巴御前は平安時代末期の信濃国に生まれた女性です。軍記物語では美しい容姿とそれに似つかわしい剛腕を披露しており、千年以上経過した今でも私達の心を惹きつけています。
源義仲(木曾義仲)に仕えた女武者と伝わっているものの、彼女について言及されているのは軍記物語のみで、素性は謎に包まれています。今回は巴御前の人物像や人生年表、子孫などについて解説していきます。
目次
巴御前とは?
巴御前は治承・寿永の乱(源平合戦)で、木曾義仲の配下として活躍した女性です。『平家物語』で巴御前は「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と美しさと力強さを兼ね揃えた女性として描かれています。
やがて木曾義仲が宇治川の戦いで追い詰められた時、巴御前は木曾義仲の説得で袂を分かちます。巴御前は戦場から落ち延びると、『平家物語』では姿を消しました。その後の消息は不明ですが『源平盛衰記』では和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を生んだとされます。その後は尼となり、91歳でこの世を去ったと伝わっています。
氏名 | 「巴」「鞆絵」「伴絵」 |
---|---|
通称・あだ名 | 巴御前(ともえごぜん) |
出生日 | 不明(1150年代?) |
出生地 | 武蔵国?(現在の埼玉県) |
死没日 | 不明(1240年代?) |
死没地 | 巴塚の松(現在の富山県南砺市) |
血液型 | 不明 |
職業 | 女武者 |
身長 | 不明 |
体重 | 不明 |
配偶者 | 和田義盛(時代考証的な矛盾あり) |
巴御前の人生年表・生涯
巴御前は当時の一級資料や、鎌倉幕府の公式書・吾妻鏡ではその姿を確認出来ません。登場するのは『平家物語』『源平盛衰記』『延慶本』などの軍記物語であり、どの程度まで事実なのかは分かりません。今から解説する年表や生涯は「これらの軍記物語」に書かれている事を取り上げたものになります。
巴御前の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1150年代 | 若き頃の木曾義仲と武芸に励む |
1181年 | 横田河原の戦い |
1183年 | 倶利伽羅峠の戦い |
1184年 | 宇治川の戦いで木曾義仲と袂を分かつ |
1185年 | 和田義盛の妻となる |
1213年 | 和田合戦で和田義盛死去 |
1240年代 | 91歳で死去 |
巴御前の生涯①
『延慶本』によると、巴御前は幼少期から木曾義仲の幼馴染として育ち、力技・組打ちの稽古をともにしていたと伝わります。木曾義仲は1154年生まれである事が確定しており、それに準ずるならその前後に巴御前は誕生した事になります。木曾義仲は河内源氏の一族で、源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる人物です。
やがて1180年9月に治承・寿永の乱が勃発。以仁王が全国に平家打倒の令旨を発すると、木曾義仲もこれに呼応します。当時の資料に巴御前の姿は確認出来ないものの、木曾義仲が参戦した一連の戦いに身を投じました。
1181年6月に平家は越後の実力者・城助職に信濃国に侵攻するように命令し、城助職は川中島平南部の横田城に布陣。いわゆる横田河原の戦いが勃発します。信濃国に陣を構える木曾義仲軍は城助職勝利し、木曾義仲は越後国府に入り、越後の実権を握りました。『源平盛衰記』で巴御前はこの時に7人もの敵将の首級を上げたと伝わっています。
巴御前の生涯②
木曾義仲は勢力範囲を広げ、1183年6月には源義仲軍と平維盛軍が倶利伽羅峠で合戦が行われました。『源平盛衰記』によると巴御前は木曾義仲側の総大将として活躍し、配下の中でも四天王的な存在でした。この戦いを経て木曾義仲は平維衡軍に大勝利を収め、7月京都に入京を果たします。
木曾義仲は京都の守護を任されるようになるものの、元々京都で過ごした機会はほとんどなく、朝廷のしきたりや作法もほとんど知りません。やがて貴族層と対立し、それらは同門の源頼朝や源義経と対立に繋がっていきます。
1184年1月20日に京都宇治川で木曾義仲軍と、源義経・源範頼軍との戦いが行われます。巴御前はこの戦いでも薙刀を使って勇猛果敢に戦うものの、木曾義仲軍は残り5騎と敗戦必須の状況に追い込まれました。
『平家物語』では巴御前は最後まで木曾義仲に付き従う事を主張。しかし木曾義仲は「自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと呼ばれるのはよろしくない」と述べ、巴御前に逃げるように諭します。
巴御前は木曾義仲の言葉に応じ、その場から離反する事を決意。『源平盛衰記』では「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と述べ、敵将・御田(恩田)八郎師重の首を素手で切り落とす活躍を見せています。
ちなみに史実の木曾義仲は自害の場所を探す為、粟津の松原まで逃走するものの、この場で討ち取られ31歳の生涯を終えました。この時点で他の資料でも軍記物語でも巴御前の姿は確認出来ず、巴御前は戦線離脱に成功したと思われます。
巴御前の生涯③
『平家物語』ではその後については一切触れられておらず、『長門本』では越後国大杉で尼になったと伝わっています。治承・寿永の乱後の巴御前について詳しく触れられているのは『源平盛衰記』です。
『源平盛衰記』によると巴御前は落ち延びる最中に、源頼朝に鎌倉に召されています。死罪を命じられるものの、頼朝の配下である和田義盛が巴御前を妻にしたいと述べ、巴御前は罪を免じられる事になったそうです。その後巴御前は朝比奈義秀を産んだとされますが、この点はいくつかの矛盾があり、創作の域を出ていません。
やがて時代は鎌倉時代となりますが、1213年には北条家と和田家による激しい戦い(和田合戦)が行われました。和田合戦は北条家の勝利に終わり、和田義盛も討ち死。この戦いに巴御前は出陣しておらず、和田合戦後は越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せて暮らしたと伝わっています。
巴御前の死因と最期の言葉
『源平盛衰記』によれば巴御前は木曾義仲や和田義盛、朝比奈義秀らの菩提を弔う日々を過ごした後、91歳で亡くなったそうです。これが事実なら現在でもかなりの高齢であり、死因は老衰と考えて良いでしょう。
巴御前の最後については詳しい事は分かっておらず、最期の言葉も不明です。
巴御前の功績と偉業
木曾義仲の便女として活躍
『源平盛衰記』や『平家物語』によると巴御前は木曾義仲の便女(びんじょ)として活躍したそうです。便女とは「便利な女」の意味であり、戦場では男と同等に戦う上、身の回りの世話を行う人を指しました。木曾義仲は便女として巴御前と山吹を戦地に連れていきますが、宇治川な戦いで山吹は病の為に動けずに同行できていません。
巴御前は木曾義仲の身の回りの世話だけでなく、武将としての活躍も見込まれていたものと思われます。木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで勝利し、平家の影響をそぎ落とす事が出来たのも(軍記物語上では)巴御前の活躍が大きかったのは間違いありません。
数々の媒体で取り上げられる
巴御前は「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と描かれている通り、当時の基準で言えば美女だった事は間違いありません。そんな影響もあり、巴御前は現在に至るまで様々な媒体で主役級の活躍をしているのです。
能においては「巴」がありますが、これは軍記物語と異なり、木曾義仲が巴御前を故郷に届けさせています。この他には歌舞伎の「女暫」に登場し、三波春夫が巴御前を題材にした「巴ヶ丘幻想」を歌謡曲として発表しました。
前述した通り巴御前は当時の一級資料には登場せず、実在したのかも怪しい存在で平家物語や源平盛衰記などの軍記物語が巴御前を生み出したとも言えます。ただ巴御前の性格やエピソードは後の様々な物語のヒロインにも影響を与えました。
幼少期の木曾義仲とのエピソードは「幼馴染」、その容姿からは「黒髪のロングヘアー」「色白」、その戦闘力は「女武将」など、様々な媒体のヒロインにも受け継がれています。史実が否かはさておき、巴御前が日本の文化の発展に寄与した事は間違い無いのです。
巴御前の性格と人物像エピソード
豪胆かつ気品に溢れた女性
巴御前の性格は一連の軍記物語から推測するしかありません。ただ一連の軍記物語から見えてくるのは、巴御前の力強い性格と主君に忠誠を誓う武士の心です。宇治川の戦いで多くの兵士が討ち取られ、木曾義仲に離反するように諭されても、巴御前はその場で戦う事を最初は望みました。
結果的に巴御前は戦線から離脱するものの「最後の奉公でございます」と敵将の首を捻じ切る活躍を見せています。この言葉からは巴御前が木曾義仲を最後まで慕っていた事がよく分かります。男性顔負けの剛力と死を恐れない胆力、そして木曾義仲を慕う女性らしさ。この相反する性格こそが巴御前の魅力を最大限に際立たせていると言えるのです。
巴御前にはモデルがいた?
史実には一切登場しない巴御前ですが、彼女のモデルではないかと言われる女性がいます。それは板額御前という人物です。彼女は城氏という平家に仕える越後国の有力な豪族の生まれですが、平家の没落と共に一族も没落。彼女も各地を潜伏して生きざるを得ませんでした。
1201年に板額の甥に当たる城資盛が鎌倉幕府に挙兵し、板額御前も反乱軍の将として奮戦。鎌倉幕府が派遣した討伐軍は大損害を受けています。最終的に板額御前は捕虜となり、鎌倉に送られました。板額御前は二代目将軍・源頼家の前でも毅然とした態度を貫き、東国の武士から大いなる賞賛を受けています。
その雄姿を見た甲斐源氏の一族である浅利義遠(義成)は、板額御前を妻にする事を源頼家に嘆願。それは認められる事になり、板額御前は浅利義遠と結婚して一男一女を儲けたそうです。
板額御前が浅利義遠と結婚した経緯は、巴御前が和田義盛と結婚した経緯と全く同じです。巴御前のモデルが板額御前である事は間違いないでしょう。
今では意外に思うかもしれませんが、平安末期から鎌倉時代の甲信越地方では、女性でも武士の家系であれば戦闘訓練を受けているケースも多くありました。巴御前は板額御前などの当時の勇猛果敢な女武者のイメージを投影したものなのかもしれませんね。
巴御前の逸話と凄さ
日本史最強の女性?
巴御前の凄さはなんといっても優れた猛将をも圧倒するパワーでしょう。登場する作品により多少の違いはあれど、巴御前の戦闘能力は日本史に登場する女性の中では一線を画します。
源平盛衰記
敵将・御田(恩田)八郎師重を組み伏せ、素手で首を捻じ切る。
百二十句本
巴御前を追ってきた敵将を返り討ちにする。
延慶本
武将2人を絞殺する。
長門本
左右の腕で2人の武将を絞殺する。
平家物語ではその描写は控えめなものの、大抵の軍記物語で巴御前は素手で猛将を絞殺している事がわかります。ただ巴御前の強さはその剛力だけではく、薙刀や強弓などの武器を使用する点にもあります。
薙刀は巴御前の代名詞となり、江戸期には貴婦人用の薙刀として巴型薙刀(切先の強く反り、幅広になっていた)が考案されました。江戸時代は巴御前が生きた時代より400年も後。にもかかわらず巴型薙刀という名前が命名された事からも、巴御前の影響力とその強さが伺いしれますね。
巴御前の名言
最後のいくさしてみせ奉らん
巴御前が木曾義仲と別れた時に残した言葉です。現代語訳するなら「最後の奉公でございます」となるでしょうか。巴御前は敵将を素手でねじ切り、その場を後にします。今生の別れとなった巴御前と木曾義仲。この時に巴御前は何を思っていたのでしょうか。
巴御前の家系図・子孫
巴御前の出生は資料により異なり、正しい事は分かりません。そもそも架空の人物の可能性も高いので、家系図に信頼を寄せるのも野暮な話です。家系図については一つの説として読んでいただければ幸いです。
巴御前のルーツ
巴御前の父親は源平盛衰記によると中原兼遠とされ、彼は信濃国木曾地方に本拠を置く豪族で実在の人物です。彼は源義賢が甥の源義平に討たれた際に、その遺児である駒王丸を匿って育てたとされます。
その駒王丸こそが幼き日の木曾義仲であり、巴御前と木曾義仲が幼馴染であった理由です。彼が巴御前の本当の父親であるなら、巴御前のルーツは信濃国木曽(長野県木曽郡)の豪族の木曽中原氏になります。
長門本、延慶本、覚一本などの作品には巴御前の出生の事は書かれていません。ただ闘諍録というややマイナーな平家物語の異本では出生の事が軽く触れられており、巴御前は樋口兼光の娘という事になっています。彼は木曾義仲の乳母子にあたり、義仲四天王の一人として大きな武功も残しました。
樋口氏もまた中原氏をルーツに持つ家柄です。創作により相違はあれど、巴御前もしくは巴御前をモデルにした人物は信濃国木曽で生まれた事が推測できます。
和田義盛と朝比奈義秀
巴御前は源平盛衰記によると一連の戦いの後に和田義盛と結婚し、朝比奈義秀を産んだと伝わっています。ただ朝比奈義秀は木曾義仲が滅亡した時点で既に9歳になっており、計算が合いません。
また和田義盛は鎌倉幕府の初代侍所別当を務める人物ではあるものの、実際の家系図には巴御前らしき女性は見当たらないのです。したがって巴御前が和田義盛の妻になった事、朝比奈義秀を産んだ事は創作だと考えられます。
一応補足しておくと和田義盛は侍所別当という立場から、自宅に罪人を預かる牢屋を有していました。巴御前をモデルにした人物が牢屋に入っていた可能性はあり、和田義盛と接点があったのかもしれません。
巴御前のゆかりの地
巴御前の墓
創作の域を出ない巴御前ですが、全国各地にお墓が存在します。有名なものは以下の通りです。
義仲寺
粟津の戦いで死没した木曾義仲を偲び、巴御前が草庵を結んだ事が建立のきっかけとされます。鎌倉時代後期には義仲寺という名前で呼ばれていたそうです。松尾芭蕉はこの寺を好み、たびたび滞在したとの事で、源義仲の墓や巴御前の墓だけでなく、松尾芭蕉のお墓も存在します。
住所:滋賀県大津市馬場1丁目5-12
徳音寺
源義仲一族の菩提寺であり、木曾義仲や巴御前のお墓だけでなく、樋口兼光や今井兼平などの木曾義仲にゆかりのある人物のお墓も存在します。
住所:長野県木曽郡木曽町日義124
倶利伽羅県定公園
倶利伽羅峠の戦いがあった古戦場にある県定公園で、公園内には巴塚と葵塚が存在します。葵御前は巴御前と共に木曾義仲に仕え、倶利伽羅峠の戦いで死んだ女性とされます。この地域の伝承では巴御前は臨終の際に「私が亡くなった時には葵塚の隣に葬って欲しい」と述べたとされます。それにちなんで作られたのが巴塚なのです。
住所:富山県小矢部市埴生
この他にも各地に巴御前のお墓は存在します。軍記物語にしか登場しない巴御前ですが、その最後を偲ぶ声は大きかったようです。今も各地のお墓には参拝客が訪れている事でしょう。
巴塚公園
源平盛衰記では巴御前の終焉の地は現在の富山県南砺市付近だとされています。南砺市にある巴塚公園には巴御前を葬ったとされる巴塚があり、傍らには高さ12m、幹回り3mの松が植えられており、これは「巴塚の松」と呼ばれています。
巴塚の松の樹齢は750年頃とされ、巴御前が亡くなった時に植えられたそうです。巴御前が亡くなったのは1240年頃とされ、時代考証的にも矛盾はなく、巴御前が実在した根拠になりうるものかもしれません。命日とされる10月22日には「巴忌」も営まれています。
住所:富山県南砺市福光天神
巴御前の関連人物
木曾義仲
木曾義仲は巴御前の主君にして、幼馴染でもあった人物です。「巴御前は木曾義仲の妻だった」と考える人もいるかもしれませんが、史実の木曾義仲の正妻は「中原兼遠の娘」もしくは藤原伊子であったとされます。巴御前は木曾義仲の夫婦ではなく「妾」とされる事が多いです。当時は正妻だけでなく側室や妾がいる事が当然で、平家物語では木曾義仲には葵御膳や山吹御前などの妾がいたとされます。
木曾義仲は以仁王の令旨を受けて挙兵し、後白河法皇に接近する為に入京。一時は後白河法皇から京の治安を改善させる役目を期待されるものの、徐々に両者は対立していきます。元々京暮らしが長かった平清盛や源頼朝に比べると木曾義仲は朝廷が望む教養には欠けていました。
やがて木曾義仲は源頼朝や源義経と対立し、京を追われる事となります。最後は今までも解説したとおり、粟津の戦いで木曾義仲は敗北。最終的に彼は勝利者にはなれなかっものの、源氏と平家の勢力図を大きく塗り替える事になるのです。
源義経
源義経は源頼朝の弟で、木曾義仲とは従兄弟の関係にあたります。彼も木曾義仲同様に武芸に優れた人物で、木曾義仲亡き後も様々な功績を残しました。ただ木曾義仲を滅ぼした人物である事から巴御前にとっては仇とも言える存在です。
源義経とまた源頼朝と対立し、後に命を落としています。こんしや状況下で、長生き出来た巴御前は運が良かったと言えますね。
巴御前の関連作品
前述した通り巴御前は能や歌舞伎など、多くの分野で作品が生み出されています。学術的にも興味深い存在であり、様々な書籍も出版されました。ここでは巴御前の関連作品を解説していきます。
おすすめ書籍・本・漫画
完訳源平盛衰記 (6) (現代語で読む歴史文学)
軍記物語は数あれど、巴御前について最も深く言及されているのが源平盛衰記です。こちらは『平家物語』を元に増補改修されたものとされ、本筋から外れた挿話が多く、スピンオフの元祖のようなものになります。だからこそ巴御前の下りがより鮮明に描かれているのです。
物語として矛盾している部分はあるものの、他の登場人物についても掘り下げられているので、興味のある人は一読をお勧めします。
源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏
治承・寿永の乱は源氏の勝利に終わったと考える人も多いですが、実際には源氏の中にも勝者になれなかった者がいます。それが源頼政と本記事で解説した木曾義仲です。本作は平家物語や当時の日記を参考に彼らの生涯と敗北した理由に迫る1冊です。
巴御前はあくまで創作という観点なので、本書ではあまり登場しません。ただ当時の歴史的背景を知る事で、巴御前に対する理解か更に深まる事でしょう。
巴(ともえ)御前
巴御前と木曾義仲を主人公にした歴史小説です。平家物語や源平盛衰記などを下地にし、現在の解釈で再び軍記物語に落とし込んだ作品といえばよろしいでしょうか。文章にやや固さはあるものの、歴史小説が好きな人には是非読んでほしい一冊です。
おすすめの動画
おすすめドラマ
鎌倉殿の13人
2022年に放送される大河ドラマです。主人公は北条義時ですが、巴御前も木曾義仲の妾として登場します。巴御前を演じるのは秋元才加です。
本作品は和田合戦や承久の乱の後まで描かれる事が確定している為、木曾義仲と分かれた後の巴御前についても触れられる可能性があります。巴御前の動向についても注目の集まるドラマですね。
源義経
2005年に放送された大河ドラマです。巴御前を演じたのは小池栄子であり、義仲軍最強の荒武者として凄まじい活躍をしています。本作品では和田義盛ではなく「北陸の農夫」に嫁いで第二の人生を送る事になっていますが、これは富山県南砺市に「巴塚の松」がある事に留意したものでしょう。
2022年の大河ドラマと巴御前を比較しながら鑑賞するのも良いかもしれませんね。
まとめ
今回は巴御前の生涯や人物像について解説しました。登場するのは軍記物語のみであり、当時の日記や公式書では彼女の足跡を知る事は出来ません。
ただ彼女の力強さや美しさは平家物語や源平盛衰記の中で余す事なく描かれており、千年たった今でも様々な媒体で取り上げられるなど、文学や芸能の分野に与えた影響は計り知れません。今回の記事を通じて巴御前の人物像に更なる興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/巴御前