

(薩肥海鹿児島逆徒征討図・早川松山画、出展:ウィキペディア)
1877年(明治10)2月20日、熊本鎮台所属の偵察隊が薩摩軍に向けて発砲したことによって火蓋が切られた西南戦争(西南の役)は、日本国内最後の内戦、また明治新政府の施策によって多くの特権が奪われた不平士族による最後で最大の反乱となりました。
西郷隆盛(さいごうたかもり)ら戊辰戦争、明治新政府樹立の功労者をはじめとして、多くの人命が失われることとなった西南戦争はどのような経緯で起こり、どのような結果を招いたのか、薩摩軍と討伐軍の動きや新政府の対応を追いかけながらその実態に迫ってみたいと思います。
目次
西南戦争とは
西南戦争とはなにか?簡単に解説した動画は以下をどうぞ
西南戦争勃発の要因
征韓論における明治新政府首脳の対立

(征韓議論図・鈴木年基作、出展:ウィキペディア)
岩倉使節団として岩倉具視(いわくらともみ)や木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)らが欧米各地を歴訪している時に、日本に残った西郷隆盛や後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、江藤新平(えとうしんぺい)らは朝鮮政府の日本に対する態度などを問題視し、朝鮮半島への使節の派遣や軍の派兵を検討します。
また欧米視察を終えて帰国した岩倉具視や木戸孝允も大久保利通に賛同し、征韓論を軸に留守を預かった西郷隆盛らと欧米視察に出ていた大久保利通らの間で抜き差しならない対立が起きました。
この西郷隆盛らが政府を去ることとなった事件を明治六年政変(征韓論政変)といいます。
不平士族による反乱の続発

(佐賀の事件・月岡芳年画、出展:ウィキペディア)
征韓論による政争に敗れ、下野した政府要人であった参議諸氏のもとには、廃刀令によって魂を失い、秩禄処分によって金を失い、明治新政府の数々の施策によって既得権を失った旧武士階級の士族が集結、不平士族と呼ばれた彼らは政府に対する不平不満の温床となっていきました。
1874年(明治7)1月14日に岩倉具視が土佐藩出身の不平士族に襲われ負傷する事件(喰違の変)が起こると、2月1日には江藤新平をリーダーとする佐賀の乱が勃発、1876年10月24日には熊本で神風連の乱(敬神党の乱)、10月27日には福岡県で秋月の乱、続いて10月28日には前原一誠(まえばらいっせい)が萩の乱を引き起こしました。
いずれも政府軍によって鎮圧されましたが、不平士族の不満はくすぶり続け、翌年の西南戦争へと繋がって行くことになります。
血気にはやる私学校学生

(私学校跡地・正門、出展:ウィキペディア)
自身や県令・大山綱良(おおやまつなよし)らが賜った賞典禄を利用して幼年学校を設立、残りの銃隊学校と砲隊学校は鹿児島県の予算を利用しました。
1877年(明治10)1月29日、政府が鹿児島に赤龍丸を派遣します。
当時の陸軍使用の主力銃であったスナイドル銃の弾薬は、ほとんどが鹿児島の工場で生産されていたために、政府はその設備と備蓄弾薬を赤龍丸で持ち出そうとしたのです。
結局赤龍丸はわずかな武器弾薬を運び出しただけで任務を終え、多くの物資が薩摩に残り薩摩軍は西南戦争で300万発の弾薬が使用できたと言われています。
西南戦争の政府軍、薩摩軍の比較
明治政府討伐軍の編成

(警視隊の活躍を描いた錦絵、出展:ウィキペディア)
薩摩軍と最初に衝突した政府軍は、熊本城に置かれた熊本鎮台軍で、土佐藩出身の・谷干城(たにたてき)少将を司令官、参謀長にのちの海軍大将・樺山資紀(かばやますけのり)陸軍中佐、参謀副長はのちに日露戦争の勝利に貢献し陸軍大将となった児玉源太郎(こだまげんたろう)陸軍少佐以下歩兵第13連隊(熊本)、歩兵第14連隊(小倉)合わせて約4,000人が守りを固めていました。
鹿児島県逆徒征討総督に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を迎え、征討総督府参軍に長州出身の山縣有朋(やまがたありとも)陸軍中将と薩摩出身の川村純義(かわむらすみよし)海軍中将を据えた討伐軍は4つの師団と6つの旅団に編成され戦闘に従事しました。
このように明治政府軍は薩摩軍の兵力の2倍以上で装備も充実しており、物質補給の体制も万全で戦争にのぞみました。
西郷隆盛率いる薩摩軍の編成

(鹿児島暴徒出陣図・月岡芳年画、出展:ウィキペディア)
総指揮官は西郷隆盛、その下に6つの大隊が編成されていました。
西南戦争の経過
熊本城攻防戦

(熊本城復元天守、出展:ウィキペディア)
その翌2月20日に別府晋介率いる薩摩軍の連合大隊が熊本県南部の川尻に到着し、熊本鎮台から派遣された偵察隊がこれに発砲したことで西南戦争の火蓋が切られました。
しかし熊本鎮台の守りは固く桐野利秋率いる四番大隊が城壁付近まで攻め込むも撃退され薩摩軍の被害は大きくなっていきます。
しかし薩摩軍は強固な熊本城の城郭に取り付くことさえ出来ず、西郷隆盛は強襲策を中止し小倉侵攻作戦を採用します。
小倉強襲策、植木・木葉の戦い
乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将

(乃木希典陸軍大将、出展:ウィキペディア)
乃木は一部の部隊を先行させると、自身はその後に準備のできた第3大隊を率いて熊本へ向かいました。
22日、第3大隊は高瀬に到着、乃木は熊本の様子を探るために自ら小隊を率いて植木方面へ偵察に出ます。
乃木小隊の行動を察知した薩摩軍は2個小隊を出撃させますが、別方向から来た歩兵第14連隊第4大隊が乃木小隊に合流し薩摩軍の攻撃を退けます。
この撤退の混乱の最中に歩兵第14連隊は軍旗を薩摩軍に奪われる大失態を犯してしまいます。
翌23日、薩摩軍は約1800名の部隊を小倉へ向かって進軍させますが、乃木の率いる歩兵第14連隊は未だに約700名しか到着しておらず、これを木葉方面に展開して迎え撃ちました。
この退却時に薩摩軍の別動隊によって側面を突かれ、第14連隊は総崩れとなり多数の将兵を失いました。
植木、木葉と連勝した薩摩軍でしたが、熊本城攻略を諦めきれず、23日、24日と熊本城を攻撃を再開します。
討伐軍増援部隊の到着と高瀬の戦い

(横浜港を出発する帝国陸軍兵士、出展:ウィキペディア)
摩軍の熊本城攻撃が開始された2月22日、博多に討伐軍の増援部隊である第1、第2旅団が到着し、逐次南へ向かって進軍を始めました。
木葉での敗戦から立ち直った第14連隊も25日、増援部隊に呼応して高瀬方面に進出します。
対する薩摩軍は山鹿、植木、伊倉の三方面に熊本から増援部隊を出します。
第14連隊が高瀬に到着すると第1、第2旅団からも援軍が送られ高瀬川に陣地の構築が開始されます。
これを察知した薩摩軍は伊倉方面部隊に攻撃を指示しますが撃退され、植木方面部隊も第14連隊の強襲を受け退却、これを追撃した第14連隊は田原坂まで進出しますが、第2旅団長の命令によりここを撤退します。この第14連隊の撤退判断が、このあとに激戦となる田原坂での討伐軍苦戦の原因となります。
この結果を受けて薩摩軍の主力は山鹿、植木、伊倉の三方面にそれぞれ桐野利秋、篠原国幹と別府晋介、村田新八の各大隊長を司令官とした部隊を派遣し、高瀬奪取に挑みました。薩摩軍の主力の北進を知った討伐軍は、各方面に増援を送り旅団長自身も前線へ進出します。
桐野隊が稲葉山を目指し討伐軍の背後を脅かすと、第2旅団の野津道貫(のづみちつら)大佐は機敏な判断で部隊を派遣し稲葉山を確保します。
この稲葉山をめぐる攻防戦は西南戦争の天王山と呼ばれるほどで、桐野隊の執拗な攻撃を討伐軍は何度も撃退し、多くの犠牲者を出しながらも稲葉山を確保し続けました。
桐野隊が稲葉山で激戦を繰り広げているとき、村田隊と篠原隊は共同して歩兵第8連隊を撃退、戦局を優位に進めていました。
しかし昼を過ぎると篠原、別府隊の弾薬が不足、事もあろうに村田、桐野隊に無断で撤退を開始します。
中央が空白となった戦線は一気に討伐軍有利となり、最前線で戦っていた篠原隊の西郷小兵衛(さいごうこへえ・西郷隆盛の末弟)小隊長は戦死、村田隊は伊倉からも撤退します。
最後まで戦線に残っていた桐野隊でしたが、三方から攻められ撤退を余儀なくされました。
これまで攻勢に出ていた薩摩軍が、討伐軍に敗北した高瀬の戦いは、西南戦争の大きな転換点となり、こののち薩摩軍は守勢に回ることになりました。
1ヶ月以上続いた田原坂・吉次峠の激戦

(鹿児島新報田原坂激戦之図・小林永濯画、出典:ウィキペディア)
吉次峠では薩摩軍一番大隊長・篠原国幹の狙撃に成功しますが、これに激怒した薩摩軍の猛攻を受けてしまい、指揮官は戦死、部隊は後退してしまいます。
このため吉次峠侵攻を断念し、攻撃を田原一本に絞りますが度重なる突撃も効果をあげることはなく田原坂を確保することは出来ませんでした。
討伐軍は田原坂攻略のため、薩摩軍の防衛線に楔を打ち込める形となる横平山制圧に目指します。
討伐軍はこの白兵戦に対抗するため警視隊の中から剣術優秀者を選抜し、百十余名による抜刀隊を編成し戦線に投入、3月14日には薩摩軍の陣地奪取に成功し、15日には横平山の占領に成功しました。
篠原国幹(しのはらくにもと)

(篠原国幹、出典:ウィキペディア)
20日早朝、豪雨と霧にまぎれて田原坂に進行した討伐軍は、出張本営に目標を絞り突撃を繰り返し、対応の遅れた薩摩軍を植木方面に敗走させ、ついに田原坂突破に成功します。
戦闘は討伐軍優勢も決め手に欠け、一進一退を繰り返しますが、4月1日に吉次峠を、2日には木留を占領、15日までに熊本より北進してきた薩摩軍をほぼ敗走させ、戦争の主導権を完全に握りました。
討伐軍の攻勢と衝背軍の結成

(鹿児島英名競・桐野利秋、出典:ウィキペディア)
4月5日には第3旅団による攻撃も始まりますが、ここでも薩摩軍はよく耐えたため、7日には古閑に矛先を変えた討伐軍でしたがこちらも薩摩軍の反撃にあい撤退します。
黒田清隆(くろだきよたか)

(黒田清隆、出典:ウィキペディア)
3月14日、膠着状態となった田原坂の戦闘を打開するために、衝背軍(しょうはいぐん・中入れする、背後をつく部隊のこと)を黒田清隆(くろだきよたか)中将を最高司令官として結成、別動第1、第2、第3旅団を編成しました。
先発した第1旅団は鹿児島上陸後、八代を制圧しその後に第2、第3旅団が合流し8,000名の大部隊となりました。
これに対し薩摩軍は急遽、南下軍を編成、宮原で討伐軍と遭遇し戦闘となります。
討伐軍は海軍からの支援も受けて、小川、松橋、宇土を薩摩軍の抵抗を受けながらも占領し、熊本城まで10km足らずのところまで到達しました。
この時の熊本城の状況は、薩摩軍の主力が小倉へ向け進発したあとも熊本城は薩摩軍によって包囲されており、籠城直前の火災によって失った兵糧と物資の補充はされておらず、熊本鎮台軍は厳しい状況にありました。
しかし包囲する薩摩軍も当初は5,000名程がいましたが、各地への応援のため減り続け、巨大な熊本城の包囲を小数兵力で続けることとなり、あちこちに隙が出来てしまい熊本城へ兵糧を運び込まれるなど戦略的に破綻していきました。
このため衝背軍が熊本城付近まで到達したときに、鎮台軍は城を出て数度の薩摩軍との戦闘を経て宇土で衝背軍と合流、熊本城の窮状を訴えたため4月12日に総攻撃開始が決定されます。
薩摩軍は田原での激戦により兵力不足が顕著になり、別府晋介らによって3月25日頃、薩摩で徴集が行われ1500人ほどが集まりました。
しかし衝背軍が宇土から川尻へと進軍したため、薩摩での徴集兵が北上出来なくなり、八代奪還を目標に変更して衝背軍を孤立させる作戦に出ます。
4月4日に作戦を開始すると薩摩軍は人吉、坂本と連勝し八代に肉薄しますが、体制を立て直した衝背軍も反撃を開始し、17日まで小康状態が続きました。
しかし衝背軍に援軍が到着すると均衡が崩れ、薩摩軍は敗走することになり、別府晋介も負傷しました。
城東会戦~人吉、大口の戦闘
山縣有朋(やまがたありとも)

(山県有朋、出典:ウィキペディア)
村田 新八(むらたしんぱち)

(村田新八、出典:ウィキペディア)
万江方面では討伐軍が戦局を優勢に進め、薩摩軍を敗走させ内山田を占拠、しかし大野方面では薩摩軍が久木野で討伐軍に圧勝するなど戦闘開始直後は薩摩軍が優位で戦局が推移します。
討伐軍の別働第2旅団は5月初旬に人吉盆地への一斉攻撃を決定、薩摩軍の人員、物資不足もあり二週間ほどで薩摩軍が守る要衝をほとんど陥落させます。
追い詰められる薩摩軍、鹿児島も戦場となる
宮崎から鹿児島方面を統括していた桐野利秋は、人吉の陥落危機の報を受けて占領した宮崎市庁へ西郷隆盛を移し、ここを薩摩軍本営としました。
人吉陥落後、討伐軍は次の目標を大口に定め部隊を進軍させました。
大関山、国見山、小河内を次々と占領した討伐軍は大口を包囲するような形で軍を進めてきました。
大口方面を守る辺見十郎太(へんみじゅうろうた)は数的に圧倒的優位を誇る討伐軍を相手に、2ヶ月間戦線を維持し討伐軍にダメージを与えますが、6月20日大口は陥落、その後の奪還作戦も失敗すると薩摩軍は南へ退却します。
川路 利良(かわじとしよし)

(川路利良、出典:ウィキペディア)
高原奪還を狙った都城薩摩軍最右翼隊は、果敢に討伐軍へ斬り込み高原占領へあと一歩まで迫りますが、各方面から増援部隊によって阻止され庄内へと撤退します。
都城攻防戦と薩摩帰着
川村 純義(かわむらすみよし)

(川村純義、出典:ウィキペディア)
都城という要害を簡単に破られたことによって、薩摩軍の戦闘力は格段に減退し、もはや討伐軍を撃ち破る力はなくなり、西南戦争はこの時点で実質的な勝敗が決着したと言えます。
15日に薩摩軍は3,000名余りを友内山、和田峠、小梓峠に散開配置し、陣頭に立った西郷隆盛を討伐軍は50,000名をこえる兵力で包囲、一気の決着をはかりました。

(和田越決戦地の碑、出典:ウィキペディア)
8月15日の早朝から西郷隆盛は桐野利秋、村田新八ら薩摩軍首脳を従えて、和田峠から薩摩軍の戦いを指揮しました。
討伐軍に包囲された西郷隆盛は16日に薩摩軍の解軍を決定すると、薩摩軍から討伐軍への投降者が続出、西郷隆盛のもとには約1,000名の有志のみが残りました。
城山籠城戦と西郷隆盛の最期

(城山の戦い、出典:ウィキペディア)
この時西郷軍はわずかに350名程度、討伐軍は70,000名の大軍でした。
9月24日、午前4時に討伐軍による総攻撃が開始されると西郷軍は整列して岩崎口へと進軍、討伐軍が放つ銃弾で次々と西郷軍の将兵は倒れ、遂に西郷隆盛も股と腹に被弾しました。
ここまで西郷隆盛を支えた桐野利秋や村田新八らも突撃したり、自刃したりこの城山を枕に戦死しました。
1877年(明治10)9月24日午前9時、討伐軍の銃声が止み五時間におよんだ城山での戦闘は終了し、西南戦争は終幕の時を迎えました。
西南戦争にゆかりの地とエピソード
南洲墓地・南洲神社

(南洲墓地にある西郷隆盛の墓、出典:ウィキペディア)
西郷隆盛像

(西郷隆盛像・上野恩賜公園、出典:ウィキペディア)
1898年(明治31年)12月18日に宮内省からの出金と有志による寄付によって、東京都台東区上野の上野公園に銅像が建てられました。
この銅像の除幕式に招待された西郷隆盛の妻・糸子は「うちの主人はこんなんじゃなかった」と呟き、回りを驚かせたと伝えられています。
なお、西郷隆盛の銅像は、鹿児島市の鹿児島市立美術館近くにある彫刻家・安藤照(あんどうてる)製作のもの、鹿児島空港近くにある西郷公園の彫刻家・古賀忠雄(こがただお)製作のによるものが
あります。
薩摩軍に参加しなかった西郷隆盛の身内
明治六年政変により西郷隆盛が参議を辞職し薩摩へ帰ったとき、数多くの新政府の役人、軍人が職を辞して西郷隆盛と行動を共にしました。
しかし西郷隆盛の近親でありながら新政府に残り、薩摩軍と敵対する立場で西南戦争を迎えた人物も多くいました。
西郷従道(さいごうじゅうどう)

(西郷従道、出典:ウィキペディア)
兄・西郷隆盛が大西郷と呼ばれたのに対して小西郷と呼ばれ、薩摩出身者だけでなく軍部、政府内でも人望ある人物でした。
西郷隆盛が征韓論をめぐり薩摩に下野したときには、すでに陸軍少将で重職を担っていた西郷従道は兄に従うことなく政府にとどまりました。
内閣制度が発足すると初代海軍大臣に任命され、政府内でも多くの信頼を集めて再三再四内閣総理大臣に推挙されましたが、兄・西郷隆盛の逆賊行為を理由に拒否し続けました。
大山巌(おおやまいわお)

(大山巌、出典:ウィキペディア)
特に城山の戦いでは攻城砲隊司令官として直接、西郷隆盛と戦うこととなり生涯この事を悔やみ、この後二度と薩摩の土を踏むことはありませんでした。
西郷隆盛の近親で軍部内での人望も厚かった西郷従道と大山巌の二人が、西郷隆盛の下野に同行しなかった理由について、その理由となる資料は残っていません。
西郷隆盛が二人を思い止まらせたのか、各個人の判断であったのか、彼ら二人の動向が西南戦争の行方を左右する可能性があっただけに、西南戦争の大きな謎と言えます。
二人が西南戦争で薩摩軍と戦ったことを生涯悔やんだここと、西郷隆盛が賊軍の将となったことによって、彼らが内閣総理大臣の推挙を受けなかった事から、相当な心の葛藤があったことは推察できます。
彼らが西郷隆盛と行動をともにしなかった理由の解明を待ちたいと思います。
西南戦争の戦後処理

(バルカン社製1号機関車(国鉄150形)、出典:ウィキペディア)
しかし、西南戦争で政府が受けた傷も大きいものがありました。
政府の財政を担当していた松方正義(まつかたまさよし)は増税と官営企業の売却、兌換紙幣の発行でこの危機を乗り切り、財政再建を成功させます。
一連の不平士族の反乱と西南戦争によって、武士という存在がなくなり、軍事専門職の階級が消滅しました。
また士族中心の薩摩軍に徴兵主体の政府軍が勝利したことによって、徴兵制による国民皆兵と軍事強化に目処が立つ結果となりました。
ただ兵士の訓練不足や教育不足は顕著で、精神教練や軍事教練に注力していくこととなります。
また、鹿児島の軍事工場や武器庫が襲撃された教訓から、全国各地で別々に管理されていた軍事物資や武器を軍部が一元管理するようになり、国内の不満分子による反乱や武装蜂起に備える体制が出来上がりました。
政治体制はおいては、立法に当たる国会が存在せず、司法が拠り所とする憲法もない状態では参議を頂点とする行政のみが頼りとなり、役人が国家を支配する官僚体制が確立し、現在の日本でもこの弊害が続いていると言えます。
西南戦争を題材とした作品
西南戦争を正面から映像化した作品と言えば、1987年12月30日、12月31日の二日間にわたって日本テレビ系列で放送された「田原坂」です。
西南戦争の田原坂の戦いを山場に、里見浩太朗演じる西郷隆盛の半生を重厚なストーリーと豪華な配役で描いた作品です。
薩摩軍側からの目線で描かれているため、西郷隆盛の生き方や薩摩軍の考え方が正義で、反乱を起こすように仕向けた政府は誠意にかける悪者的に描かれていおり、薩摩軍の潔さを美化しすぎている点は気になりますが、西南戦争中のエピソードや西郷隆盛の血縁者の心情や行動を細かく描いている点では良く出来ていると思います。
作品の終盤で近藤正臣が演じる大久保利通が暗殺され、絶命する寸前に「所詮、わしらは時代に捨てられていくのか・・」と呟くシーンがあります。
この台詞こそがこの作品の最大のテーマで、西南戦争で命を落とした多くの人々が伝えたかった言葉そのものだったと、見終わったときに感じてもらえると作品だと思います。
西南戦争を扱ったNHKの大河ドラマでは、1990年の「翔ぶが如く」と2018年の「西郷どん」があります。
「翔ぶがごとく」は司馬遼太郎原作で西郷隆盛は西田敏行、大久保利通は鹿賀丈史が演じており、二部構成の第二部は征韓論から西南戦争へ至る過程が丁寧に描かれています。
「西郷どん」は林真理子原作で西郷隆盛を鈴木亮平、大久保利通を瑛太が演じており、大河ドラマでは西郷と大久保のふたりを軸としたこの二作品が西南戦争を描いています。

(トム・クルーズ・1989年、出典:ウィキペディア)
史実とは大きく異なる部分もあり、西南戦争を描いているとは言い切れませんが、明治天皇と勝元(西郷隆盛)との心情的な繋がりや明治維新による武士道精神の衰退などはきっちりと描かれており、歴史が苦手な人の鑑賞にも十分に耐えられる作品となっています。
西南戦争まとめ

(西郷隆盛像・肥後直熊筆、出典:ウィキペディア)
また財閥による経済への資本投下は多くの産業を生み出し日本を近代化させ列強国に肩を並べる強国へと押し上げました。
しかしこの繁栄は最終的に太平洋戦争の開戦をもたらし、再び日本に多くの人命を失う悲劇と、焦土と化した国土をもたらしてしまいます。
参考文献
小川原正道「西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦」 中公新書
猪飼隆明「西郷隆盛~西南戦争への道」岩波新書
司馬遼太郎「翔ぶが如く」文春文庫
熊本市田原坂西南戦争資料館
http://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=16402