板垣退助の生涯と人物像まとめ!年表・名言・功績・死因も解説

板垣退助といえば自由民権運動の先駆者として有名です。

板垣死すとも自由は死せず」と言う言葉は皆さんも知っているでしょう。

彼は幕末の志士でもあり、後に大正時代に至るまで多くの功績を残しています。今回は板垣退助の人物像に迫っていきます。

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板垣退助とは?

板垣退助とは?

(1906年ごろ 70歳頃の板垣退助 出典:Wikipedia)

 

板垣退助は土佐藩出身の政治家であり、戊辰戦争では多くの戦いで武功を挙げました。明治政府では参与に任命されますが、明治6年の政変で下野します。その後は自由民権運動に身を投じ、生涯を通じて高潔な政治家であり続けました。
国民からの人気もあり、紙幣にも肖像が使われています。

板垣退助の先祖

板垣退助の先祖

(板垣家の家紋 花菱(裏花菱)出典:Wikipedia)

 

退助の先祖は武田信玄の重臣板垣信方です。板垣信方は武田家の宿将として、信玄の父信虎の時代から使えています。
退助の直系の先祖は板垣信方の孫の正信です。信方の息子であり、正信にとっては父親に当たる信憲が、訳あって改易された際に乾氏に名を改めています。板垣退助は元々は乾退助という苗字でしたが、戊辰戦争の最中に板垣姓に復姓しています。

武術

退助は軍事戦略に優れた人であり、自身も多くの体術を学んでいます。柔術は呑敵流小具足であり、1881年に暴漢に襲われた際に当身で反撃しています。その時の衝撃は強く、暴漢の腹部は黒いアザが出来ていました。その後は師範から免許皆伝を授かっています。
剣術は土佐に伝わる無双直伝英信流です。この流派は各地に伝わっていますが、土佐では居合中心の流派でした。土佐では退助の他、藩主の山内容堂が習得しています。

お札にも選ばれた

お札にも選ばれた

(100円札 出典:Wikipedia)

 

退助は後に100円札の紙幣として選ばれています。勿論国民的な人気もありますが、ヒゲが偽札の防止にも役立つと言う事も挙げられます。発行枚数も多く、古い家ならまだ見つかるかもしれません。一応現在でも100円として使う事は可能です。

偉業・功績

こちらの動画に退助の偉業が解説されています。

板垣退助の生い立ちと生涯

上士の生まれだった退助

上士の生まれだった退助

(高知城 出典:Wikipedia)

 

板垣退助は1837年土佐(現在の高知県高知市)にて、土佐藩上士の乾正成の嫡男として生まれます。土佐藩は上士と下士の身分の差が激しい地域でしたが、退助は寛大に接しています。後藤象二郎や中岡慎太郎と親しかった事が知られています。

1856年家督を相続、1861年には江戸留守居役兼軍備御に命じられます。1865年には洋式騎兵術を学ぶ為、江戸に向かいます。

幕末における退助

幕末における退助

(1868年 31歳の板垣退助 出典:Wikipedia)

土佐藩内の上士は公武合体派が多い中で尊王攘夷派として活動し、水戸藩浪士を匿っています。1867年には西郷隆盛と薩土密約を交わします。これは薩摩が戦になれば兵を率いて合流する内容でした。退助は藩主山内容堂に時勢が武力に傾いている事を説き伏せ、武器を購入しています。

1868年戊辰戦争が勃発した際は迅衛隊を結成し、甲府城に向かいます。甲府は元々武田信玄の土地と言う事を活かし、岩倉具視の助言から乾から板垣に復姓。この策が功を奏し、退助は甲府の民衆から支持され、甲州勝沼の戦いで近藤勇を撃退しています。それ以外にも三春藩の無血開城や会津藩の攻略に貢献して軍功を挙げました。

征韓論による下野

征韓論による下野

(民撰議院設立建白書・序文 出典:Wikipedia)

 

明治政府では参与に任命。1873年には征韓論の急進となりますが、欧米から帰国した岩倉具視らに反対され、政府を下野します。有名な明治6年の政変です。
退助は政府を批判する側に回り、議会を中心とした政治作りを目指します。自由民権運動に身を投じる事になり、1874年には日本初の政治結社愛国公党を結成。間も無く後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を提出するも、これは却下されます。後に政府に復職するも(大阪会議)すぐに辞職してきます。

自由民権運動の高まり

自由民権運動の高まり

(1880年 44歳の板垣退助 出典:Wikipedia)

 

1881年には政府のスキャンダルから国会開設の詔が出されます。退助は自由党を結成し、全国を遊説します。相原 尚褧に刺され暗殺されそうになるものの一命を取り留めます。新聞では「板垣死すとも自由は死せず」と掲載され、広く知られる事になりました。

1890年に第1回衆議院議員総選挙が行われます。退助は1887年に爵位を受けており、立候補は出来ません。9年の間に自由党は一度分裂していますが、選挙に向けて立憲自由党として再興します。選挙では300議席中130議席を獲得し、第1党となりました。退助は党総理に就任しています。立憲自由党は民力休養を掲げ、国民に寄り添った政策を掲げました。

内務大臣を歴任する

内務大臣を歴任する

(大隈重信 出典:Wikipedia)

 

1898年には藩閥政府である第3次伊藤内閣に反対する形で、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が手を組み憲政党を結成。大隈重信が総理大臣、板垣退助が内務大臣となり、日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣が発足します。両者の名前を取り、隈板内閣と呼ばれました。
この内閣は長くは続かず、分相の尾崎行雄は共和演説が発端で辞任し、そのポストを巡り党内で争いが起こります。元々違う政党が集まって出来た政党なので、意見をまとめるのが難しかったようで、4ヶ月で退陣します。とはいえ、日本初の政党内閣が発足した事は歴史的な意味は大きいですね。そして1900年に政治家を引退しました。

晩年の退助

晩年の退助

(肥田 琢司 出典:Wikipedia)

 

引退後も退助は精力的に活動を続けます。1904年には機関紙友愛を刊行、1913年には肥田琢司が発足した立憲青年自由党の相談役に就任します。肥田琢司(1889〜1963)は後に東条英機内閣を打破するきっかけを作り、晩年は政財界の重鎮として君臨します。戦後の総理大臣の多くと親交があり、支持も多くあったのは退助の指導のおかげかもしれません。

板垣退助の死因・最期

板垣退助の死因・最期

(日光東照宮の板垣退助像 出典:Wikipedia)

 

1919年7月16日に退助は83歳(満82歳)で死去します。最期や具体的な病名は明らかではありませんが、神経衰弱と言われており、老衰だったと思われます。

退助は熱烈な相撲ファンであり、自宅に葬儀の際には力士16人が退助の棺を担ぎました。葬儀には政治家を始めとした大物が参列しましたが、相撲界からも多数の参列があったようです。

一代華族論

退助は自由民権運動に身を投じた立場から、華族令には反対でした。当時は故事成語の三顧の礼(三度の拝辞は不敬にあたる)という考えがあった為、1887年に3度目の授爵でやむなく華族になります。退助は一代華族論を掲げており、息子の鉾太郎は華族相続を遅らせる事で、華族にはなりませんでした。

板垣退助の人生年表

板垣退助の人生年表

(生誕地 出典:Wikipedia)

 

出来事
1837年誕生
1865年洋式騎兵術を学ぶ
1867年薩土密約を結ぶ。翌年は戊辰戦争に参加する
1869年参与に就任
1873年征韓論により下野
1874年民撰議院設立建白書を提出
1881年自由党結成。翌年暴漢に襲われる
1890年第一回衆議院議員選挙実施
1896年第二次伊藤博文内閣の内務大臣に就任
1898年第一次大隈重信内閣の内務大臣に就任
1900年政界を引退
1919年享年83歳(満82歳)で死去

 

板垣退助の性格と人物像エピソード

少年期のエピソード

少年期のエピソード

(迅衝隊 出典:Wikipedia)

 

幼少期は腕白な性格であり、毎日喧嘩をして帰るような子どもでした。寺子屋にも満足に通わず、喧嘩や相撲等の勝負事に熱中していました。学問は苦手なものの軍書には興味を持ち、友人に呼んでもらっています。戊辰戦争での活躍も元々の才覚によるものが大きいでしょう。

そんな退助ですが、蝦蟇の油を塗れば川に潜っても呼吸ができると言う迷信を実践したものの、呼吸が出来なかった事から、実証主義に転じます。
お守りを厠に捨ててバチが当たるか確かめる、食べ合わせ(うなぎと梅干し等)で死なないか人を集めて実践する等のエピソードがあります。後に退助は自由民権運動に身を投じ全国を遊説しますが、自分で考えて行動するという理念は子どもの頃から備わっていたのです。

皆に寛大だった

腕白な性格の退助ですが、幼少期から優しさを持っていた事が知られています。

物乞いの女の子がやってくると、おにぎりを食べさせて、着物を着せてあげた。

高級品であった菓子を母親が買ってきた時も、自分は一口も食べずに、友達に全てあげた。

と言うエピソードが残っています。

成長してからもその性格は変わりませんでした。

自分を暗殺しようとした中岡慎太郎を説き伏せ、意気投合する。

戊辰戦争で敗者となった会津軍の名誉回復に努める。

岐阜事件で自身を刺した相原 尚褧の助命嘆願をする。

等が知られています。退助は国民から絶大な人気があり、政治家の中でも多くの支持者がいました。これは彼の優しい性格が影響しているでしょう。

板垣退助が自由民権運動に身を投じたのは何故?

板垣退助が自由民権運動に身を投じたのは何故?

(山縣有朋 出典:Wikipedia)

 

退助は土佐の重鎮として重用されますが、上記のエピソードにあるように退助は皆に対して寛大であり、清濁織り交ぜる政治家は本来は不向きでした。本来は中岡慎太郎等が土佐の重鎮としては的確だったでしょう。
退助は戊辰戦争の活躍から分かる通り、軍人としての才能がありました。実際に退助を陸軍のポストにする方針もありましたが、陸軍は山縣有朋を中心とした長州藩がポストを独占していた為、政治家に回らざるを得なかった現状があります。
西南戦争で武力での主張が無理だと悟った退助は、言論と言う方法で政府と戦おうとしたのです。その姿勢は荒削りではあったものの、多くの国民に支持されたのは事実です。

晩年は困窮していた

退助は上士の生まれであり、家自体は裕福な方でしたが、自由民権運動の費用を家屋敷を売り払って捻出しています。その為晩年は困窮し、医者にかかるのも困難な程で、維新の功績で拝領した刀を売り払おうとしていました。それに気づいた人物が山縣有朋にその現場を伝え、救援金が出るように計らったそうです。

板垣退助の名言

板垣退助の名言

(板垣退助の岐阜遭難事件 出典:Wikipedia)

 

板垣死すとも自由は死せず

1881年4月6日、退助が国会開設の遊説の為、神道中教院(岐阜市)を訪れた際に、相原 尚褧に刺されると言う事件が起こります(岐阜事件)

板垣死すとも自由は死せずは刺された時に退助が言ったとされますが、本当がどうか議論されています。文章として登場したのは4月11日の大阪朝日新聞からです。

何も言ってない説。退助は後に回顧録を記していますが「あっと思うばかりで声も出なかった」と残しています。

実際に言った、もしくは似たような事を言ったと言う説。これはいくつか出典があり、板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス(自由党の臨時報)、吾死スルトモ自由ハ死セン(岐阜県の御嵩警察署員の報告書)等です。

退助の秘書の内藤魯一が叫んだ説。これは報知新聞が後の取材で内藤本人が発言しています。

ちなみに退助は左右の胸に2ヶ所、左右手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の7ヶ所に刺されましたが、命に別状はありませんでした。自由民権運動を浸透させる為、4月15日には大阪へ出発しています。

私怨より起ったのではなく、国家のためと思いこんでの事であるから、あえて咎むべきでは無い。万一、板垣の行為にして国家に害ありと認められたならば、再び傷つけらるるも、あえて苦しからず

訳:私怨ではなく、国家を思っての凶行だったので、咎める必要はない。万が一、板垣退助が国家に害をなすと判断したなら、また刺されても恨みはしない

相原は裁判で無期懲役の判決を受けますが、大日本帝国憲法の発布の恩赦により釈放されます。ちなみに恩赦を願い出たのは他ならぬ退助でした。

相原は出所した後に退助の元を訪れ謝罪します。退助は相原に対して先程の言葉を言いました。相原は、退助が自由民権運動を唱えていたのは国民の為ではなく、自分が薩長閥が占める現政府に恨みを持ち、権力を握る為の手段だと考えていたのです。私怨ではなく国家を守る為に事件を起こした事を退助は分かっていたので、上記の発言をしたのです。

相原のその後

退助の思想に感銘を受けた相原は深々と頭を下げ、北海道の開拓に人生を捧げる事を誓います。しかし北海道に渡る船の上で失踪します。失踪は当時から様々な憶測を呼び、自殺した、相原を裏で操っていた組織に暗殺されたとも言われます。

板垣退助の子孫

退助は5人の妻がおり、5男5女と多くの子どもがいました。板垣退助の血筋で政治家として活動されている人はいませんが、現在でも板垣家や嫁いだ先で血筋は受け継がれているようです。

板垣鉾太郎(1868-1942)

退助の長男です。教育家として知られ、1888年に土佐の地で泰平学校を設立。英・和・漢・数・仏学・法律・翻訳などの教育を行います。退助が亡くなった際には、あえて華族の地位を返上する為、家督相続を遅らせています。

板垣守正(1900-1955)

板垣守正(1900-1955)

(板垣守正 出典:Wikipedia)

鉾太郎の次男で代わりに家督を継ぎました。在学中は文壇活動を行い、1925年に自由党異変と言う戯曲を執筆しますが、これが祖父の退助を侮辱していると非難を浴びます。戯曲を講演する代わりに廃嫡の道を選ぶものの、結局戯曲の公演も禁止されます。
廃嫡後は無形社を設立し、自由党の政敵である立憲民政党に入党した事で坂垣家から永久追放されます。後に満州に渡り、様々な役職を兼任しています。

坂垣正貫(1903-1942)

坂垣正貫(1903-1942)

(国会議事堂板垣退助像序幕式(中央:板垣正貫夫妻) 出典:Wikipedia)

鉾太郎の三男です。守正の廃嫡に伴い家督を継ぎます。破天荒な守正の騒動を抑える立場になり、立憲民政党に入党した際は親戚の意見をまとめる等の対応をしています。2男1女がおり、それぞれが現在に血筋を伝えています。

乾正士(1868-1941)

退助の次男です。退助の旧苗字である乾を名乗っていますが、これは分家の存続の為でした。軍人のしての才能を引き継ぎ、1895年の台湾平定等で、戦績をあげました。

1男2女がおり、長男の乾一郎は天理語学専門学校で英語ドイツ語の教授を務めていました。一郎の孫である高岡功太郎氏は一般社団法人板垣退助先生顕彰会 理事長を務めており、伝記等も出版しています。

長女の美世子は日本福音ルーテル八幡協会創設者の川瀬徳太郎と結婚し、2女をもうけます。次女の杉崎光世(1929-2018)は九州国際大学名誉教授を務めていました。

板垣退助のゆかりの地

墓

(板垣退助の墓(東京・品川神社裏) 出典:Wikipedia)

東京都品川神社裏の旧高源院に退助の墓があります。暮石の隣に石碑がありますが、これは板垣退助50回忌を記念して建てられました。自由民主党総裁・佐藤栄作によるものです。現在の自民党は自由党が前身になっています。
住所:東京都品川区北品川3-7-15

高知市薊野の板垣山の山頂にも板垣退助の墓があります。東京都品川神社裏の旧高源院に葬られた遺骨の分骨がこの地に埋葬されました。

初代の乾正信から退助まで10代に渡り、乾家の歴史の重みを感じさせられます。退助の左隣には3番目の妻、鈴の墓があります。

住所:高知県高知市薊野東町20−10

2023/02/17追記
以下の記事内容について有識者の方からご指摘をいただき、一部内容を修正しております。

■修正箇所
・板垣退助の三番目の妻の名前が誤った表記をしておりました。正しくは「鈴」です。
・高知市薊野にある板垣退助の墓は、板垣山という山の山頂にあります。

該当箇所については加筆修正を行っております。

この度は誤った情報を記載してしまいましたこと、お詫び申し上げます。
訂正し謝罪いたします。

ご指摘いただきありがとうございました

記念館

高知市民自由民権記念館
土佐の地は退助だけでなく、中江兆民や植木枝盛等の多くの自由民権運動家を輩出しました。こちらの記念館は自由民権運動の歩みについて紹介しています。退助が相原に刺された時の短刀や、立志社の日本憲法草案等の貴重な資料が展示されています。退助について学びたいなら是非訪れて欲しい場所です。

板垣退助を題材にした作品

小説

小説

(岐阜公園に立つ板垣退助の銅像 出典:Wikipedia)

門井慶喜 自由は死せず:上下段組み550Pの大作です。幕末の軍人としての活躍、自由民権運動家としての活躍が丁寧に描かれています。幕末から明治にかけての登場人物も多く、退助との意外な接点も知る事が出来ます。

三好徹 孤雲去りて:こちらも上下巻の大作です。退助は自由民権運動のイメージが先行していますが、戊辰戦争の活躍にも多くのページが割かれています。物語としては1882年の洋行の場面で終了しており、前半生〜民権運動に身を投じた時期に主眼をおいています。明治期には多くの政治家が汚職のエピソードがあるものの、退助にはそのようなエピソードはなく、一風変わった人物、無欲な人として描いています。

映画・ドラマ

退助を主人公にした映画やドラマは今のところありません。土佐藩には幕末の主役級人物の坂本龍馬がいますが、上士と下士との違いから彼らに接点はありません。龍馬を主人公にした作品では脇役もしくは登場しない事も多いです(龍馬伝には出てきません)。
最近では西郷どん(2018年)で渋沢清彦、八重の桜(2013年)では加藤雅也が演じています。いつか板垣退助を主人公にした作品が生まれると良いですね。

参考文献

宇田 友猪:板垣退助君伝記 第一巻 (明治百年史叢書)

榛葉 英治:板垣退助―自由民権の夢と敗北
https://www.city.kochi.kochi.jp/akarui/rekishi/re0708.htm

http://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-edo-itagaki.html

https://www.webkochi.net/kanko/sanpo52.php

https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p04.html

板垣退助の名言まとめ!ひげやルイヴィトン等の逸話も紹介!

http://www1.kcn.ne.jp/~orio/main/shigemaru/shigemaru01.html

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