伊能忠敬は江戸中期の商人です。商人として財を成してから50歳で測量士の元に弟子入りをします。日本各地の測量を始めたのは55歳の時であり、17年かけて詳細な日本地図を完成させました。今よりもずっと寿命が短かった時代において、55歳から測量を始めた不屈の精神は私たちも見習うべきところでしょう。
伊能忠敬といえば日本地図を作ったというイメージが強く、その生涯や人物像については詳しく分からない人も多いのではないでしょうか。今回は伊能忠敬の知られざる功績や、その人物像について解説していきます。
目次
伊能忠敬とは?
氏名 | 伊能忠敬(幼名は三治郎) |
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出生日 | 延享2年(1745年)1月11日 |
出生地 | 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町) |
死没日 | 文政元年(1811年)4月13日 |
死没地(亡くなった場所) | 江戸 |
血液型 | 不明 |
職業 | 商人、天文学者、測量士 |
身長 | 160cm前後 |
体重 | 55kg程度 |
配偶者 | ミチ |
座右の銘 | 「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」 「ためることが第一」 |
伊能忠敬の人生年表・生涯
伊能忠敬の人生年表
年 | 出来事 |
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延享2年 1745年 | 誕生 |
宝暦12年 1762年 | 伊能家の婿養子となる |
天明元年 1781年 | 佐原村の名主となる |
天明3年 1783年 | 天明の大飢饉 |
寛政6年 1794年 | 50歳で隠居し、翌年から江戸で暦学や天文学を学ぶ |
寛政12年 1800年 | 最初の測量を開始 |
文化13年 1816年 | 第10次測量を開始 |
文化15年 1818年 | 74歳で死去 |
文政4年 1821年 | 大日本沿海輿地全図が完成する |
伊能忠敬の生涯①
伊能忠敬は延享2年(1745年)1月11日に、上総国山辺郡小関村で、村の名主・小関五郎左衛門の家で生まれます。ただ父親は神保貞恒という酒造家の次男で、小関家には養子入りした立場でした。
伊能忠敬は6歳で母を亡くし、小関家の商いは母親の弟が引き継ぐ事になります。その為、父親の神保貞恒は子供たちを連れて実家に戻りましたが、なぜか伊能忠敬だけはこの家に残りました。この頃の伊能忠敬の生活は不明で、疎まれて生活していたとも、立派に学問を教わっていたとも言われます。
やがて伊能忠敬は秀才として名を馳せるようになり、宝暦12年(1762年)に、佐原村にある酒造家の伊能家のミチと結婚。この時の伊能忠敬は17歳で、ミチは21歳ですが、ミチは前の夫との間に3歳の子供もいました。
伊能忠敬の生涯②
伊能忠敬が伊藤家に婿入りした頃、佐原村は利根川を利用した舟運で栄えており、関東でも有数の村でした。伊能家は佐原村で酒、醤油の醸造、貸金業などを営んでいたものの、事業の不振が続き、縮小を余儀なくされていました。
最初は気苦労の絶えない生活だったものの、徐々に商売は発展していきます。天明元年(1781年)に伊能忠敬は佐原村の名主となりました。天明3年(1783年)に天明の大飢饉で佐原村も不作になると、伊能忠敬は飢饉を見越して米の買い占めを行うものの、程なく米価は下落し、多額の損失を抱えます。
周囲からは「早く米を売った方がいい」と諭されるものの、程なく利根川一帯は氾濫し、佐原村は甚大な被害を受けました。伊能忠敬は買い占めた米を地域の住人に施すなどして、多くの村人を救います。伊能忠敬の信頼感は絶大なものになり、天明7年(1787年)5月に天明の打ちこわしが各地で広まった時も、伊能忠敬の家は被害を受ける事はありませんでした。
結果的に佐原村が危機を脱した後も、江戸では再度米不足となっており、伊能忠敬は余った米を江戸に売る事で多額の利益を得る事に成功しました。
ある程度の危機が去った後から伊能忠敬は、昔から興味を持っていた「暦学」を本腰を入れて学びたいと考えるようになります。伊能忠敬は寛政3年(1791年)頃から商いを息子に任せ、自身は暦学や天文学の勉強に没頭。寛政6年(1794年)12月に隠居したのです。
伊能忠敬の生涯③
寛政7年(1795年)、50歳で伊能忠敬は江戸に住居を構えます。そして暦学で高い評価を得ていた高橋至時(当時31歳)の弟子となり、天体観測や測量の勉強を続けました。
実は寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンが蝦夷地に現れて通商を求める事態が起きる等、異国から船がやって来る事が増えていきます。江戸幕府は蝦夷地の詳細な地図や測量が必要と考えるようになっていました。
粘り強い交渉を経て、寛政12年(1800年)に伊能忠敬一行は蝦夷地の測量を認められます。長年の勉強で卓越した測量技術を持っていた伊能忠敬の地図は、高い評価を得る事となりました。
伊能忠敬は享和元年(1801年)には伊豆、翌年には東北日本海沿岸など、全国の測量を続けます。江戸幕府の若年寄・.堀田正敦から支援を受けるようになり、やがて全国の測量は測量は幕府直轄事業となりました。
文化12年(1815年)には十回目の大規模な測量として、江戸府内の地図が作られます。この頃の伊能忠敬は既に71歳になっていました。70歳といえば当時の平均寿命を大幅に超えています。それでも測量に励む伊能忠敬の姿勢に皆は尊敬の念を持っていたのです。
伊能忠敬の死因と最期の言葉
伊能忠敬の死因は肺炎に伴う老衰です。伊能忠敬は文化14年(1817年)の秋頃から喘息が酷くなり、年が開けると急激に体調を崩し始めました。そして4月13日に多くの弟子に見守られながら74歳で生涯を終えました。
伊能忠敬の師匠でもあった高橋至時は1804年に亡くなっていました。伊能忠敬は死の間際に「高橋先生の隣に葬って欲しい」と述べたとされます。
日本地図の完成
伊能忠敬が没した時、地図はまだ完成していませんでした。その為、伊能忠敬の死は隠された上で、その後の作業は弟子達により進められました。地図が完成したのは伊能忠敬の死から6年後の文政4年(1821年)の事であり、ようやく「その死」も公表される事となったのです。
伊能忠敬の功績
大日本沿海輿地全図の完成
伊能忠敬が作った日本地図は大日本沿海輿地全図と呼ばれ、日本の沿岸部をくまなく測量したものでした。当時の日本人は自分達の国がどのような形をしているのかを知らなかったのです。
伊能忠敬が作った日本地図は、北は宗谷岬、南は屋久島、東は現在の北方領土である国後島、西は五島列島を網羅した壮大なものでした。前述した通り、日本地図自体は国防の為に作られたものなので、内陸部は空白部分が多いです。
伊能忠敬の作った地図は大図69枚・中図3枚・小図1枚からなり、大図1枚は畳一畳分に相当すると言えば、その大きさが分かるかもしれません。地図の精度も極めて正確で、今日の計測値と比べても0.2%しか誤差はありませんでした。世界を見渡しても、この時代にこれ程の測量技術を持っていた人はいなかったものと思われます。
商人としても超一流
伊能忠敬の生涯は商人としての前半生と、測量士としての後半生に分けられます。伊能忠敬は商人としても極めて優秀でした。没落しつつあった伊能家を立て直し、天明3年(1783年)9月には苗字帯刀を許されています。
伊能忠敬が隠居する頃(1793年)には伊能家の資産は3万両と言われており、これは現在の金銭価値にして30億円から35億円になるのです。伊能忠敬は商人としての才能を発揮し、佐原の町を発展させていきました。
多くの村人を救う
伊能忠敬の商売は必ずしも順風満帆だったわけではありません。天明の大飢饉で米を買い占めた結果、多くの損失を抱えた事もあります。ただその米を損失の補填に当てる事はせず、利根川の氾濫で被害を受けた村民に施しました。伊能忠敬の計らいで、命を繋いだ人も多くいたはずです。
ちなみに利根川は地域の住民に恵みを与えていたものの、たびたび氾濫を引き起こす暴れ川でした。地域の人々は地形が変わるたびに測量を余儀なくされており、それは伊能忠敬も例外ではありません。伊能忠敬は50歳で弟子入りする前から、優れた測量技術を持っていましたが、それは利根川の土壌に培われたものでした。
伊能忠敬の性格と人物像エピソード
厳格で規律を重んじる性格だった
伊能忠敬は厳格で真面目な性格だったと言われています。測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていました。測量は僅かなズレも許されない仕事であり、伊能忠敬が真摯な気持ちで測量に望んでいた事が分かります。
ただその厳格さゆえに、能力の低い隊員に対する評価は厳しいものがありました。測量中に伊能忠敬は娘に手紙を書いていますが、その中には隊員の愚痴がたくさん書かれていたそうです。優秀な伊能忠敬ならではのエピソードですね。
お金に対する価値観
伊能忠敬は商人だった為、金銭には厳しいく人でした。身内には「ためることが第一」と説いていたそうで、江戸に住んでいた頃も、「江戸よりも佐原の卵の方が安いから、佐原で多めに購入して、江戸に送って欲しい」と頼んでいます。
ただ伊能忠敬はケチではありませんでした。九州で測量をしている際に、再度利根川が氾濫した際には、自らの私財を切り崩して施しをしています。また測量に必要な道具も当初は自腹で揃えていました。引き締める部分は引き締め、使う時は惜しまずに使う。伊能忠敬は生きた金の使い方を心得ていたのです。
伊能忠敬の逸話と凄さ
伊能忠敬が測量で歩いた距離
伊能忠敬の測量は梵天という竹の竿同士の長さを図る事で、正確な距離を測定していました。付き人の協力もありましたが、基本的に「その場所」を歩く必要があります。伊能忠敬が測量で歩いた距離は4万キロとされ、地球1周分に相当するのです。
ただ伊能忠敬は決して健朗な人物ではなく、幼少期から病弱でした。測量の最中に気管支炎に悩まされ、冬になる度に端に苦しんでいたとされます。そんな伊能忠敬は食事療法として、卵湯を飲んでいました。70歳を過ぎても測量を続けられたのは、日々の体調管理の賜物だったのです。
ただの商人ではなかった?
ちなみに伊能忠敬が幕府から測量を任せられるようになった、本当の理由は分かりません。一介の商人に「日本地図の作成」という国家プロジェクトを任せるたのは、測量の技術以外にも理由があったのではないかと言われています。
伊能忠敬は1811年に日本に訪れたゴローニンに、尋問をした事が伝わっています。その他にもロシア船に備えた沿岸警備の兵の正確な人数を書き表した手紙も残っている等、ただの測量士では知り得ない情報も知っているのです。私たちが知らない裏の顔を伊能忠敬は持っているのかもしれませんね。
伊能忠敬の名言
いや、わしは五十一歳になったばかりだ
伊能忠敬が師である高橋至時の元を訪ねたのは50歳の頃です。31歳の高橋至時は師になる事を断りましたが、その一つに伊能忠敬の年齢があった事は間違いありません。伊能忠敬は「もう51歳」ではなく、「まだ51歳である」と考えていました。その前向きさは周囲を動かす事となり、日本地図の作成という国家プロジェクトが始まる契機になったのです。
後世の役に立つような、しっかりとした仕事がしたい
商人に測量士と、伊能忠敬の人生は前半生と後半生に二分されます。伊能忠敬は佐原の村の発展を築き、日本の測量に大きな一石を投じました。それらの偉業が成功したのは、伊能忠敬が後世の役に立つ仕事がしたいという強い気持ちがあったからなのです。
伊能忠敬の家系図・子孫
伊能忠敬はもともと上総国山辺郡小関村(現・九十九里町)の名主である小関氏の出身です。ただ父親の貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)の神保氏の生まれであり、小関家に養子入りしました。つまり伊能忠敬は神保氏→小関氏→伊能氏と様々な家と接点があり、その生い立ちは複雑です。
伊能家は下総国香取郡佐原村(現・香取市)で大きな影響力を持つ家でした。伊能忠敬のおかげで伊能家は酒造業を中心に大きな発展を遂げるものの、忠敬没後の天保10年(1839年)の株仲間の記録に伊能家の名前はありません。
この頃は江戸幕府が度重なる酒造政策の変更を続けていました。旧来の酒造家である伊能家は時代の波に着いていけなかったのかもしれません。
伊能忠敬の妻
伊能忠敬は最初に解説したミチだけでなく、生涯に4人の妻を娶っています。ただ妾などではなく、妻の死により再婚した事が起因でした。
ミチは1783年、伊能忠敬が39歳の時に亡くなります。4年後に伊能忠敬は伊能家の手代をしていた女性(名前は不明)を妻にしています。ただその方も病弱で1790年に亡くなりました。更に伊能忠敬は仙台藩医桑原隆朝の娘であるお信をという女性を3人目の妻にしますが、お信も1795年に亡くなります。
3人の妻に先立たれた伊能忠敬ですが、江戸に移り住んだ時にエイ(栄)という女性を内縁の妻としました。彼女は女流漢詩人を務めた才女で、伊能忠敬もその見識の深さに感嘆しています。
彼女は伊能忠敬の測量の手伝いをしていたそうですが、本格的に測量が始まった後に、伊能忠敬の元を離れて漢詩人として生きていきました。その後の交流がどの程度あったのかは不明ですが、栄は伊能忠敬と同じ年の1818年に亡くなりました。
伊能忠敬の子孫
伊能忠敬は4人の妻との間に何人かの子をもうけています。ミチとの間には1男2女が授かり、長男の伊能景敬が伊能家の家督を相続しました。
伊能景敬は伊能忠誨と銕之助という子を儲けるものの、父の伊能忠敬に先立って文化10年(1813年)に48歳で死去。更に銕之助は9歳で亡くなり、忠誨も文政10年(1827年)に21歳で子を残さぬままに死去しました。結果的に伊能家の直系の血筋は途絶えてしまいます。
またミチとの間には稲という娘がいましたが、子が授からずに離縁を言い渡されています。
2人目の妻との間には次男として、秀蔵が生まれています。彼は伊能忠敬の測量にも携わるものの、大酒飲みだった為に破門されました。後に神保姓を名乗り佐原で子供達に算術を教える等して暮らしていました。その後の子孫の動向については不明です。
伊能忠敬の子孫を名乗る人はたくさんいる
伊能忠敬の直系の子孫は途絶えていますが、一族が断絶したわけではありません。前述した秀蔵の子孫の他、他の家に嫁いだ娘もいるからです。
2018年には伊能忠敬の没後200年を記念して大規模な式典が開催されますが、その際には伊能淳氏、伊能洋氏といった子孫の方がパネルディスカッションに参加しています。伊能忠敬の意思や血筋は、現在にもしっかりと受け継がれているのです。
伊能忠敬のゆかりの地
伊能忠敬邸宅
伊能忠敬が17歳から50歳まで過ごした邸宅です。この家では酒造業が行われており、土蔵や炊事場、書院なども残されています。江戸時代中期の邸宅の様式がそのまま残されているのは貴重であり、国の史跡に指定されています。
住所:千葉県香取市佐原イ1900-1
伊能忠敬記念館
伊能忠敬の旧宅の近くにある記念館です。ここでは伊能忠敬の業績をまとめてある他、測量器具、伊能忠敬が作成した地図などが展示されています。
住所:千葉県香取市佐原イ1722-1
源空寺
源空寺は1604年に建立された浄土宗の寺です。この地には伊能忠敬と師匠である高橋至時の墓があります。墓自体は寺の向かいの源空寺墓地にあり、境内の中にはありません。2つの墓は隣同士に建てられており、その間には灯篭が建てられています。
住所:東京都台東区東上野6-19-2
伊能忠敬の関連人物
高橋至時
高橋至時はこの記事で何度も取り上げている通り、伊能忠敬が測量の師とした人物です。彼は麻田剛立という卓越した天文学者のもとで学び、優れた天文学と測量学の知識を備えていました。彼は幕府から改暦の要請を受け、それを成功させてました。
高橋至時が伊能忠敬を弟子にしたのは、寛政7年(1795年)の事です。彼のもとで伊能忠敬は才能を開花させました。伊能忠敬が蝦夷地の測量を行う時、高橋至時は幕府に許可を得るように画策する等、伊能忠敬の全面的なサポートをしたのです。
なお高橋至時の息子、高橋景保は後に日本を訪れたシーボルトに伊能忠敬の地図を渡した罪で投獄され獄死しています。彼の墓もまた伊能忠敬や高橋至時のある源空寺にあります。
間宮林蔵
間宮林蔵は江戸時代後期の探検家で、後年は幕府の隠密として活躍した人物です。彼は樺太が半島ではなく島である事を確認し、樺太とユーラシア大陸の間にある海峡は間宮海峡と名付けられました。
間宮林蔵は伊能忠敬の弟子となったのは1800年頃の事で、伊能忠敬は間宮林蔵の探検家としての才能と測量の才能を高く評価しています。伊能忠敬は徹底的な実践主義を貫いており、他人が作った資料はアテにしていません。その為に4万キロに及ぶ測量を続けたのです。
ただ間宮林蔵だけは例外で、蝦夷地北西岸部分の地図は間宮林蔵のものを活用して作られました。間宮林蔵は割とシビアな性格だったものの、伊能忠敬に対する尊敬の念は忘れておらず、間宮林蔵が涙を流したのは伊能忠敬の臨終の場面だったとされます。
伊能忠敬の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
伊能忠敬: 日本を測量した男
伊能忠敬を主人公にした歴史小説です。前半生は商人、後半生は全国をまたにかける測量士。そんな2つの二面性を持つ伊能忠敬は、高齢化社会におけるライフワークの完成形と言えます。今から第二の人生を歩もうとする人に、人生とは何かを指し示してくれる一冊でしょう。
図説 伊能忠敬の地図をよむ
伊能忠敬が作り上げた地図を細かく取り上げています。この本の醍醐味は地図を作る上での苦労話や測量方法などが詳しく掘り下げられている点です。文章だけでなく地図を一緒に眺めるからこそ、伊能忠敬の功績やその生き様が見えてくるのではないでしょうか。
星に惹かれた男たち 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬
江戸時代の日本は太陽暦ではなく、閏月などが存在する太陰暦を採用していました。そのため一年の暦は毎年違います。暦を作る上で月の満ち欠けや位置は極めて重要で、天文学と測量には深い関係があったのです。
本書は江戸時代の天文学における発展とその歴史的意義についてまとめています。あまり知られていない天文学の重要性について、学んでみる良い機会でしょう。
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伊能忠敬 子午線の夢
伊能忠敬の測量に対する熱意とその生涯を映画にしたものです。2001年に公開され、伊能忠敬は加藤剛が演じており、その測量に対する思いと苦労が伝わってくる作品です。
ただ残念ながらビデオやDVDになる事はなく、現在は簡単には視聴出来ません。いつか映像化される事を望みたいですね。
新解釈日本史
福田雄一脚本、ムロツヨシが主演を演じる歴史コメディです。本シリーズは映像化はされていないものの、Amazon primesで視聴が可能で、伊能忠敬を主人公にした作品もあります。賛否両論はあるかもしれませんが、伊能忠敬を題材にした貴重な映像作品です。
まとめ
今回は伊能忠敬の生涯について解説しました。前半生は商人、後半生は測量士として、異なる生き方をした伊能忠敬。その闘志と行動力は平均寿命が延びた今だからこそ、見習うべき部分かもしれません。今回の記事を通じて伊能忠敬の生涯について興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/伊能忠敬
渡部一郎 図説 伊能忠敬の地図をよむ