黒田官兵衛(孝高)とはどんな人?名言・偉業・死因も解説

黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師であり、武田半兵衛と共に秀吉の参謀として、「両兵衛」「二兵衛」と評されます。軍事や謀略に長けており、人気のある人物です。今回は黒田官兵衛の名言、偉業、死因について記載していきます。

黒田官兵衛とは?


[如水居士画像(崇福寺蔵)出典:Wikipedia]

黒田家は播磨(姫路)国に仕える家老でした。黒田官兵衛の時代になると信長や秀吉といった勢力が台頭すると、ある時は信長の臣下となり、ある時は秀吉の軍師として台頭していきます。
後に関ヶ原の戦いでも家康に貢献し、52万石を与えられます。本人は中央の政治に関与することなく隠居生活を送り、戦いの4年後の1604年に死去しました。

生まれ

官兵衛は、天文15年11月29日(1546年12月22日)に播磨国の姫路で誕生しました。黒田家はもともとは薬売りから身を起こした家系でしたが、官兵衛の親の代から、播磨の小寺氏を支える家老という立場になったようですね。

性格

性格を一言で表すのは難しいです。幼少期に母を亡くして、部屋に引きこもっていました。坊主の円満に諭されてからは、武芸に磨きをかけるようになりました。元服後は戦では兵糧攻めや水攻め等、容赦ない作戦を遂行しています。部下に対しても公平に接し、家柄などで評価する事はありませんでした。
隠居後は冷静沈着な性格から、打って変わり穏やかな性格になったそうです。

幼少期、晩年の様子から、本来は優しい性格でしたが、自身の立場を踏まえて行動していた様子もあり、冷静で状況に合わせた判断ができる人だったようですね。

黒田官兵衛の人生年表

誕生~結婚まで


[姫路市妻鹿にある黒田職隆の墓 出典:Wikipedia]

天文15年11月29日(1546年12月22日)誕生
永禄2年(1559年) 母親を亡くす
永禄5年(1562年) 初陣を飾る
永禄10年 (1567年)頃 家督を継ぎ、正室 光を迎える

穏やかな幼少期

官兵衛の母方の祖父明石生風は文人であり、幼少期の官兵衛は、和歌などを好んでいました。上記の通り、母が亡くなってから引きこもる事もありましたが、後に兵書や武術にも力を入れるようになります。
1561年に元服後、まもなく小寺政職への仕官が決まり、その2年後には初陣を飾ります。

家督相続と長政の誕生

1567年に職隆から家督と家老職を継ぎ、翌年には官兵衛の元に長政が生まれます。官兵衛の息子として、要所で活躍します。光との結婚の時期は不明ですが、長政の生まれる前なので、1567年ごろと言われています。

信長・秀吉に仕えてから


[紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵) 出典:Wikipedia]

天正3年(1575年) 信長に謁見し、信長に仕える
天正6年(1578年) 謀反の説得の末、有岡城に1年幽閉される
天正8年(1580年) 三木城を陥落させ大名になる
天正10年(1582年) 本能寺の変。中国大返しを提言する
秀吉と全国統一に邁進する
天正15年(1587年)九州平定後12万石の大名となる

信長の台頭

この頃より、織田信長が勢力を拡大させました。長篠の戦いで武田勝頼を破ったのを見るや、官兵衛は主君の小寺政織に、これから台頭するのは織田信長や豊臣秀吉だと進言。小寺の使者として官兵衛は信長に謁見。すぐに気に入られます。
毛利氏(反信長派)と小寺氏(信長派)の間で英賀合戦や上月城の戦いで官兵衛は成果をあげ、知将としての存在感を発揮していきます。

軍師としての活躍

1578年には荒木村重が信長達から離反しようとした為、説得を図ろうとしますが、捕らえられ1年程幽閉されます。生還後は、頭髪は抜け落ち、膝の関節が曲がり、脚は一生回復することはなかったようです。
しかしその後も軍師としての真価を発揮。鳥取城、備中高松城の攻略、小田原城無血開城などで武功を挙げます。その頃には謀反を起こした荒木村重の三木城も既に陥落し亡命、官兵衛の主君の小寺政織も備後に落ち延びています。

1582年に本能寺の変で信長が暗殺された後は、秀吉に毛利輝元と和睦と備中高松城からの「中国大返し」を進言。明智光秀を討つため京に向け出発し、明智光秀を倒します。

その後は秀吉の補佐や、進言を行い、天下統一に努めます。1587年には豊前国12万石の大名となります。功績からはもっと石高は多くても良いですが、秀吉が官兵衛を恐れたそうです。

後半生


[関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻) 出典:Wikipedia]

天正17年(1589年)家督を長政に譲る
文禄元年(1592年)朝鮮出兵
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
その後52万石の大名となるが、本人は隠居する
慶長9年(1604年) 死去 享年59

長政と光成の対立

官兵衛は1589年に長政に家督を譲りますが、その後も秀吉の側近として活躍します。秀吉が全国を統一した後に朝鮮出兵が始まります。無謀な戦いの中で、長政と石田三成が対立します。

関ヶ原の戦い

秀吉没後は反石田派となり、関ヶ原の戦いでは長政は家康側につき、東軍に参加。西軍の小早川秀秋が裏切るように説得をしています官兵衛は九州におり、西軍総大将の毛利輝元の側近の吉川広家への説得や、西軍の大友義統との戦いに勝利しています。親子揃って関ヶ原の戦いでは大活躍をしています。

その後は功績が認められ、筑前一国52万石という、大大名になりました。

死因

慶長9年(1604年)、官兵衛は病に伏せました。病名は分かりませんが、59歳で死去しており、当時では長寿です。
辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」です。

意味:言い残す言葉もなくなり、あの世に行くことになった。道には迷わないだろう。なるようになる。

黒田官兵衛の人物エピソード


[黒田如水の印章。 出典:Wikipedia]

病気が進行し、死期が近づいてくると、穏やかだった官兵衛はすぐに癇癪を起こし、周りを困らせます。困った長政は「見舞いに来てくれた人たちを困らせないでほいと言います。
官兵衛はわざと酷い仕打ちを行い、自分が疎まれる事で、早く長政の代になって欲しいと家臣が思うので、わざと困らせていると言いました。 上に立つものは引き際が肝心です。世代が変わる時に引導を渡せるように、しっかりと準備が必要とわかっていたのですね。

黒田官兵衛の城


[福岡城 出典:Wikipedia]

藤堂高虎や加藤清正と並んで「築城の名手」としても知られています。城作りに大きく関わっている他、本人も何度も城を替えています。その中の一部を紹介します。

姫路城

祖父の重隆は息子・職隆とともに主君の許しを得て天文24年(1555年)~永禄4年(1561年)に姫路城を作ります。外観は現在と異なり、平屋だったようです。官兵衛もそこに住んでいました。
天正8(1580)年に官兵衛は小寺を捨て完全な織田傘下の秀吉家臣になりました。その時に姫路城から退却しています。その後秀吉は大きな城をそこに作りました。

妻鹿城

1577年、羽柴秀吉に姫路城を明け渡した後に住んだ城です。その後は職隆が主に暮らしていましたが、1585年に死去後は廃城になりました。

篠ノ丸城

1580年に信長から山崎1万石を与えられた時に住んだ城です。この城は、羽柴秀吉の播磨攻めで落城した為、官兵衛が修復したそうです。現在は城址には方形の郭群・土塁・堀等の遺構が残るだけで、当時の様子は分かりません。

中津城

1587年に秀吉から豊前12万石を与えられ、作られたのが中津城です。黒田官兵衛が築城し、細川忠興が完成させました。日本三大水城に数えられています。領地の中心にあり、豊前海に流れ込む山国川の河口という天然の堀を活かした作りになっていますね。現在の中津城の天守閣は1964年に作られたものです。

福岡城

1600年の関ヶ原の戦いの功績から筑前一国52万石を与えられ、その地に作りました。朝鮮の難攻不落の城・晋州城をモデルにして造られており、 九州一の規模を誇ります。 当時から残っているのはわずかな部分だけですが、石垣や本櫓などはそのまま残っています。

官兵衛は生涯で沢山の城に住みますが、位が上がるごとに大きな城に移り住んでいます。

黒田官兵衛の逸話


(関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡 出典:Wikipedia)

名前について

黒田官兵衛は初めは祐隆(すけたか)と名乗りますが、後に孝高(よしたか)と名乗ります。高祖父は黒田高政と言い、それより前の黒田家は高の字を名前に使っていた事が由来と思われます。一般的には黒田官兵衛と言う名前、もしくは剃髪後の黒田如水という名前が有名です。大河ドラマでも黒田官兵衛でしたね。昔の人は名前をよく変えていたので、ややこしいですね。

野心について

官兵衛は軍師としてのイメージが強いですが、天下を狙っていたとも言われています。関ヶ原の戦い後、家康は長政に感謝の意を述べ、握手をしたそうです。長政はその事を官兵衛に話しますが、官兵衛は「その時、お前の左手は何をしていた?左手で家康の首を狙えたではないか」と言ったと言われています。
この台詞自体は後世の創作とも言われていますが、「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べていた事は事実のようです。関ヶ原の戦いという最期の大舞台で大きく台頭する気があったのかもしれませんね。

黒田官兵衛の兜


[栗山備後利安 出典:Wikipedia)

『銀白檀塗合子形兜』と呼ばれます。黒田官兵衛が結婚する時に、舅の櫛橋伊定から贈られたものです。兜は椀の形をしており、派手な装飾のないシンプルなものでした。銀箔の下地に、透漆をかける事ど艶のある赤褐色となっています。
お椀型の兜は特徴的であり、何故こんな兜になったかは諸説あります。蓋付きのお椀は合子と呼ばれます。合は連れ添う、結ぶ等の意味があり、結婚を機にもらった兜なので、夫婦愛を表していたのかもしれません。またお椀は戦場では「敵を飲み干す」という意味もあり、軍師として名を馳せた官兵衛にぴったりです。この兜は官兵衛の死の間際に家臣の栗山利康が預かっています。こちらの兜は福岡県ではなく、盛岡のもりおか歴史文化会館にあるので、興味のある方は立ち寄ってくださいね。

黒田官兵衛が行った偉業


[本能寺焼討之図 出典:Wikipedia]

官兵衛は様々な戦に関与し結果を残しています。因幡の鳥取城を兵糧攻めにして落城させたり、毛利の備中高松城を堤防を築いて水攻めにする等、時には手段を選びませんでした。過激な作戦を練りつつも、小田原城攻めの際には北条家に対しては和睦を進言する等の融和策もとっています。
最も官兵衛が迅速に動いたのは、本能寺の変後の毛利家との和睦と、中国大返しでしょうか。信長が亡くなり混乱する中で、秀吉が台頭する足がかりとなりました。
関ヶ原の戦いでは家康につく事で、戦国時代そのものを終結させており、太平の世を作ったとも言えますね。

黒田官兵衛が行った逸話


[秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令) 出典:Wikipedia]

人間関係の達人

秀吉や信長等、主君を大事にしつつ、部下に対しても怒る事は殆どありませんでした。怒る時は怒りますが、その後に簡単な仕事を頼み、相手の気持ちを立てる等の配慮を忘れていません。官兵衛が家督を継いて隠居するまでの間は部下は誰も手打ちにする事はなく、大名の中でもかなりの人格者だったと思われます。

官兵衛とキリスト教

天正11年(1583年)、黒田官兵衛が38歳の頃、キリスト教の洗礼を受け、ドンシメオンという名をもらっています。その後秀吉がバテレン追放令を出した際にはあっさりと棄教しています。後に出家し黒田如水と名を変えており、むしろ仏教への帰依が強いです。
九州はキリスト教の影響が強く、周囲から理解を得る事も目的だったのかもしれません。最後は城主の一命と交換に多くの城兵を解放しています。また、キリシタン大名である小西行長の家臣が追放されると、密かに召抱える等、キリスト教の影響を受けたような行動もみられています。

黒田官兵衛の名言


[崇福寺 出典:Wikipedia]

義にあたりて命を惜むべきにあらず
義理の為に命を惜しんではいけないと言う事ですね。主君への忠誠を重視する儒教の影響を色濃く受けていた事が分かります。信長や秀吉に対しても義理を忘れなかった官兵衛らしいです。

戦いは考えすぎては勝機を逸する。すぐに駆け出すほどの決断が大切だ
これは直感で行動しろと言う意味ではありません。官兵衛は様々な策略を実行し成功させますが、諸大名の力関係、状況や戦況を常に把握し、脳内で様々な策略を練っていたからです。
すぐに戦局に合わせて駆け出すには、それに裏付けられたか確信がないといけません。現在でも優秀なビジネスマンほど、様々なアイデアを脳内で考えて、その状況に合わせた行動を取っているものです。

その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い

部下の能力不足を感じて、処分する人がいるが、元々その人を起用したのは貴方自身である。目利きを間違えた貴方の方が部下よりも罪深い。

このような名言を残しつつ、上司の弱点を指摘してはならない。 と言う旨の名言も残っています。現在にも言えますが、上司も部下も互いの批判はやめようと言う事ですね。

黒田官兵衛にゆかりのある寺院・神社・墓


[黒田如水の墓(崇福寺) 出典:Wikipedia]

官兵衛は若き頃は播磨に、軍師として関東〜中国地方に、関ヶ原の戦い以降は福岡にいたので、各地にゆかりの地があります。今回は播磨の寺院、神社の紹介になります。

播磨国総社

正式名称は射楯兵主神社です。中世にこの地を治めていた赤松氏に敬われたもので、黒田官兵衛の父が1567年に拝殿と神門を修築します。1580年には官兵衛も大名になった際に祈祷を受けています。
姫路市の山陽姫路駅から徒歩15分程の距離にあり、入場料はありません。

またすぐ近くには広峯神社があり、こちらの近くには官兵衛の祖父が住んでいた御師屋敷があります。祖父の重隆はこの地を基盤に目薬を売り、大変繁盛し、有力御家人となるのです。いわば広峯神社一帯は黒田家始まりの場所ですね。

書写山圓教寺

中国征伐の際、官兵衛から離反した別所長治と毛利家に挟まれ、豊臣秀吉は窮地に立たされます。そんな時に官兵衛が書写山圓教寺へ本陣を移す事を提案し、難を逃れたエピソードがあります。

神姫バス「書写ロープウェイ行」で終点下車し、そこからロープウェイに乗る必要があります。

崇福寺に官兵衛と妻光のお墓があります。崇福神社はもともと大宰府にありましたが、黒田家が福岡藩主となり福岡城建設を行う為に移転しました。門は福岡城の城門を移転したものが使われています。現在は福岡市博多区にあります。唐門や仏殿など県指定の有形文化財が多数残る博多の名所です。

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黒田官兵衛の子孫について


[黒田長政騎馬像 出典:Wikipedia] 官兵衛はこの時代には珍しい、一夫一妻でした。妻の櫛橋光とは仲睦まじかったようですね。息子が二人産まれますが、次男の熊之助は水難事故で16歳で亡くなっています。官兵衛の子孫は息子の長政の血筋となりますね。

忠之(長政の長男)の血筋

途中にお家騒動もありますが、子孫は続きました。しかし筑前福岡藩5代目の黒田宣政は子が出来ませんでした。6代目は従兄弟の継高がなり、50年に渡り藩主となります。

子どもにも多く恵まれますが、男子は若くして死去。一橋家徳川宗尹の五男治之を養子に迎えた為、この時点で嫡男としての血筋は絶えました。

福岡藩自体はその後も続き、現在の黒田当主は16代目です。

長興(長政三男)の血筋

長興は筑前秋月藩主となりました。しかし3代目の長軌に子どもがおらず、男系はここで途絶えます。養嗣子の長貞が4代目となり、明治まで存続します。

男子系統は途絶えてはいますが、娘たちは他藩に嫁ぎ、現在にもその血は様々な地域で続いています。

参考文献

https://historivia.com/kuroda-yoshitaka/4696/
https://colorfl.net/kurodakanbeematome/
https://matome.naver.jp/m/odai/
秀吉に天下を獲らせた男 黒田官兵衛

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