太宰治とはどんな人?生涯・死因・作品・名言・子孫も解説

太宰治は昭和初期に活躍した作家です。薬物依存や自殺未遂などを繰り返しつつ、多くの名作を世に送り出しました。走れメロスや富嶽百景は学校の教科書でも取り上げられているので、読んだ事がある人もいるかもしれません。

作家としての知名度は高い太宰治ですが、その人物像や生涯については知らない事も多いのではないでしょうか。彼の生涯は実に波瀾万丈であり、自己破滅型の私小説作家でもありました。今回はそんな太宰治について掘り下げていきましょう。

なお太宰治という名前は後のペンネームであり、本名は津島修治と呼びます。ただこの記事では太宰治で統一していきます。

Contents

太宰治とは?

太宰治とは?

1948年2月頃の太宰治 出典:Wikipedia

 

太宰治は1909年に青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)で地元の名士の子供として生まれました。彼が小説を初めて執筆さたのは17歳の頃。1928年に同人誌『細胞文芸』の中で、『無限奈落』を発表しています。

1930年に東京帝国大学文学部仏文学科に入学し、この頃から本格的に小説家を志して執筆活動を開始。しかしカフェの女給・田部シメ子と心中未遂を起こすなど、既に精神的に参っている様子が見られます。

1935年に大学を除籍となり、1938年に石原美知子と結婚。2年後に代表作である走れメロスを執筆します。太平洋戦争中も執筆活動を続け、戦後に斜陽を執筆し、高い評価を得ました。しかし1948年6月に愛人の山崎富栄と玉川上水で入水心中を遂げ、38歳の短い生涯を終えたのです。

出来事
氏名 津島 修治(つしま しゅうじ)
通称・あだ名 太宰治(だざい おさむ)
出生日 1909年 6月19日
出生地 青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)
死没日 1948年6月13日
死没地(亡くなった場所) 玉川上水(現・三鷹市)
血液型 AB型
職業 小説家
身長 175cm
体重 67kg
配偶者 石原美知子
座右の銘 笑われて、笑われて、強くなる

 

太宰治の人生年表・生涯

太宰治の人生年表

出来事
1909年 太宰治誕生
1923年 青森県立青森中学校入学
1925年 作家を志望し始める
1928年 辻島衆二名義で『無間奈落』を発表
1929年 カルモチンで自殺を図る
1930年 東京帝国大学仏学科入学 自殺未遂を図る
1933年 太宰治名義で『列車』を発表
1935年 東條帝国大学を除籍
1936年 『晩年』を発表
1938年 石原美知子と結婚
1940年 『走れメロス』を発表
1941年 長女・園子誕生
1944年 長男・正樹誕生
1947年 『斜陽』を発表 次女・里子誕生
1948年 『人間失格』を発表 6月に入水心中

 

太宰治の生涯①

太宰治の生涯①

高校生の太宰治 出典:Wikipedia

 

太宰治は1909年6月13日に青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)で、津島源右衛門の六男として生まれました。津島源右衛門は地元の名士であり、多額納税による貴族院議員も務めています。金銭的には何不自由なく生活できた太宰治ですが、父の仕事は多忙で叔母のキエや女中・近村たけに育てられました。

やがて太宰治は1916年に金木第一尋常小学校に進学し、1923年4月青森県立青森中学校に入学。成績はとても優秀で、中学校時代に芥川龍之介志賀直哉を読んで小説家になる事を志しています。

特に井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には強い衝撃を受けたようです。太宰治は1927年に旧制弘前高等学校に入学しますが、この年に芥川龍之介が自殺しており、引きこもる程の衝撃を受けています。

太宰治の生涯②

太宰治の生涯②

東京大学の文学部3号館 出典:Wikipedia

 

1928年に太宰治は同人誌『細胞文芸』を発行し、辻島衆二名義で『無限奈落』という作品を執筆しました。この作品はプロレタリア文学に強い影響を受けています。プロレタリア文学とは労働者が直面する厳しい現実を描いた作品の事で、この文学は当時勢力を拡大しつつあった共産主義の思想が色濃く反映されていました。

旧制弘前高等学校でも共産主義の影響を受けた学生運動が起こり、太宰治はその顛末をモデルにした『学生群』を1929年に執筆。更に内縁の妻となる芸者の小山初代とも出会いました。同年の12月10日に自殺未遂を図るものの、1930年に弘前高等学校を卒業します。

卒業後の太宰治は東京帝国大学文学部仏文学科に入学する為に同年に上京しました。ただ仏文学科を専攻したのは「フランス文学に憧れていた」という理由に過ぎず、フランス語を読む事は出来ませんでした。授業に追いつけなくなった太宰治は本格的に小説家を志し、井伏鱒二に弟子入りもしています。

太宰治は10月には本格的に小山初代と結婚する事を考えるものの、地元随一の名家だった津島家はこれに強く反対。最終的に津島家との分家除籍を条件に結婚は認められるものの、財産分与を期待していた太宰は落胆しました。これに自暴自棄になったのか、11月28日に太宰治は田部シメ子という女性と自殺未遂を起こしています。

この時の自殺未遂で太宰治は自殺幇助罪に問われますが、最終的に不起訴処分となり、1931年2月から小山初代と本格的な結婚生活を始めました。

太宰治の生涯③

太宰治の生涯③

昭和初期の甲府市 出典:Wikipedia

 

太宰治は1932年には『思い出』『魚服記』、翌年には太宰治名義で『列車』を執筆する等、小説家になるべく奮闘しますが、この時点では大きく売れたわけではありません。1935年には大学を除籍となり、同年の第1回芥川賞にも落選。翌年とその次も候補には選ばれませんでした。

この頃の太宰治はパビナールという半合成麻薬の依存症になっており、知人に借金をして歩く荒れた生活を送っています。また1937年には妻である初代の不貞行為も明らかになり、3月下旬に再び自殺未遂を起こしました。結果的に2人は6月に離婚しています。

どん底にいた太宰治でしたが、1938年に井伏鱒二が地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子を見合い相手として紹介します。太宰治は結婚を決めますが、同時にこれまでの生活を反省しました。

2人は1939年1月に結婚式を挙げ、甲府市御崎町に移り住みます。精神的に安定した太宰治は『女生徒』『富嶽百景』『走れメロス』などの名作を次々と執筆。小説家として頭角を現しました。1941年に太平洋戦争が勃発したものの、肺浸潤の診断を経て徴用免除となります。

戦争期間中も『津軽』『お伽草紙』『新ハムレット』『右大臣実朝』等の作品を執筆しています。1945年3月には東京大空襲、7月には疎開先の甲府で甲府空襲に遭い被災するものの、無事に戦争を生き抜く事が出来たのです。

太宰治の生涯④

太宰治の生涯④

1946年の太宰治 出典:Wikipedia

 

戦後の太宰治は10月には既に『パンドラの匣』を連載する等、執筆活動を続けました。ただ1947年2月に太田静子、3月には山崎富榮という愛人ができる等、生活は再び荒れ始めます。

12月には没落華族を描いた『斜陽』が出版され、ベストセラーにもなりました。その1ヶ月前の11月に太田静子との間に太田治子が生まれ、太宰治はその娘を認知する事にしています。この頃には太宰治は肺結核の症状もみられ、しばしば喀血もする等、健康状態も悪くなっていたのです。

この娘の誕生に妻の美智子だけでなく山崎富榮も強い衝撃を受けています。太宰治から捨てられる事を恐れた山崎富榮は1948年5月頃から強い嫉妬の念を持ち始め、6月7日以降は太宰治は軟禁状態となりました。

この状況を不安視した筑摩書房社長の古田晁は井伏鱒二と相談し、太宰治を御坂峠にある天下茶屋で静養させる計画を立て始めます。6月12日に太宰治は吉田晁が週末だけ下宿先にしていた大宮市の宇治病院を訪れるものの、吉田晁は太宰治の静養の準備の為に不在でした。そしてこの次の日に太宰治は山崎富榮と「とある行動」を起こすのです。

太宰治の死因と最期の言葉

山崎富榮と入水心中

山崎富榮と入水心中

引き上げられた太宰治と山崎富榮の遺体 出典:Wikipedia

 

太宰治の死因は山崎富榮との入水心中です。6月13日に2人は玉川上水(現・三鷹市)で入水。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰治の39歳の誕生日に発見されたのです。共に入水した山崎富榮の死顔は恐怖におののいた表情でしたが、太宰治の死顔は穏やかで水をほとんど飲んでいませんでした。

その事から、太宰治は入水前から絶命していた、もしくは仮死状態にあったと推測されています。入水現場には手をついて滑り落ちる事を阻止した跡も残っていましたが、これは山崎富榮が死の直前に生への執着がよぎったのかもしれません。2人が死を選んだ直接的なやりとりは未だに分かってはいないのです。

太宰治の遺書

1998年、太宰治の50回忌直前に太宰治の遺書が遺族から公開されました。その遺書では美知子宛に「誰よりも愛してゐました」と書かれていた他、「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と死の理由を記しています。

太宰治は死の直前に『人間失格』を執筆しており、この作品もまた太宰治の遺書とも言われています。こちらも興味があれば読んでみましょう。

太宰治とはどんな作家?

精神面が作風に大きな影響を与える

精神面が作風に大きな影響を与える

津島家にある新座敷 出典:Wikipedia

 

太宰治は「典型的な自己破滅型の作家」と評される事もあり、作風にもその退廃的な思想が影響していると思われがちです。しかし太宰治の作品は退廃的な作品から、ユーモラスな作品まで多岐にわたります。これは太宰治が非常に感受性が高く、その時々の心理状態が作風に大きな影響を与えているからです。

1928年に同人誌『細胞文芸』を発行した頃は共産主義のプロレタリア文学の影響を受け、結婚生活が順調だった頃には『走れメロス』等の明るい作品を執筆します。『人間失格』を執筆した頃は女性関係や病気で精神的に追い詰められていた頃でした。

精神面がこれだけ作風に影響を与えるという事は、太宰治がそれだけ執筆活動に真摯に向き合ってきた事への証明です。全ての作品に太宰治の魂が込められていると言っても過言ではなく、それが太宰治の作品が未だに高い評価を得ている理由と言えるでしょう。

太宰治の代表作品

続いて太宰治の代表作品を解説していきます。ここで解説するのはほんの一部なので、興味が湧いた方は他の作品についても調べてみてくださいね。

女生徒

女生徒は太宰治が1938年に書き上げた短編小説で、14歳の女生徒の1日の日常を、女生徒の独白体で綴ったものです。思春期の女生徒が陥りやすい厭世的な心理を見事に書き上げており、太宰治が川端康成などの文豪から認められる契機になった作品です。

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走れメロス

走れメロスは太宰治が1940年に書き上げた短編小説です。友情を守るために、処刑される事を覚悟の上で王の元に走るメロス。その道徳的な内容から、学校の教科書でも取り上げられています。太宰治の作品の中で、1番知名度の高い作品かもしれません。

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ヴィヨンの妻

ヴィヨンの妻は太宰治が1947年に執筆した短編小説です。主人公は、戦後の日本で活躍する放浪詩人・大谷の妻であるさっちゃん。ヴィヨンは15世紀のパリに実在した詩人で、放浪生活の末にパリを追い出された人物です。

つまり大谷をヴィヨンに見立てたのがこの作品であり、大谷自身が太宰治を思わせる描写もあります。太宰治は大谷、そしてヴィヨンを自分と重ね合わせていたのかもしれません。

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斜陽

斜陽は太宰治が1947年に書き上げた小説で、没落していく上流階級を描いた作品です。太宰治は戦時中に妻子を連れて実家の津軽に疎開するものの、かつての大地主だった津島家も人の出入りは減り、がらんとした様子でした。

この津島家の現状をみた太宰治が書き上げたのが斜陽だったのです。

人間失格

人間失格は太宰治が1948年に完成させた小説で、完結作としては太宰治最後の作品です。他人の前ではおどけているものの、本当の自分を誰にもさらけ出せずにいる男の人生を、男の視点で描いています。主人公は太宰治がモデルとされますが、太宰治が亡くなった為、真偽は謎のままです。

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太宰治の性格と人物像エピソード

自己破滅型の人間

自己破滅型の人間

甲府市にある太宰治の居住地跡 出典:Wikipedia

太宰治は情緒不安定でどこか暗い性格だったようです。『人間失格』や『斜陽』には太宰治の性格が色濃く反映されています。感受性が豊かゆえに常に葛藤を続けた結果、太宰治は4回の自殺未遂、パピナール中毒、そして最期には心中を遂げたのです。太宰治が自己破滅型の人間と称されるのは、そうした経歴が関係しています。

その一方で自己破滅型の人間はどこか放っておけず、自然と救いの手が差し伸べられるのもまた事実。太宰治は小説家の井伏鱒二にたびたび支援を受けた他、多くの女性が太宰治を支えています。

1度目の心中未遂で田部シメ子、最後の心中で山崎富榮が命を落とし、小山初代や石原美知子と結婚。更には愛人の太田静子と子どもも作っています。太宰治に人間的な魅力がないと、これだけの人達が太宰治を支える筈がありません。言葉では説明できない何かが、太宰治にはあったのでしょう。

太宰治の逸話と凄さ

「カチカチ山」を少女と中年男の恋物語に変える

「カチカチ山」を少女と中年男の恋物語に変える

尾形月耕のカチカチ山 出典:Wikipedia

 

太宰治の作品は非常に幅が広く、昔話や古典を題材にした作品も生み出しています。カチカチ山という作品は、兎が性悪狸をこらしめて殺されたお婆さんの仇を取る内容ですが、太宰治は兎を少女、狸を少女に恋している醜男という風に見立てて作品を描きました。

太宰治は恋多き男性です。私達の馴染み深い作品も太宰治にかかれば、また異なった視点で物語が進みます。カチカチ山は太宰治の凄さを表していると言えるでしょう。

大柄な大食漢

太宰治の身長は175cm、足のサイズは26.4cmと当時では大柄な人物です。大食漢でもあり、豆腐屋から何丁も豆腐を買っていた事が有名にもなっていました。その他の好物は京都「大市」のスッポン料理や、三鷹の屋台「若松屋」のウナギ料理など。

太宰治は大の酒好きでもあり、医者に酒を飲みすぎる事を咎められたりもしています。やはり執筆活動を続けるにはグルメである事や酒の力が必要なのかもしれません。

太宰治の名言

太宰治の名言

太宰治の故郷にある金木駅 出典:Wikipedia

 

笑われて、笑われて、つよくなる

太宰治の前期の作品である『HUMAN LOST』に出てくる言葉です。この作品は人間失格の下地になったとされ、内容は「精神病棟に入れられた人間の手記」となっています。人は大なり小なり苦悩を抱えていますが、側からみれば滑稽に見える事があるのもまた事実。そんな状況でも人は前に進まないといけません。そうして人は強くなっていくのです。

恥の多い生涯を送ってきました

人間失格の冒頭の一文。人間失格を描き終えた太宰治はわずか1ヶ月後に入水心中を図りました。人生を振り返る事は誰にでもある事ですが、そこで死を選ぶのが太宰治の人間的な弱さであり、人を惹きつける魅力となっています。この言葉には太宰治の人生観が集約されているのです。

太宰治の家系図・子孫

太宰治の生家である津島家は県下有数の大地主でした。ルーツは豆腐を売り歩く行商人だったと言われます。太宰治の長兄と次兄は夭折しており、津島家の家督を相続したのは3番目の兄である文治でした。彼は金木町長や青森県知事、更には衆議院議員を歴任しています。

その他にも4番目の兄である英治も金木町の町長を務めた他、孫の津島恭一は過去に衆議院議員を務める等、津島家の血筋の者達は政界で活躍するケースも多いようです。

太宰治の妻と愛人

続いて太宰治の妻や愛人について簡単に解説していきます。太宰治の恋愛遍歴は複雑なので、気になる人は各自で調べてみてくださいね。

田部シメ子(1912年〜1930年)

田部シメ子(1912年〜1930年)

田部シメ子 出典:Wikipedia

 

太宰治の恋人で、2人が出会ったのは1930年夏の事でした。田部シメ子は、大量のカルモチンを嚥下して七里ガ浜海岸の小動神社裏海岸に身を投げます。結果的に太宰治は助かり、田部シメ子だけが亡くなりました。太宰治と会った回数は僅か3回とされ、なぜ彼女が太宰治と心中する事を選んだのかは分かりません。

太宰治は自殺幇助罪の容疑で逮捕されるものの、結果的に起訴猶予処分となりました。

小山初代(1912年〜1944年)

小山初代(1912年〜1944年)

1944年頃の小山初代 出典:Wikipedia

 

太宰治の最初の妻です。小山初代が結婚したのは1930年の事ですが、彼女が芸者だった事もあり、2人は籍を入れていません。両者は婚姻生活を始めるものの、1936年に太宰治が薬物中毒治療のため武蔵野病院に入院すると、初代は太宰治の義弟と関係を持っています。

1937年3月初旬に初代と義弟の関係が太宰治に知られると、太宰治と初代はカルモチンにより自殺を図るものの、これは未遂に終わりました。その後2人は離婚し、初代は北海道などを転々として荒れた生活を送ります。初代は1944年7月23日に32歳の若さで亡くなります。

津島美知子(1912年〜1997年)

津島美知子(1912年〜1997年)

津島美知子 出典:Wikipedia

 

太宰治の2番目の妻で、結婚したのは1939年の事です。太宰治との間に3人の子を儲けるものの、太宰治は1948年に死去した為、女手で子どもを育ています。1997年に肺炎で亡くなり、太宰治が眠る三鷹市禅林寺に葬られました。

太田静子(1913年〜1982年)

太田静子(1913年〜1982年)

太田静子 出典:Wikipedia

 

太宰治の愛人で、2人が愛人関係になったのは1941年の事でした。文学的な才能に優れた女性であり、小説の題材として日記の提供を太宰治から依頼され、それは斜陽という作品に大きな影響を与えています。

1947年に太宰治の子を出産し、太宰治は子どもを認知するものの、太宰治は間もなく死去します。その後は炊事婦や寮母として生計を立て、一人娘を育て上げました。

山崎 富榮(1919年〜1948年)

太宰治の愛人で、太宰治と入水心中した女性です。1944年に結婚したものの、結婚相手は三井物産マニラ支店に単身赴任。後に兵隊として駆り出され、行方不明となりました。

太宰治と出会ったのは1947年3月の事ですが、後に太宰治は結核やもう1人の愛人・太田静子の出産で精神的に追い詰められていきます。そんな太宰治を山崎富榮は献身的に支えるものの、同時に激しい嫉妬も燃やすようになったのです。

1948年6月13日に太宰治と山崎富榮は心中します。その時に山崎富榮は太田静子に書簡を送っており、そこには「わたしは修治さんが、好きなので ご一緒に死にます」と書かれていました。2人の最期のやり取りがどのようなものだったのか、今では分からないのです。

太宰治の子ども

太宰治には4人の子どもがおり、そのうちの3人が正妻・石原美知子の子ども、1人が愛人・太田静子の子どもになります。4人子供たちの足跡は以下の通りです。

津島園子(1941年〜2020年)

太宰治の長女です。早稲田大学を卒業し、23歳の時に在フランス日本国大使館三等書記官の津島雄二と結婚しました。津島雄二は後に衆議院議員となり、第2次海部内閣で厚生大臣として入閣を果たしています。津島園子は太宰治賞や太宰治展の事業を熱心に行い、太宰治の功績を世に残す事に尽力しました。

津島園子は1男1女を設けており、息子の津島淳は2012年以降は父の地盤を引き継いで衆議院議員となっています。娘は化粧品メーカーで働いていますが、政治の世界には関与していない様子です。

津島正樹(1944年〜1960年)

太宰治の唯一の男児です。ただ彼はダウン症で、4歳でも言葉を話しませんでした。太宰治は将来に対する不安を『桜桃』という作品で記述しています。津島正樹は15歳の頃に口での意思表示ができるようになりましたが、その年に肺炎で亡くなりました。

津島佑子(1947年〜2016年)

太宰治の次女であり、太宰治の才能を一番引き継いだ子どもだと言われています。1966年に白百合女子大学文学部英文科在学中に同人誌『よせあつめ』を創刊。1971年に『謝肉祭』という作品で文壇デビューを果たし、高い評価を受けました。1998年に完成させた『火の山―山猿記』は2006年の朝ドラの原案となっています。

津島佑子は1970年に劇団の台本作者と結婚し、娘を授かるものの後に離婚。他の男性と籍を入れずにパートナーとなり、のちに息子を授かっていますが、ほどなく破局しています。娘の石原燃は文壇デビューを果たし、2020年には芥川賞の候補にもなりました。

また津島佑子の息子は9歳の時に呼吸不全で亡くなっており、その悲しみを『真昼へ』という作品で書き表しています。

太田治子(1947年〜)

太宰治の三女ですが母親は愛人となった太田静子です。太宰治は太田治子を認知するものの生後7ヶ月の時に自殺。その後は太田静子や太田静子の兄弟に育てられています。彼女も太宰治の才能を受け継ぎ、『紀行』という作品で婦人公論賞を受賞しました。

彼女は30代後半で結婚し、万里子を産んでいます。万里子の現在の経歴は詳しくは分かりませんでした。ただ太田治子の血筋も、現在にいたるまで続いているようですね。

太宰治のゆかりの地

斜陽館

斜陽館

斜陽館 出典:Wikipedia

 

斜陽館は太宰治の生家です。太宰治の父・津島源右衛門が建築したものになり、まさに豪邸と呼ぶにふさわしい建物です。斜陽館には手紙や原稿、太宰治が愛用したマントなどが展示されています。太宰治を知る上では必見といえるスポットでしょう。

住所:青森県五所川原市金木町朝日山412-1

太宰治疎開の家

太宰治が戦時中に居住した家屋の中で唯一現存しているのが、この「太宰治疎開の家」です。この家は兄夫婦が大正時代に建築したものになり、当時は「新屋敷」と呼ばれていました。

太宰治は戦時中も意欲的に執筆活動を行なっており、この地で『冬の花火』や『トカトントン』等の数々の名作を生み出します。この地には戦争に負けずに執筆活動を続けた太宰治の情熱を感じとる事が出来そうです。

住所:青森県五所川原市金木町朝日山317-9

太宰治の関連人物

芥川龍之介

芥川龍之介

芥川龍之介 出典:Wikipedia

 

芥川龍之介は『羅生門』や『河童』などを執筆した日本を代表する小説家であり、太宰治が小説家を目指すきっかけになった人物です。太宰治が芥川龍之介の小説を読んだのは中学生の頃であり、太宰治は強い衝撃を受けています。学生時代の太宰治のノートには『芥川龍之介』と書かれた落書きが残されており、彼が芥川龍之介に心酔していた事が分かるのです。

太宰治は芥川龍之介の講演会にも参加していますが、芥川龍之介は太宰治が小説家になる前に自殺します。太宰治も生涯に何度も自殺未遂を図っていますが、その背景には芥川龍之介に対する憧れがあった事は間違いありません。

なお太宰治は芥川賞が欲しくてたまらなかったものの、受賞すふ事はできませんでした。その事に立腹した太宰治は当時の審査員だった川端康成に抗議の手紙を送っています。太宰治が芥川龍之介に強い憧れを抱いていた事がよく分かりますね。

井伏鱒二

井伏鱒二

井伏鱒二 出典:Wikipedia

 

井伏鱒二は『山椒魚』や『黒い雨』などを執筆した小説家であり、太宰治に様々な援助をした人物として知られています。太宰治は井伏鱒二の『幽閉』という作品に多大なる影響を受けており、1930年に弟子入りをしました。

井伏鱒二は太宰治のパビナール依存を心配しており、東京武蔵野病院への入院を手配した他、石原美知子を引き合わせてもいます。太宰治と石原美知子の結婚式は井伏鱒二の家で行われており、井伏鱒二は仲人も務めていたのです。

結婚後も井伏鱒二は夫婦喧嘩の仲裁役を務める等、社会不適合気味な太宰治の後見人として奔走しています。太宰治と井伏鱒二の交流は20年以上も続いており、面倒を見る兄と問題児の弟という間柄に近いものがありました。

前述した通り太宰治は後に自殺。この時に遺書を遺していますが、太宰治は井伏鱒二の事を「悪人」と称しています。この時の太宰治の心境はわかりません。ただ死の間際に井伏鱒二の名を出すという事は、彼なりに井伏鱒二を慕っていた事も間違いないのです。

太宰治の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

芥川龍之介と太宰治

太宰治に多大なる影響を与えた芥川龍之介。本書は優れた評論家だった福田恆存が、2人の文豪を独自の視点で考察した評論文芸集です。両者の作品を論述する事で、より深い視点で作品を学ぶ事が出来るかも知れません。

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文豪どうかしてる逸話集

本書は太宰治を含め、破天荒な文豪の生き方を数多く収録した作品です。夏目漱石や島崎藤村など、優れた作品を生み出した文豪達のあっと驚くエピソードに腹を抱えて笑ってしまう事でしょう。この本を通じて文学に興味を持っていただけたら幸いす。

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おすすめの動画

おすすめの映画

人間失格 太宰治と3人の女たち

2019年に放映された作品です。人間失格の誕生秘話を太宰治と3人の女性の目線から描いたもので、太宰治を演じたのは小栗旬でした。その他には津島美知子を宮沢りえ、太田静子を沢尻エリカ、山崎富栄を二階堂ふみが演じています。

作品内容自体に賛否はありますが、個人的には津島美知子を演じた宮沢りえの演技が圧巻でした。この映画は史実を基にしつつも作品自体はフィクションになっています。太宰治の人生ではなく、太宰治という人物をモデルにした作品と割り切って観るのが良いかも知れませんね。

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人間失格

2010年に放映された映画ですが、こちらは太宰治の人間失格やわベースにした作品になります。太宰治を演じたのは生田斗真であり、その表情や苦悩する様は「太宰治の人物像」を見事に演じていたと思います。映像版として人間失格を観たいならこちらをおすすめします。

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おすすめドラマ

純情きらり

2006年に放映された朝ドラであり、作品のベースは太宰治の次女・津島祐子の『火の山―山猿記』。昭和初期から戦中戦後にジャズピアニストを目指した有森桜子という架空の人物をモデルにしています。

太宰治自体は作中には出てきていませんが、画家を目指している杉冬吾という人物が太宰治をモデルにしています。彼を演じたのは西島秀俊でした。原作では破滅型人間として描かれた杉冬吾ですが、ドラマでは温厚かつ寛容で飄々とした人物として描かれています。朝ドラと『火の山―山猿記』を比べて見るのも一興でしょうか。

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まとめ

今回は太宰治の生涯や人物像について解説しました。数々の名作を遺しながら、自己破滅型の人間として最後には心中した太宰治。そのエピソードは実に破天荒で、調べれば調べるほどに彼がどうしようもない人間に見えてくるのは確かです。ただそんなほっとけない性格も、太宰治の魅力なのかもしれません。

今回解説出来なかった作品、そしてエピソードは多々あります。今回の記事を通じて太宰治について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/太宰治

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