福沢諭吉と聞くと、お札・学問のすゝめ・慶應義塾等の様々な言葉が思い浮かぶかもしれません。ただ具体的に何をした人物か聞かれると答えられない人も多いかもしれません。
福沢諭吉は幕末から明治にかけて、日本人の思想を大きく塗り替えた人物であり、その功績は現在にも受け継がれているのです。今回は福沢諭吉の生涯と人物像に迫っていきたいと思います。
目次
福沢諭吉のプロフィール
氏名 | 福沢諭吉 |
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通称・あだ名 | 範(はん)・子囲(しい)・三十一谷人(さんじゅういっこくじん) |
出生日 | 1835年1月10日 |
出生地 | 摂津国大坂堂島(大阪市北区) |
死没日 | 1901年2月3日 |
死没地 | 東京市芝区三田 |
血液型 | B型 |
職業 | 武士・蘭学者・著述家・啓蒙思想家・教育者 |
身長 | 173cm(1881年時点) |
体重 | 70.25kg(1881年時点) |
配偶者 | 福沢錦 |
福沢諭吉の人生年表・生涯
江戸期の福沢諭吉
年 | 出来事 |
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1835年 | 誕生 |
1836年 | 父の死により中津に帰郷する |
1854年 | 長崎に行き蘭学を学ぶ |
1855年 | 適塾で学び、2年後に塾長になる |
1858年 | 蘭学塾を開講する |
1859年 | 幕府使節団に加わり、渡米する |
1864年 | 幕府直参となる |
1867年 | 幕府の軍艦受取委員会随員として渡米 |
1835年~1855年
諭吉は1835年に摂津国大坂堂島にある、豊前国中津藩の蔵屋敷で生まれます。諭吉の父が1歳の頃に死去し中津へ帰郷。5歳の頃から漢学と一刀流の手解きを受けた後、14〜15歳の頃から本格的に学問を学び始めました。
1854年に諭吉は長崎へ留学し、蘭学を学びます。翌年には大阪に移り、他を圧倒する緒方洪庵の適塾で学び、1857年には22歳と言う最年少の若さで塾長となりました。
1855年~1867年
翌年に諭吉は中津藩から、江戸に赴く事を命じられます。江戸に出た諭吉はこの地で、後の慶應義塾である一小家塾を開設しています。1859年に幕府は日米修好通商条約の批准交換の為に、欧米に使節団を派遣。諭吉は使節団に選ばれ渡米しました。
渡米先では文化の違いに衝撃を受けたとされます。また国際的な言語はオランダ語から英語になる事を確信し、帰国後の一小家塾は蘭学塾から英学塾へと路線を変更。来たる時代の変化にも対応していきます。
帰国後の諭吉は幕府外国方・御書翰掛・翻訳方に採用され、幕府における公文書の翻訳などを行いました。諭吉の翻訳の能力は幕府における大きな支えとなったのです。
明治初期の福沢諭吉
年 | 出来事 |
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1868年 | 帯刀を辞めて平民となる。一小家塾を慶應義塾と名付け教育に専念 |
1872年 | 学問のすゝめを刊行 |
1882年 | 時事新報を創刊 |
1892年 | 伝染病研究所を設立 |
1901年 | 脳溢血にて死去(享年66歳) |
1868年~1880年
やがて時代が明治を迎えると、諭吉は新政府から出仕を命じられます。しかし諭吉はこれを辞退。以降は官職に就かずに教育の分野に携わります。一小家塾を近代的な学校である慶應義塾として発展させています。
1871年には有名な学問のすゝめを創刊。1874年には明治政府から下野した後藤象二郎を支援し、国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に社説を掲載して自由民権運動に大きな影響を与えました。
更に岩崎弥太郎にも面会し、人格を高く評価した諭吉は三菱商会に多数の慶應義塾の門下生を送り込みます。その点で諭吉は三菱の発展にも寄与したと言えるのです。
1880年~1882年
諭吉とその一門は明治政府の大隈重信と親密な関係にあり、大隈の所属する会計検査院に多数の門下生を派遣します。しかし1881年に大隈が明治14年の政変で下野すると、彼らも皆下野しています。
この政変により政府の重鎮伊藤博文に睨まれ、慶應義塾の経営が困難になる事もありましたが、徐々に平民の学生も増えていき、経営は安定していきます。
諭吉は私立の総合的な学校が慶應義塾だけという現状に危機感を抱き、専修学校・東京専門学校・英吉利法律学校などの設立の支援も行いました。
1882年〜1900年
この頃から諭吉は朝鮮の活動家金玉均らと親交を持ち、朝鮮半島の改革に興味を持ち始めます。諭吉は西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護する為、朝鮮の独立が必要と考えます。
1894年に日清戦争が起こった際、諭吉は朝鮮を清から独立させる為に、時事新報で主戦論を唱えました。その他にも戦費の募金運動なども行い、日本を後方から支援したそうですね。
戦争終結後も諭吉は北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したり、海軍拡張の必要性を訴えるなど、精力的に活動を続けたそうです。
福沢諭吉の死因・最期
諭吉の死因は1901年1月25日に発症した脳溢血です。1898年にも発症して危篤に陥るものの、その時は回復。慶應義塾の『修身要領』を編纂する等、活動は衰える事はありませんでした。
しかし二度目の脳溢血は重度だったようで、改善する事はなく、2月3日に死去。享年66歳でした。
葬儀の際には自邸から麻布善福寺までの道のりを、実に1万5千人もの人が参列したと伝わっています。諭吉の死は多くの人達が悲しんだのでした。
福沢諭吉の性格
知名度の高い福沢諭吉ですが、その性格はほとんど知られていません。福沢の性格を知るには本人の伝記である「福翁自伝」を読む事をオススメします。彼の思想や性格が推測できるエピソードが多く掲載されています。
今回はこの福翁自伝から、性格が推測できるエピソードを紹介します。
悪ガキで迷信は一切信じない
幼少期の諭吉は神や仏等を一切信じていません。
・神社の御神体である石を別の石と置き換える。
・神様の名前が書いてある神を便所の紙として使う。
罰当たりも良いところですが大物を伺わせるエピソードですね。
権力に媚びない姿勢
諭吉の家柄は元々低い身分だった事もあり、身分差別を肯定する儒教や、政治権力に対しては強い反発を抱いていたとされます。
諭吉が教育者として学問のすゝめを執筆したのも、封建制度の撤廃や男女平等の精神を訴えたのも、上からの言う事を聞いているだけではなく、身分に関係なく学問により独立出来る社会を作りたかったからなのです。
福沢諭吉の功績
慶應義塾など、近代教育に大きく関わる
諭吉の功績で最も有名なのが慶應義塾の創設でしょうか。幕末の頃に諭吉が創設した一小家塾は、1868年に慶應義塾となりました。
慶應義塾は学生から毎月授業料を取り入れる形式で運営がなされており、1890年には私立の総合大学である慶應義塾大学となったのです。
大隈重信が創設した早稲田大学と並び、慶應義塾大学は多くの著名人を輩出しています。現在でも諭吉の精神は学生に受け継がれており、政治家・官僚等の分野に進む人は他の有名大学に比べると少ないとされています。
その他に諭吉が関わった学校としては、一橋大学・早稲田大学・専修大学等。日本の教育面に諭吉は多大なる功績を残しました。
洋書の翻訳
幕末に幕臣となった諭吉はその語学力を買われ、多くの洋書を翻訳。現在でも使われる言葉が沢山あります。
例えばspeech→演説、society→社会、zoo→動物園等。私達が何気なく使う言葉には諭吉が作った和製漢語も多いのです。
政府への提言
諭吉は新政府からの誘いを断り、明治時代は在野での活動を続けたものの、政府への提言を数多く行なっています。それらは明治政府の政策に大きな影響を与えました。
例えば国会開設や憲法制定、著作権の概念や中央銀行、更には近代保険制度等も諭吉の助言が影響を与えたとされています。
このように諭吉の功績は多岐に渡ると共に、非常に意義があると言えるでしょう。
福沢諭吉の代表作品
学問のすゝめ
人間の自由平等と独立の思想について啓蒙したものであり、諭吉を代表する書籍です。当時としては異例の300万部売れており、国民の10人に1人が読んだとされます。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズが有名ですが、その後には「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」と続くのです。要は仕事や国家運営に必要な実学を学ぶ事を推奨しています。
西洋事情
幕末に諭吉が欧米に出向いた時に得た、欧米の状況を書籍にしたものです。当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を紹介しています。
福翁自伝
前述した福澤諭吉晩年の口語文体による自叙伝です。諭吉の思想から笑えるエピソードまで収録しています。日本近代史における近代思想の成熟過程が分かる貴重な文献とも言えるのです。
その他にも勝海舟や榎本武揚に対する瘠我慢の説、最晩年の宇宙観や人生観等を素直に語った福翁百話等があります。
福沢諭吉のエピソード・逸話
酒豪だった福沢諭吉
江戸時代は飲酒に年齢制限はなく、諭吉は幼少期からお酒が大好きでした。適塾時代は飲酒で酔っ払い全裸で適塾内をうろついて、緒方洪庵の夫人に出くわした時は、流石に断酒を行ったそうですね。
ちなみに断酒の代わりに友人から煙草を勧められ、諭吉は結果的にヘビースモーカーになっています。当然のように諭吉は断酒をいつのまにか辞めており、ヘビースモーカーと大酒飲みという散々な事になったそうです。
居合の達人
諭吉は若い頃から立身新流居合の稽古を積み、免許皆伝を受けています。しかし諭吉は実戦は実戦で斬り合いをした事はなく、殺傷を目的とはしていなかったそうですね。
晩年も稽古を忘れず一日千本の居合を続けていたそうで、一説ではこれが諭吉の寿命を縮めたともされています。
福沢諭吉の名言
進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。
学問のすゝめに収録された言葉です。学問は学ぶだけでなく、実践に移す事が大事であり、着実に一歩ずつ進んでいく事が大事なのです。
努力は、「天命」さえも変える。
同じく学問のすゝめに収録されています。天命とは変えられない運命の事ですが、努力によりその天命にも抗う事が出来ます。やはり必要なのは学ぶ事であり、努力を忘れない事でしょう。
福沢諭吉の家族や子孫
諭吉の家族愛
諭吉は大変家族愛が強く、妾が当たり前の時代にもかかわらず生涯妻一筋でした。妻である錦(きん)との間には1863年から1883年の期間に四男五女の子どもに恵まれています。乳幼児の死亡率が高かった時代ですが、子供たちは一人も早逝する事はありませんでした。
諭吉が後に自伝を著したのは、子供たちに自分の事や、祖先の来歴を知ってもらう為だったとも言われます。また子供たち一人一人に対して、成長日記をつける等のエピソードが知られています。
諭吉の子孫
9人の子供がいた諭吉なので、その子孫は現在でも第一線で活躍しています。
有名なところでは
実業家で三菱地所の名誉顧問である福澤武は曽孫です。
更に半沢直樹等の大ヒットを飛ばし、日本で最もドラマの数値を取れるディレクターと呼ばれる福澤克雄は玄孫です。
その他にはNHKのアナウンサーである片山千恵子は玄孫だと言われています。彼女は2020年の段階で2人の子供がいる為、諭吉の子孫は来孫(6世代目)まで続いている事になりますね。
福沢諭吉のゆかりの地
福澤諭吉旧居・記念館
諭吉が1歳から19歳まで過ごした旧居です。旧居の隣には記念館が作られ、学問のすゝめの原本や遺品等が展示されています。
住所:大分県中津市留守居町586番地
福沢記念園
慶応義塾大学内の一画にあり、この地には諭吉の邸宅がありました。1958年に慶應義塾が創立100年を迎えた際に、現在のような小庭園となったそうです。
この地には福澤諭吉終焉之地記念碑がある他、ベンチもある為、学生達の憩いの場になっています。
住所:東京都港区三田2-15-45(慶應義塾三田キャンパス)
福沢諭吉の関連人物
勝海舟
諭吉が咸臨丸に乗り欧米に向かった際、勝海舟は咸臨丸の艦長でした。しかし海舟は勝は船酔いが酷く、殆どリーダーとして機能していませんでした。諭吉はそんな海舟を生涯軽蔑していたとされます。
後に諭吉は慶應義塾の経営が思わしくなかった時に、海舟に借金をお願いしていますが断られています。このような背景もあり、諭吉は後に「痩せ我慢の説」として勝海舟と榎本武揚を批判。後に「時事新報」に掲載されています。
北里柴三郎
柴三郎は2024年に発行される新たなお札(千円札)の肖像になる人物です。柴三郎は日本に帰国後に東大閥と対立した結果、研究成果を活かす場所がなくなりました。
諭吉は柴三郎の為に多額の援助を行い、1894年に私立伝染病研究所の設立に尽力しています。反対に柴三郎は慶應義塾大学医学科長に就任し、慶應義塾の教育発展に寄与しています。
福沢諭吉の関連作品
諭吉は学問のすゝめ等の執筆作品だけでなく、多くの書籍で取り上げられています。ここではその中の一部を紹介させていただきます。
おすすめ書籍・本・漫画
福沢諭吉の哲学-他六篇
諭吉が唱えた実学、多面的な思想等は一見すると分かりにくい部分もあるでしょう。本書は諭吉の唱える数々の哲学を客観的に研究したものです。諭吉が執筆した学問のすゝめ等と読み比べてみると、また違った印象を受けるかもしれません。
福沢諭吉「学問のすすめ」 ビギナーズ 日本の思想
諭吉の代表作、学問のすゝめを口語訳したものです。内容は現在にも通じる部分も多く、国民の意識は実は明治の頃から大きく変わりない事が分かります。
もし初めて学問のすゝめを読むなら、この書籍を選ぶ事をオススメします。
福沢諭吉
諭吉の生涯を漫画にした一冊。子供たちに諭吉の人となりを教える上でもオススメですし、大人でも楽しめる内容になっています。
おすすめの動画
こちらは学問のすゝめを分かりやすく解説したものです。学問のすゝめが生まれた背景の他、学ぶ事の大切さがよく分かります。
おすすめの映画
福沢諭吉
諭吉の生涯を福翁自伝をベースに映画にしたものです。1991年の映画であり、諭吉を柴田恭兵が演じています。幕末を舞台にしているものの戊辰戦争等の争いの場面はほとんどなく、違った幕末像を知る事が出来ます。
今なお色褪せない名作だと思いますね。
おすすめのドラマ
幕末青春グラフィティ 福沢諭吉
1985年に放送されたドラマであり、十八代目 中村 勘三郎が若き日の諭吉を演じています。適塾時代の破天荒なエピソードも痛快ですが、封建制度への疑問、諭吉の人間的魅力等、見所も満載です。
春の波涛
・同じく1985年に放送されたもので、こちらは大河ドラマになります。主人公は日本の女優第一号である川上貞奴。諭吉の他、娘婿である福沢桃介も登場しています。ちなみに諭吉を演じているのは小林桂樹でした。
福沢諭吉についてのまとめ
今回は福沢諭吉の生涯と人物像について解説しました。諭吉は明治政府の様々な制度や教育分野に関わっており、近代日本の創設に大きな影響を与えています。
幕末の適塾時代のエピソード、明治政府の要人との関わり等、細かく諭吉の魅力を語るにはとても文字数が足りません。機会があれば諭吉の執筆した書籍を読み、その人となりを感じてもらえたら幸いです。
参考文献
福翁自伝
学問のすゝめ 現代語訳