吉田茂は戦前に外交官を務め、戦後に長期政権を築いた人物です。戦後はGHQと協力しながら、現在にもつながる日米関係の構築に尽力しました。その姿勢に賛否はあるものの、「吉田の方針」が現在の日本の発展に大きな影響を与えた事は間違いありません。
吉田茂は教科書でも必ず習う人物ですが、その生涯や人物像については分からない人も多いのではないでしょうか。今回は吉田茂の実像について迫っていきます。
目次
吉田茂とは?
氏名 | 吉田茂 |
---|---|
通称・あだ名 | ワンマン宰相 |
出生日 | 1878年9月22日 |
出生地 | 東京神田駿河台(現東京都千代田区) |
死没日 | 1967年10月20日 |
死没地 | 神奈川県中郡大磯町 |
血液型 | O型 |
職業 | 内閣総理大臣・外交官 |
身長 | 155cm |
体重 | 不明 |
配偶者 | 吉田雪子(先妻)・吉田喜代(後妻) |
座右の銘 | 呑舟の魚は枝流に泳がず |
吉田茂の人生年表・生涯
吉田茂の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1878年 | 誕生し、生後まもなく吉田三郎の養子となる |
1889年 | 吉田三郎の死に伴い、莫大な遺産を手にする |
1906年 | 外交官になる中国を中心に各地を赴任 |
1919年 | パリ講和会議の随員となる |
1928年 | 田中義一内閣の外務次官に就任 |
1934年 | 外務査察使として欧米をまわる |
1939年 | 待命大使となり外交の一線から退く |
1945年 | 近衛上奏文の起草に関与し、拘束される |
1946年 | 日本自由党の総裁となり総理大臣に就任 |
1947年 | 衆議院議員となる |
1948年 | 2度目の総理大臣に就任(合計5回の内閣を組閣) |
1951年 | サンフランシスコ平和条約を締結 |
1954年 | 総理大臣を辞任し、翌日に自由党総裁を辞任 |
1964年 | 大勲位菊花大綬章を受章 |
1967年 | 大磯の自邸にて死去(享年90歳) |
吉田茂の生涯①
吉田茂は1878年9月22日に高知県宿毛出身の自由民権運動に身を投じる竹内綱の五男として生まれます。生後まもなく、福井県出身の実業家である吉田健三の養子になり、それ以降は吉田姓を名乗りました。吉田は若くして吉田健三の莫大な遺産を相続し、その資金をもとに様々な学校に進学して見識を深めます。
慶應義塾や学習院を経て、最終的に1906年7月に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。9月に外交官試験に合格して外交官となりました。当時の外交官は欧米勤務が花形とされたものの、吉田茂は中国勤務が主でした。
1928年には田中義一内閣の外務次官に就任。対中国政策では時に強硬的な案を述べてもいます。ただあくまでも吉田茂は「日本はアメリカやイギリスと協調的な立場であるべき」と考えていました。
吉田茂の生涯②
やがて1931年の満州事変、1937年の日中戦争を経て国内では戦時体制が形作られていきます。国内では日独伊三国同盟を締結して日中戦争を優位に進める声が高まりますが、これはドイツと敵対するイギリスを敵に回し、更にイギリスと仲の良いアメリカからの印象もよくありません。吉田茂は日独伊三国同盟の締結に強硬に反対しています。
更に太平洋戦争開戦間際には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外務大臣と面会して開戦回避を図っています。これらの行動も虚しく日本はアメリカと戦争を始めたのです。
戦争中も吉田茂は和平工作に従事した他、1945年3月には近衛文麿元総理大臣と昭和天皇に和平を進める事を上奏した「近衛上奏文」の起草に関与しています。吉田茂は憲兵隊に拘束され、40日後に釈放されています。
これらの吉田茂の戦時中の行動は戦争が終わりを迎えた時に、「反軍部」の勲章となりました。戦後にGHQが日本の統治を始めた時、吉田茂はGHQから信頼を得るようになったのです。
吉田茂の生涯③
1945年8月15日に日本は終戦をむかえ、9月に吉田茂は東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任します。その後11月に発足した幣原喜重郎内閣でも外務大臣を留任。当時の日本は外交政策などの全ての政策はGHQの影響下にあり、外務大臣はGHQと内閣の橋渡し的な役割が強かったのです。
吉田茂はGHQの総司令官・ダグラス・マッカーサーと親密な関係を築きました。1946年5月に総理大臣を務めるはずだった自由党総裁・鳩山一郎が公職追放で政界から退いた時、吉田茂は鳩山一郎の代わりに自由党の総裁に就任。そのまま第一次吉田内閣を発足させます。
1947年4月には日本国憲法に先立って衆議院の総選挙が行われ、吉田茂は高知県から立候補。衆議院議員となりました。この時の選挙では片山哲率いる日本社会党が第一党になった為、吉田茂率いる自由党や野党に下りました。
やがて片山内閣、芦田内閣が短命政権に終わると、吉田茂は1948年10月に第二次吉田茂内閣を発足。これ以降、吉田茂は1954年12月17日の第五次吉田茂内閣まで長期政権を築くのです。
吉田茂が内閣を発足していた1951年9月8日に日本は連合国と「サンフランシスコ平和条約」を締結し、日本はGHQの支配下から離れて独立を果たしています。
吉田茂の生涯④
吉田茂は1954年12月17日に総理大臣を退いた後も、1963年まで衆議院議員を務めていました。政界を引退した後は悠々自適な生活を送りますが、吉田茂が住んでいた大磯の邸宅には政治家が出入りし、政界の実力者として隠然たる影響力を持ち続けていたのです。
1964年には長年の功績が認められ、大勲位菊花大綬章を受章。 1965年には88歳となり、昭和天皇から天皇より鳩杖を賜っています。
吉田茂の死因と最期の言葉
老衰による死
吉田茂の死因は心筋梗塞に伴う老衰です。吉田茂は1967年8月末に心筋梗塞を発症するものの、この時は一枚を取り留めました。来客に「ご臨終に間に合いましたね」と冗談をいう事もありました。その後は療養する事が増えていきます。
死の前日の10月19日に吉田茂は娘の和子に「富士山が見たい」と呟き、椅子に座らせてもらい、1日中富士山を眺めていました。大磯の邸宅からは富士山がよく見えました。それが記録に残る吉田茂の最期の言葉になったのです。
10月20日正午ごろ、吉田茂の容体は急変。そのまま帰らぬ人となりました(享年90歳)。急な事であり、その時は医師と看護師しか居合せませんでした。ただ吉田茂の表情は「機嫌のよい時の目もと」だったようで、その死が穏やかだった事は間違いありません。
国葬が執り行われる
10月31日には戦後初の国葬が日本武道館で行われています。1926年の時点で「国葬令」は新憲法の施行によって失効しており、国葬を決めたのは、時の内閣総理大臣・佐藤栄作の主導によるものでした。野党はこれを批判したものの、国民の大多数はこれを容認。
総理大臣を辞任してから10年以上が経過しても、吉田茂に対する国民の気持ちは色褪せる事はなかったのです。
吉田茂の功績
サンフランシスコ平和条約の締結
前述した通り吉田茂は1951年に連合国48ヵ国と、日本国との平和条約を締結しています。この条約の発効に伴い、日本は連合国の支配下から離れて独立を果たしたのです。
その一方、同日に吉田茂は日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約にも署名しています。これは日本が独立後もアメリカ軍が日本に駐留する事を認めた条約でした。吉田茂は「日本は軍費ではなく経済発展にお金を使うべき」と考えて、この条約を締結しています。
結果的に日本は驚異的な速度で戦後復興を遂げました。現在の日本の経済発展があるのも吉田茂のおかげなのです。
一方では日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約には、アメリカが日本に対する防衛義務は明言されていないなど、極めて不平等な一面もありました。この条約の改正にあたり、1960年には安保闘争が起きています。吉田茂の判断が功績だったのか、日本の従属支配を形作ったのか、議論も分かれているのです。
戦後復興に尽力する
吉田茂は6年にわたり総理大臣を務めており、その間には様々な法案を制定しました。ざっと挙げるだけでも以下の通りです。
年 | 法案 |
---|---|
1946年 | 労働関係調整法、日本国憲法の公布 |
1947年 | 教育基本法、学校教育法、労働基準法の公布 |
1949年 | 労働組合法の公布 |
1950年 | 公職選挙法、生活保護法、住宅金融公庫法、地方公務員法の公布 |
1951年 | 結核予防法・覚せい剤取締法の公布 |
1952年 | 破壊活動防止法の公布 |
1953年 | 麻薬及び向精神薬取締法の公布 |
1954年 | 厚生年金保険法、警察法、自衛隊法&防衛庁設置法の公布 |
戦後の日本は高度経済成長だけでなく、様々な政策が同時進行で進められていきました。これらの法案を見るだけで吉田茂の偉大さが分かるのではないでしょうか。
吉田茂の性格と人物像エピソード
ワンマン宰相
吉田茂は癇癪持ちの頑固者として知られています。鳩山一郎の代わりに総理大臣に就任した際も、多くの腹心を自由党に入閣させており、その政治姿勢は「ワンマン宰相」と評されていました。
吉田茂は金銭的な余裕があった事から、政治の世界でも「したくない事はしない」「やるべき事は反対されてもする」という姿勢をとっていました。戦時中に国民が開戦に沸く中で、反戦活動に身を投じていたのは、自らの信念に忠実だったからに他なりません。
口の旨さは天下一品
吉田茂を語る上で欠かせないのが、ユーモアのある言い回しです。何かを追及されても得意の言い回しで煙に巻いていました。
1916年に寺内正毅総理大臣が吉田茂を秘書官に要請した時に、吉田茂は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と返答しています。
晩年に至るまで吉田茂は元気そのもので、「健康の秘訣でもあるのですか」と質問した時、吉田茂は「それは君、人を食っているのさ」と返答しています。これほどのクセモノだったからこそ、吉田茂は戦後の日本で長期政権を築く事が出来たのです。
吉田茂の逸話と凄さ
マッカーサーと親密な関係を築く
吉田茂は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と考えており、卑屈になる事なく「よき敗者」としてGHQの総司令官・マッカーサーと親密な関係を築く事に尽力しています。
吉田茂の凄い点はマッカーサーに物怖じする事なく、得意のユーモアのある発言でマッカーサーと接した点でした。吉田茂はマッカーサーと初めて会った日に、執務室をウロウロと歩き回るマッカーサーを見て「まるで檻の中のライオン」と表現。マッカーサーはそれにニヤリと笑い、良い関係を築くに至ったのです。
また吉田茂は「450万tの食糧を輸入しないと国民が餓死する」として、GHQに食料の輸入を求めるものの、アメリカは70万tしか輸入できません。結局餓死者は出ず、マッカーサーは吉田茂に立腹するものの、吉田茂は「もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません」と切り返しています。
マッカーサーに対して、このような返答が出来たのは当時の日本では吉田茂しかいなかったでしょう。
吉田茂の名言
日本が敗戦を迎えた時、吉田茂は外務大臣や総理大臣を歴任し、日本の舵取りを担う立場になります。戦前の親米英派の外交官としての経験を生かし、アメリカと協調路線をとる事で日本の発展に尽力してきました。この名言には吉田茂の外交に対する思いが込められているのです。
自衛隊が国民から歓迎され
ちやほやされる事態とは、
外国から攻撃されて国家存亡の時とか、
災害派遣の時とか、
国民が困窮し国家が混乱に直面している
時だけなのだ。
言葉を換えれば、
君達が日陰者である時のほうが、
国民や日本は幸せなのだ。
どうか、耐えてもらいたい。
1957年2月に防衛大学校の第1回卒業式が行われた時に、吉田茂が述べたスピーチの一部分です。災害や紛争など、国家の危機的な状況はいつ訪れてもおかしくありません。それでも私たちが安心して今を生きる方が出来るのは、自衛隊のお陰です。
このスピーチは自衛隊に対する労いと、平和を望む吉田茂の心情が滲み出てると言えますね。
吉田茂の家系図・子孫
吉田茂と3人の父
吉田茂の人格形成に大きな影響を与えたのが、実父、養父・岳父の3人の父だと言われています。
竹内綱(1840年〜1922年)
年表部分でも解説しましたが、吉田茂はもともと吉田家の人間ではありません。高知県宿毛出身で自由民権運動に身を投じた竹内綱の五男にあたります。ただ竹内綱には多くの子供がいた為に、吉田茂は養子に送り出されたのでした。
2人はそれほど接点はありませんでしたが、吉田茂が外交官になり領事館補として奉天に赴任する時、竹内綱は関兼光の名刀を贈っています。この刀には「誘惑に陥らぬよう、これで俗念を断ち切れ」という意味があったのです。
また竹内綱は衆議院議員としての実績がありました。吉田茂が戦後に衆議院議員として立候補した時、その立候補先は竹内綱が地盤を持っていた高知1区でした。吉田茂は竹内綱から議員としての資質や外交官としての矜持を学んだと言えるのです。
吉田健三(1849年〜1889年)
吉田健三は福井藩出身の実業家で、竹内綱をはじめとした自由民権運動の活動家を資金面から協力し続けた人物です。実子には恵まれず、吉田健三は竹内綱の五男である吉田茂を養子にしたのでした。
吉田健三は1889年に40歳の若さで死去し、養子だった吉田茂さ50万円(現在の30億円)に相当する遺産を相続。吉田茂は家や進学、様々な費用を遺産から賄っています。吉田茂の貴族的な雰囲気はこの金銭的な余裕も影響していたのです。
牧野伸顕(1861年〜1949年)
牧野伸顕は大久保利通の次男にあたる人物で、吉田茂の正妻・雪子の父親です。つまり牧野伸顕は吉田茂の岳父にあたります。牧野伸顕は長年にわたり天皇の側近である内大臣を務めた親米英派のリベラルな人物で、政界にも大きな影響力を持っていました。
吉田茂は牧野伸顕の政治姿勢や親米英派の思想に感化されており、戦後もたびたび助言を受けています。パリ講和会議に参加出来たのも牧野伸顕の斡旋によるところが大きく、牧野伸顕が吉田茂に与えた影響は計り知れません。
竹内綱、吉田健三、牧野伸顕という3人の父がいたからこそ、吉田茂という人物像が出来上がったのです。
吉田茂の妻
雪子(1888年〜1941年)
吉田茂の正妻は前述した通り、牧野伸顕の長女である牧野雪子です。2人が結婚したのは1909年の事で、吉田茂が30歳、雪子が20歳の時でした。雪子は熱心なカトリック教徒であり、清泉寮学院の開設に尽力しています。
2人の間には2男3女が生まれたものの、1941年5月に乳癌が見つかり、その年の10月に雪子は死去しています。
喜代(1904年〜2003年)
吉田茂の後妻です。喜代は新橋の芸者で「小りん」という源氏名を持っていました。実は雪子と吉田茂の仲はあまり良くなく、喜代と吉田茂は長らく愛人関係にあったのです。1941年に雪子が亡くなった後、1944年に2人は結婚しています。2人の間には子供はいません。
吉田茂が総理大臣になるのは戦後の事。喜代は総理大臣夫人としての責務を果たし続けていました。喜代は100歳の長寿を保ち、2003年まで存命でした。
吉田茂の子孫
吉田茂は雪子との間に2男3女を儲けています。そのうち次女の江子は夭折し、長女の桜子は外交官の吉田寛と結婚するものの、若くして亡くなっています。
長男の吉田健一(1912年〜1977年)
文芸評論家、英文学翻訳家、小説家として活躍。吉田正男(生没年不明)は東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任しています。
三女の麻生和子(1915年〜1996年)
政治家の麻生太賀吉と結婚。その長男として生まれたのが総理大臣経験のある麻生太郎氏になります。吉田茂の血筋は現在の政界にも大きな影響を与えているのです。
吉田茂のゆかりの地
久保山墓地
吉田茂の墓は横浜市営の墓地である久保山墓地にあります。総面積は126,213㎡と非常に広大な為、管理事務所で略図を入手した方が良いかもしれません。吉田茂のお墓が移転したのは2011年の事で、元々は青山霊園にお墓は存在していました。国葬が執り行われたとは思えないほど質素な墓になります。
なおこの地には吉田茂のお墓だけでなく、養父の吉田健三や息子の吉田健一のお墓もあるのです。
住所:神奈川県横浜市西区元久保町3−24
大磯城山公園(旧吉田茂邸)
大磯城山公園は神奈川県大磯にある文化遺産が数多く存在する地域です。
吉田茂は1944年頃から死去するまでの間、養父の吉田健三が1884年に建てた大磯公園内にある邸宅に住み続けました。吉田茂が総理大臣を辞任した後もこの邸宅には多くの政治家や要人が訪れており、「大磯参り」と呼ばれていました。
邸宅自体は2009年に火事で焼失するものの、後に復元されています。邸宅と同じ敷地内にはサンフランシスコ講和条約締結に建てられた兜門、1961年頃に作られた日本庭園、1983年に作られた吉田茂像などもあり、見所も多いです。これらの貴重な建築物や公園の緑地を保存する動きも広まり、2009年からこの地は大磯城山公園となっており、多くの観光客も訪れています。
住所:神奈川県中郡大磯町国府本郷559-2
吉田茂の関連人物
池田勇人・佐藤栄作
池田勇人と佐藤栄作は吉田茂の後で総理大臣に就任した人物です。池田勇人は所得倍増計画を掲げて国民の所得向上に貢献し、佐藤栄作は沖縄返還を成し遂げています。
彼らは1949年の第24回衆議院議員総選挙で議員となった経歴があり、公職追放で戦前の議員が軒並み不在となった時に吉田が後輩として政界から引き抜かれた経歴がありました。2人以外にも多くの人材が政界入りして吉田の側近として活躍した事から、彼らの事を「吉田学校」と呼ぶ事もあるのです。
安倍晋三
先程麻生太郎氏が吉田茂の孫である事を解説しました。ちなみに安倍晋三氏もまた戦後に総理大臣となった孫にあたる人物です。政界は血筋を辿ると縁戚として繋がるケースが多くあり、安倍晋三氏の視点から見れば、祖父(岸信介)の従兄弟(吉田寛)の妻の甥っ子が麻生太郎氏にあたります。
「けっこう遠い親戚」と思うかもしれませんが、赤の他人がこれ程の縁戚関係で繋がる事は殆どありません。彼らのルーツをみれば、日本の政治家が世襲制である事がよく分かるのです。
吉田茂の関連作品
おすすめの書籍・本・漫画
歴史劇画 大宰相 第一巻 吉田茂の闘争
さいとうたかをによる、戦後の日本を総理大臣の視点から描いた劇画漫画。教科書通りの内容ではなく、表舞台とその裏が分かりやすく、緊迫感を持って知る事が出来ます。内容に脚色が多い事は事実ですが、それでも当時の日本を知る上ではおすすめの作品です。
父 吉田茂
吉田茂の娘であり、麻生太郎の母親でもある麻生和子による回顧録。ワンマン宰相と呼ばれた吉田茂の素顔について詳しく学べます。単に身内の視点で執筆した作品というだけでなく、文章自体も読みやすく、私人としての吉田茂の実像をよく著していると感じられます。和子が聡明な娘に育ったのも、吉田茂の教育や人柄が良かった事も大きいでしょう。
おすすめの動画
こちらは吉田茂の生涯をゆっくり解説で解説したものです。合計で80分にわたる大作ですが、戦前戦後の吉田茂の立場や政策、当時の日本が置かれた状況がよく分かります。ゆっくり解説といえど、下手なドキュメンタリーよりも構成や内容も作り込まれており、おすすめのチャンネルと言えますね。
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日本独立
吉田茂(小林薫)と白洲次郎(浅野忠信)を主軸に、戦後の日本が独立を果たすまでの過程を描いた作品です。戦後の日本が置かれた状況を知る事ができます。今なお続く改憲問題やアメリカ軍の駐留問題。それらがなぜ起きたのか、問題になったのか、今一度学び直すきっかけになる作品と言えますね。
おすすめドラマ
アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~
2020年に放送されたテレビドラマです。吉田茂を演じたのは 笑福亭鶴瓶であり、白洲次郎に生田斗真、池田勇人に佐々木蔵之介と、キャストも豪華です。
本作は麻生和子(新木優子)の視点で物語が進行します。吉田茂をはじめとした当時の政治家たちの苦悩が伝わってくる作品です。
こちらはDVD化はされていないものの、Amazon primeで視聴可能です。
まとめ
今回は吉田茂の生涯について解説しました。吉田茂が戦後に長期政権を築いた事は学校でも必ず習う事ですが、その功罪についてはあまり知られていないのが現状です。ただ戦後の混乱した時代において、これほどの「クセモノ」でなければ、日本がこれほど早く復興を遂げる事はありませんでした。
今回の記事では戦後のGHQや政界の動向全てを解説する事は出来ていません。それだけこの時代は複雑なのです。ただ現在に至るまで尾を引く問題の多くは、この時代から生まれたものも多く、私達はしっかりと学ぶ必要があると言えます。
今回の記事を通じて吉田茂について、戦前戦後の日本について興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田茂