牧野富太郎は明治から昭和初期に活躍した植物学者です。幼少期から植物を愛し、94歳で亡くなるまで植物の研究を続けました。生涯に発見した植物の新種は1000種にのぼり、日本の植物学に与えた影響から、「日本植物学の父」とも呼ばれています。
牧野富太郎は、2023年前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公である槙野万太郎のモデルにもなっており、とても注目されている人物です。その一方で、牧野富太郎の実像については知らない人も多いのではないでしょうか。
彼は植物研究に勤しむあまり、実家の商家を倒産させるなど、数々の破天荒なエピソードを持つ人物でもあります。今回は、牧野富太郎の生涯や功績、死因や子孫などを解説します。
目次
牧野富太郎のプロフィール
牧野富太郎は、1862年(文久2年)に土佐国佐川村(現・高知県佐川町)で生まれます。幼少期から植物の魅力に触れ、19歳の頃に初めて上京を果たしました。生涯を経て『植物学雑誌』などの様々な図説や書籍を出版します。
学歴は持たなかったものの、助手時代から講師時代も含めて41年間東京帝国大学に在籍し、植物学の研究を続けました。1957年(昭和32年)に94歳で亡くなった後に、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈されています。牧野富太郎が日本の植物界に与えた影響は大きく、彼は「日本植物学の父」と讃えられました。
氏名 | 牧野富太郎 |
---|---|
通称・あだ名 | 日本の植物学の父 |
出生日 | 文久2年(1862年)4月24日 |
出生地 | 土佐国佐川村 |
死没日 | 昭和32年(1957年)1月18日 |
死没地(亡くなった場所) | 東京都文京区 |
血液型 | 不明 |
職業 | 植物学者 |
身長 | 160cm |
体重 | 不明 |
配偶者 | 前妻・猶、後妻・壽衛 |
座右の銘 | 雑草という草はない |
・【らんまん】牧野富太郎 植物を愛し続けた波乱万丈の94年の生涯
https://m.youtube.com/watch?v=BRtO_8GBoiM&pp=ygUP54mn6YeO5a-M5aSq6YOO
・【らんまん】寿恵子 綾のモデル 富太郎を支えた2人の献身的な妻の生涯
https://m.youtube.com/watch?v=b_n6ai0or58&pp=ygUP54mn6YeO5a-M5aSq6YOO
牧野富太郎の人生年表・生涯
牧野富太郎の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
文久2年(1862年) | 牧野富太郎誕生 |
明治9年(1876年) | 佐川小学校を自主退学 |
明治10年(1877年) | 佐川小学校の臨時教員となる |
明治11年(1878年) | 植物学を学ぶ為、高知市に上京する |
明治12年(1879年) | 1度目の上京で、本場の植物学に触れる |
明治22年(1889年) | 初めて新種の植物を発見する |
明治26年(1893年) | 帝国大学理科大学嘱託となる |
大正15年(1926年) | 東京都練馬区東大泉に居を構える |
昭和14年(1938年) | 東京帝国大学を自主退学する |
昭和23年(1948年) | 昭和天皇に植物学をご進講する |
昭和26年(1951年) | 第1回文化功労者となる |
昭和32年(1957年) | 94歳で亡くなる |
裕福な酒屋の跡取り息子として生まれる
牧野富太郎は1862年(文久2年)、土佐国佐川村で商家(雑貨業)と酒造業を営む「岸屋」の一人息子として生まれます。牧野富太郎は3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くしたため、祖母・浪子に育てられました。その後は10歳に寺子屋で学び、明治7年(1874年)12歳で、佐川小学校に入学します。
ただ彼は学業で身を立てる事は考えておらず、2年後に小学校を中退しました。ただ浪子はまだ「好きな事をすれば良い」と考え、特に岸屋を継がせるつもりはありませんでした。明治10年(1877年)の時に佐川小学校の臨時教員になりますが、2年後には更に植物学の勉強を続けるため、高知市に出ます。その後は明治14年(1881年)に上京し、佐川の地を行き来する生活を送っています。牧野富太郎はその際に各地で植物を採集し、見識を深めていきました。
数々の雑誌を刊行する
明治17年(1884年)に牧野富太郎は2度目の上京を果たし、東京大学理学部植物学教室を訪ねます。明治20年(1887年)には、帝国大学の教員や学生と「植物学雑誌」の創刊に奔走しますが、同年に祖母・浪子が亡くなりました。ただ牧野富太郎はその後も岸屋を継ぐ事はなく、植物学に没頭する日々を送っています。
明治22年(1889年)には初めて新種の植物を発見。翌年にはムジナモという植物が日本にも存在している事を突き止めます。牧野富太郎はこれらの功績で世界からも知られるようになりました。ただ東京大学理学部植物学教室の教授・矢田部良吉教授に疎まれるようになり、教室の出入りを禁じられる憂き目にも遭っています。
一時は駒場農学校(現・東大農学部)で細々と研究していましたが、明治26年(1893年)に矢田部教授が東京大学を非職になった後で、今度は助手として東京大学に舞い戻りました。明治32年(1899年)には「新撰日本植物図説」の刊行を開始。明治45年(1912年)から東京帝国大学の講師となり、昭和14年(1939年)77歳まで在籍しています。助手時代も含めると、実に46年間もの間、大学で教員を務めました。
近代植物学の父となる
昭和2年(1927年)には東京帝国大学から理学博士を受け、昭和12年(1937年)には朝日文化賞を受賞。いつしか牧野富太郎は日本を代表する植物学者になりました。昭和15年(1940年)には、自らの集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行。本作は改訂を重ねながら、今も販売が続けられています。
昭和16年(1941年)に太平洋戦争が勃発した後も、牧野は研究を続けました。しかし終戦直前の昭和20年(1945年)には空爆により標品館の一部が被弾。彼も山梨県に疎開せざるを得ませんでした。やがて8月15日に戦争が終わると、牧野富太郎は東京に戻りました。
戦後も牧野富太郎は元気そのもので、昭和23年(1948年)86歳の時に、皇居に参内。そして植物学者という側面もあった昭和天皇に植物学をご進講しています。昭和26年(1951年)には第1回文化功労者となり、昭和28年(1953年)91歳の時に、東京都名誉都民に選ばれました。
ただ牧野富太郎も高齢となり、翌年ごろから病床にふせる事が増えていきました。
牧野富太郎は昭和32年(1957年)1月18日に94歳という長寿で亡くなりました。死因や最後の言葉については明かされていませんが、年齢を見る限り老衰と考えて良いでしょう。
牧野富太郎は昨年の6月ごろから病状に伏せており、重体になっていました。昭和天皇は重大になった牧野富太郎に、お見舞いのアイスクリームを贈るなど、牧野富太郎の容体を多くの人たちが心配していました。
死後、牧野富太郎には文化勲章を授与が授与されています。文化勲章は、科学技術や芸術などの文化の発展や向上に多大なる功績を残した者に贈られるもの。この受賞は、日本の植物学の発展に功績を残した事が評価されたことが大きいと言えるでしょう。
牧野富太郎はどんな人物?
日本植物学の父
牧野富太郎は日本植物学の父と呼ばれています。牧野富太郎は幼少期から植物に触れ、自らを「植物の精霊」と考えていました。94歳で亡くなる直前まで、全国を回り数々の標本を採集。個人的に所有していた標本は40万枚に及び、全国に寄贈した数を含まれば、その数は更に増えます。
更に牧野富太郎は「植物の型」にこだわり、同じ植物を何度も採集。最もスタンダードや形を吟味して、ルーペや顕微鏡で観察しながら細部まで写生を行いました。牧野富太郎の植物図は蒔絵筆や面相筆で描かれており、色の再現性を高まる為、イギリス製の最高級品ウィンザーニュートンの絵の具を取り寄せるなどのこだわりぶりでした。
牧野富太郎が残した写生図は、生涯で約1700点。その一つ一つが、植物の姿が細部まで線で写しとられています。こうした植物に対する姿勢が、日本植物学の父と呼ばれる理由でしょう。
最終学歴は小学校中退
牧野富太郎の最終学歴は小学校中退です。牧野富太郎が佐川小学校に進学したのは、明治7年(1874年)の事。当時は初等教育機関、初等教育機関、高等教育機関に分かれていました。牧野富太郎が進学した佐川小学校は、中等教育機関の小学校上等科に位置しており、現在の小学校高学年から中学校に位置します。牧野富太郎が、佐川小学校を中退したのは14歳のことでした。
牧野富太郎が佐川小学校を中退した理由は、学問で身を立てることを考えていなかったためでした。しかし牧野富太郎は寺子屋で学問を修めており、小学校も飛び級で進学するなど、しっかりと学問の下地を作っています。牧野富太郎は先人たちの植物の概念を学ぶため、万葉集や古今和歌集などの和歌にも触れています。学歴は植物学を学ぶ上では大した問題ではなかったようです。
しかし牧野富太郎が東京帝国大学で研究を続ける中で、「小学校中退」という学歴は足枷になります。牧野富太郎は東京帝国大学の矢田部教授や松村教授から、疎まれることも増えます。牧野富太郎は46年もの間東京帝国大学に在籍したものの、教授になることはできませんでした。ただ牧野富太郎は学歴社会や権威に屈する事なく、植物学で様々な功績を残しています。
2人の妻がいた
牧野富太郎には2人の妻がいました。1人目はいとこの猶、2人目は壽衛という女性でした。自伝などでは壽衛がクローズアップされており、猶の事はほとんど触れられていません。
理由として、猶は実家の岸屋を存続させるため、祖母の浪子が取り決めたものだったことが挙げられます。牧野富太郎にとって、猶は家族のような存在であり、妻になるとは考えられなかっものと思われます。結局、猶と結婚後に牧野富太郎は東京に出ており、2人はあまり一緒に暮らす事はありませんでした。
やがて牧野富太郎は、明治20年(1887年)12月に一目惚れした小澤壽衛(14歳)と暮らし始めます。後に岸屋をたたむ事が決まった時、牧野富太郎は猶と岸屋の番頭を結婚させて借金の精算を任せ、翌年に自分は小澤壽衛と結婚しました。
牧野富太郎と壽衛との間には14人もの子どもが産まれています。壽衛は研究のために全国を駆け巡る夫のため、いまむらという待ち合いの店を経営して働きました。店は繁盛し、壽衛は後に家族で住む家を練馬区に建てます。しかし壽衛は家を建てた翌年の1928年に亡くなりました。
牧野富太郎は妻を想い、昨年にみつけた新種の笹に「スエコザサ」という名前を付けています。
牧野富太郎は何をした人?
日本植物学の基礎を築く
牧野富太郎は日本の植物学の基礎を築きました。牧野富太郎が生まれたのは江戸時代の1862年であり、植物学者を志したのは1880年ごろの事です。当時の日本は明治維新を経て、教育制度や科学の振興が図られた時代。日本の植物学は、未だ黎明期と言えました。
牧野富太郎は全国各地の植物園の採取を続け、94歳で亡くなるまでに日本植物志図篇や、牧野日本植物図鑑などの図鑑を刊行。詳細かつ膨大な図篇や論文を刊行し、日本の植物学を近代的な学問に発展させました。
牧野富太郎の研究範囲は野生植物学に留まりません。野菜や園芸植物など、身の回りにある全ての植物が対象でした。牧野富太郎が植物学に与えた影響は大きく、彼の誕生日である4月24日は「植物学の日」に定められています。
音楽も得意だった
牧野富太郎は植物学だけでなく、西洋音楽にも詳しかったようです。牧野富太郎は岸屋をたたむため、1891年ごろに佐川に帰省します。当時の佐川には西洋音楽の概念がなく、唱歌を歌っても拍はバラバラ。オルガンやフルートなどもありませんでした。
牧野富太郎は岸屋の清算作業をしつつ、地元の有志たちと高知西洋音楽会を設立。自らも指揮棒を持ち佐川の地に新たな音楽の概念を持ち込みました。この他に牧野富太郎は、書道なども達筆だった事が知られており、彼の多芸な人となりが見えてきてます。
朝ドラの主人公に選ばれる
牧野富太郎は、2023年前期のNHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルに選ばれました。槙野万太郎を演じるのは、神木隆之介です。らんまんという名前の由来は、天真爛漫や春爛漫の「らんまん」。まさに牧野富太郎に相応しい名前です。
本作はフィクションではあるものの、牧野富太郎の生涯を下地にしています。そのため、牧野富太郎の妻・壽衛や、対立していた矢田部教授など、数々の実在人物をモデルにした人物が登場します。誰が誰をモデルにしているのか、確認しながら観るのも良いかもしれません。
牧野富太郎の功績
ここからは、牧野富太郎が具体的にどのような功績を残したのかを解説します。ただ今回解説する内容も、功績の中の一部に過ぎません。興味があれば、他の功績についても調べてくださいね。
数々の新種を発見
牧野富太郎が生涯に発見した新種は実に1000種。新変種も含めれば1500種とも言われます。命名した植物は約2500種とされ、妻の名前をつけたスエコザサが有名です。ワルナスビやノボロギクなど、植物種の性質を短い言葉で巧く表したもの。ハキダメギクなど発見場所をつけたものなど、多々あります。
また海外に生息する植物が、日本にも生息していることを牧野は突き止めています。例えば世界各地に存在するムジナモが日本にも生息している事を発見したのも牧野富太郎です。牧野富太郎はムジナモの発見を正式な学術論文で世界に報告し、世界的に注目を浴びました。東京大学から疎まれる事にはなるものの、牧野富太郎の功績は日本のみならざず、世界的に認められていくのです。
植物の素晴らしさを啓蒙する
牧野富太郎は植物の研究にとどまらず、植物の素晴らしさを多くの人達に啓蒙しました。明治42年(1909年)横浜植物会が創立され、牧野富太郎は会の指導に当たります。明治44年(1911年)に東京植物同好会が創立された時に、牧野富太郎は会長となりました。
東京植物同好会は定期的に野外観察会を実施するなどして、参加者に植物の素晴らしさを啓蒙するもの。太平洋戦争期に一度中断されました。しかし昭和30年(1955年)になり、東京植物同好会が牧野植物同好会として再開され、会は現在まで続いています。牧野富太郎の植物を愛する思いは、現在に生きる私達にも受け継がれています。
牧野富太郎の性格と人物像エピソード
天真爛漫な性格だった
牧野富太郎は裕福な庄屋の生まれという事もあり、自他ともに認めるおぼっちゃま育ち。常識や礼儀をわきまえない行動や言動から、トラブルも起こしました。しかし単身な性格も持ち合わせており、トラブルとは裏腹に多くの人たちに好かれています。
東京帝国大学を追われた時は駒場農学校から声をかけられ、借金が膨れ上がった時には支援者が牧野富太郎に声をかける。牧野富太郎はその天真爛漫な性格で、多くの窮地を脱してきました。
植物を愛するあまり、周りが見えなくなることも
牧野富太郎は植物の研究に没頭するあまり、周りが見えなくなることもありました。研究費用は実家の岸屋の資金を流用し、資金が底をつきれば、その都度工面を岸屋にお願いしています。結果的に岸屋は倒産するなど、植物学の功績とは裏腹に身内にとっては困る存在だったのかもしれません。
研究のために高額な書籍を次々と購入していたため、暮らしはいつも貧しかったようです。ただそれだけのエネルギーがあったからこそ、牧野富太郎は植物学で大きな功績を残せたのでしょう。
牧野富太郎の名言
雑草という名の草はない
牧野富太郎を代表する名言です。この言葉は昭和天皇が述べた言葉としても有名ですが、牧野富太郎に影響を受けて発せられた言葉と言われてきました。しかし「牧野富太郎が本当に述べた言葉なのか」という裏付けは長らくされていませんでした。
上記の名言の出典が見つかったのは、2022年8月のこと。小説家の山本周五郎は1925年から1928年にかけて、牧野富太郎に取材した事があり、その名言を聞いた事が判明しました。私たち一人一人に名前があるように、植物にも名前がある。植物学者である牧野富太郎だからこその名言です。
私は天性植物が好きだったのが何より幸福で、この好きが一生私を植物研究の舞台に登場させて躍らせた。
牧野富太郎は植物研究の第一人者となりましたが、それは植物を愛する気持ちが誰よりも強かったためです。植物愛の強さを「幸福」と断言できるあたり、牧野富太郎が本当に植物が好きなことがわかります。
今年九十三年に達した私はこれから先、体のきく間、手足の丈夫な間、また頭のボケヌ間は、いままで通り勉強を続けて、この学問に貢献したいと不断に決心している。もうこの年になったとて決して学問を放棄してはいない。
牧野富太郎が晩年に残した名言です。93歳という年齢になろうとも、学問に貢献したいという牧野富太郎の志を私たちも見習いたいものですね。
牧野富太郎の家系図・子孫
前述した通り、牧野富太郎は壽衛との間に13人もの子供が生まれました。子孫が今も健在なのか、気になる人も多いのではないでしょうか。この項目では、牧野富太郎の子孫について解説します。
牧野富太郎の子供たち
13人いた子供のうち、無事に成長できたのは以下の7人です。
長女・香代
次女・鶴代
長男・春世
次男・百世
三男・勝世
三女・巳代
四女・玉代
長女の香代は、石川県出身の実業家・細川正也に嫁ぎ、晩年の牧野富太郎の世話をしていました。次女の鶴代は、無産運動家の額賀二郎氏と結婚しますが、離婚しています。四女の玉代は、五交商事で日本造型各元会長の岩佐喜七と結婚しています。この3人は嫁ぎ先がわかるものの、他の子供たちの動向はわかりませんでした。
牧野富太郎の子孫は今も健在
牧野富太郎の子孫は今も健在です。ひ孫の牧野一浡(かずおき)氏は牧野富太郎の次女・鶴代の孫にあたり、10歳まで牧野富太郎と暮らしていました。彼は一度サラリーマンを務めた後、牧野記念庭園記念館の学芸員を勤めています。
また岩佐吉晃氏は、玉代の孫にあたる人物です。石油会社に勤務した後、現在はOMC(Ogikubo Malt Club)代表を務めています。牧野富太郎は7人も子どもがいたので、今回解説した人以外にも多くの子孫が、色んな分野で活躍していることでしょう。
牧野富太郎のゆかりの地
高知県立牧野植物園
高知県立牧野植物園は、牧野富太郎の功績を後世に伝えるために作られた植物園です。牧野富太郎が生まれ育った高知県に作られました。元々は1958年に「県営牧野植物園」という名前で、開演したものでしたが、1999年に牧野富太郎記念館本館が開館し、リニューアルオープンされました。
本施設は牧野富太郎の功績を讃えるだけでなく、地元の人たちの意向の場という側面もあります。園内には3000種近い植物が植えられ、私たちを出迎えてくれます。
住所:高知県高知市五台山4200番地6
牧野富太郎記念館
牧野富太郎記念館は、高知県立牧野植物園に併設された記念館です。本施設は本館と展示館の2つに分かれており、遺族から寄贈された蔵書、直筆の原稿、写生画等などが展示されています。
練馬区立牧野記念庭園
練馬区立牧野記念庭園は、牧野富太郎が晩年に住んだ練馬区東大泉の自宅跡に建てられた庭園です。庭園には300種類以上の植物が植えられています。牧野富太郎の胸像の周りには、妻の名前がつけられたスエコザサが植えられています。
住所:東京都練馬区東大泉六丁目34-4
牧野富太郎の関連人物
昭和天皇
昭和天皇は日本の第124代天皇です。明確な記録の残る天皇の中で、最も在位期間が長く、その期間は実に62年及び14日間。日本で唯一、大日本帝国憲法下の」国家の元首」としての天皇、日本国憲法下の「象徴天皇」を経験した天皇です。
昭和天皇は幼少期から植物学に興味があり、皇居には研究所も作られています。「その気になれば学位を取得できた」とも言われ、1948年には牧野富太郎から直接植物学を学びました。昭和天皇は後に従者に「雑草という草はない」という言葉を残しており、牧野富太郎から強い影響を受けていた事がわかります。
中浜万次郎
中浜万次郎は幕末〜明治期に活躍した幕臣であり翻訳家です。ジョン万次郎という名前の方が有名かもしれません。彼は漂流中にアメリカ船に助けられ、ハワイやアメリカ大陸で生活した経験を活かして幕末の日本で通訳として活躍します。
連続テレビ小説らんまんでは、中浜万次郎が登場し、主人公の万太郎が植物学者を志す上でのキーパーソンとして活躍します。ただ史実では牧野富太郎と中浜万次郎に接点があったという記録はありません。ただ中浜万次郎は牧野富太郎と同じく、土佐出身の人物。もしかしたら実は会っていた可能性もあるのかもしれません。
牧野富太郎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
・牧野富太郎の植物図鑑
牧野富太郎の足跡を植物図で辿るビジュアルブックです。少年期から晩年にいたる図説を見ることで、牧野富太郎のスケッチが洗練されていくことが分かります。
・草木とともに 牧野富太郎自伝
牧野富太郎が晩年に書いた自叙伝です。牧野富太郎の植物に対する想いが伝わってきます。本作では前妻の猶のことはほとんど言及されませんが、色んな失敗なども赤裸々に書かれており、牧野富太郎の人となりが見えてきます。
おすすめの映画
・黄金花-秘すれば花、死すれば蝶-
2009年に公開された作品です。老人ホーム「浴陽荘」には多くの個性豊かな老人か暮らしていますが、その中の1人である牧草太郎は、牧野富太郎をモデルにしています。
おすすめドラマ
・らんまん
2023年度前期放送のNHKテレビ小説です。主人公の槙野万太郎は牧野富太郎をモデルにしています。牧野富太郎を演じるのは神木隆之介。妻である寿恵子を演じるのは浜辺美波です。本ドラマは牧野富太郎の生涯を下地にしているので、あらかじめ牧野富太郎の関連人物を知っておくと、より理解が深まります。
まとめ
今回はらんまんの主人公であり、日本を代表する植物学者・牧野富太郎を解説しました。自らを植物の精霊と称し、94歳で亡くなるまで植物の研究に邁進する。年老いてもやりたいことを続ける牧野富太郎のパワーを、私たちも見習っていきたいところです。今回の記事を通じて、牧野富太郎について興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/らんまん