甲斐の虎、武田信玄とはどんな人?名言・偉業・死因も解説
(武田晴信像・高野山持明院蔵、出典ウィキペディア

 

甲斐の虎の異名を持ち、戦国最強の騎馬軍団を率いて戦国時代に終止符を打とうと戦に明け暮れた人生を送った武田信玄
父を国外へ追放し、息子を切腹へと追い込んだ非情な人物の一面も語られる武田信玄とはどんな人物だったのか?
信玄の生涯をなぞりながら真実に迫ってみたいと思います。

武田信玄とは?

(躑躅ヶ崎館跡に建つ武田神社拝殿、出典ウィキペディア)

武田信玄の誕生

武田信玄は大永元年11月3日(1521年12月1日)に父武田信虎、母大井の方の次男として生まれました。
幼名は太郎といい、信虎の長男として誕生した竹松が早世したため次男ながら嫡子となり、太郎と呼ばれました。

武田信玄の評価

信玄の家臣・高坂弾正の口述が基になっていると言われている「甲陽軍鑑」、ルイスフロイスが表した「日本史」には武田信玄の政治的や軍事的な一面だけでなく、日常の細かな描写もあり武田信玄がどのような人物であったかを伝えてくれます。
織田信長は武田信玄をもっとも怖れており、数多くの贈り物や婚姻関係でその機嫌を取り結び、信玄存命中はその動向を気にしていたと伝えられています。
徳川家康は何度も武田信玄と戦場で命のやり取りをしていますが、その死後は信玄の考え方や生き方をたぶんにリスペクトしていて、家康の考え方や政治方針に大きな影響を与えています。
最大のライバルであった上杉謙信は信玄の死を知らされたとき「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と最大限の賛辞を送り、握っていた箸を落とし、落涙したと言われています。

武田信玄の死因

武田信玄は晩年、膈症(かくしょう・現在の胃癌、食道癌と言われている)を患っていたと侍医であった板坂法印が診断した記録とそれに伴う吐血の記述が多く残っています。
京都を目指した西上作戦の途中、三河野田城を落としたあと大量に吐血し、戦線を維持した状態で長篠城まで武田信玄は退いて静養しますが、病状は回復せず甲斐への撤退を決定、その退却途中の元亀4年4月12日(1573年5月13日)に死去しています。享年53歳。

武田信玄の人生年表

(甲府駅南口前武田信玄公之像、出典ウィキペディア
 

・1521年12月1日(大永元年11月3日)
甲斐の国に生まれる

・1523年(大永3年)
父信虎の嫡男竹松の早世により嫡男となる。

・1533年(天文2年)
武蔵国川越城主・上杉朝興の娘(上杉の方)を正室として迎えるも翌1534年、死去。

・1536年3月(天文5年)
元服、室町幕府第12代将軍・足利義晴から晴の字を賜り、武田晴信と改名。あわせて従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。このあと左大臣・三条公頼の娘(三条夫人)を継室として迎える。

・1536年11月
佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めで初陣を飾る(一夜にして落城させた逸話となる・甲陽軍鑑)

・1541年6月(天文10年)
父信虎を駿河へ追放し第19代甲斐武田家当主となる。

・1542年(天文11年)
信濃国へ侵攻を開始。

1542年6月・桑原城の戦い(諏訪頼重自害)
1543年9月・長窪城攻め(大井貞隆自害)
1545年4月・高遠城攻め(高遠頼継自害)
1545年6月・福与城攻め(藤沢頼親追放)
1547年7月・志賀城攻め
1547年8月・小田井原の戦い(志賀城落城後、笠原清繁討死)
1548年2月・上田原の戦い(村上義清に大敗)
1548年7月・塩尻峠の戦い(小笠原長時を撃退)
1550年7月・小笠原攻め(林城落城)
1550年9月・砥石城攻め(砥石崩れと呼ばれる大敗)
1551年4月・砥石城攻略(真田幸隆による調略)
1553年4月・葛尾城攻略(村上義清は越後へ逃亡)、約12年かけて北信濃の一部を除き信濃国を平定。

1547年(天文16年)
甲州法度之次第(信玄家法、分国法)を制定。

・1553年(天文22年)
第一次川中島の合戦(布施の戦いまたは更科八幡の戦い)

・1554年(天文23年)
甲相駿三国同盟

・1555年(天文24年)
第二次川中島の合戦(犀川の戦い)

・1557年(弘治3年)
第三次川中島の合戦(上野原の戦い)

1561年(永禄4年)
第四次川中島の合戦(八幡原の戦い)

・1564年(永禄7年)
第五次川中島の合戦(塩崎の対陣)

・1566年9月(永禄9年)
西上野侵攻(箕輪城攻略、長野業盛自害)

・1567年10月(永禄10年)
義信事件(嫡男義信が廃嫡された事件)

・1568年12月(永禄11年)
駿河侵攻、薩埵峠の戦いに勝利。

・1569年10月(永禄12年)
小田原城包囲戦、三増峠の戦いに勝利。

・1571年2月(元亀2年)
遠江・三河侵攻、小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を攻略。

・1572年10月3日(元亀3年)西上作戦開始、一言坂の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦いに勝利。

・1573年2月10日(元亀4年)
三河野田城攻略。

・1573年5月13日(元亀4年4月12日)
甲斐への撤退途中死去、享年53歳。

武田信玄の政治的、軍事的手腕

信玄が率いた家臣団

(武田二十四将図・武田神社所蔵品、出典ウィキペディア
 

武田信玄は軍議の場で家臣たちに意見を交換させ、それを十分に吟味したところで武田家の方針を定める合議制を取っていました。
このためこの軍議の場に出る者が武田軍団の首脳部を構成していたのです。
信玄の側近くを固めたのは御一門衆と呼ばれる血族の者達で、弟の典厩信繁、逍遙軒信廉、嫡男義信、四男諏訪勝頼などがこれに当たります。
次に譜代衆と呼ばれた馬場信春、山県昌景、板垣信方など先代から使えている重臣達で、城代や別動部隊の指揮官なども任されていました。
次に外様衆といわれる真田幸隆、高坂弾正、山本勘助など、元々は家臣ではなく信玄の代になって臣従した豪族や浪人、農民から抜擢した者などで構成されていました。

武田信玄が重視した情報戦

武田信玄は平時から敵対している国以外の遠国の国にも諜報員を派遣し、その国の状況や大名、豪族の人間関係などを綿密に調べていました。
これらは三ツ者(みつもの)と呼ばれ、僧侶や商人に変装して諸国を渡り歩き、情報を収集していました。
この任務に付いていたのは男性だけでなく、幼い頃から訓練された少女達も「歩き巫女」と称された旅芸人や遊女として諜報活動をしていたそうです。

武田信玄の領国経営

(釜無川の信玄堤、出典ウィキペディア
 

父信虎の時代に甲斐国の統一を果たしていたため、信玄は領内隅々まで検地を行い領民の所在も把握しておりそ、れによる租税基盤を完全に整備していました。
また甲斐国で耕作が期待できるのは甲府盆地のみでしたが釜無川や笛吹川が氾濫し、年貢収入が期待できませんでした。
そこで武田信玄は治水事業を率先して行い、氾濫を防止し新田開発にも力を注ぎました。
その代表例が御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(現在の甲斐市)に築かれた信玄堤です。

武田軍団を支えた甲斐の金山

農業に適さない土地柄で、年貢収入を上昇させるにも新田の開発など年数をかける必要があった甲斐国を拠点にした武田信玄は、どのようにしてあれだけの軍事行動を起こすことが可能だったのでしょうか?
実は甲斐国には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇る金山がいくつものあったのです。
信玄はこの金山を金堀衆という専門的技術を持つものに任せて採掘させ、そこから利権を得ていたようです。
甲斐の金山には当時の最先端精練技術が導入され、南蛮渡来の採掘技術も導入されていたようです。

金山から得た金は鋳造され、甲州金という金貨となり武田軍団の軍事行動費として行動範囲を格段に拡張し、外交活動の贈答品や敵対勢力の切り崩しなどにも利用され、武田信玄の領土拡張政策を支えました。

武田信玄にまつわる事件簿

武田信虎駿府追放事件

(絹本著色武田信虎像、出典ウィキペディア

武田信玄の父武田信虎は、その非凡な才能で群雄が割拠していた甲斐国を統一し、甲府(甲府市古府中町)へ拠点を移して躑躅ヶ崎館の建設に着手、甲府を武田氏の城下町として繁栄させ、信玄が対外戦争へ専念できる基礎を作った人物です。
武田信玄は1541年(天文10年)6月14日に突然、甲斐と駿河の国境を封鎖して娘婿である今川義元との会見のため駿府を訪れていた信虎を甲斐から締め出してしまいます。
全てを失った信虎は駿府での隠居を受け入れ、武田家家督と甲斐守護職を信玄(当時は武田晴信)に譲ります。
晴信が父を追放したのには諸説伝えられていて、信虎が信玄の弟・信繁を溺愛しており家督を信繁に継がせるため晴信の廃嫡を画策しているのに対して晴信が先手を打った説、信虎が軍事費用捻出のため領民に重税を課したため領国内で反信虎機運が高まっており、これに晴信や重臣たちが応えた説などです。
真相はともかく、これによって甲斐国の実権を握った武田晴信でしたが、信虎の隠居料を今川義元から請求され、毎年現在の金額で約1億円を送金していたそうです。

武田義信廃嫡事件

(東光寺仏殿、出典ウィキペディア

父信虎の追放事件よりも、凄惨な結末を招いてしまった義信事件。
「甲陽軍鑑」に書かれていることを要約すると、今川義元の死後弱体化する駿河への侵攻を考える武田信玄と、妻の実家である今川家を擁護する武田義信との間に確執が生まれ、1564年(永禄7年)7月、義信の側近であった飯富虎昌、長坂昌国らが信玄の暗殺を企てました。

これが飯富虎昌の弟三郎兵衛の密告によって露見し、飯富虎昌以下は処刑されます。
1565年(永禄8年)10月になると義信は東光寺に幽閉され、今川義元の娘であるつまとも離縁させられて、信玄の後継者との地位を失いました。

結局、1567年(永禄10年)11月19日に武田義信は自ら腹を切ったかもしくは信玄の命令で切腹させられたかは不明ながらこの世を去りました。享年30歳。

武田信玄遺言事件

(武田信玄公墓所・甲府市岩窪、出典ウィキペディア

持病の悪化を抑えつつ京へのぼる最後のチャンスに賭けた武田信玄でしたが、三河野田城を攻略したところで命運が尽きてしまいました。
死に際して武田信玄は自身の後継者には武田勝頼の嫡男・信勝を指名、勝頼は信勝の後見役とすること、自身の死は3年間秘匿すること、遺骸は諏訪湖に沈めることを遺言とし、今後は越後の上杉謙信を頼り、山県昌景や馬場信春ら重臣達に勝頼の事を託したと言われています。
事実でない遺言も含まれているのですが勝頼は3年間、信玄の葬式をとりおこなわずその死を秘匿し続けたため、信玄の死に関しての遺言は勝頼によって守られました。
これにより信玄の影武者の逸話が誕生し、後世に伝説として語られるようになりました。

武田信玄ゆかりの場所や品々

武田信玄の城・躑躅ヶ崎館

(武田氏館跡武田神社正面、出典ウィキペディア

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」武田信玄の名言として伝えられている言葉です。
どんなに強固な城郭を造っても人心が離れていれば守る事は出来ない。しかし人々が団結していれば城などなくても国を守る事は出来る、という意味です。
現代風に言えばハードよりもソフトを充実させなければならないってことでしょうか。
このような言葉が残っているぐらいですから、甲斐国には戦国時代に建てられた天守閣を持つような城郭はありませんでした。
武田信玄が拠点としたのは躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)です。
約4.6万平方メートルに居館、家臣団屋敷、城下町が一体化した構造で館自体が都市構造となっていました。
武田氏滅亡後に大きく改造されたため、武田信玄時代には籠城して守るような構造にはなかったと言われています。

武田信玄の兜・諏訪法性兜

(川中島百勇将戦之内・明将武田晴信入道信玄、出典ウィキペディア
 

武田信玄が戦場で見せる姿で最も印象深いのは、なんといっても肩まで覆う白い毛と前立てに黄金の角を持つ赤鬼の顔がある兜を被った格好でしょう。
川中島の合戦絵図に描かれている武田信玄もこの兜を着用しています。
この兜は諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)といい、通常は武田信玄が崇拝していた諏訪大社の上社神長官である守矢氏の所有物で、信玄はこれを戦のたびに借用し、戦場に立ったと言われています。
信玄の死後は勝頼に譲られたそうですが、勝頼は長篠の合戦でこの兜を被らなかったため惨敗したとも伝えられています。
ただ、実際のところ諏訪法性兜は信玄が生きていた時代には存在しなかったとも言われており、製作年のずれも指摘されています。
しかし、この兜をつけて上杉謙信と一騎討ちを行う武田信玄が一番格好よいと思うのは筆者だけではないと思います。

武田信玄の家紋・武田菱

(武田菱、出典ウィキペディア
 

名門甲斐武田氏の家紋は、武田菱と呼ばれる4つの菱形を組み合わせた形の紋様です。
今でも日本中の武田さんが使っているといわれるほど、武田と言えば菱の紋なのです。
この武田菱は武田の田の字を変形させたものを使用したのが始まりという説と、武田氏の祖である清和源氏の出身の源義光が、前九年の役(1051年~1063年)の勝利を祈願した住吉神社から拝領した鎧(楯無の鎧、たてなしのよろい)の裾に菱の紋様があり、これを武田氏の家紋とした説とがあります。

武田信玄の旗印・風林火山

(風林火山・孫子の旗、出典ウィキペディア
 

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、しんりゃくすること火の如く、動かざること山の如し)
この言葉は「孫子」第七章軍争篇から引用したもので、甲陽軍鑑の記述では1561年から旗印として使われたようです。
しかし、風林火山という呼び方は全く歴史的資料には残っておらず後世の創作と言われており、特に1953年に発表された井上靖の風林火山が最初ではないかとの指摘もあります。
いずれにせよ武田信玄が生きていた時代には武田信玄=風林火山ではなかったようです。

武田信玄ゆかりの神社・諏訪大社

(諏訪大社上社本宮、出典ウィキペディア
 

長野県の諏訪湖周にある神社で上社 (かみしゃ)の本宮 (ほんみや)と前宮 (まえみや)、下社 (しもしゃ)の秋宮 (あきみや)と春宮 (はるみや)の二社四宮から構成されています。
創建は古事記などの神話の時代までさかのぼり、祭祀が始まったのは691年8月「信濃須波の神を祀る」と日本書紀に記述があるのが最初です。
諏訪大社は軍神としても崇められていたため、諏訪に侵攻し占領した武田信玄が、1565年から祭祀の再興をはかるなど崇敬していたと伝えられています。

武田信玄ゆかりの寺院・甲斐善光寺

(甲斐善光寺本堂、出典ウィキペディア
 

1558年(永禄元年)、武田信玄によって創建された寺院です。
上杉謙信と激突した第二次、第三次川中島の合戦では信濃善光寺周辺も戦場となりました。
上杉謙信は信濃善光寺に本陣を張り、武田信玄は善光寺別当の栗田氏を支援するために弓や鉄砲の物資に加え、兵3000も送り込みました。
合戦は今川義元の仲介で両軍が引き上げる結果となりましたが、上杉謙信は引き揚げの際に善光寺如来や寺宝を越後にもって帰り、直江津(新潟県上越市)に如来堂を建設しました。
これに対して信玄は善光寺別当の栗田寛久を本尊である阿弥陀如来像とともに甲府へ移転させ、甲斐善光寺を創建しました。

武田信玄と上杉謙信、川中島の合戦

(信州川中嶋合戦之図、出典ウィキペディア
 

長野盆地の南側にある犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と言います。
この地において武田信玄上杉謙信は5回にわたってにらみ合い、兵を交えて戦いました。
戦国時代最大のライバルと言われた両雄の激突とはどのようなものだったのでしょうか。

第一次川中島の合戦・布施の戦いまたは更科八幡の戦い

1553年天文22年)、上杉謙信(当時は長尾景虎)と武田信玄(当時は武田晴信)がはじめて戦いました。

村上氏、小笠原氏の北信濃の豪族は、武田信玄の侵攻に対して上杉謙信を頼ります。
これを受けた上杉謙信は北信濃へ進出し布施の戦いで武田軍を破り、荒砥城を落とし青柳城まで兵を進めますが、武田軍は荒砥城へ夜襲をかけ越後への退路を絶とうとしたため、謙信は兵を後退させ戦線は膠着状態となります。
結局、このあと両軍ともに攻め手を欠き、それぞれ領国へと撤退します。

第二次川中島の合戦・犀川の戦い

1555年天文24年)、前年に甲相駿三国同盟が成立し後顧の憂いがなくなった武田信玄は、長野盆地の南側へ進出し善光寺別当の栗田永寿を味方にして旭山城に籠城させます。

これに対して上杉謙信は葛山城を築き旭山城を抑え込み、武田信玄は旭山城の後詰めに出陣すると謙信は犀川まで進出し、川を挟んでにらみ合いとなります。
何度かの小競り合いののち今川義元の仲介で和睦が成立して両軍は撤退します。

第三次川中島の合戦・上野原の戦い

1557年弘治3年)、第二次川中島の合戦の和解後も武田信玄は北信濃の豪族への調略は辞めず、尼飾城を陥落させ謙信の家臣・大熊朝秀を寝返らせ、勢いにのって葛山城を攻略し飯山城へ迫ります。

しかし、上杉謙信が長野盆地へ姿を見せて尼飾城への攻撃を開始すると、武田信玄が直接対決を避けたため戦線は一挙に膠着状態となり、上杉謙信は旭山城を回復したのみで越後へ退却しました。

第四次川中島の合戦・八幡原の戦い

1559年(永禄2年)に出家して名を武田信玄と改めた武田晴信と、1561年(永禄4年)に関東管領上杉憲政の養子となり上杉政虎と名を改めた長尾景虎の両雄が、1561年に川中島の合戦の中で最大規模の激戦となった八幡原の戦い。
この年に10万の軍勢を引き連れて北条氏康の小田原城を包囲した上杉政虎を牽制するために、武田信玄は川中島に海津城を築きます。
関東制圧を有利に進めるために北信濃の安定が必要な上杉政虎は1561年8月、越後を進発し善光寺に兵5000を残し、残り兵8000とともに妻女山へ布陣、武田信玄はこれを見て茶臼山に兵20000で布陣しました。
武田軍は海津城の高坂昌信と武田軍本隊で妻女山の上杉軍を包囲する形となりましたが、このまま膠着状態になることを怖れた武田信玄は本隊を海津城へ入れます。
士気の低下を懸念し短期決戦を望む重臣達の意見入れた武田信玄は、山本勘助、馬場信房らが立案した後方から妻女山を奇襲し山を下る上杉勢を挟撃する啄木鳥戦法を採用します。
奇襲部隊12000は高坂昌信らに率いられ妻女山の後方へ回り込み、信玄率いる本隊8000は八幡原に守りに強い鶴翼の陣で布陣しました。
ところが別動隊の動きを察知した上杉政虎は夜中のうちに妻女山を下り、信玄の眼前に布陣するという大胆不敵な行動に出ます。
夜が明け、霧が晴れると武田軍の目の前には戦闘準備を整えた上杉軍が姿を表し、柿崎景家を先陣とし車懸戦法(次から次へと休みなく波状攻撃を行う戦法)で攻め立てて来ました。
逆に奇襲を受けたような形となった武田勢でしたが、次第に落ち着きを取り戻し固く守って奇襲部隊が戦場に現れるのを待ちます。
その間も上杉勢の攻撃は激しく、山本勘助や初鹿野忠次らが討死、信玄の本陣に上杉勢が打ち懸かるのを食い止めようとした信玄の弟の典厩信繁までもが戦死する事態となります。
しかしギリギリのところで戦場に到着した別動隊によって上杉勢は打ち払われ、上杉勢は命からがら戦場を離脱し越後に引き上げます。
両軍合わせて8000名近くが討死する激戦は、痛み分けという表現が最も似合う結末となりました。

第五次川中島の合戦・塩崎の対陣

1564年(永禄7年)に武田信玄は、1561年(永禄4年)末に再び名を改めた上杉輝虎と川中島で五度目の対決に挑みました。
ただ上杉輝虎は関東制圧を武田信玄は東海進出が最優先事項であったため、信玄は塩崎城へ進出し上杉勢を牽制するとそれ以上動くことはせず、結局両軍ともに戦うことなく陣を払いました。

五度行われた川中島の合戦は武田方の「甲陽軍鑑」にのみ詳細な記述が載っているために事実とは異なると思われる創作部分も多いとされており、上記の記述も誤って伝えられているものもあります。
ただ、10年に及ぶににらみ合いで両軍ともにあまりにも得ることの少ない合戦であった事は間違いなさそうです。

武田信玄の名言

現代の会社経営の教訓にも使えそうな名言を数多く残したと言われる武田信玄の名言をいくつか解説とともに紹介したいと思います。

「自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。」

会社勤めのサラリーマンや受験を控えた学生さんだけでなく、今からなにかを始めようとする人にも心に留めておいて欲しい言葉ですね。

「勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。」

「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。」

合戦の勝利に関しての武田信玄の戒めの言葉で、完全な勝利を求めてはならないことを何度も何度も息子や家臣に説いたそうです。
平家物語の冒頭でも「驕れる人も久しからず」と書かれてますから、平氏の過ちを繰り返す事は愚か以外の何物でもないと武田信玄はわからせたかったのでしょう。

武田信玄亡き後の武田氏とその子孫

武田氏の菩提寺

(乾徳山恵林寺、出典ウィキペディア
 

臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)によって開山された恵林寺は、甲斐武田氏の菩提寺となっています。
開山ののち応仁の乱1467年~1478年)で荒廃したものを武田信玄が京都から臨済宗の高僧をよんで再興しますが、1582年(天正10年)3月、織田・徳川連合軍が甲斐へ侵攻して来るに至って武田氏は滅亡します。
この時、恵林寺に逃げ込んだ六角義定の引き渡しを織田信忠が要求したのを時の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)が拒否し、怒った信忠は部下に焼き討ちを命じます。
快川紹喜は焼死しますがこの時に残した辞世が有名な「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水をもちひず、心頭滅却せば火も自づと涼し)です。
ただ、この言葉はもともと唐の詩人・杜 荀鶴(とじゅんかく)の詩であり、また焼き討ちの時にこの言葉を残したのが快川紹喜ではないという研究発表もなされています。
このように武田信玄の菩提寺となった恵林寺にも多くの逸話が残っているのです。

武田信玄の子孫

(武田勝頼自画像・高野山持明院蔵、出典ウィキペディア

 

武田信玄の長男・義信には男子はなく、娘(園光院)は義信の死後、母とともに駿府へ引き取られたのち、記録がなくなっています。
次男・信親(出家して竜芳)の子は高家衆として徳川氏に仕え、今も武田氏の血を繋いでいます。
三男・信之は早世。
四男・勝頼の長男・信勝は甲斐武田氏当主として自害、次男・勝親は僧になったといわれています。
五男・仁科盛信の長男・信基は仁科氏として徳川氏旗本として存続、次男・信貞も徳川家康に仕官、旗本として家は存続し血脈は今も受け継がれています。
六男・葛山信貞の実子は文献として確認されていませんが、大坂夏の陣で討死した御宿政友が実子という説もあります。
七男・安田信清は甲斐武田氏滅亡後、上杉家に仕え上杉家高家衆として血を繋ぎ現在も存続しています。
このように武田信玄の血脈は現代に至っても力強く繋がっています。

武田信玄まとめ

(信玄vs謙信一騎討像・八幡原史跡公園、出典ウィキペディア
 

武田信玄は名門甲斐源氏出身にして戦国時代最強の騎馬軍団を率い、甲斐、信濃、駿河、遠江・三河・飛騨・越中と上野の一部を支配し、一時は天下統一の最右翼と言われた武将です。
しかし、万事に慎重で危険を犯すことが少なく賭博的な勝負に挑まなかったため、領土の拡張スピードが遅く結局は自身の健康状態と自身の寿命との争いとなってしまいました。
結局、病には勝てずに志半ばでこの世を去りますが、その政治力と統治力そして戦術、戦略ともにずば抜けた軍事的才能で後世にも大きな影響を与え、天下人にならなかったにも関わらず地元だけでなく、多くの日本人から愛され尊敬されています。
ライバル上杉謙信と凌ぎを削った川中島の合戦と武田信玄の名前は、これから先何十年、何百年たっても、日本史にその名を刻み続け、人々の心にとどまり続けるでしょう。

参考文献

井上靖「風林火山」新潮社

新田次郎「武田信玄」文春文庫

甲府市観光情報公式ホームページ
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/

富士の国やまなし
https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4511.html

山梨県立博物館ホームページ
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/

※執筆にあたり参考にさせていただいた文献及びホームページです。

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