徳川家光とは何をした人物?生涯・功績・名言・死因・子孫も解説

徳川家光は江戸幕府の3代目の将軍であり、徳川家康の孫にあたる人物です。彼は関ヶ原の戦いの後に生まれた人物であり、戦国時代から江戸時代へと時代が移り変わる象徴とも言える存在でした。

彼は島原の乱の鎮圧や、鎖国体制の確立などの政策を行っています。教科書でも必ず習う人物ですが、その人物像や功績については知らない人も多いでしょう。今回は徳川家光の生涯や功績、名言などについて解説していきます。

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徳川家光とは

徳川家光とは

徳川家光像 出典:Wikipedia

 

徳川家光は1604年に、2代目将軍・徳川秀忠の次男として誕生。病弱な人物ではあったものの、1623年に将軍に就任しています。しばらくは徳川秀忠が政治の実権を握りますが、1632年に徳川秀忠が死去すると、政治の実権を掌握しました。

彼は老中・若年寄・奉行・大目付の制などを定め、徳川将軍を最高権力者とする幕藩体制を確立。更に武家諸法度を改正して、参勤交代を義務付けています。この他には、1633年頃から鎖国体制を確立させた他、1637年に天草四郎を主犯として起きた島原の乱の鎮圧にもあたりました。

徳川家光は一連の政策を主導しながら、幕府の安定化を図っています。江戸幕府が260年にのぼる長期政権を築く事ができたのは、徳川家光が行った政策も大きく反映されているのです。

出来事
氏名 徳川家光(幼名は竹千代)
通称・あだ名 生まれながらの将軍
出生日 慶長9年(1604年)7月17日
死没日 慶安4年(1651年)4月20日
死没地(亡くなった場所) 江戸城内
血液型 不明
職業 徳川家の将軍
身長 157cm(推定)
体重 不明
配偶者 正室:鷹司孝子 側室:振など
座右の銘 「二世ごんげん(権現)、二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」

 

徳川家光の人生年表・生涯

徳川家光の人生年表

出来事
1604年 徳川家光誕生
1605年 父・秀忠が将軍となる
1620年 元服
1623年 3代目の将軍となる
1632年 徳川秀忠死去
1633年 鎖国体制の構築
1635年 武家諸法度の改定
1637年 島原の乱
1642年 寛永の大飢饉
1650年 病気により死去(享年48)

 

徳川家光生まれる

徳川家光生まれる

徳川家光の父親の徳川秀忠 出典:Wikipedia

 

徳川家光は慶長9年(1604年)7月17日に、徳川家康の嫡男である徳川秀忠の次男として誕生します。長男の長丸は既に亡くなっていて、徳川家光は嫡男として育てられました。幼名は徳川家康と同じ、竹千代という名前を与えられています。

徳川家光は幼少期は病気がちであり、吃音持ち。更に容姿も優れているとは言えませんでした。慶長10年(1605年)に秀忠が将軍となりますが、大御所として徳川家康が引き続き権力を掌握します。

翌年に弟・国松(後の忠長)が誕生しており、秀忠は彼をとても可愛がった為、一時は徳川家光に廃嫡の危機が迫ります。ただ大御所である徳川家康が、長幼の序を明確にした為、元和3年(1617年)に徳川家光が正式な嫡男として認められる事になりました。

やがて1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」を経て、豊臣家は滅亡。徳川家康による江戸幕府の支配権力は確立します。そして全てを見届けた徳川家康は、元和2年(1616年)6月にこの世を去りました。

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徳川家光将軍になる

徳川家光将軍になる

模擬大天守、小天守 出典:Wikipedia

 

元和6年(1620年)に徳川家光は元服し、この時に竹千代から正式に徳川家光と名乗ります。後継者としての地位も確立し、元和9年(1623年)6月には右近衛大将に任じられ、7月27日に伏見城で将軍宣下を受けて、正式に3代目の将軍に就任しました。

しばらくは徳川秀忠が政治の実権を握るものの、寛永9年(1632年)に徳川秀忠が死去。ついに徳川家光が名実共に政治の実権を握る事になりました。

徳川家光が最初に行ったのは、旗本の再編による将軍直轄軍団の強化と、加藤清正の息子・加藤忠広の改易です。更に老中・若年寄・奉行・大目付の制なども制定しています。そして寛永12年(1635年)に武家諸法度を改正し、この時に参勤交代という制度が義務付けられたのです。

対外政策としては、長崎貿易の利益独占目的、国際紛争の回避、そしてキリシタンの排除を目的に、対外貿易の管理と統制の強化を図ります。寛永10年(1633年)から、寛永13年(1636年)にかけて鎖国令を主導。朱印船貿易は終焉を迎え、寛永13年(1636年)になると長崎に出島が完成し、ポルトガル人はそこに隔離されます。

やがて寛永14年(1637年)に、キリシタンの武力蜂起である島原の乱が勃発すると、ポルトガル人との国交断絶が決定されます。出島で貿易を行うのはオランダのみに限られる事になりました。

徳川家光の時代に貿易が許されたのは「松前藩とアイヌ」、「対馬藩と李氏朝鮮」、「長崎とオランダ」、「薩摩藩と琉球」の4つに限られる事になり、後世に鎖国と呼ばれる体制が完成しています。

家光の後半生

家光の後半生

飢饉の様子(画像は天保の大飢饉のもの)出典:Wikipedia

 

寛永18年(1641年)には嫡男である竹千代が誕生。彼は4代将軍の徳川家綱であり、更に正保3年(1646年)には徳松(後の徳川綱吉)も生まれています。

後継者には恵まれた徳川家光ですが、寛永19年(1642年)頃から寛永の大飢饉が発生し、国内で多くの餓死者が発生しました。この飢饉は各藩を治める諸大名や、農民の農業の在り方にも大打撃を与える事になり、正保元年(1644年)に農民統制を目的に田畑永代売買禁止令を発令しています。

一連の改革に着手する徳川家光ですが、彼は元々病気がちな人間です。一連の激務は徳川家光の身体を徐々に蝕んでいったのです。

徳川家光の死因と最期

徳川家光の死因と最期

徳川家光の遺体が安置された寛永寺 出典:Wikipedia

 

徳川家光の死因は脳卒中と言われています。元々体調のすぐれなかった徳川家光ですが、死の前日の慶安4年(1651)4月19日に、献上品の茶碗を鑑賞していた際に卒倒。歩行障害などの症状が見られ、翌日に48歳で息を引き取っています。

徳川家光の死に伴い、堀田正盛や阿部重次、内田正信などの忠臣が殉死しています。また徳川家光の遺言により、遺骸は東叡山寛永寺に移された後で、日光の輪王寺に葬られました。

徳川家光が肌身離さず持ち歩いたお守り

徳川家光が肌身離さず持ち歩いたお守り

徳川家康 出典:Wikipedia

 

徳川家光は辞世の句を残してはいません。そのかわり、「二世ごんげん(権現)、二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」と書かれた紙の入ったお守りを肌身離さず持ち歩いていました。

大権現とは祖父である徳川家康の事であり、徳川家光は彼の口添えで将軍になれた事をずっと感謝し、尊敬の念を抱いていた事が分かるのです。晩年になると、家光はたびたび家康の姿を夢に見ており、狩野探幽にその肖像を描かせていたそうです。徳川家康は3代目の将軍として責務を果たした徳川家光をどのように評価しているのでしょうか。

徳川家光の性格と人物像エピソード

男色好きだった徳川家光

男色好きだった徳川家光

大奥 出典:Wikipedia

 

徳川家光は男色(男同士の性愛)家だったとされています。戦国時代には男色好きな武将が多かった事も事実であり、徳川家光もその風紀に染まっていたのです。幼少期から男色の傾向のあった徳川家光は、16歳の頃に坂部五右衛門という小姓を斬り捨てていますが、それは彼が別の男の小姓と戯れていた事が許せなかったからです。

しかし男色に耽り続けると、世継ぎが生まれないのもまた事実。大奥が誕生したのは、こうした徳川家光の性癖を懸念した事から生まれたのでした。なお徳川家光は当初は大奥の女性に興味を持たず、男装したお振という娘に興味を持ったようです。結果的に、それ以降は女性にも興味を持ち、徳川家光は多くの男児に恵まれる事になりました。

絵が好きだった徳川家光

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こちらの本の表紙の絵を描いたのは徳川家光です。ウサギには見えるけど、なんとも言えない独特な画風が癖になると一部では言われています。徳川家光は御用絵師として狩野探幽を招くなど、絵を趣味にしていた事が分かっています。

とはいえ、徳川家光の描いた絵はどれもシュール。当時の一級の画家から教えを受けていた徳川家光なので、絵の上手い下手が分からないはずがありません。専門家によると、徳川家光は「あえて逸脱した絵を描き、そこに価値を見出していた」とも言われています。

男色にのめり込み、シュールな絵をあえて描く。徳川家光は私達が思う以上に癖の強い人物なのかもしれません。

徳川家光がやったこと・功績

幕府の官僚制の構築

幕府の官僚制の構築

江戸城 出典:Wikipedia

 

徳川家光は将軍に就任した時点では、父親の徳川秀忠が権力を握っていました。やがて徳川秀忠が亡くなった時に、ようやく徳川家光は自らの方針で政策の舵取りを行なっていきます。

徳川家光が行ったのは、江戸幕府における官僚制の構築です。当時は戦国時代の風習や、歴戦の戦いで功績を残した人物が強い権力を握っていた時代です。それを徳川家光は改め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を作り上げたのでした。具体的には、徳川直臣である旗本を再編し、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を明確化していきます。

そして、熊本藩主として大きな発言力を持っていた加藤忠広を改易するなど、有力大名の改易と転封を何度も実施。幕府における重要拠点には、譜代大名を任命するなどして、江戸幕府の発言力を更に高めていきます。徳川家光は「生まれながらの将軍」である事を逆手にとり、戦国時代からの恩恵やしがらみを排した政治を行なっていきます。

この政策が功を奏し、江戸幕府は平和な時代に即した組織に作り替えたのでした。

参覲交代

参覲交代

参覲交代の様子 出典:Wikipedia

 

徳川家光が行った政策の中で、特に有名なのが参覲交代です。参覲交代は、大名家が2年毎に江戸に参覲して、1年経つと自分の領地に引き上げる制度です。大名達は江戸の滞在費や、江戸に向かう旅費も負担する必要がありました。この制度は、諸藩の軍事力を低下させる役割があったのです。

参覲交代は諸藩の財政難の原因となったものの、参勤交代用の橋や道路が建設されるなどして、日本全土の都市や交通を大いに発展させる事になりました。

徳川家光の名言

徳川家光の名言

徳川家光像 出典:Wikipedia

 

私は生まれながらの将軍である。祖父や父の仲間だった大名もすべて家来としてあつかう

徳川家光は1603年生まれであり、関ヶ原の戦いから3年後に生まれました。徳川家光が将軍に就任した際には、未だ戦国時代以来の家臣が大きな権力を握っていました。徳川家光が彼らに妥協的な態度を取れば、江戸幕府は彼らの傀儡政権になっていた可能性もあります。

徳川家光は自分が関ヶ原の戦い以降に生まれた事を逆手に取り、逆に祖父や父の仲間の大名を家来として扱う事を宣言し、江戸幕府の支配体制を構築しています。この名言は江戸幕府が新たな節目を迎えた事を象徴する発言でもあります。

植えるのは木ではない、忠誠心である

徳川家光による支配態勢が確立した頃の話です。徳川家光は植木が好きであり、その事を知った大名達は先を争い江戸城の庭に植木を届けた事がありました。あまりに植木の数が多く、庭師は植木を違う場所に植えようとしたのです。その時に家光は上記の言葉を述べ、「例え数が多くても、すべてが一望して 見える所に植えて欲しい」と庭師に伝えたのでした。

徳川家光は生まれながらの将軍ではあるものの、家臣の事をとても大切に思っていた事が分かりますね。

徳川家光の家族や子孫

徳川家光の祖父が徳川秀忠、父親が徳川秀忠である事は解説しましたが、妻や子孫について気になる人もいるかもしれません。こちらの項目では、徳川家光の周囲の人物について解説していきます。彼らの事をしれば、徳川家光の人となりが分かってくるかもしれません。

春日局

春日局

春日局 出典:Wikipedia

 

春日局は徳川家光の乳母です。本名は斎藤福であり、父親は明智光秀の家臣である斎藤利三。春日局は朝廷から賜った名前です。彼女は公家の素養に通じていた事もあり、1604年に徳川家光の乳母に選ばれます。

後に徳川家光が将軍に就任すると、「将軍様御局」として大奥を取り仕切りました。彼女は男色にふける徳川家光の後継者問題を案じ、側室選びに奔走。大奥の体制の整備にも着手するなど、老中を凌ぐ権力を有していたとされます。彼女もまた江戸幕府の構築に大きな影響を与えた人物なのです。

鷹司孝子

徳川家光の正妻であり、彼女は公卿である鷹司家の一族になります。2人が婚姻したのは1623年であり、徳川家光が将軍になった年の事でした。ただ徳川家光は鷹司孝子の事を毛嫌いしていたとされ、実質的な夫婦生活は全くありません。それどころか鷹司孝子は、婚姻後ほどなく離縁を言い渡され、吹上の広芝にある邸宅で長期にわたり軟禁生活を送っています。

2人の仲が悪かった理由は不明ですが、当時は江戸幕府と朝廷の仲も極めて悪く、その影響が考えられます。その他には徳川家光が男色に耽っていた事も大きいのかもしれません。いずれにせよ、2人の間に子供は授かりませんでした。

徳川家光はなんだかんだで5人の男子に恵まれるものの、それらは全て側室の子供でした。鷹司孝子への冷遇は、徳川家光の心の闇のようなものを反映しているのかもしれません。

徳川家光の子孫

春日局の尽力もあり、徳川家光は最終的に多くの側室を持ち、多くの後継者に恵まれる事となります。側室・まさとの間に生まれた二男・亀松と、側室・里佐(定光院)との間に生まれた五男・鶴松は夭折し、最終的に元服した男児は3人でした。それぞれを解説していくと、

徳川家綱

徳川家綱

徳川家綱 出典:Wikipedia

 

側室・楽(宝樹院)との間に生まれた長男であり、後に4代目の将軍となります。彼の治世は徳川家光らによる武断政治から、官僚体制による文治政治に転換が図られつつあった時期でした。そういう時勢もあり、比較的安定した政権を築いています。

ただ徳川家綱は元来から病弱であり、後継者を残さぬまま1680年に死去しています。彼の死により、徳川将軍家の直系の後継者が将軍職を世襲する形は崩れたのでした。

徳川綱重

徳川綱重

徳川綱重 出典:Wikipedia

 

夏(順性院)との間に生まれた三男であり、1651年に甲府藩15万石に封じられて、正式に大名となります。人望は高かったものの、1678年(延宝6年)に35歳で死去。死因は深酒とされますが、詳しくは不明です。

徳川家綱、徳川綱吉が亡くなった際に、徳川綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して6代目の将軍になりました。徳川家宣は数年で死去し、その息子の徳川家継が7代目の将軍となるものの、僅か7歳で死去しています。

この時点では徳川綱重の次男である松平清武が存命でしたが、1724年に彼は死去。同年に彼の息子である松平清方(徳川家光の曽孫にあたる)も死去しており、この時に徳川家光の男系の子孫は途絶えています。

徳川綱吉

徳川綱吉

徳川綱吉 出典:Wikipedia

 

玉(桂昌院)との間に生まれた四男であり、徳川家綱の後に5代目の将軍となりました。生類憐れみの令などの風説から、愚将と評される事もありますが、近年では再評価される事が増えています。なお、彼は徳松という長男がいたものの、5歳で夭折しており、徳川綱吉の血筋は途絶えでいます。

徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉。多くの子孫がいたものの、徳川家光の男子系統の子孫はいません。徳川将軍家は、御三家の紀州藩から徳川吉宗が新たな将軍が選ばれ、新たな節目を迎える事になるのです。

徳川家光のゆかりの地

輪王寺大猷院

輪王寺大猷院

大猷院霊廟二天門 出典:Wikipedia

 

輪王寺大猷院は徳川家光の霊廟です。徳川家光の遺骸は、徳川家光の遺言通りに寛永寺で行われた法要を経て輪王寺(栃木県日光市)に葬られました。

現在では徳川家康が祀られている東照宮、二荒山神社、輪王寺の3つを合わせて「二社一寺」と呼ばれており、江戸時代においてもこの3つの神社と寺は神聖な場所と思われていました。徳川家光が徳川家康を慕っていた事がよく分かります。大猷院は現在では国宝に指定されています。

住所:栃木県日光市山内2300

三芳野神社

三芳野神社

三芳野神社 出典:Wikipedia

 

三芳野神社は大同2年(807年)に建立された素盞男尊と奇稲田姫命を祀る神社です。徳川家光の命令で社殿が造営されており、江戸幕府の直営社となっています。寛永3年(1626年)には、徳川家光の侍講である林羅山が嫡男・叔勝の病気平癒を祈願するなど、江戸幕府にとっては重要な神社になっていたようです。

ちなみに三芳野神社は童歌「とおりゃんせ」の舞台になったともされます。色々と歴史深い神社であるとも言えるのです。

住所:埼玉県川越市郭町2-25-11

徳川家光の関連人物

明智光秀

明智光秀

明智光秀 出典:Wikipedia

 

明智光秀は戦国武将の1人であり、織田信長を本能寺の変で葬った人物です。彼は天正10年(1582年)に山崎の戦いで羽柴秀吉らに討ち取られており、徳川家光と直接的な接点はありません。

ただ徳川家光の乳母だった斎藤福(春日局)は、明智光秀の家臣だった斎藤利三の娘。全く接点がないわけではありません。

ちなみに明智光秀は山崎の戦いで討死せず、天海という和尚になり生き延びたという説があります。天海は江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に関与した人物で、徳川家光の名前にも関わっているとも言われます。

明智光秀=天海説は荒唐無稽な説ではあるものの、仮にそれが事実なら明智光秀の意思は徳川家光にも受け継がれているのかもしれません。

伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗 出典:Wikipedia

 

伊達政宗は仙台藩の初代藩主です。彼は関ヶ原の戦いでは石田三成陣営につき、外様藩としての立場でした。本来外様大名は譜代大名に比べると冷遇される立場にありますが、徳川家光は彼の事をとても慕っており、外様大名とは思えぬ厚遇を受けています。

徳川家光が一人で鷹狩りをしているところをみかけると、伊達政宗は「将軍家は天下の重い任におられます。遊猟をお好みで、しばしば身軽におでかけになり、警衛の者もおつけになりません。」と心配する気持ち述べています。伊達政宗は決して徳川家光の言いなりなのではなく、思う事があれば処分の可能性があっても、意見を述べました。

こういう姿勢を徳川家光は気に入ったのかもしれません。徳川家光は伊達政宗にたびたひ茶の湯を送り、彼を酒宴に招いたのです。伊達政宗の身体も衰える中、寛永13(1636)年5月1日に彼は徳川家光に拝謁しています。徳川家光は彼の衰弱ぶりに驚き、江戸中の社寺に政宗の病気平癒の祈祷を命じ、主治医の派遣を決定しました。

ただ運命は変える事は出来ず、伊達政宗は5月21日に70歳で永眠しました。伊達政宗が亡くなった時、徳川家光は何を思ったのでしょうか。

徳川家光の関連作品

徳川家光は戦国時代〜江戸時代初期の作品に数多く登場しており、彼にまつわる作品は多々あります。今回はその中のごく一部を紹介しますね。

おすすめ書籍・本・漫画

コミック版 日本の歴史 江戸人物伝 徳川家光

徳川家光の生涯を分かりやすく解説した漫画です。こちら徳川家光だけでなく、春日局にも焦点を当てた作品であり、2人が二人三脚で幕府の体制を作り上げた事が分かります。

絵柄も綺麗で子供にも勧めたい作品ですが、「慶安の御触書」を徳川家光が幕法として出した事になっており、いくつかの間違いもあります。その点は親から子供に伝えてほしい点ですね。

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徳川家光

徳川家光の生涯に迫った小説です。容姿も優れず、吃音持ち。そんな徳川家光が将軍となり、江戸幕府の体制を固めていく。その波乱の生涯をまとめています。本作は1巻から4巻までの大作となっています。それだけ徳川家光の生涯が波瀾万丈だった事が分かりますね。

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おすすめの動画

おすすめの映画

柳生一族の陰謀

権力に生きる柳生一族の存続を賭けた作品。テレビドラマやリメイクなど、数々の派生作品がありますが、特に有名なのが1978年の映画版です。

本作は徳川家光と徳川忠長のお家争いが発端であり、徳川家光は継承するものの、結果的に首を落とされる事となります。徳川家光を演じるのは松方弘樹であり、その他にも当時の俳優女優のオールメンバーを集めた作品です。往年の名作を是非とも視聴して欲しいと思います。

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おすすめドラマ

葵 徳川三代

徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の3代にわたる将軍達を主人公にした大河ドラマです。ただ本作における真の主人公は2代目将軍の徳川秀忠であり、徳川家光が単独で主人公になるのは最終話になります。

この最終話では徳川家綱が誕生するまでの過程がダイジェストで描かれています。江戸幕府がその後も繁栄を続ける事が示唆されており、それは徳川家光が2人の意志を継いでいたからに他なりません。

今回は2000年という節目に放送された事もあり、徳川家光演じる山田孝之や、徳川家康演じる津川雅彦、そして徳川秀忠演じる西田敏行など、ベテラン勢が名を連ねました。重厚な大河ドラマを観たい方におすすめの作品です。

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徳川家光についてのまとめ

今回は徳川家光について解説しました。一時は将軍の座も危うかった徳川家光ですが、徳川家康の計らいで将軍になる事が出来ました。参覲交代をはじめとした一連の政策のおかげで、江戸幕府は安定した政治体制を構築する事が出来たのです。

どんな事があっても諦めずに頑張り続ければ、徳川家光のように後世に名を残す事ができるかもしれません。今回の記事を通じて徳川家光の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

Wikipedia

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