本多忠勝は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した戦国武将です。彼は幼少期から徳川家康に仕え、生涯にわたり50回以上の戦に参加しますが、一度も傷を負わなかった武闘派として知られています。後に桑名藩の初代藩主となり、桑名藩の発展にも多大なる功績も残しました。
本多忠勝は、戦国時代を舞台にした大河ドラマでもよく登場しますが、その人物像については詳しく知らない事も多いでしょう。今回は本多忠勝の生涯や名言、性格などについて解説します。
目次
本多忠勝のプロフィール
本多忠勝は天文17年(1548年)に本多忠高の長男として誕生し、若くして徳川家康に仕えました。永禄3年(1560年)13歳の時に、桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を果たします。
その後は姉川の戦い等の様々な戦に参加して、徳川家康の勢力の拡大に貢献。関ヶ原の戦い以降も、徳川家康からの信頼は絶大でしたが、慶長15年(1610年)10月に63歳で亡くなります。彼が生涯に参加した合戦は57回。いずれの戦いでも、かすり傷一つ負う事はありませんでした。
氏名 | 本多忠勝 |
---|---|
通称・通称 | 三河の鹿 |
出生日 | 天文17年(1548年)2月8日 |
出生地 | 三河国額田郡蔵前 |
死没日 | 慶長15年(1610年)10月18日 |
死没地(亡くなった場所) | ロシア帝国・ペトログラード |
血液型 | 不明 |
職業 | 武士 |
身長 | 160cm |
体重 | 50kg後半(中肉中背の為) |
配偶者 | 正妻・於久の方 側室・乙女の方 |
座右の銘 | 死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば |
本多忠勝の人生年表・生涯
本多忠勝の人生年表
年 | 出来事 |
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天文17年(1548年) | 誕生 |
永禄3年(1560年) | 大高城兵糧入れで初陣し、同時に元服する |
永禄6年(1563年) | 三河の一向一揆 |
元亀元年(1570年) | 姉川の戦いで武功を残す |
元亀3年(1572年) | 一言坂の戦いで偵察隊として先行する |
天正12年(1584年) | 小牧・長久手の戦い |
天正18年(1590年) | 家臣団中第2位の10万石を与えられる |
慶長5年(1600年) | 関ヶ原の戦い |
慶長6年(1601年) | 桑名藩の藩主となる |
慶長15年(1610年) | 63歳で死去 |
13歳で初陣を飾る
本多忠勝は天文17年(1548年)2月8日に、三河国額田郡蔵前で本多忠高の長男として誕生します。本多氏は安祥松平家(徳川本家)の最古参の家臣という立場にあり、父の本多忠高は松平清康や松平広忠に仕えていました。やがて本多忠高は天文18年(1549年)に戦死し、本多忠勝は叔父・忠真の元で養育されました。
本多忠勝も若い頃から松平家康(後の徳川家康)に仕えています。永禄3年(1560年)に起きた桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾り、この時に13歳で元服しました。この戦いで今川義元は織田信長に敗れ、今川家の人質の立場にあった松平家康は今川家から独立を果たしました。
松平家康は永禄5年(1562年)、21歳の頃に織田信長と同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げます。ちなみに彼が「徳川家康」に改名したのは、永禄9年(1567年)の事でした。本多忠勝は勢力を拡大する徳川家康に仕え続けます。ちなみに彼が一次史料に登場するのは永禄11年(1568年)の事。内容は徳川家康の書状に対する副状であり、この頃から国衆の取次役の任を任されていた事が判明しています。
徳川家康の領土拡大に貢献する
元亀元年(1570年)の姉川の戦いや元亀3年(1572年)の二俣城の戦い、更には天正3年(1575年)の長篠の戦い。本多忠勝は徳川方の重要な戦いで次々と武功を残し、その勇敢な姿は敵味方問わず多くの武将から称賛されました。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起きた時、徳川家康は織田信長の死に動揺し、明智軍のいる京都に無謀にも「追腹」を切ると主張します。しかし本多忠勝は本領である三河国に帰還するよう徳川家康に説得。これは徳川家康の窮地を救いました。
天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いで徳川軍が劣勢に立たされている事を知ると、本多忠勝はわずか500騎の兵を連れて小牧から駆けつけます。この時の勇姿を敵将の豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)は「東国一の勇士」と称しました。
やがて徳川家康は豊臣秀吉の傘下に入り、天正18年(1590年)、関東に移封されます。その時に本多忠勝は榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石を賜りました。
1位は井伊直政の12万石であり、この恩賞は本多忠勝が徳川家康の家臣の三傑に選ばれた事を意味します。本多忠勝・榊原康政・井伊直政の他に、酒井忠次を加えた4人を長い年月を経て徳川四天王と呼ぶようになりました。
関ヶ原の戦い以降の本多忠勝
本多忠勝は慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いで、僅かな手勢で90もの首級を挙がる武功を残しています。前哨戦である竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めにも参戦し、吉川広家などの毛利家の家臣と交渉して徳川方につける工作にも尽力しました。
一連の功績が認められ、本多忠勝は慶長6年(1601年)、伊勢国桑名藩(10万石)の藩主に命じられます。徳川家康からの信頼は厚かったものの、慶長9年(1604年)頃に病にかかり、徐々に政府の中枢からは遠ざかっていきました。
その後も桑名藩の発展に尽力はするものの、慶長12年(1607年)には眼病を煩い、藩の政務もうまく執る事は難しくなります。そして慶長14年(1609年)6月には、嫡男・忠政に家督を譲り隠居しました。
本多忠勝の死因と最期
死因は病死
本多忠勝は病死とされますが、詳しい病名は不明です。
彼が亡くなったのは、隠居してから1年後の慶長15年(1610年)10月18日の事。その前からたびたび隠居を願い出ている事からも、病気は以前から発症していた事がわかります。慶長12年には眼病を患っていた事から、糖尿病に罹患していたのかもしれません。
遺言と辞世の句
臨終の間際には、「侍は首取らずとも、不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺しています。これは「たとえ武功を残さなくとも、主君に忠義を尽くして討死にをすることが侍である」という意味です。
また本多忠勝の辞世の句は「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな 深き御恩の 君を思へば」。本多忠勝は数え切れない程の武功を挙げましたが、本当は主君である徳川家康に殉ずる気持ちを持ち続けていたのかもしれません。
本多忠勝の死を多くの家臣達が悲しみ、重臣の中根忠実と梶勝忠両名は殉死。2人の遺体は本多忠勝の墓の左右に埋葬されました。
本多忠勝は何をした人?最強と呼ばれる理由について
戦国時代を舞台にした大河ドラマでもよく登場する本多忠勝。彼は数多く存在する戦国武将の中で「最強」の1人に挙げられます。この項目では本多忠勝が最強と呼ばれる理由について解説します。
数々の戦いで武功を残す
本多忠勝は初陣の「大高城兵糧入れ」こそ討ち取られそうになっていますが、その後の戦いでは快進撃を続けていきます。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦い以外の主な戦いと功績は以下の通りです。
・姉川の戦い
姉川の戦いは元亀元年(1570年)に勃発した、織田信長・徳川家康軍と浅井長政・朝倉景健軍による戦いです。この戦いで本多忠勝は、徳川家康の本陣に迫る1万騎の朝倉景健軍に対し、無謀とも思える単騎駆けを敢行します。この時に徳川家康が本多忠勝を救おうとした行動が反撃となり、朝倉景健軍を打ち破る事となりました。
・二俣城の戦い
二俣城の戦いは元亀3年(1572年)に勃発した、武田信玄軍と徳川家康軍による戦いです。本多忠勝は偵察隊として先行しますが、武田本軍と遭遇します。本多忠勝は軍の最後尾で追手を防ぐ役割を担い、不利な状況でありながら徳川家康率いる本陣を撤退させています。
・三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦いは二俣城の戦いの翌年に勃発した、武田信玄軍と徳川家康軍による戦いです。この戦いで徳川家康は武田信玄に大敗北を喫しますが、本多忠勝は夜襲を行い武田軍を混乱させます。一連の武功で徳川家康を浜松城まで撤退させる功績を残しました。
一連の戦いで徳川家康は、何度も本多忠勝に命を救われています。家臣達も本多忠勝の事を信頼し「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と述べています。
超人のような怪力
本多忠勝の愛槍は「蜻蛉切」。当時の槍の長さは4.5m程ですが、蜻蛉切の槍の長さは6mもありました。更に刃長の長さも規格外の43.8cm。本多忠勝はこの槍をまとい、多くの戦いで武功を立てました。
また本多忠勝の兜は「鹿角脇立兜」、鎧は当世具足「黒糸威胴丸具足」と呼ばれました。鎧は動きやすさを重視した軽装なものとなっており、兜は鹿の角をあしらった脇立が貼り合わされています。更に本多忠勝は肩から大数珠をさげていましたが、これは戦地で葬った者達を弔うためのもの。これらの槍や兜、鎧などからも、本多忠勝が歴戦の猛者であった事がわかります。
為政者としての才能もあった
関ヶ原の戦いを経て、本多忠勝は桑名藩の藩主となりました。桑名藩は現在の三重県桑名市に位置します。藩政において本多忠勝は「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築を断行。更に東海道宿場の整備なども行い、桑名藩の発展に寄与します。
本多忠勝の藩政は後の桑名藩や桑名市の発展の基礎を築きました。彼は武功だけでなく、藩主としても光るものを持っていたのです。
本多忠勝の都市伝説・武勇伝
合戦で傷一つ負わなかった?
本多忠勝が生涯に参加した合戦は実に57回。いずれの戦いでも数一つ負う事はありませんでした。そんな彼が唯一傷を負ったのは死の数日前。小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時に、手元が狂って左手にかすり傷を負った時の事でした。
本多忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたそうですが、その数日後に彼は死去。その言葉通りになりました。この逸話が仮に事実だったとしても、本多忠勝は傷を負ったから亡くなったのか、既に亡くなる寸前にあったのかはわかりません。傷を負った時点で、彼は「その時」が来る事を悟っていたのでしょう。
「徳川三傑」「徳川四天王」「徳川十六神将」に数えられる
本多忠勝は徳川家康の家臣中の家臣として、天下統一に大きな影響を与えました。そんな経緯から本多忠勝は「徳川三傑」「徳川四天王」「徳川十六神将」全てに名を連ねています。
まず「徳川三傑」は本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人の事。彼らが維新三傑と呼ばれ始めたのは諸説あります。1586年9月に3人が上洛した時に、上方の武将たちが彼らを「徳川三傑」と言い出した事が始まりとされています。
「徳川四天王」は前述した通り、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を指します。この名称は、武田信玄の4人の家臣(馬場信房・内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信)を指す武田四天王が由来です。
また徳川家康の家臣は層も厚く、「徳川十六神将」というものも存在します。これは先程の徳川四天王に加え、米津常春・高木清秀・内藤正成・大久保忠世・大久保忠佐・蜂屋貞次または植村家存・鳥居元忠・鳥居忠広・渡辺守綱・平岩親吉・服部正成・松平康忠または松平家忠を加えたもの。江戸時代には、徳川家康と十六神将の姿を描いた図像がよく描かれていました。本多忠勝は徳川家康の忠臣として、江戸時代には既に浸透していた事がわかります。
本多忠勝の性格
主君の為に生涯を捧げた男
本多忠勝は主君である徳川家康に忠誠を誓い続けた事から、一度決めた事を完遂する強い信念を持っていた人物であるとわかります。三河一向一揆では、多くの本多一族が徳川家康の敵になる中、本多忠勝は浄土宗に改宗して家康側に残りました。
小牧・長久手の戦いでは、豊臣方16万の大軍の前にわずか500騎で立ちはだかり、龍泉寺川で単騎となり悠々と馬の口を洗わせます。これは死を覚悟しての行動であり、逆に豊臣秀吉は進撃をためらいました。
関ヶ原の戦いの戦いを経て本多忠勝は桑名の領土を与えられますが、石高としてはわずか10万石。これは少ないようにも見えます。実は徳川家康が5万石を増領しようとした際に、本多忠勝が固辞した為、その5万石を本多忠勝の次男に与えたという逸話が残されています。本多忠勝は数々の武功を挙げつつも、決してそれをひけらかす事はしませんでした。徳川家康にとって非常に心強い存在であった事は間違いありませんね。
本多忠勝の名言
「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」
関ヶ原の戦い終了後、加藤正則が本多忠勝を褒め称えた時に、本多忠勝が述べた言葉です。関ヶ原の戦いの戦いは天下分け目の戦いとして、名だたる武将も多く参戦していました。そんな中でも本多忠勝は90にも及ぶ首級をあげています。どんな時でも功績を挙げ続けた本多忠勝ならではの名言です。
「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」
長篠の戦いを経て本多忠勝が述べた言葉です。長篠の戦いは織田信長と徳川家康が武田勝頼に勝利した戦いで、武田軍は多くの優秀な家臣を失い後退を余儀なくされています。本多忠勝は武田信玄に何度も辛酸を舐めさせられた経緯があったものの、長篠の戦いでの勝利を喜ぶのではなく、相手の武将達に敬意を払う事を常としたのです。本多忠勝が武士道を持ち、相手を尊敬する気持ちのある人だと事がわかる言葉です。
本多忠勝の子孫
最強と謳われた本多忠勝ですが、子孫と彼の才能を引き継いだのでしょうか。この項目では本多忠勝の子供や子孫について解説します。
本多忠勝の子供達
本多忠勝は正室の「於久の方」との間に二男二女、側室の乙女の方との間に三女を設けています。
本多忠勝の嫡男である本多忠政は、桑名藩の2代目藩主になりますが、元和3年(1617年)に姫路城主となって15万石を領しました。次男の本多忠朝は関ヶ原の戦いを経て、上総大多喜5万石を与えられます。その後も徳川家に仕えますが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死しました。
長女の小松姫は徳川家康の養女を経て真田信之の正室となります。刀剣でイノシシを撃退した等の逸話も残されており、「武芸に秀でる勝気な性格」な女性として知られています。
本多忠勝の子孫のその後
本多忠勝の系譜は現在に至るまで続いています。現在の本多家の当主は21代目の本多隆将氏。彼は本多忠勝の鎧を保持している他、井伊家などの他の徳川四天王の子孫とも交流があります。ただ本多忠勝の直径の子孫が続いているかといえばそうではありません。
前述した通り、本多家の本家は姫路藩に転封しました。しかし、その後も幾度となく転封を重ねており、その回数は実に10回に及びます。8代忠良の代には15万石から5万石に減封されており、その処遇は決して良いものではありませんでした。また本多家の19代目〜21代目は養子となっています。
本多忠勝の子孫にはあの有名人も?
没落しつつも現在まで続く本多家ですが、実はあの有名な人達も本多忠勝の血筋を受け継いでいます。例えば楽天の創業者である三木谷浩史氏は本多忠勝の子孫の1人です。彼の母方の祖母は本多忠勝の血を引き、明治期には華族の立場にありました。
この他には、徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜も本多忠勝の子孫です。本多忠勝の孫・本多忠刻は、徳川家康の孫娘である千姫と結婚していますが、その子孫が徳川慶喜です。徳川慶喜の興した徳川慶喜家こそ断絶しているものの、徳川慶喜は側室との間に21人の子供がいました。本多忠勝の血筋は現在も意外なところで繋がっている事は間違いありません。
本多忠勝のゆかりの地
浄土寺
浄土寺は本多忠勝の菩提寺で、本多忠勝のお墓があります。元は1049年に建てられた浄土宗の寺ですが、本多忠勝が桑名藩の藩主になった時に本多忠勝の菩提寺となりました。本多忠勝の墓石には、本多家の家紋である「立ち葵」が刻まれています。
お墓の隣には、本多忠勝が亡くなった時に殉死した「梶勝忠」と「中根忠実」のお墓もあり、今も本多忠勝に仕えているとの事です。また浄土寺には幽霊飴の怪談話があり、8月23日、24日の地蔵盆には「ゆうれい飴」が売られます。
住所:三重県桑名市清水町45番地
良玄寺
良玄寺にも本多忠勝のお墓があります。このお寺は本多忠勝が照誉了学を招いて創建した寺です。元々は本多忠勝の法号から良信寺という名前でしたが、息子の本多忠朝が1615年に死去すると、本多忠朝の法号から良玄寺と名を変えました。
この地に分割された理由は、本多忠勝の遺言に則った事に起因しています。ちなみに良玄寺は本多忠勝の肖像画として有名な「紙本著色本多忠勝像」を使用しており、現在は千葉県立中央博物館大多喜城分館に寄贈中です。
住所:千葉県夷隅郡大多喜町新丁
桑名城跡
桑名城は本多忠勝が桑名藩の藩主になった際に、移り住んだ城です。本多忠勝が住んでいたものは1701年に焼失しますが、築城当時の石垣は現在でも存在します。
本多忠勝は桑名に移り住んだ際に、揖斐川沿いに城郭の建造を開始します。4重6階の天守、51基の櫓、更には46基の多聞が存在し、同時に城下町も整備する等、大規模な工事だったようです。また工事開始時には、徳川四天王の1人である井伊直政も家臣を連れて応援に駆けつけた等の微笑ましい逸話も残されています。
住所:三重県桑名市吉之丸9番地
本多忠勝の関連人物
本多忠勝は当時から歴戦の猛者として知られ、多くの戦国武将からも高い評価を得てきました。この項目では本多忠勝にまつわる人物と、その評価について解説します。
豊臣秀吉
豊臣秀吉は織田信長の後を継ぎ天下を統一した人物です。豊臣秀吉は天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いで、命を投げ打ち徳川家康に仕える本多忠勝の行動に感銘を受けています。この戦いで本多忠勝は討ち取られる可能性もありましたが、豊臣秀吉は「徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と述べ、加藤清正達に討ち取る事を禁じました。
更に豊臣秀吉は本多忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」とも称しています。徳川家康が豊臣秀吉の傘下に入ると、本多忠勝は従五位下・中務大輔に叙位・任官されました。これは豊臣秀吉が本多忠勝を高く評価している事の証明です。
また豊臣秀吉に命を救われた本多忠勝ですが、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えています。やはり徳川家康に対する恩義には遠く及ばなかったようです。
真田幸村
真田幸村は豊臣方の武将として、大坂夏の陣で徳川家康を追い詰めた人物です。2016年には彼を主人公にした大河ドラマである「真田丸」が制作されています。真田幸村の兄・真田 信之の妻・小松姫は、本多忠勝の娘でした。
真田家は関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康陣営に真田信之、石田三成陣営に真田幸村という形になり、兄弟で敵味方についています。これは兄弟間の対立ではなく、真田家を存続させる目的があったとされます。本多忠勝は関ヶ原の戦いにおいて、真田幸村の助命を真田信之と共に嘆願しました。徳川家康は真田幸村に散々煮え湯を飲まされてきた経緯から、その嘆願に強硬に反対します。
ただ本多忠勝は主君である徳川家康を再三に渡り説得し、真田幸村の助命に成功。真田幸村は、死罪から高野山山麓の九度山に蟄居となりました。ただ前述した通り、真田幸村は大坂夏の陣で徳川家康を追い詰めており、徳川家康は真田幸村の助命を後になり後悔していたのかもしれません。
本多忠勝と織田信長の関係性について
本多忠勝の最初の戦いは永禄3年(1560年)13歳の時に起きた、桶狭間の戦いの前哨戦・大高城兵糧入れです。この戦いで本多忠勝は今川義元陣営として初陣を飾りました。
ただこの後の桶狭間の戦いで今川義元を破ったのは織田信長でした。徳川家康は織田信長と同盟を結びつつ、勢力を拡大します。織田信長は徳川家康の家臣である本多忠勝をどのように見ていたのでしょうか。この項目では、本多忠勝と織田信長の関係性について解説します。
始めは最強ではなかった「大高城兵糧入れ」
ちなみに本多忠勝が初陣を飾った「大高城兵糧入れ」は、桶狭間の戦い前に今川方に属した松平元康が、今川方の拠点・大高城に食糧を届けた任務の事です。本多忠勝は当時13歳。この時に本多忠勝を補佐したのは、本多忠勝を養育していた叔父の本多忠真でした。
この戦いで本多忠勝は織田方の武将・山崎多十郎に討ち取られそうになりますが、本多忠真のおかげで難を逃れています。この頃の本多忠勝は最強とは言い難かったようです。桶狭間の戦いを経て今川義元は戦死し、徳川家康は本拠地である「岡崎城」を奪い返す事に成功。2年後に徳川家康は織田信長と清洲城で会談を行い、同盟を結びました。
最初こそ命を失いかけた本多忠勝ですが、同年の「鳥屋根攻め」で初めて首級を挙げる事に成功。織田信長は次々と武功を挙げ続ける本多忠勝を見て、「花も実も兼ね備えた武将である」と高く評価します。
中根忠実は織田信長の腹違いの弟?
中根忠実は本多忠勝に仕えた人物で、その一族は後に本多家の家老となりました。異説として中根忠実は織田信長の腹違いの弟・織田信照という説があります。織田信照は織田信長に仕えていたものの、本能寺の変で織田信長が自害した後は、織田信雄の家臣となりました。
彼の消息は文禄3年(1594年)以降は不明ですが、中根忠実という人物が歴史上に登場する時期が多少被っている為、このような説が生まれたとされます。中根忠実は本多忠勝が亡くなった後、主君に殉じて追い腹を切り死去しました。
資料の裏付けは乏しいものの、織田信長の弟が本多忠勝の家臣となり、後に主君に殉ずる形で死去したとなればそれは不思議な運命の巡り合わせと言えますね。
本多忠勝の関連作品
本多忠勝は戦国武将の中でも人気が高く、数々の書籍や映像作品に登場します。この項目では本多忠勝が登場する作品を簡単に紹介します。
おすすめ書籍・本・漫画
・テンカイチ 日本最強武芸者決定戦
舞台は本能寺の変で織田信長が自害せず、天下統一を果たした架空の世界。死期を悟った織田信長が後継者を任命する為、日本全国の有力大名や公家の名代が戦う内容となります。本多忠勝は本多流戦場槍術の使い手ですが、織田信長の天下統一後は虚無に生きる日々を過ごしていました。
この戦いで本多忠勝は宮本武蔵に敗北。最期は試合に乱入した徳川家康を、織田信長軍の銃弾からまもる為致命傷を負い、徳川家康に感謝を告げつつ亡くなっています。荒唐無稽ではあるものの、勢いを感じさせる内容です。
・センゴク
美濃・斎藤家臣だった仙石権兵衛秀久を主人公にした戦国漫画の金字塔。本多忠勝は血気盛んで豪快。三河武士を絵に描いた性格として登場し、「史上最高の忠臣にして、最も剛健な男」と称されています。
・家康を支えた三河武士 本田忠勝 井伊直政
徳川家康が天下統一を果たした過程には、本多忠勝や井伊直政などの名だたる武将の功績がありました。本書は彼らの功績や動向を解説したもの。2人についてより詳しく知りたい人におすすめの一冊です。
おすすめの動画
・【漫画】本多忠勝の生涯を8分で簡単解説!【日本史マンガ動画】
本多忠勝の生涯を漫画でわかりやすく解説した動画です。
・本多忠勝はなぜ戦国最強なのかを解説【どうする家康】
なぜ本多忠勝は最強と呼ばれるのか。その理由に答えた動画です。
おすすめドラマ
・どうする家康
2023年に放送されている徳川家康を主人公とした大河ドラマです。新説に基づく独自の徳川家康像を掘り下げた作品となっており、本多忠勝を演じるのは山田裕貴氏。駆け引きを好まず、真っ向勝負を挑みつつも、的確に周囲の状況判断ができる冷静さも持ち合わせています。今後の動向が楽しみな作品です。
・真田丸
真田幸村を主人公にした、2016年に放送された大河ドラマです。本多忠勝を演じるのは、大御所俳優である藤岡弘、です。例に漏れず豪傑として描かれていますが、敵味方を問わず戦死者の冥福を慈悲深い人物としての一面もあります。
最期は「ナレ死」だったものの、小刀で切り傷を負った事で引退する逸話も採用されており、戦乱の世から太平の世へと時代が変わる様子を象徴するエピソードになっています。
本多忠勝についてのまとめ
今回は本多忠勝の生涯や人物像について解説しました。57回もの戦に出陣しながら、かすり傷一つ負わずに数々の武功を立てる。彼は戦国時代最強の武将の一角であり、その生涯を徳川家康の為に尽くしました。武功に優れ、藩政にも大きな功績を残す。
徳川四天王と呼ばれるだけあり、徳川家康にとって心強い味方だった事は間違いありません。今回取り上げた逸話や生涯は本多忠勝のほんの一部にすぎません。今回の記事を通じて本多忠勝に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
・https://ja.m.wikipedia.org/wiki/本多忠勝