【黒船来航】日本開国を迫ったペリー提督とはどんな人?生涯・偉業・名言も解説

幕末はマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が、浦賀に来航した時が始まりと言われます。250年続いた泰平の世をこじ開けたペリーとはどんな人物なのでしょうか?今回はペリーの生涯や偉業について紹介しましょう。

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ペリーとは?


(マシュー・ペリー 出典:Wikipedia)

ペリーと聞くと黒船のイメージが殆どだと思いますが、海軍教育の先駆者と呼ばれる等、優れた業績を残しています。1852年に東インド艦隊司令長官に任命され、その業務の1つとして大統領から日本に開国の交渉を任されます。日本開国を果たした後は引退して余生を過ごしました。

出身地


(風光明媚なニューポートの海岸 出典:Wikipedia)

ロードアイランド州ニューポートで誕生。ニューポートは州最大の島である、ロード島の先端に位置する湾岸都市です。北米の主要港に数えられ、夏の避暑地として人気があります。土地柄か海軍にゆかりのある人物が多い都市です。

生年月日

1794年4月10日に誕生。同年に生まれた人物として江戸の三代改革で知られる水野忠邦らがいます。

日本は前年に松平定信が失脚して寛政の改革が終了。江戸の文化が花開き、伝説の浮世絵師写楽が出現しています。

死亡年月日

1858年3月4日に63歳にて死去。この年に井伊直弼が大老に任命されており、日米修好通商条約が締結されています。

性格

日本に対して高圧的な態度をとったペリーでしたが、アメリカ海軍の水兵からも恐れられていました。普段は無口なものの、挨拶や号令の声が熊のように轟いていた為、あだ名が熊親父だったそう。
単に怖いのではなく、部下を思っての事でした。人事に気を配り、温情措置を取る事も多かったそうです。

身長

日本人が残した肖像画ではペリーは威圧感のある風貌で描かれています。民衆思想家の菅原八郎がペリーを実際に見ており、6尺4〜5寸(193cm〜195cm)と表しています。当時のアメリカ人の平均身長は170ちょっとなので、実際にかなりの大男でした。

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ペリーの人生年表・生涯

1794年 誕生
1809年 海軍入隊
1812年 米英戦争に参加
1833年 海軍造船所の所長となる
1846年 米墨戦争に参加
1852年 東インド艦隊司令長官に就任
1853年 浦賀に上陸(黒船来航)
1854年 日米和親条約締結
1855年 退任
1858年 死去

海軍一家のもとで生まれて


(米英戦争 ワシントン焼き討ちの図 出典:Wikipedia)

ペリーは1794年ロードアイランド州ニューポートで誕生。8人兄弟の4番目であり、父と5人の兄も皆海軍将校という家で育ちました。特に9歳上のオリバー・ハザードに強い憧れを抱いています。海軍には14歳の時点で入隊し、米英戦争で初陣を飾りました。

技術将校の道へ


(ブルックリン海軍工廠 出典:Wikipedia)

1815年の第二次バーバリ戦争に大尉として従軍するものの、その後は戦場に恵まれず技術将校として出世を重ねます。

 

1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長に昇進。近代化が遅れていたアメリカ海軍の蒸気船の推進を進め、1837年には蒸気船フルトン号の建造に成功します。

 

1846年にメキシコとの間で米墨戦争が勃発。ペリーはミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令に任命され、ペベラクルス包囲戦を指揮。結果的にアメリカはメキシコの領土の1/3を割譲しました。ペリーは蒸気船の近代化の他に、武器の改良化や新兵の教育に力を注ぎ、蒸気船海軍の父と呼ばれます。

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ペリーと黒船来航(日本開国)について


(フィルモア大統領 出典:Wikipedia)

1852年にペリーは東インド艦隊司令長官に就任。ペリーは当時の大統領から、日本に国交を結びたいという旨が書かれた親書を渡すよう指令を受けています。いよいよペリーが日本開国にむけて動き出します。

アメリカの目的

アメリカが日本に開国を求めたのは

・アジアへの市場の拡大
・捕鯨船の物資供給と言った理由です。

当時欧州は産業革命を迎え、大量生産された工業製品をインドや清に輸出していました。アメリカは植民地を持たず市場拡大に出遅れていたのです。

 

アメリカは米墨戦争でメキシコからカルフォルニアを割譲。太平洋に面する国となり、清との貿易が容易となりました。

 

更に産業革命により、夜間も工場は稼働するようになり、街灯やランプの需要が増加。燃料は鯨の油が使われており、日本近海は捕鯨が盛んに行われていました。アメリカは清との仲介地点や、捕鯨船の物資供給の為に日本との国交を求めたのでした。

ペリーの方針

ペリー来航以前から日本は多くの国に開国を求められていましたが、その全てを断りました。1846年にはアメリカのビットルが浦賀に来航しています。

ペリーは1851年の段階で日本の事を調べ上げ、開国の計画を練っています。

・返答期間を決め、簡単には引き下がらない・書簡は重役に渡す
・オランダの妨害を避ける為、長崎での交渉は避ける
・中国人同様に恐怖に訴えて交渉を行う
・4隻の軍艦(3隻は大型の蒸気軍艦)を用意する
・近代国家の軍事力を見せつける

 

今までの開国交渉は全て紳士的に対応してましたが、日本人は下手に出る事で強気になる事を見抜いていたのです。あえて高圧的な態度で交渉に臨む方が優位に働くとペリーは考えました。この外交は砲艦外交と呼ばれます。

出航


(サスケハナ号 出典:Wikipedia)

1852年11月24日にペリーはアメリカのノーフォーク市を出発。実はペリーは太平洋ではなく、ヨーロッパ側の大西洋航路から日本を目指しています。

 

この時点で幕府は、オランダ経由でアメリカの艦隊が日本に向かっているとの情報を掴んでいます。老中首座の阿部正弘は対策を練るものの、幕府高官の殆どはオランダ人は信頼出来ないと反発を受け、殆ど対策を立てる事が出来ませんでした。

 

1853年5月26日に琉球に到着。6月14日〜18日にかけて小笠原諸島を探検。7月8日にとうとう浦賀に停泊したのでした。

黒船来航


(合衆国水師提督口上書 出典:Wikipedia)

従来の漫画等で黒船来航時は江戸中が大混乱になったというのが通説でしたが、実際にはそれらの記録はありません。浦賀には何隻も西洋船が訪れていたので驚く様子はなく、海岸は見物人で溢れていました。ペリーは皆が驚かない事にショックを受けています。

 

浦賀奉行達は黒船が大統領の親書を渡しに来た事が目的と把握。受け取る事を打診するも、ペリーは親書を身分の高い者にしか渡さないと拒絶しています。

 

当時12代将軍の徳川家慶は病状に伏せており、阿部正弘は親書を受け取る事を決定。7月14日にペリー一行に上陸を許可します。幕府は将軍が病気である事を伝え、開国の返答に1年の猶予が欲しいと伝えるます。ペリーは1年後に再び訪れる事を伝え、7月17日に浦賀を一旦去っています。

 

尚ペリーが去って程なく、今度はロシアからプチャーチンが来航しています。こちらについても機会があれば紹介したいところです。

2度目の来航


(嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 出典:Wikipedia)

1854年2月13日にペリーは再び浦賀に来航。1年ではなく半年で訪れたのは、砲艦外交の他、ペリーを送り込んだ大統領が落選した事による、国内の政局の不安を恐れての事でした。

 

1ヶ月に渡る交渉の末、3月31日に日米和親条約を締結しました。尚今回の条約はあくまでも友好条約である為、通商条約はその次の来航時であり、引導はハリスに渡されます。

 

4月25日に停泊中の軍艦へ吉田松陰が渡航のお願いをしていますが、日本の法律を破り密航に加担する事を恐れて断っています。

 

ペリーは6月25日に下田を離れ、開港予定の松前に視察。再度下田に戻った後に、細かい条件を追加した日米和親条約付録を調印。6月28日に日本を去ったのです。

帰国

日本を去った後、ペリー一行は香港に向かいます。大役を果たした為か、ペリーは体調不良を訴え、アメリカへの帰国を願います。1855年1月にニューヨークに戻り、東インド艦隊司令長官の退任式が行われました。

ペリーの死因は?


(ペルリ提督の像 出典:Wikipedia)

ペリーは61歳で退役後、ニューヨークで余生を過ごし、日本遠征記の執筆に着手します。元々飲酒が好きであり、晩年はアルコール依存性や痛風、リウマチに悩まされていました。1858年3月4日に63歳で死去。死因は肝硬変や心筋梗塞だと言われています。

 

ペリーが日本を開国させた事は、当初はアメリカで話題になり、連日新聞がその事を記事にしました。しかし1861年には南北戦争が勃発し、ペリーの功績は忘れられていきました。

 

現在ではペリーの事を知るアメリカ人はとても少ないと言われています。日本にとっては大きな出来事でも、アメリカにとっては些細な出来事だったのかもしれません。

ペリーのエピソード・逸話


(1855-56年頃のぺりー 出典:Wikipedia)

実はカツラだったペリー

ペリーと言えば少しクセのある髪型が有名ですが、実はカツラだったと言われています。写真には残されておらず、人前では滅多に脱がなかったものの、複数の目撃者がいます。

ペリーのお土産

2度目の来航の際、ペリーは条約を結んだ礼として数々のお土産を持ってきます。地球儀や拳銃等の他、皆を驚かせたのは煙を吐いて走る蒸気機関車でした。更に時の将軍徳川家定の正室姫に送ったプレゼントはミシンでした。

これはアメリカの科学力や優位性を誇示する狙いもありましたが、日本の産業の発展に一役買ったのも事実です。

ペリーの名言


(マシュー・ペリーの艦隊(1854年) 出典:Wikipedia)

開国しなければ攻撃する。
ペリーの砲艦外交を象徴する言葉です。勿論攻撃の意思はないものの、高圧的な態度に幕府は震え上がりました。ペリーの交渉術の高さや、策略家の一面が分かる名言です。

 

日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、 強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう
ペリーが遠征記に記した言葉です。ペリーは日本を実際に知る事で、日本人の持つ技術の高さに驚きました。後に日本は列強国の仲間入りを果たしますが、ペリーはそれを予知していたと言えますね。

ペリーにゆかりのある地

ペリー公園

ペリー上陸の地である久里浜に作られた都市公園。久里浜港が近くにあり、船の往来を見る事が出来ます。観光地というより地元の人々の憩いの場に近いですが、毎年7月中旬にはペリー祭が行われ、その時は多くの人で賑わいます。
住所:横須賀市久里浜7丁目14番1

記念碑


(ペリー上陸記念碑 出航

ペリー公園の中心地に記念碑があります。建立されたのは1901年。ペリー艦隊に乗り合わせいたレスター・ビアズリーが47年ぶりに浦賀を訪れましたが、ペリー来航を記念するものが何をない事に落胆しました。米友協会はその意見に感銘し、記念碑が建てられる事となりました。

 

石碑には「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と書かれており、こちらは伊藤博文の直筆です。長らく日米の友好の象徴とされていたものの、大平洋戦争で日米の関係は悪化。1945年2月には碑は引き倒されます。

 

8月には終戦を迎え、石碑は再建されました。1953年にはペリー来航100年周年祭が行われ、記念碑は再び友好の象徴となりました。2007年に記念碑は横須賀市指定重要有形文化財に指定されています。

ペリー記念館

ペリー公園の奥にあり、1987年に横須賀市の市政80周年を記念して開館されました。こちらでは当時の絵巻物や瓦版や、ペリーに対する歴史的な資料が展示されています。黒船の模型も展示されており、当時の人々の驚きやアメリカの技術の高さ等を学ぶ事が出来ます。

2018年にリニューアルされ、パソコンによる資料やペリー執筆の「日本遠征記」の復刻版が閲覧出来る等、歴史を学ぶ上でも有意義な場所です。

開館時間:9時から16時30分まで
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)年末年始
入館料:無料

ニューポート

ニューポートはペリーが生まれ、亡くなった場所です。この地にはペリーの生家を始め、当時の船長や商人の家がそのまま残されています。ペリーの生家は板葺き壁の3階屋。2001年の段階では住宅として使われていました。

ペリーの墓はニューポートのアイランド墓地にあります。元々遺言で故郷に埋葬して欲しいと伝えていたものの、悪天候の為遺体を運べず、一時的に妻の実家であるニューヨークに埋葬されていました。無事に故郷に戻ったのは実に8年後だったとの事。
閑静で緑ゆたかな場所に家族と共に眠っています。

ペリーの家族、子孫について

ペリーの父親や兄弟は海兵として育ち、著名な人物も多数輩出しています。

父親のクリストファー・レイモンド・ペリー(1761-1818)

ペリーの父親です。アメリカ独立の際に民兵に入隊。1799年に米海軍大尉となります。フランスとの擬似戦争で活躍後に引退しています。

兄のオリバー・ハザード・ペリー


(オリバー・ハザード・ペリー 出典:Wikipedia)

ペリーの2番目の兄であり、大きな影響を与えた人物です。米英戦争のエリー湖の戦いでは、イギリス艦隊を沈めずに拿捕する手柄を立て、エリー湖の英雄と呼ばれます。

1819年にベネズエラで昆虫による疾病で36歳の若さで死去。エリー湖のエピソードも相まって伝説の人物となりました。アメリカではペリーとは黒船来航のペリーではなく、オリバーの事を指します。

 

ペリーは兄を越えたいという思いがあったものの、この時代はあまり戦争がなく思うような戦績を挙げられませんでした。ペリーが開国を迫ったのも兄とは違う形で成果を残したかったと言われています。

ペリーの家族

私生活では20歳の頃に結婚しており、愛妻家であり恐妻家でした。当時海軍は人気の職業であり、結婚していてもモテたのですが、ペリーは浮ついた話は一切なく、生涯妻一筋だったそう。

家を空ける事の多かったペリーですが、子ども達に喧嘩をしないように手紙を送る等、微笑ましいエピソードも残っています。

ジェーン・スライデル・ペリー

ペリーの妻で1814年に結婚。実家は裕福な貿易商かつ銀行家。家を離れる事の多いペリーを献身的に支えました。

後に日本使節がペリーの家を尋ねると既にペリーは他界しており、未亡人となったジェーンと娘が暮らしていました。使節団がペリーの功に感謝の意を述べると、涙ぐんだというエピソードが残っています。

キャロライン・スライデル・ペリー(1829〜1892)

ペリーの娘であり、競馬界の重鎮オーガスト・ベルモント1世と結婚。彼はアメリカンジョッキークラブの初代会長であり、オーガスト・ベルモント・アンド・コーポレーションという金融会社の社長でした。

ペリーの子孫

オーガスト・ベルモント2世


(オーガスト・ベルモント2世 出典:Wikipedia)

ベルモンド1世の息子です。莫大な資産を元に地下鉄や運河の建設にも関与。64歳で第一次世界大戦にも参戦する等、活動的な人でした。

カルブレイス・ペリー・ロジャース(1879〜1912)


(カルブレイス・ペリー・ロジャース 出典:Wikipedia)

ペリーの孫にあたります。ライトフライヤーEX型の飛行機で初のアメリカ大陸の横断飛行を達成しました。残念ながらエアショーにて若くして事故死しています。

 

ペリーの男系の子孫は絶えているようですが、娘の血筋は現在にも続いています。現在活躍されている方は、ペリーから数えて6〜7代目に相当します。

 

静岡県下田市で行われる黒船祭に参加する等、日本との交流も続いているそうです。2017年の黒船祭に参加したのは、教師として勤務するキャロライン・ニコルスさんです。

ペリーを題材とした作品(映画・小説・ドラマ)


(日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)頃 出典:Wikipedia)

漫画

風雲児たち みなもと太郎
40年以上続く歴史漫画です。幕末を描く為、あえて関ヶ原の戦いから物語を進め、登場人物は膨大な数に登ります。ベースはギャグ漫画なので登場人物もデフォルメされており、非常に読みやすいです。

ペリーは従来の高圧的な人物として描かれるものの、緻密な策略家であると共に、日本人の優秀さに一目おく人物として描かれています。日本を去ったその後についても描かれているので、興味のある人は読んでみましょう。

小説

開国の使者 ペリー遠征記 佐藤賢一
非常に珍しいペリーを主役にした小説です。高圧的に描かれる事の多いペリーですが、この小説では彼の苦悩や葛藤等が描かれており、興味深いです。何故アメリカが開国に拘ったのか、歴史的な背景も学べます。

映画・ドラマ

大河ドラマでは幕末の始まりの象徴として黒船は登場するものの、ペリー自体はあまり登場していません。近年の大河ドラマには八重の桜でスティーブン・アッシュトンが、龍馬伝ではティモシー・ハリスが演じていますが、いずれも出番は少ないです。

書籍

ペリー提督日本遠征記
ペリーが晩年に書き記した日本遠征記を日本語訳したものです。航海の記録は勿論のこと、アメリカ人から見た日本人、文化についてペリーの解釈で書かれています。かなりの文章量ですが、日本を客観的に知る上でもおススメです。

参考文献

https://core.ac.uk/download/pdf/70330069.pdf
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/culture_info/documents/perry_yks.pdf
http://medicines.aquaorbis.net/meigen/kaigai/gunjin-e/matthew-perry
https://www.yokosuka-jeans.com/blog/yokosuka/perry.html
https://hajimete-sangokushi.com/2018/02/08/ペリー/#i-2
ペリー提督日本遠征記

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