西南戦争とは?を簡単まとめ解説!行われた場所や原因、中心人物は?

(薩肥海鹿児島逆徒征討図・早川松山画、出展:ウィキペディア

 

1877年(明治10)2月20日、熊本鎮台所属の偵察隊が薩摩軍に向けて発砲したことによって火蓋が切られた西南戦争(西南の役)は、日本国内最後の内戦、また明治新政府の施策によって多くの特権が奪われた不平士族による最後で最大の反乱となりました。

 

西郷隆盛(さいごうたかもり)戊辰戦争、明治新政府樹立の功労者をはじめとして、多くの人命が失われることとなった西南戦争はどのような経緯で起こり、どのような結果を招いたのか、薩摩軍と討伐軍の動きや新政府の対応を追いかけながらその実態に迫ってみたいと思います。

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西南戦争とは

西南戦争とはなにか?簡単に解説した動画は以下をどうぞ

西南戦争勃発の要因

征韓論における明治新政府首脳の対立

(征韓議論図・鈴木年基作、出展:ウィキペディア

西南戦争の引き金となった最大の要因と言われているのが、征韓論に対する明治政府内の対立です。
岩倉使節団として岩倉具視(いわくらともみ)木戸孝允(きどたかよし)大久保利通(おおくぼとしみち)らが欧米各地を歴訪している時に、日本に残った西郷隆盛後藤象二郎(ごとうしょうじろう)江藤新平(えとうしんぺい)らは朝鮮政府の日本に対する態度などを問題視し、朝鮮半島への使節の派遣や軍の派兵を検討します。
この報告を受けた欧米視察中の大久保利通は急遽帰国、この朝鮮半島への干渉問題(征韓論)を内政充実を盾に猛反対します。
また欧米視察を終えて帰国した岩倉具視木戸孝允大久保利通に賛同し、征韓論を軸に留守を預かった西郷隆盛らと欧米視察に出ていた大久保利通らの間で抜き差しならない対立が起きました。
この対立は病気で倒れた太政大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)の代理となった岩倉具視の裁決によって朝鮮半島への派兵は延期と決定され、これを不服とした西郷隆盛江藤新平らは参議を辞職しそれぞれの故郷へと下野しました。
この西郷隆盛らが政府を去ることとなった事件を明治六年政変(征韓論政変)といいます。
また政府を去ったのは参議であった西郷隆盛江藤新平板垣退助(いたがきたいすけ)らだけに止まらず、御親兵から再編成された近衛師団は、長である近衛都督・西郷隆盛の辞任に伴って幹部が大量辞任して事実上解体状態となり、板垣退助とともに辞任した土佐藩出身の軍幹部も多数出て、軍も政府も人員補充や人事における再編成を余儀なくされました。

不平士族による反乱の続発

(佐賀の事件・月岡芳年画、出展:ウィキペディア

征韓論による政争に敗れ、下野した政府要人であった参議諸氏のもとには、廃刀令によって魂を失い、秩禄処分によって金を失い、明治新政府の数々の施策によって既得権を失った旧武士階級の士族が集結、不平士族と呼ばれた彼らは政府に対する不平不満の温床となっていきました。

 

 

1874年(明治7)1月14日に岩倉具視が土佐藩出身の不平士族に襲われ負傷する事件(喰違の変)が起こると、2月1日には江藤新平をリーダーとする佐賀の乱が勃発、1876年10月24日には熊本で神風連の乱(敬神党の乱)、10月27日には福岡県で秋月の乱、続いて10月28日には前原一誠(まえばらいっせい)萩の乱を引き起こしました。
いずれも政府軍によって鎮圧されましたが、不平士族の不満はくすぶり続け、翌年の西南戦争へと繋がって行くことになります。

血気にはやる私学校学生

(私学校跡地・正門、出展:ウィキペディア

参議、近衛都督を辞任し故郷の鹿児島に戻った西郷隆盛は、陸軍士官を養成するために3校の私学校を設立します。
自身や県令・大山綱良(おおやまつなよし)らが賜った賞典禄を利用して幼年学校を設立、残りの銃隊学校と砲隊学校は鹿児島県の予算を利用しました。
私学校は旧士族の中でも城下士(下級武士、郷士のこと)のみが入校を許され、漢文の素読と軍事教練が日々行われました。
1877年(明治10)1月29日、政府が鹿児島に赤龍丸を派遣します。
当時の陸軍使用の主力銃であったスナイドル銃の弾薬は、ほとんどが鹿児島の工場で生産されていたために、政府はその設備と備蓄弾薬を赤龍丸で持ち出そうとしたのです。
しかし、私学校の学生はこれを察知すると、政府が秘密裏に薩摩の財産を運び出そうとしていると解釈して、夜襲を仕掛け各地に点在する火薬庫から武器弾薬を運びだし接収しました。
結局赤龍丸はわずかな武器弾薬を運び出しただけで任務を終え、多くの物資が薩摩に残り薩摩軍は西南戦争で300万発の弾薬が使用できたと言われています。
また、警視庁大警視・川路利良(かわじとしよし)が、表向きは帰郷名目で薩摩に送り込んだ中原尚雄(なかはらなおお)ら24名の警察官が、実は私学校の実情偵察が目的だとして疑い、これを捕縛し西郷隆盛暗殺目的との自白書を取るに至って、私学校の学生は暴発状態となりました。
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西南戦争の政府軍、薩摩軍の比較

明治政府討伐軍の編成

(警視隊の活躍を描いた錦絵、出展:ウィキペディア

明治政府が西南戦争のために動員した兵力は、帝国陸軍、帝国海軍に警察官などを合わせて約70,000人でした。
薩摩軍と最初に衝突した政府軍は、熊本城に置かれた熊本鎮台軍で、土佐藩出身の・谷干城(たにたてき)少将を司令官、参謀長にのちの海軍大将・樺山資紀(かばやますけのり)陸軍中佐、参謀副長はのちに日露戦争の勝利に貢献し陸軍大将となった児玉源太郎(こだまげんたろう)陸軍少佐以下歩兵第13連隊(熊本)、歩兵第14連隊(小倉)合わせて約4,000人が守りを固めていました。
討伐軍には東京鎮台の歩兵第1連隊を始め、大阪鎮台、広島鎮台などから所属の歩兵連隊が集められ、他にも近衛歩兵連隊、工兵隊、砲兵隊も召集、東京警視本署(現在の警視庁)が編成した警視隊9,500人も派遣されました。
鹿児島県逆徒征討総督に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を迎え、征討総督府参軍に長州出身の山縣有朋(やまがたありとも)陸軍中将と薩摩出身の川村純義(かわむらすみよし)海軍中将を据えた討伐軍は4つの師団と6つの旅団に編成され戦闘に従事しました。
海軍は13隻の艦船が動員され、艦隊指揮官には薩摩出身の伊東祐麿(いとうすけまろ)海軍少将、派遣された日進艦の艦長はのちに初代連合艦隊司令長官となった伊東祐亨(いとうすけゆき)中佐でした。
このように明治政府軍は薩摩軍の兵力の2倍以上で装備も充実しており、物質補給の体制も万全で戦争にのぞみました。

西郷隆盛率いる薩摩軍の編成

(鹿児島暴徒出陣図・月岡芳年画、出展:ウィキペディア

薩摩軍の兵力は旧薩摩藩士に旧福岡藩、中津藩、熊本藩の士族などが加わって約30,000人と記録されています。
総指揮官は西郷隆盛、その下に6つの大隊が編成されていました。
一番大隊はその軍事的センスを明治天皇にも認められていた陸軍少将篠原国幹(しのはらくにもと)、二番大隊は軍人ではありませんでしたが、戊辰戦争西郷隆盛の右腕と言われた村田新八(むらたしんぱち)、三番大隊は陸軍中佐永山弥一郎(ながやまやいちろう)、四番大隊は幕末に人切り半次郎と呼ばれた中村半次郎こと陸軍少将桐野利秋(きりのとしあき)、乃木希典が率いる連隊の旗を奪う活躍を見せた五番大隊は陸軍少佐池上四郎(いけのうえしろう)、連合大隊は城山で西郷隆盛の介錯をした陸軍少佐別府晋介(べっぷしんすけ)が任じられていました。
薩摩軍が約2.5倍にも及ぶ兵力を持つ政府軍に善戦できた最大の要因は、戦闘部隊の指揮官の力量差も大きかったと伝えられています。
政府軍の部隊指揮官よりも薩摩軍の部隊指揮官の方が戊辰戦争での実戦経験が豊富で、兵隊の訓練もより実戦的に行われていました。これが政府軍が薩摩軍討伐に苦戦し、時間を費やす結果となった原因の一つと考えられています。
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西南戦争の経過

熊本城攻防戦

(熊本城復元天守、出展:ウィキペディア

1877年(明治10年)2月19日、熊本鎮台の本拠地、熊本城で原因不明の火災が起こり、運び出せた弾薬以外の食糧や燃料を失ってしまいます。
その翌2月20日に別府晋介率いる薩摩軍の連合大隊が熊本県南部の川尻に到着し、熊本鎮台から派遣された偵察隊がこれに発砲したことで西南戦争の火蓋が切られました。
薩摩軍の中では、迂回して東上するか強襲して落城させるかの意見が出る中、西郷隆盛は強襲策を採用、薩摩軍は22日の朝から熊本城へ総攻撃を仕掛けます。
しかし熊本鎮台の守りは固く桐野利秋率いる四番大隊が城壁付近まで攻め込むも撃退され薩摩軍の被害は大きくなっていきます。
それでも熊本城の西に位置する段山の占領に成功し、ここから城内へ向かって砲撃を開始し、鎮台軍にも大きな被害が出ます。
しかし薩摩軍は強固な熊本城の城郭に取り付くことさえ出来ず、西郷隆盛は強襲策を中止し小倉侵攻作戦を採用します。

小倉強襲策、植木・木葉の戦い

乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将

(乃木希典陸軍大将、出展:ウィキペディア

討伐軍首脳部は熊本鎮台軍の熊本城籠城を決定し、小倉に駐留する歩兵第14連隊の指揮官・乃木希典(のぎまれすけ)少佐に熊本城応援を指示します。
乃木は一部の部隊を先行させると、自身はその後に準備のできた第3大隊を率いて熊本へ向かいました。
22日、第3大隊は高瀬に到着、乃木は熊本の様子を探るために自ら小隊を率いて植木方面へ偵察に出ます。
乃木小隊の行動を察知した薩摩軍は2個小隊を出撃させますが、別方向から来た歩兵第14連隊第4大隊が乃木小隊に合流し薩摩軍の攻撃を退けます。
しかし薩摩軍2個小隊に後続部隊が合流すると、討伐軍は圧倒的に不利な兵数となり、乃木は撤退を余儀なくされます。
この撤退の混乱の最中に歩兵第14連隊は軍旗を薩摩軍に奪われる大失態を犯してしまいます。
翌23日、薩摩軍は約1800名の部隊を小倉へ向かって進軍させますが、乃木の率いる歩兵第14連隊は未だに約700名しか到着しておらず、これを木葉方面に展開して迎え撃ちました。
昼過ぎまでは劣性を跳ね返して善戦していた第14連隊でしたが、夕方には右翼が崩れ、夜には寺田山へ退却を始めます。
この退却時に薩摩軍の別動隊によって側面を突かれ、第14連隊は総崩れとなり多数の将兵を失いました。
植木、木葉と連勝した薩摩軍でしたが、熊本城攻略を諦めきれず、23日、24日と熊本城を攻撃を再開します。
しかし攻略の糸口すら掴めないまま小倉侵攻も断念となり、結局南下してくる政府軍を迎え撃つ作戦へと変更しました。

討伐軍増援部隊の到着と高瀬の戦い

(横浜港を出発する帝国陸軍兵士、出展:ウィキペディア)

摩軍の熊本城攻撃が開始された2月22日、博多に討伐軍の増援部隊である第1、第2旅団が到着し、逐次南へ向かって進軍を始めました。

木葉での敗戦から立ち直った第14連隊も25日、増援部隊に呼応して高瀬方面に進出します。
対する薩摩軍は山鹿、植木、伊倉の三方面に熊本から増援部隊を出します。

第14連隊が高瀬に到着すると第1、第2旅団からも援軍が送られ高瀬川に陣地の構築が開始されます。

これを察知した薩摩軍は伊倉方面部隊に攻撃を指示しますが撃退され、植木方面部隊も第14連隊の強襲を受け退却、これを追撃した第14連隊は田原坂まで進出しますが、第2旅団長の命令によりここを撤退します。この第14連隊の撤退判断が、このあとに激戦となる田原坂での討伐軍苦戦の原因となります。

 

この結果を受けて薩摩軍の主力は山鹿、植木、伊倉の三方面にそれぞれ桐野利秋、篠原国幹と別府晋介、村田新八の各大隊長を司令官とした部隊を派遣し、高瀬奪取に挑みました。薩摩軍の主力の北進を知った討伐軍は、各方面に増援を送り旅団長自身も前線へ進出します。

桐野隊が稲葉山を目指し討伐軍の背後を脅かすと、第2旅団の野津道貫(のづみちつら)大佐は機敏な判断で部隊を派遣し稲葉山を確保します。

 

この稲葉山をめぐる攻防戦は西南戦争の天王山と呼ばれるほどで、桐野隊の執拗な攻撃を討伐軍は何度も撃退し、多くの犠牲者を出しながらも稲葉山を確保し続けました。
桐野隊が稲葉山で激戦を繰り広げているとき、村田隊と篠原隊は共同して歩兵第8連隊を撃退、戦局を優位に進めていました。
しかし昼を過ぎると篠原、別府隊の弾薬が不足、事もあろうに村田、桐野隊に無断で撤退を開始します。
中央が空白となった戦線は一気に討伐軍有利となり、最前線で戦っていた篠原隊の西郷小兵衛(さいごうこへえ・西郷隆盛の末弟)小隊長は戦死、村田隊は伊倉からも撤退します。

最後まで戦線に残っていた桐野隊でしたが、三方から攻められ撤退を余儀なくされました。
これまで攻勢に出ていた薩摩軍が、討伐軍に敗北した高瀬の戦いは、西南戦争の大きな転換点となり、こののち薩摩軍は守勢に回ることになりました。

1ヶ月以上続いた田原坂・吉次峠の激戦

(鹿児島新報田原坂激戦之図・小林永濯画、出典:ウィキペディア

高瀬から撤退した桐野隊は兵力を補充すると、討伐軍本営のある南関攻撃へ向かいます。
桐野隊は幹部クラスの士官を失いながらも、南関まで10kmのところまで攻め込みますが「薩摩軍、田原で敗北」の誤報に接して撤退してしまいます。
討伐軍は3月を前にして兵力を増強、薩摩軍を圧倒する体制の構築をはかります。
しかし、この間に薩摩軍も陣容を立て直し高瀬から植木に至る途中にある小丘陵の田原に兵力7000人で強固な防御線を構築しました。この田原にある坂は博多から熊本へ唯一大砲が通れる幅がある道で、討伐軍は通行を確保する必要性がありました。
3月4日、討伐軍は田原方面へ近衛歩兵第1連隊を中心とした本隊が全面攻勢を掛け、吉次峠へは第2旅団が攻め込みましたが、田原の守りは固く向かいの二俣を確保するのが精一杯でした。
吉次峠では薩摩軍一番大隊長・篠原国幹の狙撃に成功しますが、これに激怒した薩摩軍の猛攻を受けてしまい、指揮官は戦死、部隊は後退してしまいます。
このため吉次峠侵攻を断念し、攻撃を田原一本に絞りますが度重なる突撃も効果をあげることはなく田原坂を確保することは出来ませんでした。
討伐軍は田原坂攻略のため、薩摩軍の防衛線に楔を打ち込める形となる横平山制圧に目指します。
しかし討伐軍の攻撃は、地の利をいかした薩摩軍の銃撃と、抜刀しての白兵戦に全く手も足も出ない状況に追い込まれます。
討伐軍はこの白兵戦に対抗するため警視隊の中から剣術優秀者を選抜し、百十余名による抜刀隊を編成し戦線に投入、3月14日には薩摩軍の陣地奪取に成功し、15日には横平山の占領に成功しました。
17日に横平山を拠点にした一斉攻撃を掛けますが、薩摩軍の抵抗も激しく今一歩のところで田原坂の突破は不成功に終わり、この時点で討伐軍の死傷者は4,000人以上を数えました。

 

篠原国幹(しのはらくにもと)

(篠原国幹、出典:ウィキペディア

3月18日、討伐軍本営で首脳が集まって作戦会議が開かれ、各攻撃隊の意思統一をはかり3月20日総攻撃と決しました。
20日早朝、豪雨と霧にまぎれて田原坂に進行した討伐軍は、出張本営に目標を絞り突撃を繰り返し、対応の遅れた薩摩軍を植木方面に敗走させ、ついに田原坂突破に成功します。
しかし薩摩軍は翌21日には植木、吉次峠に防衛線を構築、23日には再び陣地を取り合う激戦となります。
戦闘は討伐軍優勢も決め手に欠け、一進一退を繰り返しますが、4月1日に吉次峠を、2日には木留を占領、15日までに熊本より北進してきた薩摩軍をほぼ敗走させ、戦争の主導権を完全に握りました。

討伐軍の攻勢と衝背軍の結成

(鹿児島英名競・桐野利秋、出典:ウィキペディア

鳥巣方面は3月30日に近衛歩兵隊による攻撃が開始されますが、少数ながら薩摩軍はよく守り討伐軍を撃退します。
4月5日には第3旅団による攻撃も始まりますが、ここでも薩摩軍はよく耐えたため、7日には古閑に矛先を変えた討伐軍でしたがこちらも薩摩軍の反撃にあい撤退します。
しかし9日には薩摩軍の武器、弾薬不足が顕著になり、戦線の維持が不可能となりやむなく撤退、鳥巣は討伐軍に占領されました。

 

黒田清隆(くろだきよたか)

(黒田清隆、出典:ウィキペディア

3月14日、膠着状態となった田原坂の戦闘を打開するために、衝背軍(しょうはいぐん・中入れする、背後をつく部隊のこと)を黒田清隆(くろだきよたか)中将を最高司令官として結成、別動第1、第2、第3旅団を編成しました。

先発した第1旅団は鹿児島上陸後、八代を制圧しその後に第2、第3旅団が合流し8,000名の大部隊となりました。
これに対し薩摩軍は急遽、南下軍を編成、宮原で討伐軍と遭遇し戦闘となります。

討伐軍は海軍からの支援も受けて、小川、松橋、宇土を薩摩軍の抵抗を受けながらも占領し、熊本城まで10km足らずのところまで到達しました。

 

この時の熊本城の状況は、薩摩軍の主力が小倉へ向け進発したあとも熊本城は薩摩軍によって包囲されており、籠城直前の火災によって失った兵糧と物資の補充はされておらず、熊本鎮台軍は厳しい状況にありました。

 

しかし包囲する薩摩軍も当初は5,000名程がいましたが、各地への応援のため減り続け、巨大な熊本城の包囲を小数兵力で続けることとなり、あちこちに隙が出来てしまい熊本城へ兵糧を運び込まれるなど戦略的に破綻していきました。

このため衝背軍が熊本城付近まで到達したときに、鎮台軍は城を出て数度の薩摩軍との戦闘を経て宇土で衝背軍と合流、熊本城の窮状を訴えたため4月12日に総攻撃開始が決定されます。
薩摩軍は田原での激戦により兵力不足が顕著になり、別府晋介らによって3月25日頃、薩摩で徴集が行われ1500人ほどが集まりました。

 

しかし衝背軍が宇土から川尻へと進軍したため、薩摩での徴集兵が北上出来なくなり、八代奪還を目標に変更して衝背軍を孤立させる作戦に出ます。

4月4日に作戦を開始すると薩摩軍は人吉、坂本と連勝し八代に肉薄しますが、体制を立て直した衝背軍も反撃を開始し、17日まで小康状態が続きました。

 

しかし衝背軍に援軍が到着すると均衡が崩れ、薩摩軍は敗走することになり、別府晋介も負傷しました。

城東会戦~人吉、大口の戦闘

山縣有朋(やまがたありとも)

(山県有朋、出典:ウィキペディア

4月12日の総攻撃は士気の上がらない薩摩軍がじりじりと後退するなか、衝背軍は御船、川尻を占領、14日の夕刻には熊本城下へと到達しました。
川尻陥落の報を聞いた薩摩軍は二本木、植木、木留、鳥巣から撤退し立田山南麓へ集結、そのまま木山へと移動しここを本営に定めて防御線を構築します。
この時の薩摩軍の総数約8,000名、対する討伐軍は熊本城において、山県有朋中将の指揮下で各部隊の配置転換を行い、八代、川尻などへ部隊を展開し総数約30,000名で攻撃体制を整えます。
4月19、20日に両軍が激突した西南戦争最大の野戦となった城東会戦は、討伐軍側の大津街道進攻、京塚、保田窪、御船への一斉攻撃で開始されますが、薩摩軍はよく守り、長嶺では抜刀隊が討伐軍の防衛線を突破し熊本城に迫る戦いを見せました。
御船では当初は討伐軍の攻撃を撃退していた薩摩軍も、応援部隊が到着して3方向から攻められると持ちこたえる事が出来ずに御船から撤退しました。
結局、薩摩軍は御船の敗北ををきっかけに大津、木山と続けて敗退し矢部浜町へ本営を移動します。
熊本平野のほとんどを戦場にした城東会戦は、討伐軍が苦戦するも薩摩軍の4倍にも及ぶ兵力によって何とか1日掛かりで押しきった戦いとなりました。

 

村田 新八(むらたしんぱち)

(村田新八、出典:ウィキペディア

城東会戦で敗退した薩摩軍は矢部浜町の軍議で、大隊長であった村田新八、池上四郎(いけがみしろう)を本営付きとし戦術面を充実させ、大隊編成を中隊編成に変更して機動力をアップさせ、本営も人吉に移すことが決定されました。
薩摩軍はこの決定に従い人吉を中心に、両翼を南北に広げた形で防衛線を構築しました。
これに対して討伐軍も南下してきた第1~第4旅団と衝背軍として北上してきた別動第1~第4旅団、熊本鎮台の9部隊を鹿児島、木山、川尻などの重要拠点に配置しました。
神瀬方面では5月9日に戦闘が始まり、薩摩軍の一部が討伐軍に降伏する事態も起こりましたが、両軍ともに決め手を欠き1ヶ月以上膠着状態となります。
万江方面では討伐軍が戦局を優勢に進め、薩摩軍を敗走させ内山田を占拠、しかし大野方面では薩摩軍が久木野で討伐軍に圧勝するなど戦闘開始直後は薩摩軍が優位で戦局が推移します。
ただ薩摩軍の武器弾薬不足は顕著で、どの戦線でも徐々に討伐軍に押され気味となり人吉方面に向かって退却を始めます。
討伐軍の別働第2旅団は5月初旬に人吉盆地への一斉攻撃を決定、薩摩軍の人員、物資不足もあり二週間ほどで薩摩軍が守る要衝をほとんど陥落させます。
薩摩軍は球磨川に架かる橋を焼くなど、討伐軍の侵攻を止めようとしますが効果はなく、薩摩軍の大砲の射程が短く砲撃してもほとんど成果をあげられぬままに6月1日に人吉は討伐軍の手に落ちました。
また、この頃から薩摩軍から討伐軍へ投降するものが増え、投降後に討伐軍の軍務に服する者さえ出始めました。

追い詰められる薩摩軍、鹿児島も戦場となる

宮崎から鹿児島方面を統括していた桐野利秋は、人吉の陥落危機の報を受けて占領した宮崎市庁へ西郷隆盛を移し、ここを薩摩軍本営としました。
人吉陥落後、討伐軍は次の目標を大口に定め部隊を進軍させました。
大関山、国見山、小河内を次々と占領した討伐軍は大口を包囲するような形で軍を進めてきました。
大口方面を守る辺見十郎太(へんみじゅうろうた)は数的に圧倒的優位を誇る討伐軍を相手に、2ヶ月間戦線を維持し討伐軍にダメージを与えますが、6月20日大口は陥落、その後の奪還作戦も失敗すると薩摩軍は南へ退却します。

 

川路 利良(かわじとしよし)

(川路利良、出典:ウィキペディア

川村純義海軍中将を総司令官として4月27日に鹿児島に上陸した陸海軍混成軍は、鹿児島住民の人身掌握と生活安定の施策を取ったあと、南下してくる討伐軍主力と合流すべく、鹿児島県内の薩摩軍の必死の抵抗を、海上からの艦砲射撃の援護を受けながら逐次撃破します。
5月14日には薩摩軍の硝石製造所・物資倉庫を焼却、その後も紫原方面での両軍合わせて300名が死傷した激しい白兵戦をしょうりして薩摩軍を鹿児島から敗走させました。
川路利良少将率いる別動第3旅団は大口方面の薩摩軍を敗走させたあと、宮之城から鹿児島を目指して薩摩軍の拠点を次々と陥落させ、川村軍との合流に成功しました。
各地で敗れた薩摩軍各隊は都城へ集結し、村田新八の手によって再編され討伐軍の侵攻に備えました。
高原奪還を狙った都城薩摩軍最右翼隊は、果敢に討伐軍へ斬り込み高原占領へあと一歩まで迫りますが、各方面から増援部隊によって阻止され庄内へと撤退します。
7月6日には国分、23日には岩川と薩摩軍は討伐軍の拠点に攻め込みますが、どこもあと一歩及ばず、逆に自らの拠点を続々と討伐軍に奪われます。
薩摩軍は7月8日の百引での戦闘で討伐軍兵士100名程度を死傷させ軍事物資を奪い取った戦闘程度が目立つ程度で、全体的にはその占領範囲は縮小の一途を辿りました。

都城攻防戦と薩摩帰着

川村 純義(かわむらすみよし)

(川村純義、出典:ウィキペディア

7月21日、都城総攻撃の陣容を山県有朋中将、川村純義中将、大山巌(おおやまいわお)少将ら討伐軍首脳が軍議によって決定し、7月24日に攻撃を開始しました。
別動第3旅団、第4旅団による庄内・財部方面への攻撃は順調で、次々と薩摩軍を破り都城へ侵入、別動第1旅団も岩川・末吉方面から侵攻しました。
これによって守りに適したはずの都城の薩摩軍は簡単に総崩れとなり、多くの投降者を出して敗北しました。
都城という要害を簡単に破られたことによって、薩摩軍の戦闘力は格段に減退し、もはや討伐軍を撃ち破る力はなくなり、西南戦争はこの時点で実質的な勝敗が決着したと言えます。
薩摩軍は都城陥落後、戦争開始当初に確保していた豊後・日向方面からも敗退し宮崎の戦い、美々津の戦いと連敗し延岡に集結することになります。
討伐軍は8月12日に延岡に突入、14日には中津川に架かる橋を落とし抵抗する薩摩軍を押し切り、延岡を手中に納めます。
15日に薩摩軍は3,000名余りを友内山、和田峠、小梓峠に散開配置し、陣頭に立った西郷隆盛を討伐軍は50,000名をこえる兵力で包囲、一気の決着をはかりました。

 

(和田越決戦地の碑、出典:ウィキペディア

 

8月15日の早朝から西郷隆盛は桐野利秋、村田新八ら薩摩軍首脳を従えて、和田峠から薩摩軍の戦いを指揮しました。

当初は桐野利秋率いる精鋭部隊の活躍などで別動第2旅団を押し込めますが、第4旅団の救援や討伐軍別動隊の攻撃で薩摩軍は防衛線は突破され、薩摩軍は長尾山続いて無鹿山から撤退します。
討伐軍に包囲された西郷隆盛は16日に薩摩軍の解軍を決定すると、薩摩軍から討伐軍への投降者が続出、西郷隆盛のもとには約1,000名の有志のみが残りました。
西郷軍は討伐軍の包囲を破るために可愛岳の突破を決定、その後も討伐軍の包囲網の手薄なところを突くように進軍し9月1日遂に鹿児島へ帰着しました。

城山籠城戦と西郷隆盛の最期

(城山の戦い、出典:ウィキペディア

9月1日、鹿児島に戻った西郷軍は鹿児島市民の協力もあって、討伐軍を強襲して市内をほぼ制圧し城山を中心に守りを固めました。
討伐軍は9月3日に西郷軍への攻撃を開始し、城山を守る部隊を殲滅し城山から襲撃した薩摩軍の決死隊も退けて9月6日には城山を完全に包囲しました。
この時西郷軍はわずかに350名程度、討伐軍は70,000名の大軍でした。
8日になると山県有朋中将が鹿児島へ到着、双方のにらみ合いが続くなか川村少将から西郷軍へ降伏勧告が届けられ、山県中将からは西郷隆盛へ自決を勧める書状も届けられましたが、にらみ合いの状況が打開されることはありませんでした。
9月24日、午前4時に討伐軍による総攻撃が開始されると西郷軍は整列して岩崎口へと進軍、討伐軍が放つ銃弾で次々と西郷軍の将兵は倒れ、遂に西郷隆盛も股と腹に被弾しました。
西郷隆盛は別府晋介を呼び寄せ、「晋どん、もう、ここらでよか」と言い、東方(天皇陛下)を礼拝し別府晋介の介錯によってその生涯を閉じました。
介錯した別府晋介はこの場で切腹もしくは、討伐軍へ突撃し銃弾に倒れ命を落としました。
ここまで西郷隆盛を支えた桐野利秋や村田新八らも突撃したり、自刃したりこの城山を枕に戦死しました。
1877年(明治10)9月24日午前9時、討伐軍の銃声が止み五時間におよんだ城山での戦闘は終了し、西南戦争は終幕の時を迎えました。
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西南戦争にゆかりの地とエピソード

南洲墓地・南洲神社

(南洲墓地にある西郷隆盛の墓、出典:ウィキペディア

南洲墓地西郷隆盛をはじめ城山、岩崎谷で戦死した40余名を仮埋葬した土地に、2年後に鹿児島市内各所から、6年後には宮崎や熊本などの他県から西南戦争戦死者の遺骨が集められ、合計薩摩軍2,023名の将兵が眠る墓地として整備されました。
西郷隆盛の墓石の左には最後まで行動を共にした桐野利秋、右手には参謀格であった篠原国幹の墓石が建てられ、他に村田新八、別府晋介などの幹部達がずらりと西郷隆盛を囲むように並び、鹿児島県令として西郷隆盛を支え、戦後斬首された大山綱良も葬られています。
1879年(明治12)に墓地横に作られた参拝所は、1922年(大正12)に西郷隆盛を祀る南洲神社として整備されました。

西郷隆盛像

(西郷隆盛像・上野恩賜公園、出典:ウィキペディア

1877年(明治10)2月25日の行在所達第4号によって官位を剥奪され、西南戦争で戦死した後は賊軍の将として扱われていた西郷隆盛でしたが、衰えない国民の西郷人気や西郷を気に入っていたといわれる明治天皇の意向などもあり、1889年(明治22)年大日本帝国憲法発布の大赦によって西郷隆盛は復権します。
1898年(明治31年)12月18日に宮内省からの出金と有志による寄付によって、東京都台東区上野の上野公園に銅像が建てられました。
像を作製したのは「道程」「智恵子抄」などを執筆した高村光太郎(たかむらこうたろう)の父親で彫刻家の高村光雲(たかむらこううん)です。
この銅像の除幕式に招待された西郷隆盛の妻・糸子は「うちの主人はこんなんじゃなかった」と呟き、回りを驚かせたと伝えられています。
100年以上経った現在でも上野と言えば西郷さんと言われるほど有名なスポットになっています。
なお、西郷隆盛の銅像は、鹿児島市の鹿児島市立美術館近くにある彫刻家・安藤照(あんどうてる)製作のもの、鹿児島空港近くにある西郷公園の彫刻家・古賀忠雄(こがただお)製作のによるものが
あります。

薩摩軍に参加しなかった西郷隆盛の身内

明治六年政変により西郷隆盛が参議を辞職し薩摩へ帰ったとき、数多くの新政府の役人、軍人が職を辞して西郷隆盛と行動を共にしました。
しかし西郷隆盛の近親でありながら新政府に残り、薩摩軍と敵対する立場で西南戦争を迎えた人物も多くいました。

西郷従道(さいごうじゅうどう)

(西郷従道、出典:ウィキペディア

軍で初めての元帥の称号を受けた上に、陸軍中将でもあった陸海軍両方で将帥となった唯一の人物で西郷隆盛の弟です。
兄・西郷隆盛が大西郷と呼ばれたのに対して小西郷と呼ばれ、薩摩出身者だけでなく軍部、政府内でも人望ある人物でした。
西郷隆盛が征韓論をめぐり薩摩に下野したときには、すでに陸軍少将で重職を担っていた西郷従道は兄に従うことなく政府にとどまりました。
西南戦争が勃発しても従道は兄に同調することなく、山県有朋陸軍卿が討伐軍を率いて出征したため陸軍卿代理として残留部隊の統制に尽力しました。
1877年に大久保利通が暗殺されたあとは、薩摩派閥の重鎮として出世を重ね、
内閣制度が発足すると初代海軍大臣に任命され、政府内でも多くの信頼を集めて再三再四内閣総理大臣に推挙されましたが、兄・西郷隆盛の逆賊行為を理由に拒否し続けました。
1902年7月18日胃癌により59歳にて死去。

 

大山巌(おおやまいわお)

(大山巌、出典:ウィキペディア

西郷隆盛の従弟にあたり、戊辰戦争に従軍したときからその軍事的才能を発揮し、陸軍大臣、陸軍総参謀長、大警視(警視総監)などを歴任、陸軍元帥の称号を受けました。
大山巌も西郷隆盛が薩摩へ下野したときに同行することなく、西南戦争時も討伐軍の司令官として薩摩軍と戦いました。
特に城山の戦いでは攻城砲隊司令官として直接、西郷隆盛と戦うこととなり生涯この事を悔やみ、この後二度と薩摩の土を踏むことはありませんでした。
明治中期以降は陸軍大臣として山県有朋と肩を並べるほどの実力者となりますが、政治的野心はなく内閣総理大臣の候補となることさえ避け続けました。
1916年(大正5)12月10日死去、享年75歳。

西郷隆盛の近親で軍部内での人望も厚かった西郷従道と大山巌の二人が、西郷隆盛の下野に同行しなかった理由について、その理由となる資料は残っていません。

 

西郷隆盛が二人を思い止まらせたのか、各個人の判断であったのか、彼ら二人の動向が西南戦争の行方を左右する可能性があっただけに、西南戦争の大きな謎と言えます。

 

二人が西南戦争で薩摩軍と戦ったことを生涯悔やんだここと、西郷隆盛が賊軍の将となったことによって、彼らが内閣総理大臣の推挙を受けなかった事から、相当な心の葛藤があったことは推察できます。
彼らが西郷隆盛と行動をともにしなかった理由の解明を待ちたいと思います。

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西南戦争の戦後処理

(バルカン社製1号機関車(国鉄150形)、出典:ウィキペディア

8ヶ月に及ぶ九州全土を巻き込んだ西南戦争は政府軍の勝利に終わり、薩摩軍はほぼ壊滅し西郷隆盛もこの世を去り不平士族も一掃されました。
しかし、西南戦争で政府が受けた傷も大きいものがありました。
当時の政府の税収が4,800万円であったのに対して西南戦争の戦費が4,100万円と、9割近くを費やしてしまい、政府は不換紙幣を乱発します。
このため極度のインフレーションが発生し、経済は大混乱に陥ります。
政府の財政を担当していた松方正義(まつかたまさよし)増税と官営企業の売却、兌換紙幣の発行でこの危機を乗り切り、財政再建を成功させます。
しかし、松方の政策によって今度はデフレーションが発生し地方では農民の小作化が進み大地主が誕生、困窮した農民は都市部に流入し低賃金で財閥企業で働くこととなります。これによって貧富の差が拡大し都市部に貧困層が誕生してしまいます。
また、国の資金不足によって官営で建設していた鉄道路線が建設不能となり民間資本によって鉄道を敷く私鉄が誕生することになりました。

 

 

一連の不平士族の反乱と西南戦争によって、武士という存在がなくなり、軍事専門職の階級が消滅しました。
また士族中心の薩摩軍に徴兵主体の政府軍が勝利したことによって、徴兵制による国民皆兵と軍事強化に目処が立つ結果となりました。

 

ただ兵士の訓練不足や教育不足は顕著で、精神教練や軍事教練に注力していくこととなります。
また、鹿児島の軍事工場や武器庫が襲撃された教訓から、全国各地で別々に管理されていた軍事物資や武器を軍部が一元管理するようになり、国内の不満分子による反乱や武装蜂起に備える体制が出来上がりました。

 

 

政治体制はおいては、立法に当たる国会が存在せず、司法が拠り所とする憲法もない状態では参議を頂点とする行政のみが頼りとなり、役人が国家を支配する官僚体制が確立し、現在の日本でもこの弊害が続いていると言えます。

西南戦争を題材とした作品

西南戦争を正面から映像化した作品と言えば、1987年12月30日、12月31日の二日間にわたって日本テレビ系列で放送された「田原坂」です。

 

西南戦争の田原坂の戦いを山場に、里見浩太朗演じる西郷隆盛の半生を重厚なストーリーと豪華な配役で描いた作品です。
薩摩軍側からの目線で描かれているため、西郷隆盛の生き方や薩摩軍の考え方が正義で、反乱を起こすように仕向けた政府は誠意にかける悪者的に描かれていおり、薩摩軍の潔さを美化しすぎている点は気になりますが、西南戦争中のエピソードや西郷隆盛の血縁者の心情や行動を細かく描いている点では良く出来ていると思います。
作品の終盤で近藤正臣が演じる大久保利通が暗殺され、絶命する寸前に「所詮、わしらは時代に捨てられていくのか・・」と呟くシーンがあります。

この台詞こそがこの作品の最大のテーマで、西南戦争で命を落とした多くの人々が伝えたかった言葉そのものだったと、見終わったときに感じてもらえると作品だと思います。

 

西南戦争を扱ったNHKの大河ドラマでは、1990年の「翔ぶが如く」と2018年の「西郷どん」があります。
「翔ぶがごとく」は司馬遼太郎原作で西郷隆盛西田敏行大久保利通鹿賀丈史が演じており、二部構成の第二部は征韓論から西南戦争へ至る過程が丁寧に描かれています。
「西郷どん」は林真理子原作で西郷隆盛鈴木亮平大久保利通瑛太が演じており、大河ドラマでは西郷と大久保のふたりを軸としたこの二作品が西南戦争を描いています。

(トム・クルーズ・1989年、出典:ウィキペディア

史実に基づいてではありませんが、西南戦争をモチーフにして製作されたハリウッド映画「ラストサムライ」が2003年に日本で公開されています。
主演は「トップガン」や「ミッションインポッシブル」のトム・クルーズ、ほかには渡辺謙真田広之小雪など日本のトップ俳優がキャスティングされていました。
アメリカ南北戦争後に日本にやって来た軍人・ネイサン(トム・クルーズ、フランス軍事顧問・ジュール・ブリュネがモデル)が政府に追い詰められながらも武士道精神を貫き通すサムライ・勝元(渡辺謙、西郷隆盛がモデル)らと心を通わせ、ともに決起して圧倒的な政府軍に戦いを挑むストーリーで、全世界で450億円を越える興行収入をあげる大ヒット映画となりました。
ニュージーランドでの多数の馬とエキストラを使用した騎馬突撃の戦闘シーンは圧巻の大迫力で、銃撃や刀で斬られて血が吹き出すシーンの余りのリアルさにアメリカでは年齢指定(R17)となりました。
史実とは大きく異なる部分もあり、西南戦争を描いているとは言い切れませんが、明治天皇と勝元(西郷隆盛)との心情的な繋がりや明治維新による武士道精神の衰退などはきっちりと描かれており、歴史が苦手な人の鑑賞にも十分に耐えられる作品となっています。

西南戦争まとめ

(西郷隆盛像・肥後直熊筆、出典:ウィキペディア

四民平等のもと1873年の徴兵令、1876年の秩禄処分によってその地位を失った士族は、各地で反乱を起こしその集大成となったのが西南戦争でした。
士族が自らの特権を守るために武力をもって立ち上がったため、西南戦争だけでも政府軍6,400名、薩摩軍6,800名あわせて13,000余名の人命を失い、士族階級は何を得ることもなくその存在自体を消滅させました。
その上に政府の財政を危機的状態に追いやり、短期間の間に日本経済にインフレーションとデフレーションを起こし混乱させ、多くの貧困者と財閥という巨大な資本家を生み出し、貧富の差を拡大させてしまいます。
また財閥による経済への資本投下は多くの産業を生み出し日本を近代化させ列強国に肩を並べる強国へと押し上げました。
しかしこの繁栄は最終的に太平洋戦争の開戦をもたらし、再び日本に多くの人命を失う悲劇と、焦土と化した国土をもたらしてしまいます。
薩摩軍の敗戦と自分の最期の時を自覚していたと思われる西郷隆盛が起こしてしまった西南戦争は、日本に何一つ幸せをもたらすことのなかった内戦、それが西南戦争だったと、現在の歴史的評価では結論付けしなければならないのが、西郷隆盛の功績を考えると残念でなりません。

参考文献

小川原正道「西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦」 中公新書

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熊本市田原坂西南戦争資料館

http://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=16402

 

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