歴史上最強の先生!?吉田松陰とはどんな人?生涯・名言・偉業を解説

幕末から明治にかけて長州は沢山の人材を輩出します。それらは吉田松陰の開いた松下村塾で学んだ者が数多くいるのです。吉田松陰の思想はこの時代に多くの影響を残しました。今回は生涯・名言・偉業を解説していきます。

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吉田松陰とは?

出典:wikipedia

吉田松陰は幼い頃から勉学に励み、9歳で藩校の兵学師範を務めています。後に叔父が開いていた松下村塾を再興します。後に安政の大獄に連座し、斬首となります。松陰が松下村塾を開いたのはわずか2年程ですが、その思想は倒幕に大きな影響を与えています。

生まれ

出典:wikipedia

文政13年(1830年)長州萩城下松本村(現在の萩市)に、長州藩士の杉百合之助の次男として生まれます。

身長

松陰の身長は文献では記されておらず、平均的な身長だったと思われます。当時の青年男子の身長が平均身長は155〜158cmです。

性格

大変な勉強家であり、煙草もお酒も飲まない真面目な性格でした。また軍学や兵学だけでなく、国学や儒学など様々な学問を学んでいます。松陰の思想は儒学の中でも陽明学に強い影響を受けています。 陽明学は実践を重んじる学問であり、「思想は行動が共なってこそ完成する。言行一致でなければならない」という教えがあります。

ペリーが来航すれば死罪覚悟で黒船に乗り込む等、行動力に溢れた熱血漢でした。

吉田松陰の人生年表・生涯

幼少期から少年期

文政13年(1830年)誕生
天保5年(1835年)叔父の吉田大助の養子になる
天保6年(1836年)叔父の大助死去。その後玉木文之進が指導を行う
天保9年(1838年)藩校・明倫館の兵学師範に就任
天保13年(1842年)叔父の玉木文之進が松下村塾を創設する

若くして山鹿流の跡継ぎとなる

出典:wikipedia

吉田松陰は長州萩城下松本村にて、長州藩士の杉百合之助の次男として生まれます。

杉百合之助は3人兄弟の長男でした。次男は吉田大助と言い、山鹿流兵法指南の吉田家の跡取りであり、三男は玉木文之進と言い、藩校明倫館の補佐役をしていました。このように松陰の父親も叔父も勉強熱心でした。

松陰の家は兄弟が沢山いましたが、吉田大介の家は子どもに恵まれなかった為、松陰は吉田大介の養子になります。吉田大介は病弱だった為、わずか1年でこの世を去りました。松陰はわずか6歳で長州の山鹿流兵法指南の跡継ぎとなりました。

玉木文之進の教育

その後の松陰の指導はもう一人の叔父である玉木文之進が中心になりますが、とても厳しい指導を行います。松陰が講義の際に蚊に刺されて、掻いた際に、文乃進にボコボコに殴られています。理由は
本を読むこと(学問)は『公』、頬を掻くことは『私』。
公私混同を許すと、いずれ私利私欲を貪る人間になる。という事からです。

私利私欲を捨て、公儀に尽くすことが侍の務めであると考えており、松陰を立派な人間にしたいという思いからでした。

玉木文之進の指導もあり、松陰は9歳で藩校明倫館の兵学師範になったのです。

青年期の行動力

嘉永3年(1850年)西洋兵学を学ぶ為九州に遊学
嘉永5年(1852年)友との旅行の約束を守る為、脱藩する
嘉永6年(1853年)黒船を目撃。
嘉永7年(1854年)黒船に乗り込んだ罪で入獄
安政2年(1855年)出獄するが、杉家に幽門となる

友との約束

宮部鼎蔵

出典:wikipedia

1840年〜42年にアヘン戦争により、清が大敗。松陰がその事を知ったのは1845年頃でした。勉強の為に日本全国を見て回りたいと思った松陰は1850年には九州に遊学に行きます。その後は江戸にも向かい、佐久間象山を師としました。

その江戸で松陰は熊本藩士の宮部鼎蔵と、南部藩を脱藩している江幡五郎と仲良くなります。

宮部鼎蔵は松陰のように勉強の為に全国を見て回っており、江端五郎は兄が南部藩の田鎖左膳に獄中死させられた事で、兄の仇を討つ為に行動していたのです。その二人から松陰は東北に旅行する事を持ちかけられます。

東北に行くには藩主の許可証である通所手形が必要ですが、江戸と長州は遠い為に、遊学の日に間に合いませんでした。松陰は友の約束の為に脱藩をしたのです。

士分剥奪

翌年遊学を終えて江戸に戻ると、藩により捕縛され萩に送還され士分を剥奪されますが、士分は父親の杉百合之助が引き継ぎます。そして10年間の遊学期間を与えられました。10年後に再び松陰は士分に取り立てられるというものでした。

つまり父親が保護者になり、10年間は遊学して勉強しなさいという事実上の無罪判決ですね。これは藩主が松陰の事を高く評価していたからです。

黒船に乗り込む

1853年に黒船を佐久間象山と共に視察した際は、西洋文明の凄さを実感。西洋への留学を決意。翌年の1854年には再度来航したペリーの船に弟子の金子重之輔と乗り込みますが、留学は拒否されます。

乗り込む際に使われた船は流されてしまい、後から乗り込んだ事が見つかると主君に迷惑がかかると自首しています。後に長州に搬送され、幽囚されます。その際も獄中で松陰は囚人や看守に勉強を教えていたそうです。

松下村塾の開塾と安静の大獄

安政4年(1857年)杉家敷地内に松下村塾を開塾
安政5年(1858年)老中間部詮勝の要撃を提案し入獄
安政6年(1859年)安政の大獄にて斬首

享年30歳(満29歳)

松下村塾の再興

出典:wikipedia

黒船に乗り込んだ罪が許された後も、実家の杉家に幽門となっており、行動に制限がありました。その後、1857年に叔父が運営していた松下村塾を立ち上げます。

松下村塾では藩校の明倫館とは異なり、武士や町民、農民など隔てなく学ぶ事が出来ました。松陰が一方的に教えるのでなく、共に激論を交わしたり、逆に塾生が教える立場になる事もありました。登山や水泳も行う等、活動的な面もありました。

過激な行動・発言故の入獄

松下村塾が盛り上がりをみせる中、幕府は1858年に日米通称修好条約を結ぶ、井伊直弼による安政の大獄が始まる等、情勢は目まぐるしく変わっていきます。

松陰は条約を締結するのに、孝明天皇らに高圧的な態度をとる間部詮勝に激怒。塾生らと大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出ます。 他にも長州藩主毛利敬親を参勤交代で待ち伏せし、天皇御所まで向かうという伏見要駕策を提案。これらの行動や発言は塾生や藩の上層部も反対派が多く、再度入獄します。

安政の大獄

そんな中、安政の大獄で拷問されていた梅田雲浜の罪に関係して連座する事になり、江戸に搬送されます。松陰自体に罪はなく、松下村塾に雲浜が来た時の会話内容の確認程度でした。しかし松陰はそこで間部詮勝の暗殺計画や、伏見要駕策を全て話してしまいます。自らを斬首すべきと話した事が井伊直弼の逆鱗に触れ、斬首が言い渡されます。

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吉田松陰のエピソード・逸話

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東北旅行のその後

脱藩の覚悟で東北旅行に向かった松陰ですが、宮部鼎蔵と共に会津藩の見学も行っています。その際に松陰は会津藩の藩校の教育等を絶賛していたそうです。後に長州藩と会津藩は禁門の変や戊辰戦争で争う事になり、多くの悲劇を生む事になります。そして友人だった宮部鼎蔵も、会津藩の関わりの深かった新選組により、池田屋事件で殺害される事になるのです。時代が違えば、きっと会津藩も長州藩も良き間柄になれたのかもしれません。

ちなみに、兄の仇である田鎖左膳を討つつもりだった江幡五郎君ですが、結局敵討ちをする勇気が出ないままでした。徐々に敵討ちの計画も消極的になり、肝心の田鎖左膳が死んでしまいます。江幡君は特に切腹や本懐を遂げれずに悲しんだ様子もなかったようです。江幡君の心意気に胸を打たれて脱藩までした松陰は激怒したそうです。

江幡君は明治まで生き延び、なんと長州藩の木戸孝允のはからいで大蔵省で働くことになるのです。

師の顔に泥を塗る

松下村塾は生徒も松陰も共に激論を交わし、生きた学問を学ぶ場所でした。松陰のキャラクターもあり、塾内は常に緊張した空気が張り詰めていたのでしょうか?そんな松陰にも1つだけ持ちネタがあったのです。それは「師の顔に泥を塗る」でした。

松陰と塾生とで、塾の増築工事をしていた際、塾生の一人である品川弥次郎が屋根から泥を落としてしまい、松陰の顔に泥を落としてしまいます。「どうなるのか…」と塾生が緊張する中、松陰は「君は師の顔に泥を塗るのか」と大笑いをしたそうです。松陰のツボに入ったらしく、松陰は塾の講義の際や、友人と会う時に「自分の塾には師の顔に泥を塗った者がいる」と嬉しそうに話していたそうですね。

吉田松陰の死因や最後の時

出典:wikipedia

松陰は安政の大獄最後の犠牲者でした。安政6年(1859年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日斬首されました。

死罪を言い渡された時も、世話になった役人に、「長らくお世話になりました」と声をかけたそうです。死の直前も全く死を恐れる事はなく、周りの人に気を使う事がどれだけの人が出来るでしょうか。

吉田松陰の名言・俳句

出典:wikipedia

松陰はメモ魔であり、多くの手紙も残っています。その為名言は数え切れない程残っているのです。今回は3つだけお伝えします。

吉田松陰の名言

諸君。狂いたまえ これは頭がおかしくなれと言っているのではありません。常識や固定観念などにとらわれず、己の信ずることに突き進めと言っています。松陰自身も傍から見れば狂っているような行動をしていますが、それは自分の思う道を進もうとしていたからですね。

至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり 真心を持って接する事で、心が動かされない事はない と言っています。元々は孟子の離婁章句(りろうしょうく)の一部分です。松陰はその言葉に感銘を受け、多くの人に至誠を持ち共に学び、多くの志士を育てました。

人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。 人は皆才能を持っている。その才能は皆平等に持ち合わせている。松陰は塾生を一人一人の長所短所を見抜き、勲等を受けた人もいます。長所を見抜き、その才能を伸ばすことが大事ですね。

吉田松陰の句(辞世の句)

辞世の句は3つあります。
親思うこころにまさる親ご ころけふの音づれ何ときくらん 子が親を思う以上に、親は子の事を思っている。自分の死を聞いて、親は一体なんと思うか。

松陰は勉学に励み続けた人生でした。松陰にとって親や兄弟はかけがえのない存在であり、家族思いの松陰らしい句ですね。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 意味 自分の身が武蔵国の野に朽ちたとしても、私が日本を思う気持ちはこの世においていきたい。

こちらは塾生に宛てた辞世の句です。この想いは確かに塾生に伝わり、倒幕への原動力になったのです。

吾今国のために死す。 死して君親にそむかず。 悠々天地の事鑑照明神にあり。 意味 私は国の為に死ぬ。この死は主君や親に背くものではない。私が行った全ての事は、国の為に行ってきた事であり、それは神が見ているだろう。

死罪が言い渡された時に、長州藩の江戸留守居役の小幡高政が同席していました。松陰は少しも動じずに、この漢詩を読み上げたそうです。これが本当の辞世の句になりますね。

吉田松陰にゆかりのある地

出典:wikipedia

松陰の墓は全国に4つあります。1つずつ紹介していきます。

小塚原回向院

こちらは松陰が斬首された後に最初に埋葬されたお墓です。東京都荒川区にあります。

処刑された人々は、法的には無縁仏として扱われ、お墓を作る事は許されませんでした。しかし長州藩が牢屋敷の役人に賄賂を送り、遺体を引き渡してもらい、お墓を作ります。元々作られたお墓は残っておらず、後年に作られたものです。

松陰神社

安政の大獄は後に幕府が過ちを認め、1862年には犠牲者は名誉を回復します。1863年に伊藤博文らが小塚原回向院から遺体を取り出し作られたお墓です。こちらは東京都世田谷区にあります。現在のお墓は明治になり作られたものです。

萩にあるお墓

松陰の没後100ヵ日に故郷である萩で百ヵ忌が行われた時に作られたお墓です。ここには松陰の髪の毛が埋葬されたそうです。こちらには杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞の親族の他にも、高杉晋作のお墓もあります。

桜山神社

1863年に高杉晋作が奇兵隊を発起した際に作られた招魂墓です。作られた理由として、戦死した同志の霊を慰め、また後に残る者も、死を覚悟して臨むため生きているうちに墓を築く必要があるとしたからです。下関市にあります。ここには396の墓があり、最前列中央に吉田松陰の墓があります。

記念館・資料館

松下村塾

出典:wikipedia

萩市にある松陰神社内に当時の松下村塾が残っています。建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、元々は8畳だったところに10畳分追加されています。東京にある松陰神社とは別の神社ですね。当時、ここで多くの志士が学び、成長していったのです。当時の思いに馳せてみてはいかがでしょう。

吉田松陰歴史館

萩の松陰神社のすぐ近くに吉田松陰歴史館があります。ここは日本初の蝋人形館でもあり、当時の様子が蝋人形として再現されています。

松陰記念館

道の駅萩往還の内部には松陰記念館があります。こちらは松陰の人となりや、塾での様子が詳しく学べます。館内に建設された松下村塾と塾生の等身大のレプリカがあるようですね。

吉田松陰の子供や子孫について

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松陰は勉学に励む日々だったので、生涯独身でした。松陰の直系はいませんが、吉田家は養子をとる事で続いています。

杉民治

松陰の実兄で、後に松下村塾を再興します。新政府では山口県に出仕して、長州の発展に努めています。
長男の小太郎は吉田松陰の養子となり、吉田家を継ぐものの、萩の乱で戦死。滝子の息子は杉道助と言い、大阪商工会議所の会頭を14年も勤めて戦後の経済を動かして来た人です。

楫取寿

吉田松陰の妹で、群馬県令小田村伊之助と結婚しますが、後に中風症で1881年に43歳で死去します。その後、小田村伊之助と再婚したのが、大河ドラマで主役にもなった杉文でした。 杉民治と、楫取寿の血筋は現在まで続いています。吉田家は兄の民治の血筋が引き継いでいるようですね。

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吉田松陰を題材とした作品

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松陰は魅力的な幕末の人物の中でも特に人気があり、様々な作品で主役となっています。

映画

映画では2010年に「獄に咲く花」があり、前田倫良が演じています。牢を隔てた先にいた高須久子とのエピソードを中心に描いた作品です。

小説

小説では司馬遼太郎が世に棲む日日を執筆しています。前半は吉田松陰、後半は高杉晋作にスポットが当たっています。1977年の花神で大河ドラマの原作にもなっています。

ドラマ

ドラマでは幕末を舞台にした大河ドラマでは序盤によく出てきます。先ほど記載した、花神では篠田三郎、龍馬伝では生瀬勝久、花燃ゆでは伊瀬谷祐介が演じていますね。特に花燃ゆでは序盤は主人公級の活躍を見せていましたね。

マンガ

幕末を舞台にした作品では「風雲児たち」で幼少期から斬首までの経過が詳しく載っています。
るろうに剣心や銀魂でも登場はしていますが、舞台が幕末だと過去の回想シーンに登場しています。
るろうに剣心では幕末の回想でのシルエットのみ、銀魂では坂田銀時・高杉晋助・桂小太郎に多大な影響を与えた「松陽先生」こと、吉田松陽として登場しています。

ゲーム

携帯アプリでも松陰は登場しており、モンスト(モンスターストライク)では友情や教化といった本人にまつわるパラメータが強く、高い評価を得ています。幕末の志士として高い人気があるからですね、

参考文献

http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/saigo.html

https://kingendaikeizu.net/yosidasyouin.htm

吉田松陰一日一言

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