新選組副長・土方歳三とはどんな人?生涯・名言・偉業を解説

土方歳三は新撰組の副隊長として新撰組を支え、戊辰戦争では旧幕府側の指揮官として各地を転戦します。今回は土方歳三の生涯、名言、偉業について解説します。

土方歳三とは?

土方歳三

出典:wikipedia

 

土方歳三は新撰組の副隊長として、近藤勇を支え、京都の治安維持に努めます。後の戊辰戦争では指揮官として各地を転戦。榎本武揚ら旧幕府軍と合流し、蝦夷地に渡ります。戊辰戦争最期の戦いである函館五稜郭の戦いでも活躍しましたが、銃弾を受けて戦死します。

生まれ

土方歳三は天保6年5月5日(1835年5月31日)、武蔵国多摩郡石田村(現:東京都日野市石田)に生まれました。実家は裕福な農家であり、10人兄弟の末っ子でした。

身長

「五尺五寸は確かにあった」と言う証言が残っています。現在の身長に当てはめると168cmです。当時の成人日本男性の平均身長は160cmと言われているので、平均よりかなり大きいです。

性格

新撰組副隊長の際は鬼の歳三と恐れられました。隊規に背いた者は容赦なく切腹させられています。池田屋事件では、激しい尋問の末、倒幕派の計画を白状させています。

しかし戊辰戦争以降は温和で優しいというエピソードも多く、若い隊士の相談に乗るなど、接し方も大きく変わっていました。また新撰組に入る前も、甥っ子に優しかったという話もあります。

人徳のある近藤勇に変わり、自ら鬼の役を演じていただけで実は優しい人間だったのでしょう。

created by Rinker
¥924 (2019/12/13 04:25:55時点 Amazon調べ-詳細)

愛刀

・和泉守兼定
会津藩の刀工、12代和泉守兼定よるものとされています。戊辰戦争でも使われており、ところどころ刃こぼれがあったそうで、戦争の激しさを物語っていますね。

・大和守源源秀國
鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いなど、戊辰戦争時に使用されたと伝わっています。縁金に土方が好きだったという梅の意匠が施されています。

・葵紋越前康継
越前康継は江戸時代初期の刀工であり、秀忠のお抱え鍛治師でした。歳三はこの刀を、京都守護職でもあった松平から拝領したそうです。甥の佐藤源之助が新政府軍に刀を没収された時に、気の毒に思った歳三が渡したと言うエピソードが伝わっています。

土方歳三は生涯独身でしたが、琴と言う許嫁がいました。歳三の長兄がよく通っていた戸塚村の三味線屋の看板娘であり、近所でも評判の美人だったそうです。

家族同士が意気投合し、結婚直前まで決まりかけましたが、土方歳三は天下で名を挙げると言う目標があった為、断ったそうです。許嫁と言う形で落ち着きましたが、その後土方歳三は上洛。結局結婚する事はありませんでした。

死因

五稜郭

出典:wikipedia

 

明治2年5月11日、函館五稜郭の戦いで土方歳三は馬に乗り、指揮を取っていました。その最中、銃弾が腹部に命中し落馬。部下が近づくともう絶命していたそうです。

敵の銃弾が当たったと言うのが定説ですが、いつまでも新政府軍に降伏しない土方歳三を見かねて味方の手によって暗殺された説もあります。

優秀な指揮官を失った幕府軍は総崩れとなります。幕府軍が降伏したのはそれから6日後でした。

土方歳三の人生年表・生涯

前半生

試衛館

出典:wikipedia

 

天保6年(1835年) 武蔵国多摩郡石田村で誕生
天保10年(1840年) 母 奈津 結核で死去(父は生前に死去)
天保14年(1844年) 姉 のぶが佐藤彦五郎に嫁入り
14歳〜24歳の間、丁稚奉公をしていたとされるが具体的には不明
その後、実家秘伝の石田散薬を売りながら、剣術修行を行う
安政6年(1859年) 天然理心流に入門
文久元年(1861年)近藤が天然理心流4代目宗家に襲名
文久3年(1863年) 試衛館の仲間と浪士組に応募し京都へ赴く

粗暴な少年時代

土方歳三が生まれた多摩地方は、江戸時代は幕府の直轄地でした。その事を誇りに思う人は多く、百姓も剣術を習い、中には武士の格好をしている人もいたそうです。とは言っても身分の差が明確に区分けされていた時代なので、所詮は真似事に過ぎません。百姓の生まれである歳三も剣術に明け暮れつつも、武士ではないというジレンマを抱えていました。

粗暴な少年として有名で、「イバラのように、触ると怪我をする」事から「バラガキ」と呼ばれていました。

父は歳三が生まれる前、母は6歳で亡くなっています。長兄は目が見えなかった為、次男夫婦が家督を相続し、妻のなか によって育てられます。

14歳から24歳の間に丁稚奉公で働きに出ています。その前の11歳の時に既に丁稚奉公に出ており、番頭と喧嘩別れして、実家に戻ったという逸話がありましたが、信ぴょう性は不明です。

丁稚奉公後は歳三は実家秘伝の「石田散薬」を売りつつ、各地の剣術道場で試合を重ね、修行を積んだそうです。

天然理心流への入門

歳三にはのぶ という姉がおり、1844年に佐彦五郎の元に嫁いでいます。彦五郎は日野宿という宿場の人ですが、1849年の日野宿の大火の際、盗人に母親を殺されています。この時に自らも剣術を磨き、家族を守る必要があると考え、天然理心流を学び、日野宿に道場を開いていました。幼き頃の歳三もよく出入りをしていました。

この道場にそしてこの道場に指導の為に訪れたのが、江戸の天然理心流道場・試衛館の近藤勇でした。歳三は腕を評価され、天然理心流の本家である試衛館に入門します。

その後1861年には近藤勇が天然理心流宗家4代目を継承します。1863年には徳川家茂の上洛に合わせ、警護の為に浪士組が応募が行われます。「腕に覚えがえれば前歴・身分は問わない。」と言う事を知った試衛館は応募する事を決意。京都へ赴く事になりました。

新選組での活躍

清河八郎

出典:wikipedia

 

文久3年(1863年) 新撰組結成
副長に就任し、京都の警護に当たる
元治元年(1864年)池田屋事件
元治2年(1865年)山南敬介切腹
慶応3年(1867年)油小路事件、新撰組が幕臣になる

新選組結成

京都に赴いた試衛館の面々ですが、浪士組の発案者である清河八郎と意見が対立し、清河八郎らは江戸に戻ります。近藤勇ら試衛館メンバーの他、芹沢鴨や残ったメンバーは会津藩の預かりとなります。京都に残った24人で壬生浪士組を結成。後ろ盾がない壬生浪士組は身なりもボロボロで身ぼろ組と馬鹿にされました。

後の八月十八日の政変で成果を出した壬生浪士組は新撰組と名を改めます。その頃の新撰組は芹沢派と近藤派に分かれていましたが、歳三らの手で芹沢鴨は暗殺。新撰組は近藤勇が局長、土方歳三が副局長になります。実際の様々な指示は歳三が出していたようです。

池田谷事件

1864年5月、商人を装い暗躍を続けていた古高俊太郎を新撰組は捕縛。歳三は激しい拷問を行います。古高は京都を火の海にするという計画を自白します。

6月に新撰組は池田屋を急襲。多くの志士を殺害し、計画を未然に防ぎます。歳三は四国屋という旅館を急襲しますが、そこには誰もおらず、戦闘には加わっていません。その代わり、池田屋の周りを固め、後から来た会津藩等の兵を池田屋に入れませんでした。その結果、手柄を新撰組のものにする事に成功し、破格の恩恵を貰い、新撰組の名前は天下に轟いたのです。

その後新撰組の隊士は200人を超える大所帯となります。規律は厳しく、総長の山南敬介や七番隊隊長の谷三十郎や5番隊隊長の武田観柳斎等の重役も容赦なく切腹を命じられています。

1867年には思想の違いから伊藤甲子太郎が組を脱退。彼が薩摩藩と手を組み、近藤勇の暗殺を企てている事を突き止めます。新撰組は必ずしも一枚岩ではありませんでした。

戊辰戦争における土方歳三

戊辰戦争

出典:wikipedia

 

1867年(慶応3年)
10月 大政奉還
12月 王政復古の大号令
1868年(慶応4年)
1月 戊辰戦争 (鳥羽伏見の戦い)
3月 甲州勝沼の戦い
4月 近藤勇斬首
8月 会津戦争
10月 旧幕府軍らと蝦夷地に渡る
12月 蝦夷共和国成立
1869年(明治2年)
4月 新政府軍が蝦夷地に上陸
5月 函館五稜郭の戦いで土方歳三戦死

新選組の終焉

1867年新撰組は幕臣となり、歳三は悲願であった武士となります。その後、大政奉還、王政復古の大号令と時代は目まぐるしく変化していきます。その最中に二条城での軍議に参加して伏見に戻る途中の近藤勇が、墨染で御陵衛士の残党に銃で狙撃され重傷を負います(黒染事件)。

同志の脱落

新政府軍と旧幕府軍との間で行われた戊辰戦争。最初の戦いである、鳥羽伏見の戦いでは歳三は新撰組を率いて戦いますが敗北。3月に行われた甲州勝沼の戦いでも大敗を期します。その後再起を図っていた近藤勇は新政府軍に捕らえられ斬首、沖田総司は結核で死去する等、新撰組の主力も徐々に脱落していきます。

その後も歳三は新撰組や旧幕府軍と共に各地で戦いますが、東北諸藩も次々と降伏していきます。10月には榎本武揚らと蝦夷に渡り、12月には江戸幕府軍による政権である蝦夷共和国を樹立。総裁は榎本武揚ですが、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねました。

最後の戦い

1月2月は蝦夷共和国の整備を行っていましたが、4月には新政府軍が蝦夷地に上陸。歳三が防戦していた二口股は連戦連勝しますが、松前口は突破されてしまいます。5月には戊辰戦争最後の戦いである函館五稜郭の戦いが始まり、そこで銃弾が歳三の腹部を貫き、そこで戦死します。享年35歳でした。

土方歳三のエピソード・逸話

土方歳三はイケメンでモテモテだった?

土方歳三の像

出典:wikipedia

 

歳三は長身で肌も白く、若い頃からよくモテました。17歳の頃には、年上の女性を妊娠させています。
あまりにもモテたので、つまらないものと言って「恋文」を親戚に送って自慢していました。

土方歳三の剣の実力

八木邸

出典:wikipedia

 

歳三は幼い頃から様々な剣術を学んでおり、それらに加え天然理心流を獲得した事で、様々な流派をミックスさせた剣術だったそうです。
戊辰戦争では自ら前線に立ち、函館五稜郭の戦いまで生き残っている事からも相当な実力である事は間違いありません。

土方歳三の偉業

池田屋事件

出典:wikipedia

 

一介の道場でしかなかった試衛館の面々が最終的に幕臣として重用されたのは、近藤勇や土方歳三が、清河八郎や芹沢鴨と言った勢力争いに勝利した事が大きいです。その後も鬼の歳三と呼ばれ、新撰組の規律を正し、隊をまとめています。
池田屋事件では、志士の計画を事前に発見し、その後も会津藩等の兵を池田屋に踏み込ませずに新撰組の手柄にした功績は大きいです。
戊辰戦争では残念ながら戦死していますが、蝦夷共和国の中には榎本武揚ら後に新政府軍に重用された人材もいます。歳三の思いは彼らに引き継がれているのではないでしょうか。

土方歳三の名言・俳句

土方歳三

出典:wikipedia

名言

喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、
すでに我が命ァない、と思うことだ。
死んだと思いこむことだ。
そうすれば勝つ。

死ぬ覚悟で常に戦っていた彼ならではの発言です。

あんたは総師だ。
生身の人間だと思っては困る。
奢らず、乱れず、
天下の武士の鑑であってもらいたい。

近藤勇に対して言った言葉です。近藤勇が新撰組の局長として名を馳せたのは、鬼の歳三が自ら汚れ役になり、辣腕を振るったからです。

世に生き飽きた者だけ、
ついて来い。

函館五稜郭の戦いで、最期の突撃の時に言った言葉です。戦い抜いた彼らしい最期だと思います。

俳句

土方歳三は兄の影響もあり、句を作るのが好きでした。多摩を離れ京都に行く際も豊玉発句集を残しています。

梅の花 一輪咲いても 梅は梅
おもしろき 夜着のならびや 今朝の雪

等 日野の情景がまだ浮かぶような作品が多いです。

中には
しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道
等モテモテだった歳三ならではの句もあります。

いずれも専門家からはルールに則っていない下手な句と評されますが、歳三らしさもありストレートで馴染みやすい句と言えるでしょう。

土方歳三にゆかりのある地

石田寺

出典:wikipedia

歳三の遺骨は見つかっておらず、お墓には遺骨はありません。
新撰組は新政府軍から見れば賊軍であり、もし遺体が見つかれば晒し首になったかもしれません。そうした辱めを防ぐ為、他の戦死者と共に地中に埋められたという説や、実は生き延びて国外に渡ったという説もあります。
歳三のお墓自体は日野市の石田寺にあり、毎年命日の5月11日に法要が行われます。

土方歳三函館記念館

こちらは函館にあり、土方歳三の生涯を紹介しています。入り口には歳三の銅像が出迎えてくれます。当時の刀や、豊玉発句集の原本等もあります。
他にも幕末に活躍した人の資料も展示しています。2階は石川啄木記念館になっているようです。

土方歳三資料館

こちらは日野市にあり、歳三の生家が建て替えられた時に、自宅の一室を資料館として解放されたのが始まりです。歳三の兄から数えて五代目・六代目の子孫が直接解説をしてくれます。
資料館の建物は住居なので毎日開館はしていないので、事前に確認が必要です。歩いて10分くらいの場所にお墓もあります。

土方歳三の子孫について

佐藤彦五郎

出典:wikipedia

歳三の子孫

歳三は生涯独身を貫き、妻はいません。記録上では京都北野の舞妓「君菊」が歳三の子を産みましたが、すぐに亡くなっています。しかしモテモテだった歳三なので、どこかで血が受け継がれているかもしれません。歳三の子孫を自称している人もいますが確実ではありません。

兄弟の子孫

歳三は10人兄弟ですが、多くは名前が分かりません。長男の為次郎 次男の喜六 姉の佐藤のぶが名前が残っています。

長男は目が見えず、生涯独身を貫きます。

次男の喜六の血筋は今も残っており、前述した資料館の館長をしています。

佐藤のぶの血筋も残っており、こちらは佐藤彦五郎の資料館の館長をしています。

土方歳三を題材とした作品

司馬遼太郎

出典:wikipedia

 

新撰組はとても人気があり、歳三を題材にした作品は数多くあります。

小説

司馬遼太郎の「燃えよ 剣」が有名です。昔は新撰組は賊軍と言う事もあり、悪役が多かったのですが、この作品では主人公として、鬼の歳三と仏の歳三と異なる姿が描かれています。

映画

新撰組を主題にした映画は数多くありますが、前述した燃えよ剣が2020年に実写化され、岡田准一が土方歳三の役を演じます。同作品は1966年にも実写化されています。

異色の作品としては1999年に公開された 御法度があります。こちらは新撰組を男色の視点から描いており、土方歳三役をビートたけしが演じています。

ドラマ

大河ドラマでは2004年に新撰組が放送され、山本耕史が歳三役を演じています。近藤勇が処刑された後の特別編として、「土方歳三 最後の1日」が後に放送されました。

参考文献

https://rekishiplus.com/?mode=f5#6
https://jpreki.com/hijikata-1/
https://rekijin.com/?p=27939
http://www.earth-words.net/human/hijikata-tosizou.html
https://historivia.com/hijikata-toshizo/5518/
歴史旅人 Vol.1【新選組】

関連キーワード
日本史, 江戸時代の関連記事
  • 戊辰戦争が起こったきっかけとは?場所や原因、中心人物についてわかりやすくまとめてみました
  • 松尾芭蕉の人物像と人生年表まとめ!名言・俳句・死因も解説
  • 真田昌幸とはどんな人?名言・偉業・死因も解説
  • 【柔道の父】嘉納治五郎とはどんな人?名言・死因も解説
  • 【日本を代表する歌人】正岡子規とはどんな人?生涯・名言・死因
  • 【三矢の訓】毛利元就とはどんな人?生涯・名言・偉業も解説
おすすめの記事