暴れん坊将軍と呼ばれた徳川吉宗とはどんな人?名言・偉業・死因も解説

徳川幕府八代将軍の徳川吉宗は、歴代の将軍の中でも一、二を争う人気と知名度を誇り、時代劇シリーズ『暴れん坊将軍』のモデルにもなっています。
吉宗は質素倹約を奨励して自らも質素な生活を送ったり、西洋の制度や学問などを熱心に取り入れたりなど、歴代の将軍たちの中でもひときわ異彩を放つ存在でした。
本記事では、吉宗の人生年表や人物エピソード、名言、偉業などを紹介し、個性あふれる吉宗の素顔に迫ります。

徳川吉宗とは?


出典:Wikipedia
徳川幕府第八代将軍の徳川吉宗は、御三家のひとつである紀州藩に生まれました。庶子で四男だった吉宗は本来家督を相続する立場にはありませんでしたが、兄たちの相次ぐ死によって紀州藩主となり、政治に優れた手腕を発揮しました。七代将軍家継が幼くして亡くなって将軍家の血筋が絶えたとき、後継者として選ばれたのが紀州の名君の誉れ高かった吉宗でした。

吉宗が将軍に就任した時代は、元禄期の好景気が終焉を迎え、幕府の財政状況も悪化していました。吉宗は自ら政治に乗り出し、享保の改革と呼ばれる政治改革を行いました。

生まれ

吉宗は、紀州徳川家の第二代藩主である徳川光貞の庶子として生まれました。幼名は源六といいます。母(おゆり、またはお紋。後に浄円院)は低い身分の出身で、御殿奉公に上がった際に光貞の子を宿しました。吉宗は光貞が59歳のときの息子で四男にあたりますが、次男の次郎吉が幼くして亡くなっているため、実質的には三男となります。

性格

性質はいたって穏やかで、幼い頃から家臣に対しても寛容に接し、感情的になったり大きな声を出したりすることもありませんでした。
また、徹底した合理主義者で、無意味なしきたりなどを意に介しませんでした。将軍は外様大名からの献上品は口にしないというしきたりがありましたが、吉宗は気にせず食べてしまったというエピソードがあります。

身長・体重

江戸時代は日本人の平均身長が最も低かった時代で、一般男性の推定平均身長は157.7センチメートルだったといわれています。遺骨の鑑定から、徳川家の将軍たちの身長も160センチメートル前後だったことがわかっています。六尺(182センチメートル)あった吉宗は、当時としては破格の長身でした。

体重はわかりませんが、武芸の鍛錬を欠かさなかったことや力士と相撲を取って負かしたというエピソードから、筋肉質の体型だったと考えられます。吉宗の母はしっかりした体つきの女性だったと言われており、吉宗の恵まれた体格は母譲りだったのでしょう。

死因

吉宗は晩年に脳卒中を患い、後遺症によって半身不随の状態になっていました。1751年6月19日、病状が悪化して危篤に陥り、翌20日に死去しました。享年68歳でした。

徳川吉宗の人生年表


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1684(貞享元)年 紀州藩藩主、徳川光貞の四男として和歌山城に生まれる(和歌山城下の吹上邸という説も)
1696(元禄9)年 江戸城で5代将軍綱吉に謁見する
松平頼方と名乗る
1697年(元禄10)年 越前国丹生郡に三万石の領地を与えられる
1699(元禄12)年 元服
1705(宝永2)年 父と兄達の相次ぐ病死により、紀州藩5代藩主となる
将軍綱吉から「吉」の字を与えられ、吉宗と改名する
1706年(宝永3)年 伏見宮貞致親王の娘、真宮理子(さなのみやまさこ)を正室に迎える
1710年(宝永7)年 藩主として紀州に入る
1716(享保元)年 八代将軍に就任
1717(享保2)年 大岡越前守忠相を江戸町奉行に任命する
1720(享保5)年 『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』の編纂を開始
漢訳洋書の輸入禁止を緩和
1721(享保6)年 江戸の評定所前に目安箱を設置
全国の土地と人口の調査を行う
1722(享保7)年 小石川薬園に養生所を設立
1723(享保8)年 足高の制を実施
1726(享保11)年 御庭番を創設
1745(延享2年) 将軍職を長男の家重に譲り、大御所となる
1751(宝暦元)年 病のため死去。享年68歳。

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徳川吉宗の人物エピソード


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子供のときから冷静沈着

吉宗が幼い頃のことです。父光貞が四人の男の子に、刀の鍔がたくさん入った箱を渡し、それぞれ気に入った物を取るがよいと言いました。兄弟たちが喜んで選んでいる中、吉宗だけは黙ってその様子を眺めていました。

不思議に思った光貞が「なぜお前は選ばないのだ」と問うと、吉宗は「残りの鍔を箱ごと頂きます」と答えました。光貞は息子の頭の良さと大胆さに感心し、望み通り箱ごと与えたそうです。

文化教養より実学を重視

吉宗は実学的なものに強い関心を示しました。気象学に興味を持ったときは、自ら雨量を計測して雨水の溜まり具合から大雨になるという予想を的中させたこともありました。合理主義で実学に秀でていたことが吉宗の大きな特徴です。

その一方、文化や教養など「役に立たないこと」にはあまり興味を持ちませんでした。芸術面の才能にも恵まれていなかったようで、幕府と朝廷の橋渡し役だった公卿の近衛基煕に「和歌においてはもっとも無骨なり」と評されています。

自ら率先して質素倹約を行う

吉宗は父・光貞の後を継いで1705年に紀州藩主になりましたが、当時の紀州藩は凶作に加え吉宗の父や兄たちの相次ぐ葬式によって財政赤字の状態でした。吉宗は藩主に就任すると、土地調査などによって年貢の増収を図る一方で、支出を減らすために倹約令を出しました。一連の政策により藩の財政は持ち直し、吉宗は名君と称えられるようになりました。

吉宗は将軍となった後も、国家行事の規模を大幅に縮小したり、贅沢品の製造販売を禁じるなどの緊縮財政策をとりました。また、人々に質素倹約を奨励するだけでなく、自身も質素な生活を貫きました。冬でも薄着を通して簡素な木綿を着用、食事も「栄養は1日2食で十分。三食とるのは腹の奢り」と言って一汁三菜、1日2食としました。大奥から「やぼ将軍」と揶揄されながらも、将軍らしからぬ質素なライフスタイルは終生変わりませんでした。

美女に厳しい?

吉宗が女性に求めたのは容姿の美しさではありませんでした。側室に選ぶ女性は皆、器量は良くなくても健康的で体格の良い女性でした。丈夫な子供を生めるからというのがその理由で、吉宗の合理主義的な性格がよく表れています。

吉宗は将軍になってすぐ、大奥に仕える女性たちの中から美女を50人リストアップして提出するよう命じました。大奥は美女リストの中から将軍の新たな側室が選ばれるものと思い、大騒ぎして美女を選出しました。いざリストが提出されたとき、吉宗が発した言葉は大奥を仰天させました。「一覧表に載っている50人に暇を出せ」。不器量な女性は縁談もないから働き場所を作ってやる必要があるが、美女なら引く手あまただろうからクビにしても大丈夫だろうというのが吉宗の言い分でした。

前代未聞の美女リストラの真の目的は、大奥にかかっていた膨大な費用を削減することと、表政治に干渉しかねない大奥の勢力を削ぐことでした。

徳川吉宗の妻はどんな人?


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1706年、吉宗は伏見宮貞致親王の娘、真宮理子(さなのみやまさこ)を正室に迎えました。理子は吉宗と江戸の藩邸で3年余りの結婚生活を送りますが、1710年に流産のため亡くなってしまいます。20歳の若さでした。
理子は寛徳院という法名をおくられ、遺骨は歴代藩主正室の菩提寺である和歌山市吹上の報恩寺に納められました。

徳川吉宗と竹姫


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竹姫は権大納言清閑寺煕定の娘で、将軍綱吉の側室で叔母にあたる大典侍局(寿光院)に子供がいなかったため養女に迎えられました。

竹姫は、立て続けに婚約者が早世するという不幸に見舞われました。吉宗が将軍になった後、正室の真宮理子を亡くした吉宗は竹姫を正室に望んだといわれています。しかし綱吉の養女である竹姫は吉宗の大叔母にあたるため、この縁談は実現しませんでした。代わりに吉宗は竹姫を自分の養女として新たな縁談を探しますが、2回も婚約者に先立たれている竹姫は不吉と敬遠され、なかなか良い縁談が見つかりませんでした。1729年、竹姫は24歳になってようやく薩摩藩主島津継豊との縁談がまとまり、島津家へ嫁ぎました。

竹姫は終生、徳川家と島津家の関係強化に努め、将軍の養女という立場を利用して両家の婚姻を積極的に進めました。死去の際には、当時の薩摩藩主重豪の娘である茂姫と十一代将軍家斉を結婚させるようにと遺言を残しています。この結婚は、幕末期に十三代将軍家定のもとに島津分家出身の天璋院篤姫が嫁ぐにあたって、重要な前例となりました。

徳川吉宗が行った偉業や政策


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享保の改革で国を立て直す

吉宗が行った政策で最も需要なのが享保の改革です。吉宗は先代の将軍のもとで「正徳の治」を主導した新井白石や間部詮房らを解任し、独自に選んだ人材を活用して独自の改革事業を行いました

・幕府の財政改革
傾いた幕府の財政を立て直すために、倹約令を出して支出を引き締めを図りました。同時に、過去の収穫高の平均から年貢率を決める定免法を取り入れたり、上米の制を定めたり、新田開発を奨励するなどして年貢徴収の増加を図り、幕府の財政を安定化させました。

・目安箱の設置
一般からの訴えが直接将軍の耳に届くようにすることで、幕府の権力を強化しました。町医者、小川笙船からの「貧しい人々のための無料の療養所を作ってほしい」という投書によって小石川養生所を設立するなど、一般からの声が幕政に反映されることもありました。

・人材の活用
江戸時代は役職に就くために必要な禄高が決まっており、優秀でも禄高の低い者は高い役職に就くことができませんでした。吉宗は、その役職に就いている間に限り不足分の禄高を増やす「足高の制」を設け、身分が低くても有能な人物を重要な地位に抜擢しました。

・司法改革
迅速で公平な裁判を行うため、従来の判例などを整理して基本法典『公事方御定書』を編纂しました。公事方御定書は諸藩の刑事裁判の基準ともなりました。

江戸の町づくり

当時の江戸はすでに人口100万人を超える世界有数の巨大都市でしたが、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたほど火事が多発していました。吉宗は江戸町奉行の大岡越前守忠相に命じて「いろは四十七組」など町火消の制度を整えたり、火の見櫓の制度を始めたり、随所に火よけ地を設けるなどして町の防火に努めました。

また、王子飛鳥山や品川御殿山、隅田川堤、多摩郡中野村に公園を整備して一般庶民の娯楽の場として開放するなど、現代に通じる江戸の町づくりに取り組みました。

外国の文物を積極的に導入

徳川幕府は、キリスト教が流入するのを防ぐために洋書(漢訳されたもの)の輸入を禁止していました。吉宗は西洋の進んだ学問や実学を導入するために、法律や医学、農学などに関するものであれば洋書でも輸入を許可しました。また、アラブ馬(サラブレッドの源流)を輸入したり、当時日本になかった朝鮮人参の密輸・栽培を試みるなど、有益なものを海外から積極的に取り入れました。

徳川吉宗の名言


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吉宗の言葉を側近の渋谷隠岐守が書き留めたという『柳営夜話』から、吉宗が残した名言をご紹介します。

・「苦を逃れんとすれば、義に背くこと多し」

・「不義にして勝は勝にあらず、義にあたって負くるは負にあらずと思うべし」

・「善人は善人を褒むれども、悪人は(善人を)憎むものなり。(中略)およそ人は、善人に褒められ、悪人にそしらるる者こそ用いどころあるべけれ。(中略)衆人おしなべて褒むる者は、用に立たざる者多し」

・「偽りを言わんとはせねど、ことば多ければ、思わぬ偽りも言い出すことあるべし。人々ことば少なきをよしとす」

人情味ある言葉から、吉宗が人間心理に深く通じた人物だったことがうかがえます。

徳川吉宗にゆかりのある寺院・神社・墓


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拾い親の神社、刺田比古神社(和歌山県和歌山市)

刺田比古(さすたひこ)神社は、神主の岡本周防守が吉宗の仮親となったことから、吉宗の拾い親の神社として知られています。和歌山城の鎮護の神として崇敬されており、吉宗の父光貞は社殿を造営し、篤く信仰していました。吉宗は将軍に就任してからも、刺田比古神社を国家安泰祈願の神社とし、朱印地を寄付するなど特別な保護を与えました。

故郷をしのんだ王子神社(東京都北区)

王子神社は1322年に当時の領主豊島氏が紀州の熊野権現を勧請して建立された神社で、家康が将軍家の祈願所と定めたことから歴代将軍に崇敬されてきました。
中でも吉宗は紀州にゆかりのある王子神社に特別な崇敬を抱き、1737年に飛鳥山を寄進しました。飛鳥山にはたくさんの桜の木が植えられ、桜の名所として現在も親しまれています。

吉宗が眠る寛永寺(台東区上野)

吉宗は徳川家の菩提寺である上野の東叡山寛永寺に葬られました。吉宗は、新たな霊廟造営は無駄な出費だとし、かつて自分を引き立ててくれた五代将軍綱吉の霊廟に合祀するよう遺言しました。紀州藩主の菩提寺である和歌山県海草郡の長保寺にも吉宗の墓はありません。吉宗は最期まで質素倹約の精神を貫いたのです。

徳川吉宗の子孫について


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1710年に正室の真宮理子が亡くなった後、吉宗は新たな正室は迎えませんでしたが、側室や女中たちなどの間に子供を設けています。
1711年、側室の須磨(深徳院)が世継ぎとなる初めての男子、長福(ながとみ)を生みました。長福は長じて家重と名乗り、吉宗の後を継いで9代将軍となりました。1715年には側室のこん(本徳院)が三男となる小次郎(次男が夭折しているため実質的には次男にあたる)を生みました。

吉宗は跡継ぎの確保のため、家康が御三家を設置したことにならって、御三卿と呼ばれる田安家・一橋家・清水家を創設しました。1731年に田安家が創設され、小次郎は田安宗武を名乗りました。1721年に側室の梅(深心院)が生んだ四男(三男)の小五郎は1740年に一橋家の当主となり、一橋宗尹と名乗りました。1758年には清水家が創設され、家重の次男・重好が初代当主となりました。田安家・一橋家・清水家は現在も存続しています。

参考文献

『徳川吉宗』(百瀬明治著/角川選書)
『紀州藩主 徳川吉宗』(藤本清二郎/吉川弘文館)
『徳川吉宗~国家再建に挑んだ将軍』(大石学/江戸東京ライブラリー)
『徳川吉宗~日本社会の文明化を進めた将軍』(大石学/山川出版社)

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