関ヶ原の戦いとは?場所や原因、布陣図について詳しくまとめました

(関ヶ原合戦図屏風、出展ウィキペディア

「天下分け目の関ヶ原」昔からスポーツや武道をはじめとして、囲碁や将棋など勝負事の勝敗の分かれ目のことを戦国時代最後の大戦(おおいくさ)に例えてこう言われます。
天下の行方を決める決戦に挑んだ徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と石田三成(いしだみつなり)が必死に集めた西軍が激突した地名をとって名付けられました。
今回はこの関ヶ原の戦いを多くの資料を分析して、どのように始まりどのように終結したのか、エピソードを織り混ぜながら解説したいと思います。

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関ヶ原の戦いの概要


(関ケ原古戦場、出典ウィキペディア

1600年10月21日(慶長5年9月15日)美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を中心とした場所で、日本を二分した東西両軍の主力が激突した安土桃山時代最大の戦です。
実際には東西に分かれた大名が日本国各地で合戦を繰り広げたため、その参加兵力の総数は数十万人規模と言う大戦だったのです。
主戦場となった関ヶ原に終結した軍勢は、推定で東軍10万、西軍8万と言われており、戦死者は両軍で少なくても約1万、多くて4万を越えるとの記述が残っています。
戦は東軍が勝利を納め、敗れた西軍の有力武将は斬首となり、東軍総大将・徳川家康はこの勝利により豊臣家から政治の実権を奪取し、江戸幕府を創設します。

関ケ原の戦いへの道のり

豊臣秀吉死後の政権運営


(豊臣秀頼の居城・大阪城、出典ウィキペディア

1598年9月18日(慶長3年8月18日)太閤・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が死去し、後継者である豊臣秀頼(とよとみひでより)はまだ5歳と、政治を行うには幼すぎました。
自身の死後を不安に感じた秀吉は、秀頼が成人するまでは政治体制を変更しないように決定し、有力大名であった徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)毛利輝元(もうりてるもと)上杉景勝(うえすぎかげかつ)宇喜多秀家(うきたひでいえ)に連署させ後事を託しました。
これに実際の行政執行官である石田三成、前田玄以(まえだげんい)浅野長政(あさのながまさ)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)の五人の奉行を合わせた、10人の合議で政権を運営する五大老五奉行制が誕生しました。
しかし、10人の足並みが揃うことはほとんどなく、特に徳川家康に対抗できる唯一の大老・前田利家が死去すると、五大老五奉行制は徳川家康派と石田三成派に分裂し対立を繰り返します。
朝鮮出兵に関する加藤清正(かとうきよまさ)と石田三成の対立、関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の粛清事件、秀吉の遺言に違反した大名間の婚姻事件などが重なり、加藤清正、福島正則(ふくしままさのり)七将による石田三成襲撃事件が決定打となって、両陣営の対立はピークに達しました。

加賀征伐


(金沢城菱櫓・復元、出典ウィキペディア
1599年(慶長4年)9月7日、重陽の節句の祝いのため大阪城を訪れた徳川家康の耳に自身の暗殺計画が伝えられます。
危険は回避したものの、激怒した徳川家康は計画に加担した五奉行の一人である浅野長政、秀頼側近の大野治長(おおのはるなが)らを蟄居、流罪に処し、首謀者とされた金沢城主・前田利長(まえだとしなが)へは討伐令が発せられました。
丹羽長重(にわながしげ)を先鋒とした陣触れも発令しましたが、前田利長から弁明の使者として家臣・横山長知(よこやまながちか)が派遣され、その結果前田利家正室芳春院(ほうしゅんいん)人質として江戸に送る事を条件に決着し、戦は回避されました。
この家康暗殺の端を発した加賀征伐ですが、もともと家康への暗殺計画の存在自体の信憑性が疑われており、歴史的資料も少なく、家康の自作自演との説も有力視されています。

会津征伐


(上杉景勝像、出典ウィキペディア
 

加賀征伐で大老・前田利家のあとを継いだ前田利長を抑え込んだ徳川家康は、次に五大老の一人である上杉景勝をターゲットにします。
1600年(慶長5年)4月、徳川家康は家臣伊奈昭綱(いなあきつな)を会津へ派遣します。
これは上杉景勝が2月に始めた領内諸城の改修及び新城・神指城の築城に関して、詰問と上洛の督促が目的でした。
これに対し上杉家は上洛のための条件を提示、家老・直江兼続(なおえかねつぐ)がしたためた「直江状」なる答弁書を送り返します。
この「直江状」は非常に挑発・好戦的で、家康に対して非礼極まりない文章であったため、一読した家康は激怒し、5月に会津討伐の準備を始めます。
6月15日には豊臣秀頼と淀君(よどぎみ)から出陣の餞別を送られ、翌16日には大阪を出陣しました。
通説ではこの時点で直江兼続と石田三成との間には打倒徳川家康の密約が結ばれており、上杉決起は密約に則した行動と言われています。
また徳川家康も三成決起の可能性を認識しながらの出陣だったと伝えられています。

西軍の決起


(洛中洛外図に描かれた江戸時代の伏見城、出典ウィキペディア
 

7月1日、江戸に戻った家康は東国諸国の大名に上杉攻めの指示をだし、後継最有力の徳川秀忠(とくがわひでただ)にも出陣の準備を急がせます。
このころ大坂では前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行が、7月12日に大老・毛利輝元へ大坂入りを要請、これを受けた毛利家では会津討伐へ従軍していた部隊を大坂へ戻るよう、命令を発しました。
また薩摩の島津義弘(しまづよしひろ)も三奉行に加えて石田三成、毛利輝元、宇喜多秀家らが決起した旨を書いた書状を上杉景勝に送っています。
7月17日、豊臣家三奉行連署で徳川家康の違約を書き綴った「内府ちがひの条々」を各大名家に送付して西軍での決起を促し、宇喜多秀家と毛利輝元は加賀征伐で徳川家康に封じ込められた前田利長に家康の非を訴えた書状を送りました。
7月19日に毛利輝元が大坂城へ入ると、西軍は、細川藤孝(ほそかわふじたか)の籠る田辺城がある丹後方面と家康の家臣・鳥居元忠(とりいもとただ)が守る京都の伏見城へ派兵、伏見城攻めには宇喜多秀家始め小早川秀秋(こばやかわひであき)も参戦していました。

関ケ原へ向かう両軍


(犬山城天守、出典ウィキペディア

 

毛利輝元を総大将にして西軍が決起した頃、家康は会津へ向けて出陣していました。
家康が会津討伐の軍勢の進軍を止めて西へと転進させたのは7月23~26日頃で、福島正則、藤堂高虎(とうどうたかとら)らに石田三成の佐和山城を攻撃目標として先発させました。
なお1600年(慶長5年)7月25日に行われたとされる、東軍の意思統一がはかられた軍議「小山評定」は、東軍に参加した大名の書簡にその記述がないことや、評定で家康への加担を一番に表明したとされる福島正則がすでに西に向かって進発していることなどから、評定の存在が不確定となっています。
8月1日伏見城が陥落、西軍は京を目指してくる加賀の前田軍の牽制を行いながら、8月8日には吉川広家(きっかわひろいえ)らが伊勢志摩の攻略へ出陣します。
この頃には東軍先鋒の福島正則は尾張清洲城へ入るなど、黒田長政(くろだながまさ)井伊直政(いいなおまさ)らが続々と木曽川の東側へ到着、8月22日に岐阜城主・織田秀信(おだひでのぶ)軍と木曽川を渡った池田輝政(いけだてるまさ)軍が激突して池田が勝利、余勢をかって東軍は岐阜城を包囲陥落させます。
また西軍が立て籠る大垣城も東軍に包囲されますが、家康からの戦闘自制の指示により、東西両陣営による動員合戦の様相を呈してきます。
9月1日、ついに徳川家康が江戸を出立すると、西軍では大谷吉継(おおたによしつぐ)脇坂安治(わきざかやすはる)らは関ヶ原に到着します。
東軍が犬山城を落とし、大津城では京極高次(きょうごくたかつぐ)が西軍から東軍へ寝返ると、西軍は伊勢志摩を攻略した軍勢が尾張に到着、また信州上田城では真田昌幸(さなだまさゆき)徳川秀忠に反旗を翻して約4万の軍勢を釘付けにするなど、両軍の動きが激しくなっていきます。
9月7日、毛利秀元(もうりひでもと)、吉川広家の毛利勢が関ヶ原に到着、9日に徳川家康が岡崎に到着、岐阜に到着した13日には田辺城が開城、大津城の京極高次も城から退去し、運命の9月15日両軍の主力が関ケ原に集結しました。

関ヶ原の戦いの布陣図


(関ヶ原合戦図屏風に描かれた徳川家康本陣・徳川美術館蔵、出典ウィキペディア
 

日本で行われた合戦の中でもっとも有名と言える関ケ原の戦いですが、実は当時の合戦の様子や各大名の布陣場所などを記した正確な資料は残っていません。
現在、関ケ原の戦いの布陣図としてもっとも多く使用されているのは1893年(明治26年)に日本軍参謀本部が作成した「日本戦史関ヶ原の役」ですが、あくまでも研究や演習用に作成されたもので、史実に忠実ではありません。
「日本戦史関ヶ原の役」のもとになったのは1687年(貞享4年)に記された「黒田家譜」とされており、これも合戦より90年近くの歳月が過ぎて書かれているので、その信憑性には疑問が残ります。
しかし、関ケ原の戦いの東西両軍の布陣に関しては、疑問があっても「日本戦史関ヶ原の役」がある程度の正確さを保持していると考えられているため、この資料が利用されているようです。


(日本戦史関ヶ原役に記載されている関ヶ原布陣図、出典ウィキペディア

 

関ヶ原の戦いの虚構と脚色

関ケ原の戦いは幕藩体制が確立し、徳川家の威光が全国隅々まで行き届いた頃に史料として残されるようになりました。
このため、ほとんどが伝聞や当時やり取りされた書簡の内容を写したものとなっています。
当然そこには筆者の都合のよい脚色が含まれることとなり、真実とは大きく異なることになってしまいました。
以下の項目は有名な事柄でありながら、その信憑性が疑われている事象です。

小山評定


(小山評定が行われた須賀神社、出典ウィキペディア

 

会津討伐のために下野国小山(現在の栃木県小山市)に到着した徳川家康は、この地で石田三成らが上方で挙兵した事実を知らされました。
家康はここで会津討伐に参加した諸将をそのまま東軍として、挙兵した西軍討伐に向かわせる必要がありました。
そのため数多くの策略を使い、評定を自分の思う通りの方向に向かわせようとして行われたのが小山評定と言われています。
その評定では家康の発言が終了したと同時に立ち上がり、威勢良く「徳川殿にお味方申す」と福島正則が発言したと伝えられ、関ヶ原を描いたドラマや映画でも見せ場のひとつとして描かれています。
ところが、この福島正則は小山評定が開かれたときには先発部隊としてすでに西に向かっており、評定自体に参加していない疑惑があります。
福島正則の所領が尾張清洲城で西軍の攻撃を受ける位置にあったため、早期の出立となったようですが、不在であった人物の名が小山評定の重要発言として伝えられているのは、いかにも創作の匂いがします。
関ケ原の戦いについて記された後世の記録には、このような創作や推測による記述があるようです。

島津義弘の夜襲作戦


(島津義弘像・尚古集成館蔵、出典ウィキペディア

 

9月14日、翌日が決戦になるであろうと両軍が覚悟を決めて軍議を重ねているなかで、島津義弘が徳川家康の本陣ヘ夜襲を仕掛けようと提案します。
薩摩の島津勢は遠国であったため、関ケ原への参加兵数は少ないものの、その勇猛さと戦上手は天下に鳴り響いており、その島津からの夜襲策の提案は軍議の中心的な議題となります。
そして、この提案を真っ向から否定したのが石田三成もしくは石田三成の家臣・島左近(しまさこん)であったとされ、これが島津義弘が関ヶ原の戦いにおいて傍観を決め込んだ理由になったと伝えられています。
ところが、この島津義弘の献策に関しては史実ではないとの見解が出されています。
戦上手であった島津義弘が数万にも及ぶ徳川家康の本陣に夜襲をかけて成功すると考える訳はなく、この作戦自体が愚策であるのを一番よく知っていたのは島津義弘本人だったと考えられているからです。
また島津家に残る関ヶ原に関する文献には、この夜襲に関する記述が全く残っておらず夜襲の献策自体がなかったものとされています。
この島津義弘による夜襲の献策を石田三成が拒否した記述は、1688年(元禄元年)に貝原益軒(かいばらえきけん)が書いた「黒田家譜」に記されています。
この事から島津勢が関ヶ原の戦いに参戦しなかった理由を、東軍に属した黒田家はここに理由を求めたのではないかと推測されています。

小早川秀秋の裏切りと督促の銃撃


(小早川秀秋像・高台寺蔵、出典ウィキペディア

 

関ヶ原の戦いの勝敗の分かれ目となった最大の要因といえば、小早川秀秋の寝返りです。
小早川秀秋は豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の兄であり豊臣家一門衆筆頭・木下家定(きのしたいえさだ)の五男で、五大老にも名を連ねた毛利一族の重鎮小早川隆景(こばやかわたかかげ)の養子となり、隆景亡きあとはその家督と所領を受けついでいました。
通常であれば西軍の主力をなす立場ですが、12歳の頃から酒に溺れてしまい、アルコール依存症で肝硬変を患っていたと言われています。
酒に溺れるようになってからは素行も悪くなり、乱暴も働くようになっていたそうです。
これらのことから、石田三成や宇喜多秀家らも小早川秀秋の力は必要としていても信頼はしていなかったことが推察できます。
徳川家康は西軍の中でも浮いた存在となっていた小早川秀秋に利をもって誘いを掛けるのは当然のことですが、優柔不断な性格も相まってなかなか決心はつかなかったようです。
このような性格から当初は東軍所属の伏見城への攻撃に参加していながら、関ケ原の戦い本番では西軍を裏切ると言う、短時間で意思が変わる行動を取ったようです。
ちなみに小早川秀秋が陣を敷いていた松尾山へ、裏切りの督促のため徳川家康が鉄砲を撃ちかけさせたと言う描写は、真実ではないようです。
すでに開戦されている戦場で徳川家康の部隊が松尾山へ向かって銃撃したとしても、それを小早川秀秋が判別できたかどうか怪しいものですし、そもそも小早川勢は開戦早々にすでに裏切りの行動を取っていた可能性の方が高いことが資料によって明らかになってきています。
若くしてアルコール依存症を患う大名を、繋ぎ止めきれなかった西軍の石田三成や宇喜多秀家の力量不足が関ケ原の戦いの本当の敗戦理由なのかもしれません。

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関ヶ原の戦いで西軍に所属した主な大名


(毛利輝元像・毛利博物館所蔵、出典ウィキペディア

 

毛利輝元
西軍の総大将中国地方の大半となる112万石の太守で毛利一族の当主、豊臣家五大老の一人。
増田長盛ら豊臣三奉行の要請を受け、家康が会津討伐に出陣したのち大坂城へ入城、率いてきた軍勢は6万と言われたが、結局関ケ原の戦いへは参戦せず、大坂城から出ることはありませんでした。

宇喜多秀家
備前、備中、美作などで57万石を領した豊臣家五大老の一人。
父・宇喜多直家が秀家の幼少期に逝ったため、豊臣秀吉の猶子となり、若くして豊臣政権へ参画することになります。
関ケ原の戦いでは1,7000人の西軍最大の兵力で主力部隊として主に福島正則軍と戦いました。

石田三成
近江佐和山19万4,000石の大名、豊臣政権五奉行の一人。
豊臣秀吉がまだ近江長浜城主にであったときに父親と共に仕官して以来、豊臣秀吉の側近として仕え、関ケ原の戦いにおいても西軍結成の最大の功労者と言われています。

大谷吉継
豊臣秀吉が播磨国平定戦を担当している時期に馬廻り衆として記録が残っています。
敦賀5万石を領し、刑部少輔に叙任され豊臣政権の行政官として活躍しましたが、ハンセン病(または梅毒)を患い、関ケ原の戦いは死期を悟っての出陣となりました。

小西行長(こにしゆきなが)
宇喜多家の出入り商人・阿部善定(あべよしさだ)の手代・魚屋九郎右衛門の養子となり宇喜多直家に見出だされ、その後豊臣秀吉の家臣となりました。
肥後半国20万石を領有し関ケ原の戦いでは田中吉政(たなかよしまさ)筒井定次(つついさだつぐ)と交戦、敗北後はキリシタンであったため切腹せず、斬首されました。

関ヶ原の戦いの東軍に所属した主な大名


(徳川家康像・狩野探幽画・大阪城天守閣蔵、出典ウィキペディア

 

徳川家康
関東八州250万石を領有し、内大臣に任じられて豊臣政権No.2の地位を確固たるものにしていた五大老筆頭。
豊臣秀吉、前田利家亡きあとは戦国乱世を生き抜いた唯一の武将でした。
関ケ原の戦いではあらゆる手蔓を使って西軍武将に内通者を作り、布陣や兵力差の劣勢を跳ね返して勝利を得ました。

福島正則
豊臣秀吉の母(大政所)の縁者にあたり、羽柴姓、豊臣姓を授かり侍従に任官されるほどの厚遇を受けていましたが徐々に豊臣政権中枢から外され、尾張国清洲24万石に封じられ秀吉の側近からも外されました。
これを石田三成ら五奉行による策略と正則は考えていたため、関ケ原の戦いでは東軍に参加し、石田三成討伐に執念を燃やすことになりました。

黒田長政
豊臣秀吉の軍師を勤めた黒田官兵衛(くろだかんべえ)の嫡男で関ケ原の戦い前の所領は豊前中津18万石でした。
父が豊臣秀吉の側近から失脚したのは石田三成の讒言が理由だと考えていたため東軍に参加したと言われていますが、それ以上にどちらが勝つかの先見の明があったからとも言われています。

細川忠興
父・細川藤孝が織田信長に仕えたときにその嫡男・信忠に仕え、正室が明智光秀(あけちみつひで)三女(たまこ、ガラシャ)であったにも関わらず、本能寺の変以降は父と共に豊臣秀吉に味方し、丹後12万石を所領とするも豊臣秀吉の死後、徳川家康の推挙で6万石加増されています。
関ケ原の戦いでは石田三成の部隊と激突したと言われています。

池田輝政
父、恒興(つねおき)の代から織田信長に、信長の死後は豊臣秀吉に仕え、小牧長久手の戦いで父と兄が戦死すると池田家の家督を継いで三河吉田15万2000石の大名まで出世しました。
福島正則や加藤清正らの武断派との付き合いがよく、関ヶ原では迷うことなく反石田三成の東軍に参加、南宮山で毛利秀元や吉川広家らの抑え役として布陣したため、戦闘には参加していません。

関ヶ原の戦いにゆかりの場所

大垣城


(大垣城復元天守、出典ウィキペディア

 

岐阜県大垣市の指定文化財となっている大垣城は、麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれ、1500年頃に築城されたとされています。
戦国時代は織田氏と斎藤氏が奪い合いを繰り返し、豊臣政権下では池田輝政や山内一豊(やまのうちかずとよ)らが城主を勤めますが、1586年(天正13年)の天正地震で焼失してしまいます。
しかし2年後に改築されて天守も建造され、関ケ原の戦い当時は伊藤盛正(いとうもりまさ)が城主でした。
伊藤盛正は関ケ原の戦いでは西軍に与していたため、石田三成の要請で大垣城を明け渡し、ここが西軍の前線基地となりました。
西軍の主力が出陣したあとは福原直高(ふくはらなおたか)が守将を勤めますが、関ケ原で西軍主力が敗れると、将兵に裏切りが出たり策謀にはまったりと一期に戦力を失い、関ケ原の戦いから8日後降伏し、戦闘は終結しました。

佐和山城


(佐和山城跡碑、出典ウィキペディア

 

豊臣政権下で堀秀政(ほりひでまさ堀尾吉晴(ほりおよしはる)へと城代が変わり、1591年(天正19年)4月、石田三成が北近江4郡を秀吉より与えられ、入城しました。

三成は奉行として伏見城で政務を行うため佐和山城へ滞在することはほとんどなく、領内の行政は父・石田正継(いしだまさつぐ)が行っていました。
関ケ原の戦いでは石田三成がほぼ全兵力を連れて出陣したため、合戦に勝利した東軍が小早川秀秋を先陣に攻め込んで来たとき城兵は三千名足らずで、正継や三成の兄・正澄(まさずみ)らはよく応戦しましたが城内に裏切り者が出て3日目に落城、石田の一族に連なる者は皆自害して果てました。
その後、彦根の地に徳川家の重臣・井伊直政が築城を開始したため佐和山城は廃城となり、その築材は彦根城に移築されたため、今は城跡の碑が残るだけになっています。

大徳寺


(大徳寺仏殿、出典ウィキペディア

 

大徳寺は京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山で1325年(正中2年)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう・大燈国師)によって創建されました。
関ケ原の戦いは東軍の勝利で終わりましたが、西軍の参謀役であった石田三成は捲土重来を期すために戦場を脱出しました。
しかし徳川家康の捜索は厳しく、六日後の9月21日には田中吉政の部隊に捕縛されました。
石田三成は22日には大津城、27日に大坂、29日に京都に護送され、10月1日には六条河原で斬首され、その首は三条河原に晒された後に沢庵宗彭(たくあんそうほう)大徳寺住持に引き取られ、大徳寺三玄院に葬られました。
大徳寺三玄院は明治11年清泉寺・大源庵と合併して龍翔寺へと移動し、現在は大徳寺三玄院前に石田三成墓所石碑が建っています。

関ヶ原の戦いの後始末

東軍に参加した大名の戦後


(元和・寛永時代の江戸城・江戸図屏風、出典ウィキペディア

 

東軍総大将・徳川家康は関ケ原の戦いに勝利したのち関東256万石に加えて西軍の改易、削減によって得た所領約140万石を加えて合計400万石の大大名となり、1603年には征夷大将軍に任官し、この後約260年続く徳川幕府を江戸に開きました。
また次男の結城秀康(ゆうきひでやす)は上杉景勝を抑えた功績で下総結城10万石から越前67万石に加増されました。
豊臣恩顧でありながら徳川家康に与した主な大名も下記の通り元の数倍の加増を受け国持大名となりました。

加藤清正
肥後熊本25万石から肥後熊本52万石

福島正則
尾張清洲20万石から安芸広島50万石

細川忠興
丹後宮津18万石から豊前小倉40万石

浅野幸長
甲斐府中23万石から紀伊和歌山38万石

黒田長政
豊前中津18万石から筑前名島52万石

池田輝政
三河吉田15万石から播磨姫路52万石

蒲生秀行
下野宇都宮18万石から陸奥会津60万石

田中吉政
三河岡崎10万石から筑後柳川32万石

他にも多くの大名が加増されていますが、そのほとんどが西国の遠方地に領土を与えられ、関東および京都の近郊は徳川譜代の武将が領地を得ており、江戸の防衛と西国大名の監視に当たることとなりました。

寝返った武将たちの戦後


(大津城跡、出典ウィキペディア

 

寝返った武将の中でもっとも厚遇されたのはやはり小早川秀秋です。
筑前名島36万石から備前岡山51万石へ加増の上国替えとなりましたが、2年後の1602年に弱冠21歳でこの世を去り、お家は改易となりました。
他では大津城に孤立無援の中で立て籠って西軍1万5千の兵を釘付けにし、近江大津6万石から若狭小浜8万5千石へ加増された京極高次が目立ちますが、肥前佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)や淡路洲本の脇坂安治(わきざかやすはる)など多くの大名は本領安堵されたに止まり、小川祐忠(おがわすけただ)などは小早川秀秋らとともに寝返って平塚為広(ひらつかためひろ)の首級をあげるなど活躍しながら伊予今治7万石を改易となりました。
それぞれ個別の事情があったとはいえ、小早川秀秋と小川祐忠とでは天と地ほどの差があったと言わざるを得ません。

西軍に参加した大名の戦後


(宇喜多秀家像・岡山城蔵、出典ウィキペディア

 

家康から首謀者と見られた近江佐和山19万4千石の石田三成や肥後宇土20万石の小西行長は六条河原で斬首となり、備前岡山57万4千石の宇喜多秀家は八丈島に流罪となりました。
五奉行の一人だった大和郡山20万石・増田長盛は蟄居となり、西軍に参加した有力大名では土佐浦戸22万石・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や越前北之庄21万石・青木一矩(あおきかずのり)は改易となりました。
また関ケ原の戦い本戦には参加しなかった陸奥会津120万石の上杉景勝は出羽米沢30万石に、安芸広島112万石の西軍総大将・毛利輝元は長門萩30万石へと減封されました。
徳川家康の西軍への処分はこれに止まらず、本来西軍とは無関係となっていたはずの豊臣秀頼も222万石から66万石の並の大名へと減封しました。
豊臣秀吉が選んだ五大老、五奉行のうち徳川家康に与したのは前田利長(前田利家の子)と浅野幸長(浅野長政の子)のみで、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、石田三成、長束正家、増田長盛の6名は処分されています。
五奉行の一人であった前田玄以(まえだげんい)だけは東軍、西軍のどちらにも付かず、厳正な中立を守ったため、徳川家康より本領を安堵されています。

関ヶ原の戦いを題材とした作品


(司馬遼太郎、出典ウィキペディア

 

映画で描かれた関ケ原の戦い

2017年、司馬遼太郎原作の「関ヶ原」が映画化され、約24億円の興行収入となるヒット作となりました。
監督・脚本は原田眞人、配役は石田三成にV6の岡田准一、徳川家康には役所広司と演技力には定評のある俳優が主役を務め、島左近には平岳大、直江兼続には松山ケンイチ、豊臣秀吉が滝藤賢一、前田利家が西岡徳馬と実力派が脇を固めています。
合戦シーンの迫力や衣装やセットは当時の生活を上手く描き出しており、映像的には素晴らしい仕上がりの作品になっています。
ただ、長編時代小説をわずか二時間半の中におさめようとしたため、司馬遼太郎が書いた数多くの人間模様や関ヶ原にまつわるエピソードがほとんど省略されてしまい、また出演している俳優が早口で台詞を喋るため会話が聞き取りにくく、せっかくの美しい映像との整合性が取れなくなっています。

テレビドラマで描かれた関ケ原の戦い

NHKの大河ドラマで徳川家康が主役で描かれると、必ず登場するのが関ケ原の戦いです。
中でも1983年、滝田栄が主演した「徳川家康」2000年津川雅彦が徳川家康を演じた「葵徳川三代 」では関ケ原の戦いが丁寧に描かれた作品となっています。
司馬遼太郎原作の「関ケ原」をもっとも忠実に豪華なキャストで映像化したものが1981年TBS系列で三夜連続放送された「関ケ原」であり、石田三成に加藤剛、徳川家康に森繁久彌、小早川秀秋に国広富之、島左近に三船敏郎、本多正信は三國連太郎、福島正則に丹波哲郎、大谷吉継を高橋幸治、宇喜多秀家を三浦友和と当時の主役級の俳優を脇役や端役に使い、奇跡のキャスティングと言われていました。
このためエンドロールの出演者の序列に苦労したようで、東軍、西軍に別けて二列に並べたクレジットで流しました。

小説で描かれた関ケ原の戦い


(堺屋太一、出典ウィキペディア

 

歴史小説として関ケ原の戦いを正面から取り上げた作品として、前述した司馬遼太郎作の「関ケ原」が一番有名ですが、山岡荘八作の「徳川家康」の中でも当然、関ケ原の戦いは重要な場面として描かれています。
ただ、関ケ原の戦いのみを取り上げた作品は以外と少ないのです。
その少ない中でも関ケ原前夜までに起こった事象を、現在の会社組織や権益などの利害関係などに例えながら、いかにして関ヶ原の戦いが起こって行ったのかを書き綴った堺屋太一の1997年書き下ろし「巨いなる企て」は非常に読み応えのある小説となっています。
豊臣秀吉を創業社長、徳川家康を副社長、前田利家を専務、石田三成は秘書室長などと現代の会社役職に例えて、それぞれの立場から関ケ原に関わっていく流れを旧通産省官僚出身らしいタッチで書かれています。
非常に読みやすく面白い筋立てとなっているので機会があれば是非お読みください。

関ケ原の戦いまとめ


(石田三成像・東京大学史料編纂所所蔵、出典ウィキペディア

 

西軍8万以上、東軍10万以上の兵力が集められ、西軍戦死者3万、東軍戦死者1万(参加兵数、戦死者数ともに諸説あり)といわれている関ケ原の戦いは、応仁の乱(1467年~1478年)以来の日本を二分した大戦となりましたが、応仁の乱と大きく異なるのはわずか半日で関ケ原の戦い本戦は終結し、地方での戦闘も約一年後まで続いた伊達と上杉の戦闘が、上杉の家康への降伏によって終結したのを最後に天下を二分した関ケ原の戦いは終結しました。
豊臣政権を守ろうとして立ち上がった石田三成や宇喜多秀家は、豊臣秀吉に誰よりも多くの恩恵を受けたであろう福島正則や加藤清正、小早川秀秋らによって敗戦に追い込まれ、斬首や流罪と言う処分を受けてしまいます。
しかし豊臣政権を裏切った形となった福島正則や加藤清正、小早川秀秋らの家はその後徳川家によって断絶、取り潰しとなっており、豊臣家そのものも徳川家康の手で滅ぼされました。
結局、関ケ原の戦いとは豊臣政権の中心で政権を守ろうとして権力を独占しようとした五奉行と徳川家康を除く残りの大老と政権の中心から外されてしまった福島正則、細川忠興、黒田長政など豊臣恩顧の大名による争いを天下を欲した徳川家康に上手く利用されてしまったために起こった戦だったのです。
これだけの大戦でありながら詳細な数字や事象を伝える文献がほとんど残っておらず、まだまだ謎の多い関ケ原の戦いは今後も新たな発見によってその歴史的評価を大きく変える可能性を残しています。

参考文献

司馬遼太郎「関ケ原」新潮文庫

堺屋太一「巨いなる企て」文春文庫

関ヶ原町歴史民俗資料館公式ホームページ
http://www.rekimin-sekigahara.jp/

※執筆にあたり参考にさせていただいた文献及びホームページです。

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