明治維新を成功させた人物で朝廷、公家の代表格と言えば、やはり岩倉具視(いわくらともみ)をおいて他にはいないでしょう。
1951年(昭和26年)に発行された五百円紙幣の肖像画としても記憶されている年配の方も多いと思われるこの人物は、明治維新後も決断力と人並外れた忍耐力、そして優れた頭脳で日本の近代化にも尽力しています。
今回は明治維新の黒幕とも言われた岩倉具視の人生を振り返ってみたいと思います。
目次
岩倉具視のプロフィール
岩倉具視の誕生とその身分
岩倉具視は仁孝天皇の侍従であった堀河康親(ほりかわやすちか、後に従二位・権中納言)の次男として、山城国(現在の京都府京都市)に1825年10月26日(文政8年9月15日)に誕生します。
幼名は周丸(かねまる)といい、儒学者・伏原宣明(ふせはらのぶはる)に見出だされ、1838年(天保9年)8月8日岩倉家の養子となりました。
ただ岩倉家は公家としては新興の家柄で、官位・官職は高くはありませんでした。
このため公家とはいっても下級の家柄で裕福でもなく、朝廷の儀式にも参列すら出来ませんでした。
岩倉具視の人となり
岩倉具視の身長は五尺三寸、約160㎝と言われていて当時の平均身長よりもやや低く、日本煙草をこよなく愛し、葉巻は喫煙しても西洋煙草には手を付けることはなかったそうです。
お酒もよく嗜み、一日3回五勺(約100ml)ずつの飲酒を欠かさなかったといい、その時の食事は鳥や牛などの肉類よりも魚料理を好み、野菜類もよく食べたと伝えられています。
関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)を歌道の師とし、謡曲や能仕舞も趣味としていたようですが、その技量はさほどでもなかったようです。
なお、岩倉具視は雅号を対岳(たいがく)と称していたので、岩倉具視幽棲旧居(京都市左京区)にある遺品、史料をおさめた資料館は対岳文庫と名付けられています。
岩倉具視の生涯と人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1825年10月26日(文政8年9月15日) | 堀河康親の次男として誕生。 |
1838年(天保9年)8月8日 | 岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となり、この年に叙爵、元服して昇殿を許される。 |
1853年(嘉永6年)1月 | 関白・鷹司政通のもとへ歌道入門する。 |
1858年4月25日(安政5年3月12日) | 廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん) 日米修好通商条約締結の勅許に対する公卿の抗議事件で頭角を現す。 |
1858年(安政5年) | 安政の大獄始まる。 岩倉具視は幕府と朝廷の関係悪化を恐れ、公武合体の施策をとる。 |
1860年(安政7年)3月3日 | 桜田門外の変、井伊直弼暗殺される。 |
1861年(文久元年)10月20日 | 和宮が桂御所を出て江戸へ下向(和宮降嫁) |
1862年(文久2年) | 安政の大獄で処分された徳川慶喜、松平春嶽(松平しゅんがく)らが復帰し、尊皇攘夷派が台頭、佐幕派と見られた岩倉具視は失脚、岩倉村での蟄居生活始まる。 |
1864年(元治元年)7月19日 | 禁門の変(蛤御門の変)で京都の攘夷派が一掃されるも岩倉具視は赦免されず。 |
1866年(慶応2年)6月7日 | 第二次長州征伐開始、7月20日14代徳川家茂(とくがわいえもち)死去、これにより1か月後幕府と長州藩は休戦協定が結ばれる。 |
1866年(慶応2年)8月30日 | 廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん) 尊皇攘夷派公卿を朝廷に復帰をさせるために朝廷内で起こった騒動で、朝廷に押し掛けた公家22人が処分される。 |
1866年(慶応2年)12月25日 | 孝明天皇が崩御、岩倉具視による毒殺説がささやかれる。 |
1867年(慶応3年)1月9日 | 明治天皇が即位、ただちに恩赦が行われるが岩倉具視は赦免されず、11月まで待たされることになる。 |
1868年1月3日(慶応3年12月9日) | 参内して王政復古の大号令案を奏上、岩倉具視は新政府の参与となる。 小御所会議によって徳川領の削減が決定。 |
1868年1月27日 – 30日(明治元年/慶応4年1月3日 – 6日) | 鳥羽・伏見の戦い。 岩倉具視は幕府との開戦に備えて錦旗と討幕の密勅を準備。 |
1868年(明治元年)10月 | 天皇が江戸城へ入城、新皇居と定める。 |
1869年(明治2年)6月 | 明治新政府が版籍奉還を実施。 |
1871年(明治4年)7月 | 廃藩置県を実施、岩倉具視は外務卿に就任。 |
1871年(明治4年)11月 | 岩倉具視を特命全権大使とした欧米使節団が横浜を出港。 |
1873年(明治6年)9月13日 | 明治六年政変 岩倉具視が横浜に帰国、西郷隆盛の唱える征韓論に反対する。 評議に敗れた西郷は参議を辞職、征韓派の600人にも軍人、官僚が辞職する事態となる。 |
1874年(明治7年)1月14日 | 喰違の変(くいちがいのへん) 岩倉具視が武市熊吉以下9名に襲撃され負傷する。 |
1874年(明治7年)2月1日 | 佐賀の乱が起こる。 |
1877年(明治10年) | 西南戦争勃発。 |
1878年(明治11年) | 紀尾井坂の変。 大久保利通が不平士族の暴漢に襲撃され落命。 |
1880年(明治13年) | 自由民権運動の高まりを受けて、憲法制定論議が盛んとなる。 岩倉具視は当初、憲法制定に反対の立場であった。 |
1883年(明治16年)5月 | 喉頭癌を患っていた岩倉具視は、東京大学医学部教授・エルヴィン・フォン・ベルツから日本医学史上初めての癌告知を受ける。 |
1883年(明治16年)7月20日 | 東京で死去、享年59歳、日本で最初の国葬が執り行われる。 |