【明治維新の十傑】岩倉具視の生涯と人物像|名言・偉業・子孫・死因も解説

 

(岩倉具視、出典ウィキペディア)

(岩倉具視、出典ウィキペディア

 

明治維新を成功させた人物で朝廷、公家の代表格と言えば、やはり岩倉具視(いわくらともみ)をおいて他にはいないでしょう。

1951年(昭和26年)に発行された五百円紙幣の肖像画としても記憶されている年配の方も多いと思われるこの人物は、明治維新後も決断力と人並外れた忍耐力、そして優れた頭脳で日本の近代化にも尽力しています。
今回は明治維新の黒幕とも言われた岩倉具視の人生を振り返ってみたいと思います。

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岩倉具視のプロフィール

岩倉具視の誕生とその身分

(岩倉家の家紋・笹竜胆ささりんどう、出典ウィキペディア)

(岩倉家の家紋・笹竜胆ささりんどう、出典ウィキペディア

 

岩倉具視は仁孝天皇の侍従であった堀河康親(ほりかわやすちか、後に従二位・権中納言)の次男として、山城国(現在の京都府京都市)に1825年10月26日(文政8年9月15日)に誕生します。
幼名は周丸(かねまる)といい、儒学者・伏原宣明(ふせはらのぶはる)に見出だされ、1838年(天保9年)8月8日岩倉家の養子となりました。

 

ただ岩倉家は公家としては新興の家柄で、官位・官職は高くはありませんでした。
このため公家とはいっても下級の家柄で裕福でもなく、朝廷の儀式にも参列すら出来ませんでした。

岩倉具視の人となり

(岩倉具視幽棲旧居、出典ウィキペディア)

(岩倉具視幽棲旧居、出典ウィキペディア

岩倉具視の身長は五尺三寸、約160㎝と言われていて当時の平均身長よりもやや低く、日本煙草をこよなく愛し、葉巻は喫煙しても西洋煙草には手を付けることはなかったそうです。

岩倉具視は守宮(やもり)のあだ名で呼ばれており、すばやくて出没が予測不可能予測であり、その策謀ぶりの凄さからこう呼ばれたそうですが、その裏には陰険で冷血な評価もあったと言われています。

 

お酒もよく嗜み、一日3回五勺(約100ml)ずつの飲酒を欠かさなかったといい、その時の食事は鳥や牛などの肉類よりも魚料理を好み、野菜類もよく食べたと伝えられています。
関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)を歌道の師とし、謡曲や能仕舞も趣味としていたようですが、その技量はさほどでもなかったようです。
なお、岩倉具視は雅号を対岳(たいがく)と称していたので、岩倉具視幽棲旧居(京都市左京区)にある遺品、史料をおさめた資料館は対岳文庫と名付けられています。

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岩倉具視の生涯と人生年表

出来事
1825年10月26日(文政8年9月15日)堀河康親の次男として誕生。
1838年(天保9年)8月8日岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となり、この年に叙爵、元服して昇殿を許される。
1853年(嘉永6年)1月関白・鷹司政通のもとへ歌道入門する。
1858年4月25日(安政5年3月12日)廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)
日米修好通商条約締結の勅許に対する公卿の抗議事件で頭角を現す。
1858年(安政5年)
安政の大獄始まる。
岩倉具視は幕府と朝廷の関係悪化を恐れ、公武合体の施策をとる。
1860年(安政7年)3月3日桜田門外の変井伊直弼暗殺される。
1861年(文久元年)10月20日
和宮が桂御所を出て江戸へ下向(和宮降嫁)
1862年(文久2年)安政の大獄で処分された徳川慶喜、松平春嶽(松平しゅんがく)らが復帰し、尊皇攘夷派が台頭、佐幕派と見られた岩倉具視は失脚、岩倉村での蟄居生活始まる。
1864年(元治元年)7月19日禁門の変(蛤御門の変)で京都の攘夷派が一掃されるも岩倉具視は赦免されず。
1866年(慶応2年)6月7日第二次長州征伐開始、7月20日14代徳川家茂(とくがわいえもち)死去、これにより1か月後幕府と長州藩は休戦協定が結ばれる。
1866年(慶応2年)8月30日廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん)
尊皇攘夷派公卿を朝廷に復帰をさせるために朝廷内で起こった騒動で、朝廷に押し掛けた公家22人が処分される。
1866年(慶応2年)12月25日
孝明天皇が崩御、岩倉具視による毒殺説がささやかれる。
1867年(慶応3年)1月9日明治天皇が即位、ただちに恩赦が行われるが岩倉具視は赦免されず、11月まで待たされることになる。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)参内して王政復古の大号令案を奏上、岩倉具視は新政府の参与となる。
小御所会議によって徳川領の削減が決定。

(京都御所にある小御所、出典ウィキペディア

1868年1月27日 – 30日(明治元年/慶応4年1月3日 – 6日)鳥羽・伏見の戦い。
岩倉具視は幕府との開戦に備えて錦旗と討幕の密勅を準備。
1868年(明治元年)10月
天皇が江戸城へ入城、新皇居と定める。
1869年(明治2年)6月明治新政府が版籍奉還を実施。
1871年(明治4年)7月廃藩置県を実施、岩倉具視は外務卿に就任。
1871年(明治4年)11月
岩倉具視を特命全権大使とした欧米使節団が横浜を出港。
1873年(明治6年)9月13日
明治六年政変
岩倉具視が横浜に帰国、西郷隆盛の唱える征韓論に反対する。
評議に敗れた西郷は参議を辞職、征韓派の600人にも軍人、官僚が辞職する事態となる。
1874年(明治7年)1月14日喰違の変(くいちがいのへん)
岩倉具視が武市熊吉以下9名に襲撃され負傷する。
1874年(明治7年)2月1日佐賀の乱が起こる。
1877年(明治10年)西南戦争勃発。
1878年(明治11年)紀尾井坂の変。
大久保利通が不平士族の暴漢に襲撃され落命。
1880年(明治13年)自由民権運動の高まりを受けて、憲法制定論議が盛んとなる。
岩倉具視は当初、憲法制定に反対の立場であった。
1883年(明治16年)5月喉頭癌を患っていた岩倉具視は、東京大学医学部教授・エルヴィン・フォン・ベルツから日本医学史上初めての癌告知を受ける。
1883年(明治16年)7月20日東京で死去、享年59歳、日本で最初の国葬が執り行われる。
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岩倉具視の人柄が見えるエピソード

岩倉具視が持つ人物イメージと言えば、陰湿、陰謀、冷徹などなど暗いものが目立ちますが、これらのイメージが付いたのには、岩倉具視が行った決断と行動によるところが多いのです。

八十八卿列参事件での活躍

(孝明天皇、出典ウィキペディア)

(孝明天皇、出典ウィキペディア

日米修好通商条約締結の勅許を得るために、老中首座・堀田正睦(ほったまさよし)が参内したとき、岩倉具視は中山忠能(なかやまただやす)ら88名の公家衆とともに条約撤回の座り込みを開始、これに続いて朝廷の下級役人97名の条約撤回の意見書も提出されます。
結果、孝明天皇は条約締結に反対の姿勢を示し、勅許を不許可とします。
この責任を問われた堀田正睦は老中を辞任に追い込まれ、議案を天皇に提出した関白・九条尚忠(くじょうひさただ)も役職停止処分を受けます。
このあと大老に就任した井伊直弼によって抗議活動に参加した88名の公家は処分されますが、この一件で公家の力を天下に示すこととなり、幕末の勢力の一つに加わることとなります。
岩倉具視は公家88人をまとめ、下級官吏の支持も取り付けた上で、病気と称して面会を拒否した九条尚忠の屋敷に返答あるまで座り込み、九条尚忠からの回答を得たのは午後10時頃だったと伝えられています。
孝明天皇の勅許不許可の回答によって岩倉具視は勝利を得ることとなり、一躍朝廷勢力のリーダー格に躍り出ました。
自分の地位や立場をも顧みず、上位者を脅迫する形で自分の主張を通すやり方が、強引なイメージを作ったと言えるでしょう。

明治六年政変での決断

(西郷隆盛前功記・征韓議論図、出典ウィキペディア)

(西郷隆盛前功記・征韓議論図、出典ウィキペディア

 

1873年(明治6年)9月13日、岩倉具視が欧米の視察から帰国しました。
この時日本国内は西郷隆盛ら留守を預かっていた面々が強行しようとしていた朝鮮半島への出兵開国計画(征韓論)が、明治新政府の政策に不満のあった旧士族らに支持され、国策として行われようとしていました。

 

ただ征韓論を支持していた側も一枚岩ではなく、西郷隆盛は派兵には反対で、まずは自身を使節として派遣する遣韓論でしたが、板垣退助江藤新平、後藤象二郎らは即時出兵して朝鮮を制圧することを考えていました。

 

征韓論に反対する岩倉は、厳しい財政下での開戦は不可能と主張する大久保利通、朝鮮を制圧するには軍備が整っていないとする勝海舟らを味方にして、征韓論を中止すべく奔走します。

 

何度かの論戦の後、10月15日の閣議で三条実美と岩倉具視に結論が一任されますが、三条は西郷の朝鮮派遣は認めてしまいます。
しかしこの三日後の18日に三条が心労のため倒れると、20日には岩倉が太政大臣摂行に就き、三条の代理となります。
岩倉は明治天皇をはじめ朝廷工作を大久保利通とともに丹念に行い、10月22日の西郷、江藤、板垣、副島種臣(そえじまたねおみ)の自邸訪問時にも使節派遣に対して頑として首を縦に振らず、四人は渋々引き下がることになりました。

 

10月23日岩倉具視は参内し征韓論の結論は明治天皇の判断に委ねる(聖断)と奏上しました。
この日西郷隆盛はすべての官職の辞表を提出、翌24日使節派遣の延期が決定し、西郷隆盛の参議と近衛都督の辞表が受理されます。
またこの日江藤、板垣、副島、後藤が参議の辞表を提出、受理され征韓論賛成派はすべて下野することになりました。
岩倉具視は海外視察で実感した日本と欧米との格差を埋めるために、戦争するよりも内政の安定と国力充実を優先すべきと考えていました。

 

このため征韓論には断固反対であり、あらゆる手段を講じてこれを阻止し、不平士族の首領格である西郷隆盛を政治的に葬り、西南戦争へと向かわせます。
維新の英雄・西郷隆盛を死地へと追いやることになった岩倉具視の評判はこの時、地に落ちることとなり暗殺の標的にもされますが、そんなことにはお構い無く自身の信念を曲げずに政策を推し進めた岩倉具視の執念こそ恐るべしと言えます。

岩倉具視は相手がいかような人物であっても怯むことなく、あらゆる手段を用いて自説を推し進め、必ず成功させます。
この方法を問わずに勝利し生き残るやり方が岩倉具視の評価を下げている最大の要因なのでしょう。

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岩倉具視の功績

岩倉使節団による欧米視察

(岩倉使節団全権及び副使・左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、出典ウィキペディア)

(岩倉使節団全権及び副使・左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、出典ウィキペディア

 

1871年(明治4年)7月14日、外務卿に就任した岩倉具視が最初に手掛けなければならない懸案が条約改正でした。
徳川幕府が締結した日米修好通商条約などの不平等条約を対等な条約へと改正するための下交渉の必要性を感じていた岩倉具視は、大隈重信が発案していた小規模な欧米視察団構想を、政府のトップを含む大規模なものに変更し、自身が全権として条約改正の道筋を付けようとしました。

 

全権大使に岩倉具視、副使に木戸孝允大久保利通伊藤博文、山口尚芳その他総勢107名で1871年12月23日(明治4年11月12日)に横浜を出発しアメリカへ向かい、その後イギリスやフランスなどヨーロッパ12ヵ国を訪問し、最後にアジアにあるシンガポールや香港などのヨーロッパ諸国の植民地を視察、1873年9月13日(明治6年)に帰国しました。

 

岩倉具視は各国の元首や政治指導者に国書を手渡し、条約改正への糸口を掴もうとしましたが、こちらの方は全く相手にされることなく空振りに終わります。

 

ただ、岩倉使節団は別の成功をおさめて帰国していました。
それは訪問諸国を視察しその目で当時の最先端技術を目にしたことによって、日本の工業技術の発展や社会インフラの整備の必要性を感じて帰国したことです。

 

4ヶ月滞在したイギリスでは、産業革命によって生活用品や武器だけでなく食料品も大量生産することに成功しており、それを世界へ輸出することによって国を豊かにしていました。

 

また8ヶ月滞在したアメリカでは広大な国土を鉄道で結ぶことによって大きく発展しているのを見て、日本にもその必要性を痛感していました。
そのため使節団に参加した多くの随行員は産業の技術やシステムの習得のために現地に留学し、多くを学んで帰国します。
この岩倉使節団の留学生の中には三井財閥の総帥となった團琢磨(だんたくま)や津田塾大学を創設した津田梅子(つだうめこ)、津田塾大学や現在の慈恵看護専門学校創設に尽力し陸軍元帥・大山巌(おおやまいわお)の後妻となった山川捨松(やまかわすてまつ)などがいました。

欧米視察中の髷(まげ)のエピソード

岩倉使節団の写真に写る岩倉具視の頭には髷が結われたままになっています。
1871年9月23日(明治4年8月9日)散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)が出され、頭髪の形に関しては自由にしてよいとの法律が布告されました。
幕末に洋式軍制が導入されたため多くの男子が髷を落とすようになりましたが、薩摩藩の島津久光・忠義親子は布告後も髷を長く結っており、髷を落とさないからと言って処罰されることはありませんでした。

 

このため岩倉具視は布告後も日本古来の文化を尊重する気持ちもあって、ずっと髷を結ったままで公務を行っていました。
髷を結ったまま岩倉使節団とした日本を立った岩倉具視は最初の寄港地・アメリカで非常な歓待を受けました。

使節団の副使や随行員のほとんどが西洋風の髪型や服装であったのに対して、岩倉具視はちょんまげに着物姿でアメリカ人には珍しい格好だったため、多くの関係者が岩倉具視の姿を見物に来ていたのです。

 

当初はその事に気づかず、大勢の歓迎を受け気分が高揚していた岩倉具視でしたが、さすがの異常人気にこの理由を同行していた娘婿・岩倉具綱に調べさせると、自分が見世物になっていることを知らされ落胆します。

 

しかし全権大使の自分が見世物になっていては、日本国がなめられると考えた岩倉具視は髷を切り落とし、洋装姿でアメリカ政府首脳との会談に出席しました。
帰国後、岩倉具視の姿を見た明治天皇も断髪を決意し髷をおろされたのでした。

(明治天皇、出典ウィキペディア)

(明治天皇、出典ウィキペディア

 

岩倉具視の名言

我が国小なりといえども誠によく上下同心(しょうかどうしん)その目的を一にし、務めて国力を培養せば、宇内に雄飛し万国に対立するの大業甚だ難しきにあらざるべし。

1879年(明治12)3月「国本培養に関する上書」

我が国日本は小さな国かもしれないが、国民皆が同じ方向を向き、国力を蓄え増強することが出来るならば、世界を相手に大きく飛躍することはそれほど難しいことではない。

明治維新から政治の中心に君臨し使節団により海外を見聞しただけあってその言葉には重みがあったはずです。
岩倉のこの言葉はこのあと現実となり、日清戦争、日露戦争に勝利し日本はその国力を飛躍的に増大していくことになります。

成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈(あに)後世に恥じんや

成功する失敗するは天命であり、生きる死ぬは運命である。事に挑んで失敗し死ぬことがあっても後世に恥じることは何一つない。

大政奉還、王政復古と時代が慌ただしく動いたときに岩倉具視がまわりの人々に語ったと言われています。
明治維新という歴史的偉業が多くの人の命がけの行動によって成り立ったことをあらわした名言と言えます。

(大政奉還図・ 邨田丹陵筆、出典ウィキペディア)

(大政奉還図・ 邨田丹陵筆、出典ウィキペディア

 

岩倉具視にゆかりのある場所、品

錦旗(錦の御旗)

錦旗(錦の御旗)

(錦旗・浮田可成画、出典ウィキペディア

 

官軍の大将を示す旗を錦の御旗と言うのですが、日本史上では承久の乱(1221年、承久3年)に際し、後鳥羽上皇が配下の武将に与えたのが初見とされています。

もともと錦の御旗には特に定まった意匠がなく天皇の治罰綸旨(じばつりんじ・朝敵討伐の命令書)を受けたものが自分で準備するのが通例となっていました。

 

このため岩倉具視は幕府と倒幕軍が戦争状態となったときに、倒幕軍を官軍とするために密かに薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎へ錦旗の作製を依頼しており、旗のデザインは岩倉具視の腹心であった玉松真弘(たままつまひろ)が担当しました。

この錦の御旗は鳥羽伏見の戦いが始まると節刀とともに征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)に与えられ、薩摩藩の本営があった東寺に掲げられました。
これを見た薩摩、長州、土佐などの倒幕軍は士気が上がり、幕府軍は朝敵となることを恐れ士気が下がった上に退却を始めてしまいました。

 

岩倉具視が準備した錦の御旗はその存在自体が大きな戦力となり、敵の戦意を挫き戦争そのものを有利に進めることとなったのです。

西芳寺(さいほうじ)湘南亭

西芳寺(さいほうじ)湘南亭

(西芳寺・湘南亭、出典ウィキペディア

 

京都市西京区松尾にある臨済宗の仏教寺院で、庭園が120種にも及ぶコケによって覆われ別名苔寺(こけでら)と呼ばれており、本尊は阿弥陀如来、開山は行基(ぎょうき)と言われています。

 

湘南亭は夢窓疎石(むそうそせき)の時代に建てられ、一時は荒廃するものの千利休の次男である千少庵(せんのしょうあん)によって再興されます。

 

屋根が杮葺(こけらぶき)の開放的な茶室で、1862年(文久2年)ごろ公武合体派として和宮降嫁や幕府との融和を推進していた岩倉具視が、急激に勢力を拡大した尊皇攘夷派から佐幕派として睨まれ、岩倉具視は孝明天皇側近から失脚、その後蟄居処分となり辞官と出家を申し出るよう言い渡され岩倉具視は出家して朝廷を去ります。

 

しかし岩倉具視への追求を止めない尊皇攘夷派に遠島処分を求められ、挙げ句は天誅の対象にまでされてしまいます。

 

命の危険を察知した岩倉具視は霊源寺へ逃げ込み、その後この西芳寺湘南亭へ移り、洛中追放令が出されて洛北の岩倉村へ移動するまで過ごしました。

岩倉具視の家族や子孫について

岩倉具視の妻

岩倉具視の正室は誠子といい2男2女をもうけますが、1874年(明治7年)岩倉具視よりも先に死去します。
継室には膳所藩の勘定組野口為五郎の次女・槇子(まきこ)が迎えられました。

 

槇子の兄が岩倉具視の身辺警護に付いていたのが縁で、槇子は身の回りの世話をするために岩倉具視のそばに仕えていました。

 

槇子は岩倉具視が孝明天皇の不興をかって失脚し攘夷派から命を狙われた時には、槇子の実家である膳所の野口家に匿ったりして不遇時代の岩倉具視を支えました。

 

こうした槇子の岩倉具視への誠意ある行動が認められ、正室・誠子が亡くなった後に継室として迎えられて2男3女の子供にも恵まれました。

岩倉具視の子供たち

岩倉具視には正室・誠子、継室・槇子の二人の妻との間に4男5女の子供が誕生しています。

長男・岩倉具義(ともよし)

南岩倉家を継ぎ興福寺正知院住職を勤めました。

次男・岩倉具定(ともさだ)

岩倉具視の跡を継いだ長女・増子(ますこ)の夫・具綱(ともつな)から岩倉家の家督を譲られ当主となります。戊辰戦争時は、東山道鎮撫総督に任命され戦争終結後はアメリカに留学、政府に出仕後は貴族院議員、枢密院顧問を歴任し宮内大臣も勤めました。

三男・岩倉具経(ともつね)

戊辰戦争で東山道鎮撫使副総督として兄・具定とともに出陣しますが、学業専念のため途中で京都へ戻りその後アメリカへ留学しました。帰国後は行政官として活躍し宮中顧問官にまでのぼりますが、40歳手前で病気によって命を落としました。

四男・岩倉道倶(みちとも)

東京帝国大学を卒業後海外視察に出て、帰国後に貴族院議員となります。企業の取締役や政府関係の委員会の委員を数多く歴任しますが戦後は公職追放となり、そのまま復帰することなく死去しました。

岩倉具視の子孫たち

岩倉具視の子孫たち

(小桜葉子、出典ウィキペディア

 

岩倉具視の次男・具定の娘・具子(ともこ)が松竹に入って芸名・小桜葉子として活躍し、俳優の上原謙(うえはらけん)と結婚、生まれた長男が映画・若大将シリーズでスターダムにのしあがった加山雄三です。

 

具子の妹・昌子も芸名・小桜昌子として女優で活躍、その子供・喜多嶋修(きたじまおさむ)がザ・ランチャーズと言うグループサウンズでデビューしています。
この喜多嶋修の娘が女優、タレントとして活躍した喜多嶋舞です。

岩倉具視を題材にした作品

幕末、明治維新を題材にしたドラマ、映画にはほぼ100%の確率で岩倉具視のキャスティングがあります。

 

徳川幕府、長州藩、薩摩藩、新選組など佐幕、公武合体、尊皇攘夷と主義が異なる舞台設定でも必ず岩倉具視が登場しますが、岩倉具視が主役と言う作品を探してみると、これが意外なことにないのです。

 

もっと細かく調べればあるかもしれませんが、テレビで放映された大河ドラマや大型時代劇などでは見当たりません。

前述した岩倉具視の人間像が世間で不人気なこともあるのか、主役として扱われる事がないようです。

 

しかし脇役としての岩倉具視は、その存在感と表裏あるイメージなどで演じる俳優は個性的でサプライズ感のある人が選ばれているようです。

過去の主なNHK大河ドラマで岩倉具視を演じた俳優一覧

1968年「龍馬がゆく」

日活映画の二枚目、特捜最前線で主役の神代恭介警視正を演じた昭和の名優・二谷英明


(二谷英明、出典ウィキペディア
 

1998年「徳川慶喜」

大ヒット刑事ドラマ「相棒」で杉下右京の初代相棒・亀山薫を演じた・寺脇康文

2008年「篤姫」

お笑い芸人、ボクサー、画家、書道家、最近はヨガの実践でも有名で、ドラマ男女7人夏物語・秋物語の大沢貞九郎役で俳優としても高い評価を受けた片岡鶴太郎

2018年「西郷どん」

上方落語協会副会長を長く勤め、現在も相談役として落語界を牽引し、テレビのバラエティ番組のMCとしても数多く出演しており、最近のドラマでは99.9 -刑事専門弁護士- SEASON IIでは嵐・松本潤の敵役の裁判官・川上憲一郎を演じた笑福亭鶴瓶

他にも小堺一機、中村有志、小林稔侍らがNHK大河ドラマでは岩倉具視を演じています。

また民放の大型時代劇では佐藤慶、鈴木瑞穂、木下ほうか、原田大二郎などの脇役では重要な役回りを演じる大物俳優が演じており、岩倉具視がこの時代にはなくてはならない人物であったことを示しています。

岩倉具視まとめ

冷徹、非情、手段を問わず物事を成し遂げるためブラックなイメージが付きまとう岩倉具視ですが、時代が大きく転換する時期には必ず必要とされるタイプの人材とも言えます。

 

実際、孝明天皇が崩御した際には岩倉具視による暗殺説が出たほど、岩倉具視は手段を選ばす目的を遂げるとまわりの人々も考えていました。

錦の御旗も天皇の許可なく勝手に作製を進めていたりと、幕末、維新の時代ではまさしく手段を選ばぬモンスター級の活躍でした。

 

維新後は政府の重鎮として多くの制度改革に関与し、日本の近代化に尽力しました。
歴史上では影の参謀役として語られる事が多く、ドラマや映画では敵役の首領として描かれますが、彼の決断や行動が大きく時代を動かした事実は揺るぎません。

 

歴史を表側ではなく、裏側からじっくりと見つめ直したとき、本当の岩倉具視の姿が浮かび上がるのかもしれません。

参考文献

永井路子「岩倉具視 言葉の皮を剥きながら 」文春文庫

佐々木 克「岩倉具視 (幕末維新の個性)」吉川弘文館

岩倉具視幽棲旧居・対岳文庫ホームページhttps://iwakura-tomomi.jp/about/

※執筆にあたり参考いただいた文献及びホームページです。

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