ジョン万次郎の生涯と人物像まとめ!功績・子孫・名言も解説

ジョン万次郎は幕末の日本において通訳や航海において多大なる貢献をした人物です。
名前だけ聞くと日本人なのかアメリカ人なのか分かりませんし、教科書でもあまり取り上げられない人物です。今回はジョン万次郎の生涯・名言・偉業について解説していきます。

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ジョン万次郎とは?


(中浜万次郎/1880年(明治13年)頃の写真。 出典 Wikipedia)

ジョン万次郎は漁師として働いていましたが、数奇な運命を辿り、アメリカに渡ります。後に帰国し、経験を生かして江戸幕府の通訳や航海士として活躍します。明治以降は教育者として活躍しました。

生まれ

文政10年(1827年) 土佐国幡多郡中ノ浜村で生まれます。

性格

とても前向きで人懐っこい性格だったようです。

万次郎は2歳で父を亡くし、貧しい暮らしをしていましたが公先でもせっせと働きました。アメリカでも持ち前の性格を活かして、色々な人と仲良くなりました。

日本人1人でアメリカに渡り、立派に成長出来たのはその前向きによる影響が大きいでしょう。

英語

万次郎は日本で教育を受けておらず日本語の読み書きが出来ませんでした。万次郎は耳で英語を聞き、真似る事で英語を覚えていったものと思われます。

私達は物心つく頃から日本語を聞いて育つので、文字が書けない頃から、日本語を話せますよね。万次郎もそのような方法で英語を学んでいきました。

後に幕臣として遣米使節としてアメリカに行った際、船乗りや幕臣達に自由行動が認められた事がありました。万次郎はアメリカ人が話しかけてきたら、「弱っちゃうねぇ」と言うよう伝えています。

つまりWhat is your name→ワッツユアネーム→よわっちゃうねぇ という感じです。

他にも
cool=こーる
yellow=やろ
New York=にゅうよぅ

等が万次郎の作った辞書に載っています。

現在私たちが習う英語の発音と現地の発音もズレがあると言われています。

実際に現在の英米人に中浜万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似しており十分意味が通じるそうですね。万次郎の発音をお手本にしている英会話教室もあるようです。

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ジョン万次郎の生涯と人生年表

年表

年度出来事
文政10年(1827年)誕生
天保12年(1841年) 1月遭難し5月にジョン・ハウハンド号に救出される
天保13年(1842年)ホノルルへ。他の乗組員と別れ、アメリカに向かう
嘉永3年(1850年)日本に戻る事を決意し、ホノルルに戻る
嘉永5年(1852年)故郷に戻る
嘉永6年(1853年)幕臣となる
万延元年(1860年)遣米使節としてアメリカに渡る
慶応2年(1866年)土佐藩開成館の教授となる
明治2年(1869年)開成高校の英語教師となる
明治3年(1870年)普仏使節団に同行する
明治31年(1898年)死去 享年72歳

遭難してアメリカへ


(万次郎達が漂着した鳥島 出典 Wikipedia)

万次郎は貧しい漁師の次男として生まれます。9歳で父が亡くなり、母と兄が病弱だった為、幼い頃から働いていました。

14歳になり、漁船に乗り込みます(船頭 筆之烝、 筆之烝の弟の重助と五右衛門、そして虎右衛門)が、遭難してしまい、5日半後に鳥島に漂着。143日後にアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長に救助されます。

その頃の日本は鎖国中の為、万次郎達はホノルルに寄港します。ホノルルは沢山の船が停泊しており、中国船等に乗れば帰国出来る可能性があった為です。

万次郎以外の4人はホノルルで降りますが、万次郎は捕鯨船員として船に残ります。万次郎は英語の理解も早く、好奇心旺盛な事もあり、万次郎の才能を見抜いた船長が声をかけたのです。

万次郎は仲間と別れを告げ、アメリカ本土を目指します。この時にジョン・ハウランド号にちなみジョン・マンと呼ばれるようになります。

アメリカから日本へ


(船長の故郷のニューベッドフォード 出典 Wikipedia)

1843年、万次郎は船長の故郷のマサチューセッツ州に渡り、船長の養子となります。一から英語を学びつつ、数学や航海術、測量等を寝る間も惜しんで学びます。他にも民主主義や男女平等といった概念も学びつつ、「黄色人種は教会に来るな」と言った人種差別にも触れました。

学校卒業後の1846年から捕鯨船の副船長として活躍しますが、1850年には日本に戻る事を決めます。資金集めの為、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコでお金を貯めます。後にホノルルに戻り、漂流仲間と再会。購入した小舟を積んで、上海行きの商船に乗り込みホノルルを出発します(重助は死去、虎右衛門は現地で結婚して残ります)。

1851年2月に薩摩藩に属する琉球(現在の沖縄)に到着。その後薩摩藩→長崎→土佐と行く先々で万次郎達は取り調べを受けます。この時代、日本は外国からの脅威に晒されており、薩摩藩主の島津斉彬土佐藩の吉田東洋等、教養ある人達は積極的にアメリカの事を聞いています。1852年帰国から1年半後、漂流から11年かけて故郷に戻りました。

幕臣として大活躍


(黒船来航 出典 Wikipedia)

帰郷後年老いた母と、妹と再会します。万次郎はアメリカでの知識を買われ、土佐藩の士分となり、教授館の教師に任命。その後1853年には黒船が来航し、幕府はアメリカの知識が必要となったので、万次郎を幕臣として召集。この時に中濱の姓が授けられます。

万次郎は、主に翻訳・通訳、造船指揮を担当します。ペリーとの通訳にする案もありましたが、幕府の中には万次郎を快く思わない者も多く、スパイと疑う人もいたので、却下されています。その代わり英文の翻訳をする等、裏方で活躍します。

1860年には遣米使節団の一人として咸臨丸に乗ります。捕鯨船での経験を活かし、船酔いで指揮の執れない勝海舟の代わりに、嵐に見舞われた航海を成功させます。

1861年には小笠原諸島の開拓調査や、小笠原諸島周辺で捕鯨を行います。外国の脅威の時期に捕鯨?と思うかもしれません。使節団が日本から出ている間に桜田門外の変が発生。日本は攘夷色が強くなり、万次郎の立場も悪くなった事が原因かもしれません。

他には幕府の軍艦操練所の教授や、土佐藩や薩摩藩で英語を教えています。

明治以降のジョン万次郎


(「東京大学発祥の地」の碑 出典 Wikipedia)

明治維新後は開成学校(後の東大)の英語教師となります。普仏戦争使節団として欧州に渡りますが、足部に潰瘍が出来、ロンドンで待機しています。帰りにアメリカに寄り、ホイットフィールド船長と再会しています。

帰国後に潰瘍は治った万次郎ですが、今度は脳溢血となります。幸い後遺症はなく回復しますが、その後は東京にて悠々自適の生活を送ります。万次郎は英語は話せても、日本で教育を受けていなかったので、英文を日本文に翻訳するのは苦手でした。その為維新後は活躍の機会に恵まれませんでした。

記録では明治後も母は健在で1873年と1875年に土佐までお見舞いに行ったようですね。母は1879年に86歳で亡くなっています。

晩年は長男の東一郎の庇護の元で暮らし、英語とは無縁の生活を送ります。後にアメリカの友人が訪ねてきた時には英語は殆ど話せなかったそうです。

1898年 72歳で死去。死の4ヶ月前には息子を見送りに新橋駅まで向かった記録があり、割と身体的には元気な老後だったようですね。

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ジョン万次郎の人物エピソード

沢山の日本初


(ABCの歌の楽譜 出典 Wikipedia)

万次郎は日本で初めてアメリカ留学をした日本人です。他にも様々な日本初があります。
・ネクタイの着用
・鉄道に乗る
・近代式捕鯨に関わる
・ABCの歌を紹介する 等です。

ちなみにアメリカに始めて上陸したのは万次郎ではありません。もっと前から漂流民はたどり着いていましたが、積極的にアメリカで勉強をしたのは万次郎が初めてだったのですね。

万次郎の初恋

万次郎はアメリカの学校で知り合ったキャサリンに慣れない英語でラブレターを書いています。キャサリンは当初は黒人扱いにされ差別されていた万次郎に対して微笑みかけてくれたクラスメイトでした。

 

5月1日はアメリカでは好きな女性の家の玄関に、花を置く習慣があり、万次郎は花と手紙を置いたそうです。しかしその後の記録にキャサリンは一切出ていません。どうなったのかは分かりませんが、万次郎にとっての青春ですね。

ジョン万次郎の功績と偉業


(伝『1860年 桑港碇泊中の咸臨丸』 出典 Wikipedia)

アメリカを知る貴重な存在

幕末当時ネイティブな英語を話せるのは万次郎一人であり、通訳や助言をする等して活躍します。黒船来航時も英文を訳して相手の意図を読み取る、小笠原諸島に住む外国人と英語を通じて退去してもらう事に成功する等、幕末において大きな功績を残しています。

航海技術

捕鯨船で学んだ知識を活かし、咸臨丸の航海で活躍します。嵐で何度も沈没しかけますが、無事航海を成功させます。この船には勝海舟福沢諭吉等も乗っており、もし沈没していたら現在の日本もなかったかもしれません。
万次郎の航海技術は乗船したブルック大尉も絶賛しており、万次郎を幕府が重く用いていたなら、日本海軍は世界トップレベルになると話しています。

多くの偉人に影響を与えた

万次郎は個人的な活躍だけでなく、幕末明治に活躍する人物に、アメリカの経験や政治のあり方を伝えています。

薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の吉田東洋、後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、幕臣の大鳥圭介等。彼らに与えた影響の大きさも功績と言えます。

ジョン万次郎の名言


(捕鯨の絵 出典 Wikipedia)

「人間は全て能力で用いられるべきだ」

当時の日本では身分は厳格に定められており、アメリカに渡らなければ、ジョン万次郎と言う存在は生まれませんでした。身分でなく能力の有無が問われるアメリカで学んだからこそ、生まれた台詞でしょう。

「私は、日本とアメリカの良さを両方知っている」

万次郎は日本とアメリカ、両方の土地で長く暮らしました。当然日本やアメリカ、それぞれの悪い所もあるでしょう。万次郎も人種差別に合っています。それでもそれぞれの国には良い所があったからこそ出た言葉です。前向きで行動力溢れる万次郎らしい名言です。

ジョン万次郎にゆかりの地


(雑司ヶ谷霊園の墓 出典 Wikipedia)

万次郎の墓は東京都豊島区の南部に位置する雑司ヶ谷霊園の中にあります。都内でありながら、静かで落ち着いた雰囲気の漂う霊園です。
墓石は東京大空襲で傷ついており、アメリカとの架け橋のような存在だった万次郎は何を思ったでしょうか。

ジョン万次郎資料館

高知県土佐清水市養老にあります。直筆の英語文献や、ホイットフィールド船長の絵画等の貴重な資料や万次郎の激動の生涯を壁面グラフィックで表現しています。ちなみに名誉館長はビビる大木さんです。2018年4月にリニューアルしており、外装も綺麗になっています。

資料館の入り口付近には四国最南端の足摺岬の展望台があり、海を一望できます。

ジョン万次郎の妻や、子供、子孫について


(仲濱東一郎 出典 Wikipedia)

万次郎は生涯で三人の妻がいました。

1854年に剣術師範の団野源之進の娘でした。活発な女性と言う事で、アメリカを飛び回った万次郎には良い人だったでしょう。1男2女(寿々、東一郎、 鏡)をもうけますが1863年の麻疹の流行の為、25歳の若さで亡くなっています。

2人目の妻です。医師樋口立卓の妹、琴を後妻と し、2男(西次郎、慶三郎)をもうけたが離婚します。原因は不明ですが、当時のアメリカでは離婚は珍しい事ではなく、その影響もあるかもしれません。

志げ

晩年に3度目の結婚をし、2男(信好、秀俊)をもうけます。

子ども

中濱東一郎

鉄の子どもで、万次郎にとって長男です。医者であり福島県医学校校長や岡山・金沢各医学校教授兼病院長を歴任します。主に衛生学を得意としており、ドイツへの留学や、内務省で働く等、多忙な日々を過ごしました。
医者を志した理由は不明ですが、幼き頃に鉄が麻疹で亡くなっており、その影響もあり医者を志したのかもしれません。

 

他の子の記録は詳しい記録は残っていません。わずかに分かるのは、明治28年に4男の信好が練習航海中にトラック島で亡くなった事、明治31年に3男の慶三郎が建設中の巡洋艦・笠置を受け取る為、主計長としてアメリカに渡った事でしょうか。

万次郎は晩年は家族の庇護の元で暮らしていたようなので、他の子ども達も立派に働いていたのでしょう。

子孫

中濱絲子

東一郎の娘であり万次郎から見て孫になります。与謝野晶子と同時期に「明星」などで歌人として活躍。「白藤の君」と呼ばれる女性だったようです。

中濱 寛

東一郎の孫(万次郎から見てひ孫)になります。元聖霊病院の院長であり、専門は心臓外科です。万次郎の著書も残しており、『私のジョン万次郎 子孫が明かす漂流150年目の真実』等があります。

中濱京さん

直系の子孫になります(5代目)。富士通株式会社に勤務しているようです。ブログや講演会等も行っており、多方面で活躍されています。

ちなみに万次郎の子孫達はアメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けているようです。

ジョン万次郎を題材にした作品


(井伏鱒二 出典 Wikipedia)

小説

津本陽 椿と花水木 上巻 下巻

こちらは小説でもありつつ、万次郎の生涯を詳しく書いた伝記の要素もあります。万次郎の事を詳しく知るには良い本です。振られた可能性の高いキャサリンがアメリカ時代の妻になっている等、創作も多いですが。

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作 井伏鱒二 イラスト 宮田武彦 ジョン万次郎漂流記

井伏鱒二はジョン万次郎漂流記を執筆して直木賞を受賞します。児童向けに書かれており、文字にルビが振ってあり読みやすいです。
この本には山椒魚、屋根の上のサワン、鯉、休憩時間の4作品も収録されています。

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また山本一力さんがジョン・マンという長編小説を現在執筆中のようですね。

書籍

マギーフロイス ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂

ジョン万次郎の話をアメリカの小学生向けに書かれた本です。万次郎を通じて、アメリカ人からみた日本人がどんなイメージかも読み取る事が出来ます。
著者がアメリカ人であり、幕臣時代の話は端折られていますが、万次郎の人となりを知る上では読みやすくて良い本です。

中濱博 中濱万次郎-アメリカを初めて伝えた日本人-

万次郎の曾孫が書いた本です。子孫だから知り得る貴重な話や資料に基づいており、万次郎の事を深く知りたいならオススメです。中濱家とホイットフィールド船長一家とのその後の話等も書かれています。

漫画

みなもと太郎 風雲児たち

幕末を描いた漫画です。登場人物の一人に万次郎がおり、漂流してから帰国し、幕臣として活躍する一連の流れが描かれています。万次郎以外にも多くの出来事がとても分かりやすく書かれており、お勧めの漫画です。

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映画・ドラマ

万次郎を主役に上映された映画はありませんが、幕末の大河ドラマにはよく出てきます。主人公にアメリカの民主主義や文化などを教える立場で登場し、開明的な思想を持った人物として書かれています。

西郷どんでは劇団ひとりさんが演じており、謎の漂流民として西郷隆盛と同じ牢屋にいましたが、史実では2人が会ったという記録はありません。

他には篤姫で勝地涼さん、龍馬伝ではトータス松本さんが演じています。

大河ドラマ化を希望する声も多く、署名活動も行われています。いつか実現すると良いですね。

参考文献

ジョン万次郎資料館公式サイト

https://www.johnmung.info/john_syougai.htm

中濱博 中濱万次郎-アメリカを初めて伝えた日本人-

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~ジョン万次郎の生き方に学ぶ~

http://bunkazai.hustle.ne.jp/freestudy/photo/johnman.pdf

「中濱東一郎日記」に見る晩年の万次郎

http://yuwakai.org/ikiikijinsei/ikiiki/johnman001.pdf

極楽のぶ

https://blog.goo.ne.jp/windyjazz/e/3c658ede7fc8a16e309bf2000972ee0b

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