平将門の人物像と人生年表まとめ!子孫・偉業・死因も解説

平将門は10世紀中旬に活躍した関東の豪族です。「平将門の乱」を起こし、時の天皇・朱雀天皇に対抗して自らを「新皇」と自称しました。東国の独立を標榜したものの、わずか2ヶ月で藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。

平将門と聞けば乱を起こした事は知っているかもしれませんが、その生涯については知らない人も多いかもしれません。わずか2ヶ月の期間ではあるものの、彼が「新皇」を評した事は日本の歴史に大きな意義を与えました。

今回は平将門の人物像やその生涯に迫っていきます。

平将門とは?

平将門とは?

(築土神社旧蔵の平将門像 出典:Wikipedia)

 

氏名 平将門
通称・あだ名 坂東の虎
出生日 延喜3年(903年)
※ 寛平元年(889年)、元慶8年(884年)という説あり
出生地 相馬郡(現・千葉県)
死没日 天慶3年(940年)2月14日
死没地(亡くなった場所) 辛島郡の北山(現・茨城県坂東市)
血液型 不明
職業 武将
身長 七尺(2.12m)と俵藤太物語に記述あり
体重 不明
配偶者 諸説あり、平良兼の娘や君の御前とされる

平将門の人生年表・生涯

平将門の人生年表

延喜3年(903年)頃 平将門誕生
延喜18年(918年)頃 平安京へ出て藤原忠平と主従関係を結ぶ
延長8年(930年) 故郷の関東に下る
承平元年(931年) 女論で叔父の良兼との仲が悪化する
承平5年(935年) 叔父の平国香との抗争に勝利
承平8年(938年) 従兄弟の平貞盛に勝利
天慶2年(939年)12月 関東一円を手中に収め「新皇」を自称
天慶3年(940年)2月 平貞盛・藤原秀郷軍に敗れて討死

平将門の生涯①

平将門の生涯①

(下総国 出典:Wikipedia)

 

平将門は延喜3年(903年)頃に下総国佐倉(現・千葉県佐倉市)を領地に持つ、平良将の子供として生まれました。討死の時の年齢が38歳とされる為、生まれた年は903年とされますが、寛平元年(889年)や元慶8年(884年)頃という説もあります。

幼少期の平将門は母の出身地・相馬郡(現・千葉県)で育ったとされますが、詳しくは不明。15歳から16歳にかけて京に向かい、藤原北家の氏長者・藤原忠平と主従関係を結びました。当時は藤原家が勢力を伸ばしていた時代であり、平将門は桓武天皇の血筋にあたる人物でしたが、滝口の武士(天皇の内裏を守る武士)になるのが精一杯でした。

平将門は12年ほど在京生活を続け、京の軍事警察権を司る検非違使の座を望みました。ただその立場を手に入る事は出来ず、父・平良将の死と共に平将門は故郷である東国に下りました。それは延長8年(930年)頃と伝わっています。

平将門の生涯②

平将門の生涯②

(『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 出典:Wikipedia)

 

国元に戻った平将門を待っていたのは親族同士の争いでした。『将門記』によれば、承平元年(931)に平将門は叔父の平良兼と女倫で争って仲が悪くなったとされますが、女倫を記した部分が欠落しており、詳しくは不明です。親族同士の婚姻問題と、良将の土地の相続が複雑に絡み合った事が一連の争いに繋がったという事が定説になっています。

承平5年(935年)2月に平将門は、叔父の平国香の舅・源護の子・らに常陸国真壁郡野本で襲撃されます。平将門はこれを撃退し、源護扶らは討死。更に源護の本拠地である真壁郡へ進軍し、叔父の平国香を焼死させました。この争いが「平将門の乱」の発端になったとされています。

同年10月に伯父の平良正は報復として、将門追討の兵をあげますが、平将門はこれにも勝利。平良正は一族の長であった平良兼に助けを求めます。今まで静観を続けていた平良兼もこれを見過ごす事は出来ず、国香の子の平貞盛と共に承平6年(936年)6月に平将門と対峙しました。

ただ平将門は戦にめっぽう強く、良兼と貞盛の軍勢にも勝利。良兼は下野国(栃木県)の国衙に保護を求めていますが、一連の戦いは全て伯父達から仕掛けてきたものです。平将門は国衙に自らの正当性を認めさせ、本拠地である下総国に帰国しました。

実は平国香と平良兼は役人の身分の人物であり、平将門は2度にわたり役人と揉め事を起こした事になります。平将門は朝廷から召喚されて尋問を受けましたが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の恩赦により、罪を赦されます。

当時の役人は地方で重税をむしり取る存在であり、平将門の一連の行動と恩赦は庶民の溜飲を下げる出来事でした。その後も平将門は一族の大半と争いを続けるものの、一族の長である平義兼を筑波山に駆逐。平義兼は失意のうちに3年後に死去し、平将門の名声は関東一円に轟いたのでした。

平将門の生涯③

平将門の生涯③

(源経基/菊池容斎画 出典:Wikipedia)

 

天慶2年(939年)2月、平将門は武蔵国の興世王源経基という国司と、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争の調停に乗り出した事がありました。興世王らは現地視察という名目で集落の狼藉を働こうとしており、武蔵武芝はその対処を平将門に訴え出たのです。

平将門は興世王と武蔵武芝の仲介に立って和解に成功しますが、それを知らない武芝の兵が源経基を包囲する事態が起きています。源経基はこの包囲を平将門達の謀反と解釈し、朝廷に平将門の謀反を訴え出ました。

結果的に平将門が謀反を企んでいるという結論には至らず、朝廷は関東一帯における平将門の名声を知り、平将門を叙位任官して役立たせる事も検討しています。この頃の平将門の行動を朝廷は危険視せず、むしろ利用する事も考えていたようです。

平将門の生涯④

平将門の生涯④

(月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」出典:Wikipedia)

 

平将門の立場が危うくなるのは、天慶2年(940年)11月に坂東の土豪・藤原玄明が平将門に庇護を求めてきた時でした。藤原玄明は税をずっと滞納していた為に国司の常陸介の藤原維幾に逮捕されそうになっていたのです。

平将門軍は藤原維幾軍と対峙し、藤原維幾軍はあっさりと陥落。ただ国司の苛政に苦しむ人々は平将門に味方し、軍勢は一気に拡大します。平将門はこれを機会とばかりに上野・下野・上総・下総・安房・武蔵・相模・伊豆の八国を支配下に置き、自らを新皇と称したのです(平将門の乱)。

静観を続けていた朝廷も新皇宣言は容認できませんでした。更にまた同時期に西国で藤原純友が乱を起こした情報も入っており、朝廷はにわかにパニックとなります。この時に平将門の追討に立ち上がったのが、ずっとタイミングを見計らっていた平国香の息子・平貞盛でした。

平貞盛は下野国押領使の藤原秀郷と結束して兵を4000ほど集めます。この時点で平将門には5000ほどの兵がいたものの、2月頃にはその大半を帰郷させています。これは兵の休息や農期を考慮しての行動とされますが、平貞盛はこれを好機とばかりに平将門のいる下総国に向けて進軍します。

やがて下総国川口で平将門軍と合戦となり、平将門の奮戦は凄まじいものがありましたが、多勢に無勢であり退却を余儀なくされています。2月13日には平将門の本拠地は焼き払われ、平将門は僅か400の兵を率いて幸島郡の北山を背に陣を取ったのでした。

平将門の死因と最期の言葉

平将門の死因と最期の言葉

(豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」 出典:Wikipedia)

死因は討死

平将門の死因は合戦による討死です。2月14日未明、平将門軍400騎と平貞盛・藤原秀郷軍3200騎が幸島郡の北山で対峙。平将門軍は矢戦を優位に展開し、平貞盛・藤原秀郷軍2900騎は敗走。勝ちを確信した平将門が陣に引き返す時に、突如風向きが変わり、矢戦はと平貞盛・藤原秀郷軍が優位に進めるようになりました。

平将門は自ら馬を駆って陣頭に立って奮戦しますが、飛んできた矢が平将門の額に命中し、あえなく討死したのです。ただこの記述は『将門記』によるもの。『扶桑略記』では落馬した平将門のもとに藤原秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、藤原秀郷の子・千常が将門を射落とし首級をあげたとされます。

いずれにせよ、平将門の最期の言葉は伝わってはいません。

晒し首となる

平将門の首は平安京に運ばれ、そのまま晒し首となります。こうした刑罰は平安時代から行われていたとされますが、日本史上で最も古く、そして確実とされるのが平将門でした。この首については、日本史における『祟り』を象徴とする出来事になるのです。

平将門の功績と偉業

平将門の功績と偉業

(平将門の先例に倣った源頼朝 出典:Wikipedia)

関東一帯で慕われる

平将門は器の大きさと戦の強さも相まって、関東一円で多くの人達に尊敬されていました。平国香や平良兼は国司として、重税を取り立てる存在であり、領民達がその重税に苦しんでいた事は確かです。

彼が新皇を称して関東八国を手中に収めたのも、それを支持する人達がいたからです。朝廷から見れば平将門は反逆者ですが、農民からみれば平将門は救世主でした。平将門の生涯を描いた『将門記』が10世紀後半には執筆される等、平将門の生き様は後世にも語り継がれるようになったのです。

新皇と名乗る

平将門は天慶2年(940年)11月の藤原惟幾との戦いで朝敵になった時に、新皇を名乗りました。新皇とは天皇に代わる新たな存在の事であり、新たな日本の統治者になるという宣言を意味します。

この時代は天皇が神格化されており、その天皇に武士が反逆の意を示した事は、当時の朝廷にとって驚天動地の出来事だったのです。やがて武士は力を持ち始め、平清盛や源頼朝は朝廷にかわる武家政権を作ります。

わずか2ヶ月の出来事だったものの、平将門が新たな政権を宣言した事は、武家政権の先例となり、後の日本にも大きな影響を与えます。平将門の乱は日本史におけるターニングポイントである事は間違い無いのです。

平将門の性格と人物像エピソード

平将門の性格と人物像エピソード

(平将門像(茨城県坂東市) 出典:Wikipedia)

困っている人を放っておけない性格だった

平将門は興世王と武蔵武芝との紛争の調停に関与したり、藤原惟幾から藤原玄明を匿う等、困っている人に協力する人物でした。平将門の配下につく人物も多く、一度は対立した興世王も平将門に従うようになっています。

平将門が強い武将だっただけではなく、人を惹きつける何かがあった事は間違いありません。平将門は誰かの為に人生を捧げる事のできる器の大きな人物だったのでしょう。だからこそ、死後に様々な平将門伝説が生まれたと言えるのです。

計画性には欠けていた?

人を惹きつける平将門でしたが、割と無計画な一面もあったのかもしれません。平将門が新皇を名乗るようになったのは結果的に朝敵となり、興世王の進言を受けた事が要因でした。

平将門は側近に諸官を任命した他、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置く等の行動を起こしていますが、計画自体はなし崩しであった事は否めません。結果的に平将門の政権はわずか2ヶ月で瓦解する事になります。入念に計画を立ててから政権を樹立していたならば、日本の歴史はもっと違っていたのかもしれませんね。

平将門の逸話と凄さ

数々の将門伝説を生み出した

数々の将門伝説を生み出した

(歌川国芳「相馬の古内裏」 出典:Wikipedia)

 

平将門の謀反は朝廷に大きな衝撃を与え、様々な伝説が囁かれるようになりました。最も有名なのが「首の伝説」ではないでしょうか。

平将門の首は前述した通り平安京で獄門となりますが、何か月たっても眼を見開き、生きている様子だったそうです。平将門の首は胴体を探し求め、白光を放って東へ飛んでいったとも言い伝えられています。

この他にも平将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称した、こめかみにだけ弱点がある等の様々な伝説があるのです。将門伝説の研究者・村上春樹(作家とは別)は平将門にまつわる伝説を10に分類しており、それぞれが様々なルーツをもって形成されていきました。

江戸時代になると平将門は読本や歌舞伎の題材にも用いられていきます。この頃には平将門を誇張し怨霊として描く事も増えていき、平将門は崇徳上皇や菅原道真と並び、日本三大怨霊に数えられるのうになったのです。

西日本と東日本の評価の違い

中世の貴族の日記ではたびたび平将門にまつわる記述があり、源平争乱期と南北朝時代の動乱期に集中しています。どちらも大きな戦乱が起きた時期であり、貴族達は世の中の混乱を平将門の祟りと考えていた事が分かるのです。

西日本側では謀反を働いた人物として、半ば畏敬の対象と考えられてきた平将門ですが、東日本(特に関東)では「新皇」である平将門の伝説が散見。これは平将門の子孫を称する千葉氏の台頭や、平将門に好意を持つ民衆の影響力と考えられています。東西でこれほど評価の異なる人物は珍しく、平将門の凄さの一つかもしれません。

平将門の名言

平将門の名言

(島広山石井営所跡 出典:Wikipedia)

 

躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ

京都の七条河原に晒された平将門の首が発したとされる言葉です。実際は切断された首が喋る事はなく、創作である事に間違いないのですが、平将門の首の伝説を象徴する名言として未だに語り継がれています。

平将門の家系図・子孫

平将門のルーツ

平将門のルーツ

(桓武天皇 出典:Wikipedia)

 

祖父・高望王は桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、元々は皇族の立場にありましたが、宇多天皇の勅命により平氏の名字を賜与されて臣籍降下した人物です。高望王は関東(坂東)にくだり、豪族と血縁関係を結んだ事で、坂東平氏を名乗るようになりました。

即ち平将門は桓武天皇の血を引く坂東平氏の1人という事になります。天皇の血を引く者が天皇に反旗を翻す。これも不思議な因果と言えます。

平将門の子孫

平将門は2人の正室と何人かの側室がいますが、具体的には誰なのかは分かっていません。彼女達との間に平将門は4人の息子と3人の娘を儲けました。

長男の平良門は『前太平記』によると妾の子どもであり、後に自分が平将門の遺児であると知り、仇討ちを決意したとされます。後日談として『多田満仲を襲うが渡辺綱に打ち取られる』と続いていますが、詳細は不明。『本朝法華験記』では良門は殺生を繰り返していたが、法華経に傾倒して兜率天とされます。

次男の平将国は嫡男にあたります。平将門の乱で父が討ち取られると、平将門側についていた大叔父の平良文に匿われて常陸国信田まで落ち延びました。平将国は二代新皇を称して再興を図ったともされますが、その後の経過は不明です。ただ将国の息子は文国といい、相馬氏を称したと伝えられます。

将国の血筋は後に跡継ぎが不在となり、相馬家から養子をもらい家を存続させますが、この時点で平将門の男系の子孫は途絶えたと言えるのです。

現在にも平将門の血は続いている?

男系子孫は途絶えたものの、女系の子孫は現在にも受け継がれています。平将門の次女とされる如春尼は従父の平忠頼の正室となり、平忠常、将恒(将常)、頼尊を産みました。忠常は千葉氏の祖、次男の将恒は秩父氏の祖、三男の頼尊の子孫は中村氏を称し、彼らは各地の大族として繁栄。現在にも彼らの血筋は全国各地に残されています。

平将門のゆかりの地

将門塚

将門塚

(平将門の首塚 出典:Wikipedia)

 

前述した通り平将門の首伝説は各地に存在しますが、最も有名なのが東京都千代田区大手町にある平将門の首塚でしょう。この首塚は古くから畏敬の対象となっており、不敬な行為に及べば祟りがあると信じられてきました。

1923年の関東大震災後、この地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際には工事関係者や省職員、更には時の大蔵大臣が相次いで死去する事態が起きています。第二次世界大戦後にはGHQの意向で将門塚の撤去が決まった時も、不審な事故が相次ぎ工事は中止となりました。

この地域一帯が高層ビル街へと発展する中でも、将門塚は取り壊しや移転する事なくこの地に残り続けています。今でも将門塚には多くの人が訪れているのです。

住所:東京都千代田区大手町1-2-1

北山稲荷大明神

ここは平将門の終焉の地の有力候補の1つされる場所です。平将門は平将門の乱で劣勢に立たされる中、幸島郡の北山に陣を張りました。石の鳥居と小さな祠があるものの、樹木が生い茂り、昼間でも薄暗く感じられます。祠の隣には「鎮魂 平将門公之碑」という大きな石碑も建てられています。

平将門の無念の感情がこもった場所であり、将門塚よりも遥かに強いパワースポットとも言われているのです。遊び半分で行くのではなく、将門を慕う気持ちがあれば平将門もその気持ちに応えてくれるかもしれません。

住所: 茨城県坂東市辺田1402-1

平将門の関連人物

藤原純友

藤原純友

(藤原純友 出典:Wikipedia)

 

藤原純友は平将門の乱の同時期に瀬戸内で朝廷に反乱を起こした人物です。平将門の乱と藤原純友の乱を合わせて承平天慶の乱とも呼びます。歴史的に彼らに接点はないものの、あまりのタイミングの良さから、朝廷では共同謀議を疑っていた者もいました。

そんな経緯から両者は在京時代の知り合いであり、比叡山に登った時に「平将門は天皇」「藤原純友は関白」になる事を誓い合ったという伝説もあります。藤原純友もこの時代の朝廷に大きな影響を与えだ人物です。

平貞盛

平貞盛は平将門の従兄弟にあたる人物です。父の平国香は平将門との抗争に敗れて戦死し、平貞盛とまた一族の争いに巻き込まれる事になりました。平将門が940年に新皇を称した時、平貞盛は母方の叔父の藤原秀郷と共に平将門の征伐に向かい、討ち取る事に成功します。この功績もあり、平貞盛は従五位上(正五位上説あり)に叙せられたのです。

平貞盛は永祚元年(989年)頃に亡くなったとされますが、彼の四男・平維衡は伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となりました。彼の系譜は平維衡→平正度→正衡→正盛→忠盛→清盛と続きます。平将門と平貞盛は従兄弟であると共に平清盛とも遠い親戚に当たるのですね。

藤原秀郷

藤原秀郷

(藤原秀郷 出典:Wikipedia)

 

藤原秀郷は平貞盛と共に平将門の討伐に当たった人物です。下野国の在庁官人だった人物で、討伐時の年齢は50歳頃とされ、かなりの高齢でした。ちなみに平将門討伐後は名前はほとんど登場しなくなります。

「系図纂要」によると没年は天徳2年(958年)ですが、「田原族譜」によると正暦2年(991年)に101歳で没した事になっています。その他にも百足退治の伝説が残されているなど、平将門ほどではないにせよ、彼も伝説に彩られた人物である事が分かります。

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まとめ

今回は平将門の生涯について解説しました。彼は戦にはめっぽう強く、親戚同士の争いに勝利して関東一帯で勢力を拡大していきます。成り行きで新皇となった事は事実ですが、それを支持する人が多かった事は事実です。彼は武家政権の先例になると共に怨霊などに姿を変えて、日本の歴史に影響を与え続けました。

今回の記事を通じて平将門に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

山田 雄司 怨霊とは何か - 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)
福田 豊彦 平将門の乱 (岩波新書)

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