは?

(紫式部 土佐光起画 出典:Wikipedia)

 

氏名・本名 不明
通称・あだ名 紫式部
出生日 不明(970〜978年頃)
出生地 京都
死没日 不明(1014〜1019年 1025年 1030年説あり)
死没地 不明
職業 女官
身長・体重 肉付きが良い太めの不美人という説あり
配偶者 藤原宣孝

 

紫式部の人生年表・生涯

紫式部の人生年表


(月岡芳年の『源氏物語』を執筆する紫式部 出典:Wikipedia)

970〜978年頃 紫式部誕生
980年頃 父・為時から漢学を学ぶ
996年 為時が越前国の受領となり、紫式部も越前に移り住む
998年 藤原宣孝と結婚
999年 藤原賢子を儲ける
1001年 藤原宣孝と死別し、源氏物語の執筆を開始
1006年 一条天皇の中宮・彰子の女官として仕える
1014年 公式に残る紫式部の最後の記録が存在する
1014〜1031年頃 紫式部死去

紫式部の生涯①


(月岡芳年の「古今姫鑑」出典:Wikipedia)

紫式部の父親は藤原為時で、彼は下級貴族ながら花山天皇に漢学を教えた人物です。紫式部は為時の才能を受け継いだと言えます。

紫式部の生没年や名前を記載した記録はありませんが、これは当時の女性の多くに言える事であり珍しい事ではありません。為時が結婚してから紫式部が誕生したと考えられ、生年は970〜978年頃とされます。

紫式部は幼少期から文学の才能を発揮します。惟規(兄が弟か不明)が父・為時から漢文の手ほどきを受けていた時、惟規が暗唱出来なかった漢文を紫式部がスラスラと読み上げた逸話が伝わります。これをみて為時は紫式部が「男だったなら…」と悔しがったそうです。

為時は長きにわたり出世から遠ざかっていたものの、一条天皇に贈った漢詩が高く評価されます。これを機会に998年に越前守に任命され、紫式部も越前に移り住みました。

紫式部の生涯②


(紫式部が仕えた藤原彰子 出典:Wikipedia)

越前にいる頃に紫式部は親子ほど年の離れた藤原宣孝から求婚のアプローチを受け、998年に結婚。翌年には藤原賢子を儲けています。しかし1001年に宣孝は死去。わずか3年の結婚生活でした。

親子ほど年の離れた2人でしたが、仲は決して悪くなかったようです。紫式部は寂しさを紛らわす為に「源氏物語」の執筆を開始します。

やがて紫式部は1006年、もしくは1007年から一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)の女官兼家庭教師役として仕えました。最初は煌びやかな宮中に対抗もあったものの、紫式部の才覚ぶりは評判となりました。

1008年に彰子が妊娠すると紫式部は道長から「宮中の様子」や「出産時の様子」を書き留めて欲しいと依頼を受けます。紫式部は1008年〜1010年の様々な諸事を「紫式部日記」に残し、こちらも源氏物語と同じく学術的にも価値の高いものとされています。

ちなみに紫式部日記の1008年の記載に「源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われた」とあり、その頃には源氏物語は完成していた可能性が高いです。その後も紫式部は彰子に1014年までは仕えた事が分かっています。

紫式部の死因と最期


(菊池容斎『前賢故実』に描かれた紫式部 出典:Wikipedia)

紫式部の死因や最期については分かっていません。紫式部の晩年の記録は残っていないものの「紫式部かもしれない」という記載はいくつか残っています。

藤原実資の日記・小右記の1014年6月25日の記載では「藤原資平が実資の代理で、皇太后・彰子を訪れた際に『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」というものがあります。彰子に仕えた女房=紫式部であるとして、これを紫式部の最後の記録とみなし、その後に没したという説が通説でした。

1016年には紫式部の父・為時が任期を残したまま出家しており、その理由を紫式部の死に結びつける説もあります。ちなみにその説を述べたのは与謝野晶子でした。

また1019年の小右記の記載に実資と相対した「女房」を紫式部とする説もあります。そして西本願寺本の『平兼盛集』巻末逸文にある「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」という散文の人物を紫式部に結びつけ、1019年に死去した説も有力です。

更に長命な説としては1025年、1031年というものもありますが、これらは少数派です。

紫式部の生没年は970〜978年と1014〜1031年と開きがある為、享年も36〜61歳と幅があります。また新たな研究や発見があると良いですね。

紫式部の性格と人物像エピソード


(紫式部が敬意を払った和泉式部 出典:Wikipedia)

知性をひけらかさない性格

紫式部は前述した通り幼少期から漢文をスラスラ読み上げるなど、教養と知性に溢れた人物です。ただ当時の宮中では「漢字は男が使い、ひらがなは女性が使う」という考えが一般的でした。漢字をスラスラ読み上げる女性は「知性をひけらかす」として、良い評判を得られなかったのです。

紫式部はそれを熟知しており「漢字を読めないフリをした」と日記に記しています。その事から紫式部は「目立つ事や、皆から悪く思われたくない」と考えていた事が分かります。

ただ紫式部が源氏物語の作者である事は皆が知っており、漢字が読める事はバレていた事でしょう。紫式部が彰子に漢籍を教えた事もあり、その知識と教養は皆から頼りにされていました。紫式部は内向型の秀才だった事が分かります。

紫式部日記から分かるもの

紫式部は紫式部日記の中で同僚女房の和泉式部・赤染衛門や、枕草子が有名になっていた清少納言など、多くの人達に対する人物評を書き記しました。

清少納言については「偉そうに威張っている人。頭が良いかのように漢字を書いているけれど、中身を見れば至らぬところが多い」と酷評。和泉式部については情事の奔放さに苦言を呈す等、目立たないように振舞っていた割には筆を走らせれば饒舌です(赤染衛門については尊敬の意を述べています)。

清少納言の枕草子は本人の性格も相まって「嬉し」「をかし」などのポジティブな言葉が多いのに対し、紫式部日記については「かなし」「わろし」などのネガティブな言葉が多いという事も判明しています。

紫式部の性格は内向型の秀才であると事に、鬱屈したものを抱えていた事が分かります。

紫式部の代表作品

源氏物語


(土佐光起による源氏物語画帖 出典:Wikipedia)

源氏物語は1008年〜1010年頃に執筆し終えたとされる紫式部の長編小説。主人公の光源氏を通し、恋愛、栄光と没落、政治的闘争を多角的な面から捉えた大作です。

紫式部が執筆したとされる原本や、原本を写本したものは見つかっていません。そもそも紫式部が物語を執筆している最中に他の人が内容を付け足したものが出回ったり、下書きを藤原道長が勝手に持ち去る等、非常に複雑な伝播経路を辿っています。その為「確実に平安時代に執筆されたもの」を断定するのは不可能とされます。

文字数は100万文字で400字詰め原稿用紙で2400枚。物語は70年余の経緯が書かれ、登場人物は500人を超えます。物語の秀逸さから 「古典の中の古典」と称されているのです。現代語訳や翻案作品も多く存在しているので、現在に生きる私達もその素晴らしい内容に触れる事も出来ます。

源氏物語にまつわる謎


(源氏物語絵巻 出典:Wikipedia)

現代に至るまで大きな影響を与えてきた源氏物語ですが、未だに多くの謎に包まれています。

・そもそも作者は紫式部なのか。
※通説では紫式部が源氏物語の作者だとされていますが、父・為時が大筋を書いた説、後半は大弐三位を書いた説などがあります。

・執筆期間はどれくらいなのか。
※源氏物語の完成時期やいつから書き始めたのかは分かっていません。

・源氏物語を執筆した本当の理由は?
※通説では藤原宣孝が亡くなった寂しさを紛らわす為とされますが、藤原家により左遷された源高明の鎮魂の為という説もあります。

その他にも本当の巻数や主題テーマ、現在の内容に至った過程など、不明な点が多々あります。源氏物語は内容だけでなく、日本史に横たわる非常に大きな謎を持った存在なのです。

紫式部日記

1008年から1010年までの宮中の諸事や人間模様が紫式部の視点から書かれた日記です。源氏物語の作者が紫式部であるという根拠は紫式部日記の中にあります。

藤原公任が紫式部の事を「源氏の物語の若紫」と呼んだ、一条天皇が「源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいる」などの記載です。源氏物語が執筆された状況を断片的に知る事も出来ますし、当時の貴族の生活もうかがい知る事が出来るのです。

更に前述した清少納言への批判など、紫式部の鬱屈した性格を知る事も出来ます。紫式部の人物像について知りたい人は紫式部日記も読む事をオススメします。

紫式部集

紫式部は和歌も堪能で、百人一首にも伝わっています。紫式部集は紫式部の和歌を集めたもの。前半生の和歌は人生に肯定感があり明るいものが多いですが、後半生になると辛いものが多いとされます。和歌には紫式部の内面が深く現れていると言えるのです。

紫式部の逸話と凄さ


(紫式部はお札にも選ばれた 出典:Wikipedia)

圧倒的な知名度

日本の文学史において源氏物語の影響力は非常に大きく、古典中の古典と呼ばれます。源氏物語以前の作品は「前期物語」、源氏物語以降の作品は「後期物語」と区分する場合もあります。源氏物語以降の「王朝」を舞台にした作品は、大半が源氏物語の影響を受けているのです。

ちなみに源氏物語を「世界最古の長篇小説」と評する事もありますが、こちらについては古代ラテン文字の「黄金のロバ」や
ペトロニウスの「サチュリコン」などの長編作品もある為、一概にそう位置付けする事は出来ません。

源氏物語は全20ヶ国語で翻訳されており、ドナルド・キーンやマルグリット・ユルスナールなど、影響を受けた外国人も多いです。

源氏物語が影響を与えたのは文学だけではありません。平安時代末期には源氏物語を画題とした「源氏物語絵巻」が製作され、屏風や襖など、様々な分野に源氏物語の雅な世界は反映されています。

紫式部の本名は?

紫式部の本名は今のところ不明であり、今後も判明する可能性は低いと言えます。ただ藤原香子という説も浮上しており、そらに対する反証もありません。

ちなみに紫式部という名前は現在の私達が呼ぶあだ名であり、当時からそう呼ばれたわけではないのです。紫式部の紫は、源氏物語に登場する光源氏の妻・紫の上がもとになっています。

紫式部は地獄に堕ちた?

現在に至るまで大きな影響を与えた紫式部ですが、仏教の影響が強かった鎌倉時代の評価はあまり高くありませんでした。仏教の世界が至高とされた鎌倉時代は「創作という嘘を広める事」が罪深いとされていたからです。

鎌倉時代中期の説話集『今物語』によると「紫式部は源氏物語という嘘を広めて心を惑わせた為に、地獄に堕ちた」と語られています。更に源氏物語のファンも地獄に堕ちるとされており、その罪を償う為に出家する人もいたほどです。

源氏物語の性的な表現は戦前にも問題になりました。明治以降はキリスト教的な価値観も日本に導入され、源氏物語は批判的な対象に見られた事もありました。戦後になりキリスト教からの脱却を図る「性の解放運動」が起こると、ようやく源氏物語は再評価されるようになったのです。

紫式部は天国にいるのか地獄にいるのか、それは分かりません。時代が持つ価値観により紫式部は天国や地獄を行き来しているとも言えるのです。

紫式部の名言


(紫式部歌碑 出典:Wikipedia)

見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦
夫・宣孝が死去した時に詠んだ歌です。

意味は「夫が火葬により煙となった夜から、塩釜を身近に思う」というもの。塩釜とは現在の宮城県塩竈で、焼き塩の産地です。古くから塩は身体を清める為に使われており、塩と地名を掛け合わせたものです。紫式部が知性のある女性だと分かる和歌ですね。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

言わずと知れた源氏物語の冒頭文。現代語訳としては「それほど身分が高くないのに、帝から寵愛を受けていた女性がいました」というところでしょうか。私たちを魅了し続ける源氏物語はここから始まったのです。

紫式部の家系図・子孫


(藤原北家の家紋 出典:Wikipedia)

紫式部の父親は藤原為時といい、藤原北家良門流の出身です。この家柄は官位は高くないものの、三十六歌仙額に選ばれた藤原兼輔を輩出するなど、文学面で才能を発揮した者が多くいました。為時もまた花山天皇に漢学を教えた事が分かっています。

紫式部は998年に又従兄妹であり20歳も歳の離れた山城守・藤原宣孝と婚姻。わずか3年程の結婚生活ですが、紫式部に与えた影響は大きかったようです。

翌年には最愛の娘・藤原賢子(大弐三位)が生まれています。

藤原賢子(大弐三位)

藤原賢子は999年に誕生し、1017年に紫式部の跡を継いで彰子の女房として出仕。後に後冷泉天皇の乳母に任命されています。百人一首にも名を連ねており、恋愛の駆け引きを歌った和歌を多く残しました。

1082年頃に亡くなったとされ、当時としてはかなり長寿だった事が分かっています。

紫式部の子孫は今も続いているの?

紫式部の血筋は現在にも続いています。その中には私達がよく知っている人もいるのです。

賢子は藤原道兼の次男・兼隆と結婚して一女を儲けた他、高階為家と一男一女を儲けています。このうち息子である高階為家は為賢・為章という息子と、二人の娘を儲けました。この子供たちは現在の皇室、更に平家と繋がりがあります。

為高の子孫


(土御門天皇 出典:Wikipedia)

このうち為賢は女子を産み、その女子は藤原能兼と結婚。
範兼という息子を儲けており、彼は範子という女子を含めて多数の子孫を残しました。範子は土御門天皇の外祖母にあたる人物であり、土御門天皇は今上天皇の直系の子孫になるのです。

源家実室の子孫

娘のうち一人は源家実との間に息子を儲け、その息子は高階家の養子として高階基章と名乗りました。その娘は平清盛と結婚し、清盛の嫡男である平重盛を産んでいます。つまり紫式部の血筋は平家に行き着くのです。

紫式部のゆかりの地

廬山寺


(廬山寺にある源氏庭 出典:Wikipedia)

紫式部の邸宅跡とされている場所です。この地で紫式部は結婚生活を送り、源氏物語や紫式部日記を執筆したとされています。

境内には「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影」という歌碑があり、こちらは紫式部を代表する和歌ですね。

寺内には源氏庭があり、6月から9月にかけて青紫の花が見頃を迎えます。気になる方は訪れてみましょう。

住所:京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町397

紫式部墓所

紫式部のお墓は寺や神社には存在せず、島津製作所という工場の敷地内という少々変わったところにあります。この地は元々は雲林院という寺院があった場所であり、晩年の紫式部が過ごしたとされる場所です。

ちなみに紫式部の墓の隣には小野篁という平安時代の貴族の墓も建てられています。彼は生前から「あの世とこの世を行き来した」と言われる人物です。彼のお墓が紫式部のお墓の隣に建てられたのは、紫式部を地獄から救い出す為だったとされます。

小野篁のおかげで紫式部はきっと地獄から天国に移る事が出来たのではないでしょうか。目立たないところにあるお墓ですが、興味がある人は立ち寄ってみましょう。

住所:京都市北区堀川通北大路下ル西側紫野西御所田町

紫式部の関連人物

清少納言


(清少納言 出典:Wikipedia)

清少納言は枕草子を執筆した女流作家であり、しばし紫式部のライバルだと言われています。紫式部日記で紫式部が清少納言を批判した事もお伝えした通りです。ただ両者に面識があったのかは分かりません。

清少納言は993年から一条天皇の妃・藤原定子に仕えていたものの、定子が1001年に亡くなると宮仕えを辞めてしまいます。紫式部は1006年から一条天皇の妃・藤原彰子に仕えており、2人が同じ時期に働いていた記録は残ってりません。

ちなみに紫式部が仕えていた藤原彰子が一条天皇の妃になるのは1000年の事。1000〜1001年の時期は天皇に妃が2人いる特別な事態で、一帝二后と呼ばれます。これは藤原道長が天皇に取り入る為に画策したものとされます。

清少納言はおとなしい紫式部と比べ、活気のある女性。清少納言が仕えていた頃の宮中のサロンな活気に溢れていました。やがて清少納言が宮中を去り、紫式部が宮中に仕え始めると、貴族達から「清少納言がいた頃のサロンを懐かしむ声」があったとされます。

紫式部は内に強い闘志を秘めた女性であり、清少納言をライバル視したのはある意味で必然の事だったと言えますね。

 

清少納言の生涯と人物像まとめ!枕草子や性格・死因も解説

藤原道長


(藤原道長 出典:Wikipedia)

藤原道長は摂関政治で天皇家の実権を握り、栄華を極めた人物です。藤原道長は自身の長女・彰子を一条天皇の妃としています。一条天皇から彰子が寵愛を受けるには優れた教養が必要であり、その大役として紫式部を藤原道長は選んだのでした。

道長は源氏物語の熱心な愛読者であると共に、貴重な紙などを提供するスポンサーでもあったのです。一説では光源氏のモデルは藤原道長とも言われています。道長にとって紫式部は信頼できる彰子の家庭教師であり、紫式部にとっては道長は貴族社会における大きな後ろ盾だったのです。

日本の系図が掲載された「尊卑分脈」では紫式部は「藤原道長の妾」と記述があり、一説では紫式部は道長の愛人だったとされます。ただこの記載は後世になり追加されたものであり、事実ではないという意見が一般的です。

これは紫式部日記で「紫式部が藤原道長からの誘いをはぐらかした」という記載がもとになっています。ただ日記では「その後」についての記載はない為、愛人だったのか、そうではなかったのかは謎のままです。

更に言えば紫式部は1006〜1007年に道長の誘いで宮中入りしたものの、それより前から接点があったという説もあります。それは987年に行われた藤原道長と源倫子の結婚の際に、紫式部が倫子付きの女房として出仕したというもの。

紫式部日記からは道長や倫子の紫式部に対する信頼感や配慮は、新参者とは思えないものが感じられます。彰子の家庭教師に紫式部が選ばれたのも、事前に面識があったと考えれば合点がいきます。道長と紫式部の関係性については新たな研究結果が待たれるところですね。

紫式部の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

・人生はあはれなり… 紫式部日記
紫式部日記を漫画にしたもの。紫式部の感性や性格は現在に生きる私達にも通ずるものがあります。紫式部を身近に感じる作品ではあるものの、当漫画には紫式部日記の原文などは掲載されていません。原文と本作品が合わさる事で紫式部の魅力が更に伝わるのではないでしょうか。

・源氏物語の世界
源氏物語は壮大な作品であると共に、平安時代の宮中のしきたり等についても学べる作品です。本書は源氏物語の持つ謎を独自の切り口から考察しており、源氏物語に対する新たな理解も深まる内容となっています。

・紫式部ひとり語り

本作品は紫式部の生涯や実像に迫った作品ですが、特筆すべきは紫式部が書籍の「語り」である点です。紫式部について深く知りたいけど、難解な学術書や新書を読むのは大変という人には丁度良い作品と言えます。

様々な文献に裏付けされた内容になっており、紫式部についてより深く学ぶ上でもオススメの一冊です。

おすすめの動画

こちらは歴史縛りファンクネスバンドである「レキシ」による紫式部をテーマにした楽曲です。

おすすめの映画

・源氏物語 千年の謎
源氏物語が織りなす架空の世界、紫式部が生きる現実の世界。それぞれの世界に起こる出来事を同時進行で描いていく作品です。平安時代独特の雅な世界と、その奥底に存在する殺伐とした政略劇。それぞれを世界観を残しつつ再現した作品だと思われます。

源氏物語を2時間の映画でまとめる事は出来ません。源氏物語の映像化を望んでいた人にすると、少々物足りなさを感じかもしれませんが、それを差し引いても平安時代独特の世界観はしっかりと表現できていたと思います。

紫式部についてのまとめ

今回は紫式部の生涯について解説しました。紫式部はこの時代を代表する才女です。彼女の手によって生み出された源氏物語は、日本の文学史に非常に大きな影響を与えました。

紫式部は生没年はおろか、名前やその晩年についても謎に包まれています。ただその性格や家族背景については少しずつ明かされているのも事実です。そのミステリアスな要素こそが、紫式部や源氏物語の魅力を更に際立てているのかもしれません。

今回の記事を通じて、紫式部について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/紫式部
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/源氏物語

おすすめの記事