全盲!?塙保己一の生涯と人物像まとめ!逸話・名言も解説

 

ヘレン・ケラーが目標としたという江戸時代の国学者、塙 保己一。

塙 保己一は、点字もない時代に、日本の古典文学や雑多な史料を集め、膨大な文献集をつくりました。
全盲である彼が、どうやって書物を読んだり文献を理解したり出来たのでしょうか。

この記事では、塙 保己一の生涯と人物像、逸話や名言なども紹介していきます。

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塙保己一とは?

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/塙保己一

塙 保己一(はなわ ほきいち)は、江戸時代を生きた国学者(日本の古典研究者)です。
現在の埼玉県本庄市に生まれ、7歳のころ病気により視力を失いました

ものおぼえがよく、勉強が好きな保己一は、その後苦労しながらも学問で身を立てました。
15歳で江戸に出て学問をおさめ、34歳のときに各地にちらばる貴重な古書を集めて本にすることを志したのです。

そして40年後、74歳のときに『群書類従』という全集を編集しました。

ヘレン・ケラーが目標とした人物

塙 保己一は、自らが重度の障害をおいながらも障害者教育や平和活動に貢献した、世界的偉人ヘレン・ケラーの尊敬する人物でもありました。
彼女は、初来日したとき渋谷の温故学会を訪れ、塙 保己一の像や愛用の机にさわったあと、次のように語ったと言われています。

「わたしは幼いときに母から、『日本には幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙先生という方がいました。あなたの人生の目標となる人ですよ』と聞き、苦しいときもつらいときも努力することができたのです」

「わたしは塙先生のことを知ったおかげで、苦難を克服することができました。心から尊敬する方です」

「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

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暗記をして進めた学問への道

全盲である保己一は、「ものおぼえが良い」という長所を生かして、誰かに読んでもらったものを暗記して学問を進めていきました。
また、耳からだけではなく、触覚によっても多くの事を学んだのです。
手のひらに書いてもらった字をなぞって覚え、草花の種類はにおいをかいだり、手で触って区別できたりしたと言われています。

 

塙保己一の生涯

源氏物語講義の図

出典:http://www.onkogakkai.com/index.html

誕生

塙 保己一は、1746年6月23日延享3年5月5日)に長男として生まれました。

場所は、武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)で、父・宇兵衛より寅之助と名付けられます。
この名は、生まれ年の干支(丙寅)にちなんでつけられました。

母は加美郡木戸村(現在の上里町藤木戸)の名主斎藤理左衛門家の娘きよ。
翌年には、弟・卯右衛門(うえもん)も誕生。

失明

5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかり、目痛や目やにの症状が出はじめます。
毎日、母親の背に負ぶわれ、つらい医者通いを続けるも症状は一向に良くならず視力はどんどん衰えていきました。
そして、7歳の春のある日、いつにない目の痛みに襲われ苦しんだ保己一の目は、ついに何も見えなくなり失明に至ったのです。

あるとき、保己一のことを聞いた修験者に年を2つひき、名前をかえれば治るといわれ、名を辰之助と改めます。

目が見えず邪魔者扱いされても、いじめられても、人を恨まない強い保己一は、いつしか他の子供らから一目置かれ始め、村のおとなたちもその心根の優しさをほめたたえました。

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江戸へ

やがて、保己一が12歳のときに最愛の母きよが過労のため亡くなりました。
哀しみの中、江戸を行き来している絹商人から「いつまでも泣いていないで、しっかりしてこそお墓の中のおっ母さんも安心なさるんだよ」と励まされます。

そして、江戸では盲人でも生計を立てているという話を聞き、江戸で学問をすることを決意します。
保己一は、懇意にしている龍清寺の和尚のはからいにより、江戸の雨富検校弟子入りの話をもらうのでした。

15歳で江戸へ出て、雨富検校須賀一の門人となり、名を千弥と改めます。
当時、盲人たちは当道という盲人の組織に属し、ハリ・按摩・貸金の技を身につけそれを生業とすることが一般的でした。
しかし、生来不器用な保己一はハリも按摩も上達せず、まして座頭金(貸金)の取立てなどどうしてもできなかったのです。
学問への道も見つけられず苦しみ、一度は投身自殺をしようとするまで思い悩んだのでした。

命を落とす寸前で助けられた保己一は、雨富検校に悩みをうちあけ、学問への想いを話しました。

保己一の切なる心の内を聞いた雨富検校は、「泥棒と博打以外なら何をやっても良い。ここに居て、学問をおもいきりやってみるが良い。ただし、3年たっても学問への見込みが立たないようならば、その時は故郷へ帰す」という優しさのこもった言葉をかけたのでした。

 

学問への道

学問への想いから投身自殺をしかけたことがうわさになると、かえってそれが好都合となりました。
周りの者たちが気遣うようになり、本を持っている人や読んでくれる人を紹介してくれるようになったのです。
そういった縁から、ある日、旗本の高井大隅守実員の奥方を紹介してもらい、按摩をした報酬として書物を読んでもらうことなりました。

実員も奥方も、真っすぐな心で邪心のない保己一の人柄に好感をもち、『栄華物語』40巻(藤原道長、頼通の栄華を中心に、平安貴族の生活を物語にしたもの)を贈り、もっと力になってあげたいと思うのでした。

熱心に書物を追い求める保己一のことがだんだん評判になってくると、隣に住む旗本・松平乗尹からも声がかかり、1日おきに書物を読んでもらえることになりました。

乗尹は、保己一の学問に対する異常なまでの熱心さと記憶力の優れていることに大変感心します。
保己一の才能をなんとかして引き立ててやりたい乗尹は、萩原宗固、山岡浚明らを紹介して、文学・医学・律令・神道など幅広い学問を学ばせてやるようにしたのです。

1763年、18歳となった保己一は衆分の位階を得て、保木野一と名乗ることになります。
しかしながら、まだ学問で身を立てることが出来ていない己の身の上を思い、また祖父・弟の突然の死が重なり、いつしか心を病んでいく保己一。
心配した雨富検校のすすめで、父と2ヶ月の関西旅行をして心を癒した保己一は、以前にも増して学問に打ち込んでいったのでした。

1769年、24歳の春には、賀茂真淵にも入門して『六国史』などを学びました
真淵はその後わずか半年で亡くなったため教えを受けた期間は短かったのですが、師から得た学問や研究仲間は、保己一にとって生涯にわたってかけがえのない財産となったのです。

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『群書類従』の編纂を決意

1775年、30歳となった正月に保己一は勾当となりました。
それに伴い姓を名乗ることを許されたため、雨富検校の姓をもらうことにし、塙 保己一と名乗ることになりました。

1779年、保己一(34歳)は『神皇正統記』や『懐風藻』などの貴重な古書が、歴史の中に埋もれて失われていく事を嘆きました。
そして、それらを収集・編纂して、出版することを決意し、『群書類従』と名付けることにしたのです。
また、その成就を願い、『般若心経』を毎日100巻1000日間読み続けることを誓ったのでした。

検校となる

1782年、保己一は紀伊家の医師東条清民の娘テイと結婚。

翌年1783年、38歳の保己一はついに検校となり、そのうえ初めてのわが子の誕生、と慶事は続きます。
娘とせ子の存在は保己一に大きな喜びを与えました。弟子も増え、今後の事業の計画も立てやすくなり順風満帆でした。
こののちは年月の経過とともに、十老、総検校へと昇進していくことが出来ます。

また、この年、日野資枝に師事し和歌を学びました

和学講談所を開設

1793年、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設します。
この和学講談所を拠点として、記録や手紙にいたるまで様々な資料を集めて『群書類従』を編纂したのです。

1785年、妻テイと離婚。テイは3歳になった娘とせ子を置いて去っていきました。
またこの年には、水戸家の学者・立原翠軒の紹介により水戸藩主・水戸文公(治保)に目見え、『源平盛衰記』の校正にあたることになります。
そして1789年には『大日本史』の校正にも加わることになったのです。

この頃、鳥見役・西文次郎の娘、たせ子と再婚。
たせ子は、教養があり、書物もよく読み、保己一を理解してくれる人だったようです。
幼い娘とせ子の養育にきちんと向かい合ってくれるたせ子に、保己一は深く感謝したのです。
翌年1790年、長男寅之助が誕生します。

『群書類従』の完成

1803年に座の総録職となります。
1805年には盲人一座の十老となりますが、この年に最愛の妻たせ子が亡くなります。
1819年、保己一はついに『群書類従』666冊を完成させます。思い立って実に40年目の祈願成就となるのでした。

塙 保己一の死

1821年2月には、盲人社会の最高権威である総検校となります。
そして同年9月に、大勢の有能な弟子や家人に見守られ、塙 保己一は76歳で永眠しました。

 

塙保己一の人物エピソード

保己一が幼年期によく過ごした龍清寺

出典:http://www.onkogakkai.com/index.html

幼年期の保己一

きゃしゃで体もあまり丈夫でなかった保己一は、ちゃんばらごっこの仲間に入れてもらえず、4歳の頃には弟の卯右衛門に背丈を追い越されました。
草花を眺めて過ごすことが好きで、名前を知りたがったり、匂いで花を見分けられるようになったりして周りの大人たちを驚かせたのでした。

保己一の記憶力

目が見えなくなってからの保己一は、父や母や祖父、龍清寺の和尚から聞いた話など、全て一言一句違えずに覚えるほど、物覚えがよかったのです。
どんな書物も一度聞いたら忘れず、「字」というものがあり、その字がちゃんと意味を持っていることに強い興味を覚えた保己一は、もっとたくさん書物を知りたい、もっとたくさんの書物を読んでほしい、と思うようになりました。

保己一の集中力

ある夏の夜、障子を開け放っていると、庭から入ってくる蚊に邪魔され我慢が出来なくなりました。
つい蚊を手でたたいたりして、気が散ってしまってはせっかく読んでもらっている書物を聞きもらしてしまう、と両手をひもで結んでしまったそうです。

保己一の性格

何事も一心に打ち込み、前向きで熱心。
目が見えないのに、対面で読んでもらいすべて記憶した超人的な才能の持ち主。
素直で飾らない、高潔な人物。

保己一の心の広さと金銭への淡泊さ

1784年、恩師・雨富検校が重い病にかかりました。
その病床へ毎日お見舞いにきていた保己一に、雨富検校は「残った遺産を相続し、今後の事業に役立てるがよい」と告げます。
そのとき保己一は、「身一つで何も持たずに国元からでてきた私に、お師匠さまはこれまで言葉に尽くせないほどのお恵みを与えてくれました。これ以上は何も望みません。どうかまだ職のない他の弟子たちにお与えください」と涙して固辞したといいます。

 

塙保己一の偉業・逸話

書物の宝庫である『正続群書類従』

『群書類従』は、保己一74歳のときに完成。
34歳のときに思いたち、40年という実に長い年月に渡り手がけた一大叢書です。

『続群書類従』は、生前に完成こそできなかったものの、180年ほども経った、1972年に続群書類従完成会(『続群書類従』出版事業を行うため設立された)により完成しました。

  • 収集法が公平であり、普遍的である
  • 分類が的確である
  • 校正が厳密であって、史料としてのゆるがない価値をもっている
  • 異本、珍本を集めている
  • 著名なもののほか、散逸しがちな小さな文献なども収められている

など、他に類を見ない叢書として知られています。

いま、日本文化の歴史を究明するうえで、保己一の残した『群書類従』はなくてはならないものです。
“書物の精”といわれた塙 保己一の偉大な功績です。

塙保己一史料館に保管されている『群書類従』の版木17,244枚

出典:http://www.onkogakkai.com/index.html

塙 保己一が尊敬した、ふたりの偉人たち

  • 天満天神としてまつられている学問の神、菅原道真
  • 身分の低い家に生まれたにも関わらず、織田信長に仕え功をあげ天下統一を成し遂げた豊臣秀吉

現在の400字詰原稿用紙の基となる

塙 保己一が製作していた版木は、20字×20行の400字詰に統一させていました。
これが、現在私たちが使っている400字詰原稿用紙の基であることには驚かされます。

 

塙保己一にゆかりのある地

塙 保己一史料館

公益社団法人 温故学会会館

出典:http://www.onkogakkai.com/index.html

所在地:東京都渋谷区
2000年、登録有形文化財に登録されています。
初代理事長は斎藤茂三郎。

温故学会塙保己一史料館には、17,244枚にもおよぶ『群書類従』の版木が保管
また、ヘレン・ケラーが来日したときに、温故学会を訪れ、塙 保己一の坐像や愛用の机などの遺品に触れて賛辞を述べています。
版木倉庫、遺品は一般公開されています。

塙 保己一の生家

塙 保己一の生まれ故郷 保木野

出典:http://www.onkogakkai.com/index.html

所在地:埼玉県児玉町保木野
文部省指定史蹟となっています。
そのままの姿で現存しているそうです。

塙 保己一和学講談所跡碑

所在地:東京都千代田区
現在、和学講談所の資料は、東京大学資料編纂所に引き継がれています。

 

 

塙保己一の子孫

長女・とせ子

母・東条清民の娘テイ。
1804年8月21日、中津金十郎と結婚、のちに離縁。
1858年3月18日(77歳)死去。

長男・寅之助

母・西文次郎の娘たせ子。
1797年4月末日(8歳)死去。

次男・道之助

母・岡田惣次郎娘・イヨ。
1803年5月11日(2歳)死去。

三男・熊太郎

母・岡田惣次郎娘・イヨ。
1828年、五味忠次郎の養子となり、和三郎と改名。のち離縁。
1875年10月16日(71歳)、番町の塙家において死去。

四男・次郎(忠宝)

母・岡田惣次郎娘・イヨ。
和学講談所、相続。
1862年12月22日(56歳)、浪士に襲われ、横死。

四男の次郎(のちの忠宝)のみ子をなしているため、保己一の孫はすべて忠宝の血筋。
直系では、敬太郎(忠韶)、忠雄、五郎、保次、保雄と続きます。

1923年、塙 保己一曾孫・忠雄氏は、門人・斎藤茂三郎氏に後を託し死去。
この斎藤茂三郎氏(温故学会現会長のご尊父)により、社団法人温故学会が創設されました。

 

塙保己一の名言

「わずか四十巻の本を暗記することで妻子を養えるなら、自分にも不可能なことではない」

江戸では『太平記』を暗記して、それを読み聞かせて生計を立てている人がいる、と絹商人から聞いたときの言葉です。

「命かぎりにはげめば、などて業の成らざらんや」

見つけられない学問への道と生業の習得の難しさに苦しみ、自殺をしようとするまで思い悩んだときの言葉。
「命ある限り精一杯はげめば出来ないことはない」と思いとどまったのです。

「暗くなると書物が見えないとは、目あきというのは不自由なものじゃ」

和学講談所で『源氏物語』の講義をしているときのことです。
あまりの暑さに弟子の一人が障子を開けました。
そのとき風が吹いて、ろうそくの火が消えたのですが、保己一はそれとは知らず講義を続けました。
弟子たちがあわてて保己一にそのことを伝えたときに言った、冗談のようです。

 

参考文献

  • 『塙保己一の生涯』(花井泰子/紀伊国屋書店)
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  • 『世界から絶賛される日本人』(黄文雄/徳間書店)
  • 塙保己一史料館 公益社団法人 温故学会
    http://www.onkogakkai.com/index.html
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