井伊直弼とはどんな人?生涯・功績・名言・死因・子孫を解説

井伊直弼は幕末期に江戸幕府の大老を務めた人物です。大老として将軍継嗣問題や日米修好通商条約の調印に関与したものの、桜田門外の変で暗殺されました。井伊直弼は幕末を舞台にした大河ドラマでは必ず登場する人物ですが、その実像については知らない人も多いのではないでしょうか。

今回は井伊直弼の生涯や功績について詳しく解説していきます。

井伊直弼のプロフィール

井伊直弼のプロフィール

狩野永岳による井伊直弼像 出典:Wikipedia

 

井伊直弼は第13代藩主・井伊直中の十四男として生まれた人物です。もともとは藩主になれる人物ではなく、17歳から32歳までの15年間を部屋住みとして不遇の時代を過ごしました。やがて第14代藩主・井伊直元が死去した事で彦根藩の藩主となりました。

井伊直弼は安政5年(1858年)に大老職に命じられ、当時の江戸幕府内で議論となっていた将軍継嗣問題と日米修好通商条約の調印問題を主導します。後に幕府の権威を強める為に安政の大獄を断行するものの、これは諸藩から恨みを買いました。最終的に井伊直弼は桜田門外の変で水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって暗殺されるのです。

氏名 井伊直弼(いいなおすけ)
通称・あだ名 雅号:埋木舎(うもれぎのや)
あだ名:井伊の赤鬼
出生日 文化12年(1815年)10月29日
出生地 彦根城二の丸の槻御殿(現・滋賀県彦根市)
死没日 安政7年(1860年)3月3日
死没地(亡くなった場所) 江戸城桜田門外(現・東京都千代田区)
血液型 不明
職業 箱根藩主・大老
身長 162cm(推定)
体重 不明
配偶者 昌子(松平信豪女)
千田静江(千田高品の養女、秋山正家の娘)
西村里和(西村本慶の娘)
座右の銘 一期一会

井伊直弼の人生年表・生涯

井伊直弼の人生年表

出来事
文化12年(1815年) 井伊直弼誕生
天保2年(1831年) 15年にわたり埋木舎で暮らす
弘化3年(1846年) 彦根藩の後継者となる
嘉永3年(1850年) 家督を相続して彦根藩15代目の藩主となる
嘉永6年(1853年) 黒船来航
安政5年(1858年) 大老に就任
安政6年(1860年) 安政の大獄を主導して殺害される(享年44歳)

 

井伊直弼の生涯①

井伊直弼の生涯①

彦根城二の丸槻御殿にある井伊直弼の生誕地 出典:Wikipedia

 

井伊直弼は文化12年(1815年)10月29日に、第13代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡(現・滋賀県彦根市)の彦根城二の丸の槻御殿で誕生します。井伊家は藩主の子でも後継以外は他家の養子になるか、寺に入るのが決まりになっていました。そして行く先のない者は、兄が藩主になると彦根城下にある「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」と呼ばれる屋敷で暮らすのです。

井伊直弼は養子になる家が見つからずに15年もの間、屋敷で暮らしました。彼は朽ちていく己の運命を呪い、この屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけます。この屋敷で井伊直弼は国学や茶道の他、和歌や鼓 禅 兵学 居合術などの様々な学問や芸能に取り組んでいきました。

井伊直弼の人生が変わるのは弘化3年(1846年)の事です。彦根藩主・井伊直亮は井伊直弼の兄(井伊直中の三男)で、後継として同じく兄である井伊直元(井伊直中の十一男)を養子にしていましたが、井伊直元が38歳の若さで亡くなったのです。井伊直亮には実子がいなかった為、井伊家に残留していた井伊直弼を養子としました。

そして井伊直亮もまた嘉永3年(1850年)に57歳で死去。井伊直弼は逆転ホームランのような形で彦根藩の第15代藩主になったのです。藩主になった井伊直弼は長野主膳などの埋木舎時代の側近を重用。藩士から意見を積極的に聞き、優れた意見を提言した者には褒賞・人材登用などを行いました。

井伊直弼は藩主に就任した際に、前藩主が残した1年分の藩の収入を領民に分け与えています。彦根藩主時代の井伊直弼は名君として彦根では今も語り継がれているのです。

井伊直弼の生涯②

井伊直弼の生涯②

黒船来航 出典:Wikipedia

 

6年(1853年)6月、ペリー率いる黒船が浦賀に来航し、幕府に開国を迫りました。当時の老中首座の阿部正弘は大名に「アメリカの要求に対する対策」を諮問しており、井伊直弼は当初は鎖国論を唱えるものの、後に積極的な交易と開国を主張。

やがて阿部正弘は幕政を譜代大名中心から外様大名などの雄藩藩主を含めた合議制に移行させていきますが、その際に井伊直弼は頭角を表していきます。ただ井伊直弼は譜代大名の筆頭であり、外様大名が発言する事に強い懸念も抱いていました。

また江戸幕府では第13代将軍・徳川家定に実子が授かる見込みがなかった為、次期将軍を誰にするかという問題も浮上。阿部正弘や水戸藩前藩主・徳川斉昭が徳川慶喜を推す中、井伊直弼らは血縁関係から紀州藩主の徳川慶福を推していました。

安政4年(1857年)10月、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが江戸城で徳川家定と謁見。通商条約交渉が本格的に始まります。国際情勢も緊迫する中、安静5年(1858年)正月8日に老中の堀田正睦が孝明天皇に条約調印の勅許を貰いに上洛するものの、孝明天皇はこれを拒否。欧米諸国からの突き上げもある中、江戸幕府は朝廷と欧米諸国の板挟みに遭うのです。

井伊直弼の生涯③

井伊直弼の生涯③

井伊直弼が書いた誓詞の控え 出典:Wikipedia

 

この状況下、井伊直弼は4月23日に大老職に命じられます。それは堀田正睦が江戸に戻ってきた2日後の事でした。井伊直弼自体は勅許なしの条約調印に反対ではあったものの、6月18日にやむなく条約の調印を交渉係の目付・岩瀬忠震に命じ、翌日に条約は締結されるのです。更に同時期に井伊直弼は次期将軍を徳川慶福にする事を決定。井伊直弼が大老になる事で、江戸幕府の問題は新たな展開を迎えました。

6月24日に福井藩主・松平春嶽徳川斉昭が条約調印や将軍継嗣問題について井伊直弼を詰問するものの、彼らに「不時登城をして御政道を乱した罪」として、隠居・謹慎などに処しています。これが安政の大獄の始まりでした。

8月には江戸幕府の対応に立腹した孝明天皇が「戊午の密勅」という幕政改革を指示する勅書を水戸藩に通達。これは孝明天皇が幕府より水戸藩を信頼している事の現れであり、幕府の信頼は地に落ちてしまいます。井伊直弼は戊午の密勅が水戸藩が工作したものと確信し、関与したとされる者達を次々と摘発。

この一連の弾圧は「安政の大獄」と呼ばれ、水戸藩の重役や諸藩の志士、幕臣にも処罰が下ります。安政の大獄で獄死や刑死した者は14人(橋本左内や吉田松陰など)、謹慎や蟄居になった者は100人を超えたのです。安政の大獄により井伊直弼は多方面から恨みを買い、家臣が「大老職の辞任」や「登城時に兵を増やす」などの意見を申し出るものの、井伊直弼は大老としての責務を果たす為、それらの意見を突っぱねたのです。

井伊直弼の死因と最期

桜田門外の変

桜田門外の変

桜田門外の変 出典:Wikipedia

 

万延元年(1860年)3月3日、井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺されます。井伊直弼を乗せた駕籠は60余名の徒士、足軽、草履取りを連れて江戸城に向かっていましたが、桜田門に差し掛かった所で、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の計18名から襲撃を受けたのです。

井伊直弼は襲撃直前に駕籠の外から銃で狙撃され、重傷を負いました。彦根藩士の中には襲撃と共に逃亡した者もいたとされ、井伊直弼の駕籠を守り抜く事は出来なかったのです。最終的に駕籠は何度も刀を突き立てられ、駕籠から引き摺り下ろされた井伊直弼は有村次左衛門に首を刎ねられたのでした。

江戸幕府の最高権力者・大老が暗殺された事は江戸幕府の権威を失墜させたのです。僅か7年7ヶ月後に江戸幕府は大政奉還を行い、朝廷に政権を返上。桜田門外の変は幕府崩壊の契機になりました。

離れた首は返される

離れた首は返される

桜田烈士愛宕山遺蹟碑 出典:Wikipedia

 

ちなみに井伊直弼の首は有村次左衛門が持ち去るものの、彼も重傷を負っていて、若年寄・遠藤胤統 (近江三上藩)邸の前で自決。井伊直弼の首は遠藤家に収容されました。首が返されたのは事変同日の夕方ごろでした。

幕府と井伊家は協議を重ね「主君は負傷し自宅療養中」とし、この時点では井伊直弼は生きているように装ったのです。最終的に井伊直弼の死が公表されたのは3月28日の事でした。

井伊直弼の性格と人物像エピソード

チャカポンと呼ばれた男

チャカポンと呼ばれた男

井伊直安による井伊直弼像 出典:Wikipedia

 

井伊直弼は本来は藩主になる事はなく、埋木舎で生涯を終える筈でした。井伊直弼もその事を分かっており、様々な学問や芸能に打ち込み続けていたのです。彦根城下の領民はそんな井伊直弼を嘲笑し、「茶(ちゃ)」「和歌(か)」「能(ぽん=鼓の音色)」になぞらえて、「チャカポン」と呼んでいました。

結果的に井伊直弼は日本の運命を大きく変える人物になったものの、悲劇の最期を迎える事になります。それが彼にとって良い事だったのか、それは何とも言えませんね。

幕府の為に捧げた男だった

幕府の為に捧げた男だった

彦根城金亀児童公園にある井伊直弼像 出典:Wikipedia

 

井伊直弼は将軍継嗣問題や条約の調印問題などを自らの権力を行使して解決していきました。ただ一連の決断は大きな対立を招く事になり、それは安政の大獄という悲劇に繋がっていきます。井伊直弼が大河ドラマなどで悪役に描かれやすいのは、その決断力が影響しているでしょう。

更に言えば井伊直弼は生真面目な性格だったと伝わっています。当時は江戸城に登城する時の刀は「装飾のない黒塗りのもの」と決められており、井伊直弼はそれを律儀に守っていました。安政の大獄で恨みを買った時に、護衛の人数を増やした方が良いと家臣が提言した時も「供の人数は幕府のルールで決まっている」と、その忠告を受け入れる事はなかったのです。

その生真面目は井伊直弼の良い部分ではあったものの、同時に彼の命を縮める事になったのです。

井伊直弼がやったこと・功績

日米修好通商条約の調印

日米修好通商条約の調印

日米修好通商条約 出典:Wikipedia

 

井伊直弼は勅許のない日米修好通商条約の調印には反対の立場ではあったものの、最終的には朝廷の意向を無視して条約調印を断行します。当時の欧米諸国は東アジアの国々を次々と植民地にしており、それは日本も例外ではありませんでした。

当時の清国はアロー号事件や太平天国の乱など、様々な問題を抱えており、欧米諸国から不平等な条約を結ばされています。江戸幕府は欧米諸国と駆け引きを続けながら、妥協点を見出していたのです。当時の国際情勢からみれば勅許のない条約調印はやむを得ない事態であり、下手をすれば欧米諸国から報復される可能性もありました。

井伊直弼はその決断力で日本を欧米諸国の脅威から救ったと言えるのです。

茶の湯を極める

茶の湯を極める

千利休像 出典:Wikipedia

 

埋木舎時代の井伊直弼は様々な学問や芸能に取り組んでいましたが、特に茶の湯に情熱を注いでいました。茶の湯で井伊直弼は「宗観」の名を持ち、武家茶道である石州流の中に一派を確立させています。

茶の湯の世界で有名な言葉として「一期一会」があります。これは「茶の湯の機会を一生に一度の出会い」とする考え方であり、千利休の言葉とされます。ただ当時はされほど有名な言葉ではありませんでした。

井伊直弼は著書『茶湯一会集』巻頭に一期一会という言葉を載せ、この一期一会という言葉を広める事に一役買いました。仮に井伊直弼が彦根藩主にならずに部屋住みで生涯を終えたとしても、茶の湯の世界で頭角を表していたのかもしれません。

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井伊直弼の名言

井伊直弼の名言

掃部山公園にある井伊直弼銅像 出典:Wikipedia

 

世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

埋木舎に住み始めた井伊直弼が詠んだ歌です。自らを「花の咲く事のない埋もれ木と称し、自らが住む屋敷を埋木舎と称した井伊直弼。この歌からは世の中に対する諦めと、自分には「為すべき業」があると言い聞かせる井伊直弼の心情がよく現れています。

人はなるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることはむずかしい

目標を達成する為に必要なのは、その物事を楽しむ心です。どんな目標があれども、目標を達成する事だけに囚われてしまてば、それは義務になってしまいます。楽しむ心を持つ事で、心にゆとりも生まれるでしょう。

こうした発言をするという事は大老として多忙な日々を送る中でも、井伊直弼は楽しむ心を持っていたのかもしれません。

井伊直弼の家族や子孫

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼ですが、彼には家族はいたのでしょうか。そして子孫は今も健在なのでしょうか。この項では井伊直弼の家族や子孫について解説していきます。

井伊直憲(1848年〜1902年)

井伊直憲(1848年〜1902年)

井伊直憲 出典:Wikipedia

 

井伊家は桜田門外の変で御家断絶の危機に遭うものの、万延元年(安政から改元)4月28日に次男の井伊直憲が家督を継ぐ事を許されました。彼は井伊直弼とは対照的に地味な性格だったようです。井伊家は桜田門外の変の失態で減封された為、幕府とは険悪となります。

その縁もあり戊辰戦争では新政府軍に着き、その功で賞典禄2万石を付与されており、明治維新後は彦根藩知事になっています。

井伊直安(1851年〜1931年)

井伊直安(1851年〜1931年)

井伊直安 出典:Wikipedia

 

井伊直弼の四男であり、桜田門外の変の時は9歳でした。戊辰戦争では新政府軍につき、明治維新後には藩校・正徳館を再興しています。彼は日本画・洋画に秀でており、有名な『井伊直弼画像』は彼が描いたものでした。

井伊直弼の子孫

井伊直弼の子孫

井伊直愛 出典:Wikipedia

 

井伊直弼の子孫として有名なのは井伊直憲の孫である井伊直愛(1910年〜1993年)でしょうか。彼は1953年から連続9期にわたり彦根市の市長を務めた人物です。公務の傍で水産学の研究を続け、「極東海域におけるアミ類の分布に関する研究」で農学博士号を取得しています。

ちなみに井伊直愛は双子で、弟の井伊直弘は昆虫学者でありつつ農林省に勤務。彦根城博物館初代館長も務めました。

現在の井伊家の当主は第18代目の井伊岳夫氏(1969年〜)です。彼は井伊直愛の孫娘である井伊裕子氏(1968年〜)と結婚した婿養子であり、2008年から彦根城博物館の館長に就任しています。就任当初の年齢は38歳と異例の若さでした。これは井伊家自体が彦根市の文化財と判断された為です。

井伊直弼、そして井伊家は現在でも彦根市の市民に愛されていると言えるのです。

井伊直弼のゆかりの地

桜田門

桜田門

桜田門 出典:Wikipedia

 

桜田門は江戸城(現在の皇居)の内堀に作られた門の一つであり、このすぐ近くで桜田門外の変が起きました。1961年に国の重要文化財に指定されています。井伊直弼の邸宅は桜田門から西に500m程の距離にあり、現在では憲政記念館が建てられています。歴史のターニングポイントになった場所であり、目をつぶれば当時の様子が想像できるかもしれません。

住所:東京都千代田区霞が関2丁目

埋木舎

埋木舎

埋木舎 出典:Wikipedia

 

藩主ではなかった頃の井伊直弼が彦根城下で住んでいた屋敷です。創建は宝暦9年(1759年)頃。素材は質素であり、大名が住むような邸宅には見えません。この地で井伊直弼は長野主膳から様々な学問を学んだ他、書、絵、和歌などの様々な趣味に没頭します。

この場所は井伊直弼の苦悩の日々を映す場所であると共に、井伊直弼の原点とも言えるのです。

住所:滋賀県彦根市尾末町1-11

豪徳寺

豪徳寺

井伊直弼の墓 出典:Wikipedia

 

井伊直弼のお墓がある場所です。豪徳寺は彦根藩ニ代目藩主・井伊直孝の頃から井伊家の菩提寺となりました。山門をくぐれば左手に井伊家の歴代のお墓があり、一般公開もされています。代を重ねるごとにお墓は中心地から遠い場所に建てられているので、井伊直弼のお墓は豪徳寺内の奥の方にあるのです。

お墓の近くには桜田門外の変で井伊直弼を守ろうとして討ち死にした家臣のお墓も存在します。

住所:東京都世田谷区豪徳寺2-24-7

井伊直弼の関連人物

長野主膳

長野主膳

長野主膳 出典:Wikipedia

 

長野主膳は幕末の国学者であり、井伊直弼が埋木舎で過ごしていた頃から接点がありました。やがて井伊直弼が彦根藩主になった時に彼も彦根藩士になり、井伊直弼の藩政改革に協力しています。井伊直弼は長野主膳に強い影響を受けており、将軍継嗣問題や安政の大獄でも長野主膳が裏で暗躍していたともされます。

井伊直弼は暗殺された後も長野主膳は藩政に関与するものの、井伊直憲からは疎まれる事になり、後に斬首・打ち捨ての刑にあいました。当初は葬儀すら禁止されていたものの、明治期に井伊直弼が表彰されると長野主膳も汚名を返上し、彦根の天寧寺に墓所が建立されています。あまり語られる事のない人物ですが、彼もまた日本に大きな影響を与えた1人なのです。

吉田松陰

吉田松陰

吉田松陰 出典:Wikipedia

 

吉田松陰は幕末の長州藩士であり、松下村塾という私塾で多くの維新志士を育てた人物です。彼は安政の大獄で梅田雲浜が捕縛された時に、雲浜が萩に滞在した時の会話の内容を聴取する為に伝馬町牢屋敷に投獄されました。吉田松陰はこの取り調べの時に「老中暗殺計画」を自ら暴露します。

結果的に井伊直弼の怒りに触れ、吉田松陰は死罪になりました。桂小五郎高杉晋作伊藤博文などの長州藩士はこの時の強い怒りを倒幕というエネルギーに変えたのです。井伊直弼が吉田松陰を斬首した事は、倒幕の導火線になったと言えるでしょう。

井伊直弼の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

茶湯一会集・閑夜茶話

井伊直弼といえば大老や暗殺されたイメージが強いですが、当時の藩主の中では指折りの文化人でもありました。埋木舎の屋敷で彼は茶道を極め、一期一会の境地に達しました。この本は井伊直弼がたどり着いた「茶道の真髄」が書き記されています。この本を読めば井伊直弼の新たな人物像が見えて来る事でしょう。

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―幕末バトル・ロワイヤル―井伊直弼の首

本書はゴシップ観に基づいて井伊直弼の生きた時代を解説しています。条約勅許、将軍継嗣問題、地震、インフレ、コレラなど、様々な問題が山積する中、井伊直弼は朝廷の意向を無視して条約に調印し、反対派を弾圧する事で勢力を保持します。ただそれは「終わりの始まり」に過ぎなかったのです。

本書を読めば、「教科書とは異なる幕末」が見えて来る事でしょう。

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井伊直弼 己れの信念を貫いた鉄の宰相

井伊直弼の生涯を描いた歴史小説です。井伊直弼と聞けば安政の大獄で大弾圧を行った人物というイメージがありますが、彼もまた己の信念を貫き、国難から日本を救う為に奔走した人物である事が分かります。

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おすすめの動画

井伊直弼が暗殺された後、井伊家はどのような足跡を辿ったのかそれに焦点を当てた動画です。水戸藩(水戸市)と彦根藩(彦根市)は幕末に対立したものの、後に親善都市盟約を締結しました。その過程が分かれば歴史が現在にも続いている事が分かるでしょう。

おすすめの映画

柘榴坂の仇討

井伊直弼の仇討ちを遂げる為、明治の世も水戸浪士を探し続ける彦根藩の下級武士・志村金吾の物語。井伊直弼を演じたのは中村吉右衛門であり、1995年の『鬼平犯科帳 劇場版』以来の映画出演でした。仇討ちと己の信念、そして時代のうねりに翻弄される男達の生き様に心を動かされる作品となっています。

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桜田門外ノ変

吉村昭の歴史小説を映画化した作品です。主人公は襲撃を指揮した水戸藩士・関鉄之介。井伊直弼を演じているのは伊武雅刀でした。当時の状況を忠実に再現した作品であり、どちらかというとチャンバラなどよりは歴史を詳しく知りたい人におすすめの内容となっています。

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おすすめドラマ

青天を衝け

2021年に放送された渋沢栄一を主人公にした大河ドラマです。井伊直弼を演じたのは岸辺五郎であり、徳川家定に忠誠を誓い、幕府の為に自らが汚れ役になる事を厭わない人として描かれていました。

岩瀬忠震が悪口を話していた事に狼狽するなど、本作の井伊直弼はどちらかといえば小心者。身の丈に合わない大老職を拝命しながら、それに苦労する様子も描かれています。渋沢栄一だけでなく、幕末の情勢を知る上でも良い作品です。

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井伊直弼についてのまとめ

今回は井伊直弼について解説しました。埋木舎で生涯を終えるはずが、結果的に大老になった井伊直弼。実に起伏の激しい人生を送ったと言えます。安政の大獄のイメージはつきまとうものの、彼自身は幕府の権威を復活させる為に汚れ役を買って出ていた事は忘れてはいけません。

安政の大獄は大きな損失を日本に与えたものの、それは現在から見た視点です。井伊直弼や幕臣にとって、幕府の権威を守る事はとても大事です。彼は彼なりの決断で国難を乗り切ろうとしたのでした。今回の記事を通じて井伊直弼に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

母利 美和 井伊直弼
野口 武彦 ―幕末バトル・ロワイヤル―井伊直弼の首

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